「胸のすく思いです」。通勤中の満員電車で痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた防衛医科大教授、名倉(なぐら)正博さん(63)は14日、3年がかりで勝ち取った最高裁の逆転無罪判決をそう表現した。しかし、約1時間に及ぶ記者会見で笑顔はほとんどない。「他にも犯罪者の汚名を着せられている人がいる。有頂天にはなれない」。人生を一瞬で暗転させた捜査や裁判への怒りと強い不信感がにじんだ。【銭場裕司】
95年に女子高の国語教師から大学講師に転身した。助教授から教授(国語・国文学)に昇格したわずか18日目の06年4月18日、通勤中に突然逮捕された。
「やっていない」。言い分に耳を傾ける警察官はいなかった。「DNA鑑定をやる」。そう告げられた時、「無実と分かる」と喜んだ。しかし、なぜか鑑定は行われなかった。拘置期間は30日に及び、研究室や自宅に捜索が入った。最初の1年は気の抜けた状態になり、その後は「自分を立て直そう」と自宅で論文だけは書き続けた。
逆転判決は妻や長女とともに法廷で聞いた。その瞬間「急に全身の力が抜けた」。閉廷後、弁護士らと握手を交わす。しかし表情は崩れない。続いて東京・霞が関の司法記者クラブで開かれた記者会見で「今日、最高裁に来るまで収監を覚悟していた。当たり前のことをなぜ分かっていただけないのか。司法に対する不信感が渦巻いていた。判決が(証拠の)不合理な点を認めた点は胸がすく」と言葉を選んだ。
「きちんとした初動捜査なり、証拠の検討がなされたのか。人の一生をどう考えているのか」と捜査・司法への怒りの言葉が並ぶ。被害女性に対しては「悪意があったなら憎むが対立した場面もない。何も申し上げられません」とだけ述べた。
支えとなった妻に質問が及ぶと涙声に。「僕も家内も涙がにじんで何も言えず『ありがとう』とだけ言いました」と明かした。防衛医大は14日、復職に向けた手続きに入った。
最高裁が出した痴漢事件で初めての逆転無罪判決に、関係者から評価や批判の声が上がった。
ある検察幹部は「無罪にするなら『審理を尽くしていない』と高裁に差し戻すべきだ。書面だけで事実認定を変えるのは例外中の例外」と強く批判した。
痴漢で1審有罪となり、2審で無罪が確定した経験をまとめ、「お父さんはやってない」(太田出版)を出版した東京都内の会社員、矢田部孝司さん(45)は「信じられない」と驚く。当時弁護士から「最高裁では変わらない」と言われたからだ。矢田部さんの事件は映画「それでもボクはやってない」(周防正行監督)のヒントになった。他の痴漢冤罪(えんざい)事件の支援にも携わった経験から、矢田部さんは「積み重ねで流れが変わったのでは」と語った。
名倉さんの主任弁護人で元判事の秋山賢三弁護士は「冤罪で泣く人たちのために判決が生かされないといけない」と笑顔を見せた。【小林直、銭場裕司】
最高裁は、2審判決の事実認定に大きな不合理があったかという観点から判断する。今回は、2審判決を覆して無罪にするまでの事実誤認があったとは言えず、最高裁の機能からすれば、許されないことだ。最高裁ががっぷり取り組んだ判決の影響は大きい。
今後は、身動きが取れないラッシュアワーで、痴漢に遭った被害者が勇気を持って届けても、駅員や警察官の対応が消極的になったり、無罪が相次ぐ事態も想定される。
客観証拠がなく被害者と被告の主張が水掛け論になる事態は、無罪の結論が導かれるのは当然だ。従来の痴漢裁判は事実上「推定有罪」が原則になり、検察側も起訴のハードルを下げてきた。被害者に分からないよう間に人を挟んで痴漢をするケースもあるようで、被害証言だけを有罪の根拠とするのは危険。最高裁判決は「推定無罪」の大原則に立ち返ったもので司法が自浄作用を発揮した正しい判断と言える。
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<無罪>
藤田宙靖(学者)
那須弘平(弁護士)
近藤崇晴(裁判官)
<有罪>
◎田原睦夫(弁護士)
堀籠幸男(裁判官)
※かっこ内は出身。◎は裁判長。敬称略
毎日新聞 2009年4月15日 東京朝刊