東京都世田谷区を走行中の満員電車で06年、女子高校生に痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた防衛医科大教授、名倉(なぐら)正博被告(63)=休職中=の上告審判決で、最高裁第3小法廷(田原睦夫裁判長)は14日、懲役1年10月の実刑とした1、2審判決を破棄し、逆転無罪を言い渡した。小法廷は「被害女性の証言の信用性を疑う余地がある。犯罪の証明が不十分」と述べた。名倉さんの無罪が確定する。
最高裁が痴漢事件で2審の有罪判決を覆したのは初めて。小法廷は満員電車の痴漢事件の審理について「特に慎重な判断が求められる」と初判断を示し、理由として「客観証拠が得られにくく被害者の証言が唯一の証拠である場合も多い。被害者の思い込みなどで犯人とされた場合、有効な防御は容易でない」と述べた。被害証言を補強する他の証拠を求める内容と言え、捜査や公判に大きな影響を与えそうだ。
名倉さんは06年4月18日、通勤途中に小田急線成城学園前-下北沢駅間を走行中の準急内で、女性(当時17歳)の下着の中に左手を入れ下半身を触ったとして起訴された。
捜査段階から無罪を主張したが、1、2審は「スカートのすそに腕が入っており、ひじ、肩、顔と順番に見て、名倉さんに左手で触られていることが分かった」とする女性の証言の信用性を認め有罪とした。
小法廷は、鑑定で指から下着の繊維が検出されていないなど客観証拠がなく、起訴内容を支える証拠は女性の証言だけと指摘。そのうえで▽女性が積極的に痴漢行為を回避していない▽起訴内容の行為の前に痴漢被害を受けて下車しながら、再び被告のそばに乗車した経緯は不自然--などの点から「信用性を全面的に認めた1、2審の判断は慎重さを欠く」と結論づけた。
判決は5人の裁判官のうち3人の多数意見。田原裁判長と堀籠幸男裁判官は「女性の証言を信用できるとした1、2審の認定に不合理はない」と反対意見を述べた。
最高裁が2審の判断を覆す場合、通常、憲法違反や判例違反、法令解釈の誤りを理由とする。今回は「重大な事実誤認があり(2審を)破棄しなければ著しく正義に反する」としており、事実誤認だけを理由としたのは異例。【銭場裕司】
被害者証言の信用性が否定されたのは遺憾だが、最高裁の判断なので真摯(しんし)に受け止めたい。
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■解説
最高裁判決は痴漢事件の審理に「特に慎重な判断」を求めて、捜査に警鐘を鳴らした。弁護団によると、過去10年で30件以上の無罪が出ており、判決は冤罪(えんざい)防止を重視したと言える。
警察庁は05年、目撃者の確保や容疑者の指に付いた衣服の繊維鑑定など科学的捜査の推進を都道府県警本部に通達した。だが、実際には目撃者探しや物証の確保は困難で、「ほとんど被害者の証言だけで起訴している」(検察幹部)のが実態という。
今回の事件は通達の翌年に起きたが、鑑定で下着の繊維が検出されず、結局従来通り被害者証言の信用性だけが争点になり、証言の疑問点が捜査側の弱点となって無罪につながった。
当然の判決とも言えるが、3対2という際どい判断だった点に問題解決の困難さが投影されている。補足意見で那須弘平裁判官は「被害証言を補強する証拠がない場合、格別に厳しい点検が不可欠」と強調するが、反対意見の堀籠幸男裁判官は「被害証言の信用性否定は実情無視」と指摘する。ある検察幹部も「(多数意見のように)被害証言以外の証拠が必要となれば、痴漢は起訴できない」と反対意見に同調する。
警視庁が08年に把握した電車内の痴漢件数は1845件。犯罪の性質上、泣き寝入りするケースも多い。卑劣な犯罪への強い姿勢を望む声と、証拠収集の難しさの中で、捜査現場の苦悩が続くだろう。【銭場裕司】
毎日新聞 2009年4月15日 東京朝刊