聞き取り記録
韓国人戦時動員の引率にあたった
金鉉穆(月城鉉穆)さんについて


最終更新日99年3月5日(金曜日)
この文章は、金鉉穆さんのご家族(愛媛県新居浜市在住)からうかがったお話をまとめたものです。共同して調査にたずさわった松原満紀さんの記録をもとに構成しました。この聞き取り調査は1996年に実施しました。
  お話してくださったのは奥さんの久子さん、娘さんの貞子さんです。     

  金鉉穆さんは大正3年5月17日、京城府【山見】底町46の489(大日本帝国支配下の地番)に生まれ、昭和15年当時は、韓国忠清南道燕岐郡鳥致院邑鳥致院里に居住していました。

  昭和15年1月6日、26歳のとき、住友の募集に応じた韓国人労務者の引率者として、北海道・住友鴻之舞金山に入り、続いて28歳の年、会社の命にしたがって、韓国人労務者を連れて別子銅山へ移りました。金鉉穆さんは、戦後も韓国へ帰国せず、愛媛県新居浜市に住んでおられました。

  私たちが、韓国人戦時動員についてよく知っておられる金鉉穆さんの存在を知って、やっとお宅を探し当てたとき、金鉉穆さんはすでになくなられた後でした。それも、一カ月まえに亡くなられていたのでした。

  私たちはそれからしばらくしてお宅を訪ね、奥さんとお嬢さんにお願いして金鉉穆さんのお話をお聞きしました。



終戦まぎわに結婚

奥さん
  「私は、神戸で生まれたのですが、私の父が昭和13年に亡くなったので、しばらくして母の里の立川(愛媛県新居浜市立川)へ帰ったんです。

  当時立川の女の人は、みな銅山の朝鮮人の宿舎の賄いに行っていて、母もそこへ行っていました。 <
  私が、母の仕事場を訪ねていった時、たまたま月城に会ったのです。月城は私を気に入ってくれて、その後、私と結婚したいということになったのですが、周りが反対します。

  月城は、どうしても結婚したかったようで、結婚出来ないなら仕事をしないと言って本当に仕事に出なくなったのです。

  韓国人労務者のまとめ役が出てこないのでは困りますので、A課長が、反対する人たちをみんなを説得しまして、やっと結婚できたのです。Aさんは当時住友の労務課長でした。仲人もしてくれました。
  現在の新居浜の偉い人のお父さんですよ。

  結婚は昭和20年4月です。だから、昭和19年以前のことはあまりよくしりません。
  娘貞子は、翌昭和21年に生まれました。」


月城さんの手の指が数本欠けている理由

奥さん
  「月城は北海道で爆発事故にあい、指が2・3本ありません。この事故で、同僚が2人死んだそうです。
  娘が子供の頃、まだ、身体からガラスが出ていました。爆発の時に身体に入ったガラスです。事故の後、札幌の病院に一年入院したそうです。

  事故の時は、全身真っ黒にすすけていたのですが、『体が大きいおかげで早く発見されたよ』、といっていました。」

   松原満紀さんが後で調べてみたところによると、この事故は、9人(日本人7人、韓国人2人)もの死者を出した、鴻之舞はじまって以来の大事故だったのでした。
  金鉉穆さんはこの事故で重傷を負い、指を失ったのです。


韓国→北海道→別子銅山

  当時朝鮮総督府は「普通学校」という学校を作って、韓国人を日本の天皇の民(皇民)に変心させる事業を進めていました。普通学校は、朝鮮総督府が韓国人を対象にして建てた学校でです。

  住友鴻之舞金鉱の記録によると、金鉉穆さんは「普通学校」を卒業後、煙草会社ほか数箇所で働いていたそうです。日本に来たのは、給料がよかったからだという。

奥さん
  「月城は、北海道から別子へきたのですが、最初東平(トウナル:別子銅山の中心地域)にいて、その後立川(タツカワ:鉱山鉄道の始点近くの集落)に下りてきたといってました。北海道から来た人は、ほかの人たちも大体、最初は東平に行って、あとで立川に来たと聞きました。所帯持ちは東平の鉱山住宅に残りました。協和寮は、独身用でした。

会社は、北海道から来た朝鮮人たちを、立川に新築中の朝鮮人専用の協和寮が完成するまで、とりあえず、東平に住まわせたのではないでしょうか。一緒に仕事をしていた友田さんは、東平に住んでいて日曜毎に社宅へおりていました」

北海道からは、以前から仲の良かった友田さんも一緒にきました。この方は九州出身で家族持ちでした。
私たち夫婦は寮の裏にある住友の住宅に住んでいましたよ。」     

松原満紀さんの調査では、協和寮は、戦後も残っていて、昭和35年の資料では「佰光寮」という名に変わっています。その資料でも建築年は昭和17年となっているそうですので、協和寮と佰光量が同じ建物であることは間違いないようです。


別子銅山の生産を支えた朝鮮人や中国人

奥さん
 「月城は、日本語は、なまりはあるけどぺらぺらで、北海道から引率・世話役として来たそうです。
立川の協和寮では引率や通訳の事務をしました。立川で、月城が労務者たちを引率をしているのを見たことがあります。事務や寮の見回りもしていましたね。

  月城は、結婚前は寮の事務所の2階にいたといっていました。私が行った時は、事務所の端の押し入れ付の六畳の部屋にいました。

  当時、みんなは、寮長と月城ともう一人、事務員の安本という人には「先生」を付けて呼んでいました。

  月城は、隊列を組んで通る(勤労動員の)学生たちは自分たちの列とすれ違うときは敬礼してくれたと話していました。」

奥さん
  「当時坑内は、朝鮮人とアメリカ人・中国人が中心で、日本人は定年前の年寄りとか兵隊不合格の体の小さい人しかおりませんでしたよ。韓国人が主力でした。だから寮の食べ物は、麦はそうとう入っていたけど、米の入ったご飯で、量が多かったです。民間の日本人より多いくらいでした。」  


ショウボウの暴力

奥さん
  「月城と結婚する前に、何回も寮の朝礼を見たことがありますが、一列20人くらいで一杯並んでいました。
  ある日の朝礼の時、ショウボウ(消防:鉱山内の私的警察のようなな役割を持っていたらしい)が若い韓国人の男の子を、棒で殴っていました。当時、鉱山は、お相撲上がりの人をショウボウに雇っていました。だからショウボウの人はたいてい身体がでかかったです。 ショウボウが仕事をしないとなじってその男の子を殴りつづけるんです。あの泣き声は忘れられません。息も絶え絶えの声でアイゴ−、アイゴーと泣き続けていました。

  そのとき、月城はうつむいていましたけど、顔を上げると月城の目は涙で一杯でした。そして月城は、とうとう、自分も泣きながら、大きな身体のショウボウにとびかかっていって押し倒しました。

  月城の必死な形相に押されてか、ほかのショウボウも月城をとめようとはしませんでした。そうやってやっと男の子は解放されたのです。

  今思うと、月城は、こんなことをきっかけに韓国人たちが暴れたら困ると思ったからだったんでしようが、その頃は何もわかりませんでした。
  あとでおばちゃん達から、あまり見にこん方がいいよ、こんなことは度々あるんよといわれました。月城と結婚したのはこの事件の一年くらい後のことです。」


自殺した労務者もいた

奥さん
「終戦の前、仕事がつらいと協和寮のトイレで首を吊って死んだ人がいました。小さな写真が飾ってありましたが、若い人でした。会社の人が、韓国に送るんだと言って、葬儀の写真も写していました。この写真をお金と一緒に送るんだといってました。」

寮は、事務所入口から見ただけですが、ひと部屋20畳くらいだったと思います。10人くらいの朝鮮人が部屋で繕いものをしているのを見たことがあります。

  寮からの外出はあまり自由ではなかったようです。


牛料理


  みんなが一緒に出入りするのは見たことがありません。数人の賢そうな子が、使い走りで出入りするのを見かけたくらいです。

  寮の人たちは3交代で働いていて、仕事から帰ったあとはたいていは宿舎にいました。夜中に寮を抜け出て、新居浜駅の裏の朝鮮部落や喜光地に遊びに行くときもありました。一升ビンにマッカリを詰めて帰ってきましたね。

  鶏を締めたり、あるときは牛を殺して食べたりすることもありました。牛がなかなか死なず長い間鳴いていましたねえ。肉は駐在さんにも分けてあげたそうです。
  ぴちぴちした魚を買ってきたときもあります。」

  「牛を殺したりするとショウボウがうるさかったのではないですか」と尋ねてみた。

奥さん
  「ショウボウですか。ショウボウは月城のいうなりだったんですよ。それに、肉を分けてあげたりもしてましたし・・・。」

   松原さんは、「広島県呉市在住の別子銅山体験韓国人・牧山さんが、新高橋の近くの川原で牛を殺した思い出がある、といっていたが、それは、戦後のことだった。ひょっとしたら金鉉穆さんの牛料理も戦後のことかもしれない。」と想像している。しかし、奥さんは、あれは確かに戦時中の立川でのことだ、という。


強制労働を強いられた捕虜たちの思い出

奥さん
  「山根(別子銅山の山の麓:鉱山の社宅があった)の近くにはアメリカ人がいた。ある日、山根の停車場で、動き始めた鉱山鉄道にとび乗ろうとしら、乗っていたアメリカ人が私を引きあげてくれました。乗ったら乗客はアメリカ人ばかりで、「オジョーサン・・・」と声を掛けてきました。車内はすし詰めでしたが、恐くはなかったです。でも、汽車がとまったとき、車掌が危ないとおもったのか慌ててとんできました。」

「戦争が終わって、月城は4〜5日か1週間、家を空けました。釜山・ソウルへ送っていったらしいです。韓国の人はみな、祖国へ帰りたがっていましたので、戦争が終わると、韓国人はいっぺんに山からいなくなりました。
  でも、残った人もあります。」

  松原さんはこの辺の事情を注ぎのように想像している。
「当時の交通事情では、ソウルや釜山へ往復できたとは思えないですね。下関まで行ったではないでしょうか。」

奥さん
  「こちらで韓国人と結婚した日本人の女性が、韓国へついていったら、奥さんがいたということもありました。


住友アルミの朝鮮人寮

奥さん
  「韓国人たちを釜山に送ったあと、月城は戦後も日本に残るといって新居浜での生活をつづけ、立川の会社の詰め所に通っていました。
  その後しばらくして、私たち夫婦は、橋本町(菊本町)にあった住友アルミの大きな寮に移りました。現在、菊本にある一宮運輸の廃車置場が、朝鮮人寮の跡ですよ。
  ここの寮は、すごく大きくて、立川の協和寮の3倍はありました。敷地がすごく広くて、一棟は2階建てで、2階建の寮は、10畳敷きの部屋が5部屋くらいありました。
  戦争が終わる前の昭和20年3月には、ここに寮が4棟あり、そのなかの3棟が朝鮮人用でした。太い木材を使った建物で天井がなかったです。住友アルミで働く朝鮮人は、無茶苦茶たくさんおりました。
  寮の近くに住むハンメさん(韓国人のおばあさん)は「こんな所に入れられてかわいそうや」といっていました。
  韓国人たちは、夜、寮の塀を乗り越えてハンメさんの食堂へ行き、大根、チンチ、キュ−リを貪るように食べていたということです。どんぶり一杯食べて、マッカリを飲んで楽しんでいたようです。


戦争が終わり朝鮮学校の教師になる

娘さん
  「戦後、この建物は、朝鮮人学校になり、その後廃屋になってとうとう今のように廃車置場になったんですよ。
  父は、昭和21年2月16日、健康保険の資格を喪失していますから、その時住友を退社したんでしょうね。

  住友を辞めたのは、「朝連」の幹部がが呼びに来たからで、朝鮮の子供のために朝鮮学校で仕事をしてくれと父を説得したんです。
  当時、殆どの朝鮮人が文盲でしたから。父はそれを承諾して、しばらくは、立川から菊本の朝鮮学校まで歩いて通っていました。40分位かかります。」

奥さん


占領軍が空砲を3発撃って閉校となる


  「朝鮮学校はまもなく駐留軍の命令で廃止になりました。学校側が廃止命令を拒んだら、数回の警告の後、軍隊がやって来て空砲を3発撃って廃校にしたんです。」

 昭和21年6月1日付けの、朝鮮学校教師の身分証明書が残っている。英文である。娘さんはその日付の翌日生まれたのだという。その後、GHQの政策変更で、朝鮮学校と朝連は占領軍から激しい弾圧を受ける。


金鉉穆さんの人柄

娘さん
  「父は正直一途な人間で、会社勤めしか知らず、金儲けには関心がないようでした。ですから、戦後は私たちも苦労しました。父は、坂出・丸亀などの工事現場へも行き、宇和島へも林道工事の仕事で行きました。」

  娘さんは、長い間出生届けが出ていませんでした。
  韓国人のなかには、密航してきた人もいたし、戦後の混乱の中でもあったりして、出生届けも何もしていなおらぬ人がたくさんいました。金鉉穆さんと林さんという日本人(町内会長みたいな人)の二人で出生の手続きを進めたといいます。ところがそのとき、肝心の自分の娘の手続きが漏れて、そのまま40年経ったといいます。月城さんの無欲な人柄が偲ばれるエピソードです。