2009年04月14日

◆ 気候シミュレーションの意義

 前々項の関連。
 気候シミュレーションというものがある。これには、どのような意義があるか? 

 ──

 本項は話が長いので、最初に要点を述べておこう。次の二つだ。
  ・ 気候のシミュレーションというものは、あまり当てにならない。
  ・ たとえ当てになるとしても、物事の本質とは関係ない。


 このことは、先に述べた IPCC の温暖化モデル にも適用できる。次のように。
  ・ IPCC の温暖化モデルは、あまり当てにならない。
   (現実には寒冷化の傾向がある。予想は はずれつつある。)
  ・ いくらか当てになるとしても、物事の本質とは関係ない。
   (炭酸ガスを減らせ、という見当違いのことを結論する。)


 オーストラリアの干ばつに関して言えば、次のように結論できる。
 「オーストラリアの干ばつは、気候シミュレーションで予想できるが、それが当たるかどうかはあまり確実でない。また、当たるとしても、シミュレーションにはたいした意義がない。」

 以下では、もっと詳しく論じよう。
 (話の順序は、以上の二点の順ではなく、逆順。)

 シミュレーションの本質

 (1) シミュレーションの限界
 コンピュータでシミュレーションをするという話を聞くと、「おお、すごい」と思う人が多いようだ。
 「コンピュータならば正確な結果を出すから、きっと真実を教えてくれるだろう」
 というふうに。しかし、それは勘違いだ。
 コンピュータの計算は正確だ。しかし、計算が正確だということと、それが真実だということとは、全然別のことだ。式が真実を示していなければ、その式から得られるのは、真実ではなくて、正確な虚偽だ。虚偽をいくら正確に計算しても、そこから得られるのは虚偽にすぎない。
 だから、肝心なのは、式が真実であるか否かだ。この点、天文学ならば、式は真実だと言える。そこには厳密な法則性が成り立つ。しかるに、気候のモデルでは、法則性はろくに成立しない。当然ながら、コンピュータの結果がうまく当たるかどうかは、確率的・統計的なものとなる。当たることもあり、はずれることもある。「必ず当たる」というものではないのだ。……このことをわきまえる必要がある。
 つまりは、バーチャルな世界で何が起ころうと、それがリアルな世界そのものである保証はないのだ。バーチャルな世界とリアルな世界を混同してはならない。(混同する人が多いので注意。)

 (2) 定性的と定量的

 シミュレーションの限界には、別の意味もある。量的な精度が不足しているということだけでなく、そもそも量的なことしか扱えない、ということだ。そこでは、定量的なことは示せても、定性的なことは示しにくい。
 もっとわかりやすく言うと、「どのくらい右か」ということは示せても、「なぜ右か」という原理的なことを示しにくい。

 (3) 初期値と予想

 では、どうしてそうなのか? なぜ、定量的なことは示せても、定性的なことは示しにくいのか? それは、シミュレーションの意義を考えるとわかる。
 シミュレーションでは、次のことをなす。
 「現在の値を初期値として与え、そこから未来の値を計算で得る」
 しかし、このようなことは、物事の原理とは関係がない。なぜなら、そこでは、初期値は所与のものとして与えられているからだ。
 一方、物事の原理を考えるときには、「その初期値がどうして与えられたか」を考える必要がある。

 (4) 比喩1

 そのことを比喩的に説明しよう。
 自動車を運転しているとする。ハンドルを少し右に切ると、いつか道路を脱線するかことになる。
 シミュレーションとは、その未来を予想することだ。つまり、「現状のハンドル角度では、将来はこのような進路になって、いつどこで脱線します」というふうに予想する。
 一方、真実を探ることとは、脱線の原因を探ることだ。この例では、「右にズレる理由はこれこれだ」と示すことだ。たとえば、
  ・ ハンドルが曲がっているから
  ・ 自動車の車体がが歪んでいるから
  ・ 自動車の片側車輪に抵抗がかかっているから
 というふうに。こういうふうに原因を示すこで、「その原因を解決すると直進できます」と対処策を示せる。あるいは、「逆作用としてハンドルを左に切れば直進できます」と対処策を示せる。……このことで、「脱線を避ける」という結果を、うまく得ることができる。
 シミュレーションでは、いつ脱線するかはわかるが、どうして脱線するかはわからないし、脱線を防ぐための方法もわからない。これでは、たいして意味はないのだ。
( ※ その典型が IPCC のモデルだ。「地球は温暖化する」という予想を示すことはできるが、「炭酸ガスを減らせばいい」という見当違いの結論を出す。)

 (5) 比喩2

 シミュレーションの無意味さを示すために、別の比喩を示そう。
 あなたが病気になった。医者に行って、「治してくれ」と頼んだ。しかし医者は、治療をせず、シミュレーションをするだけだった。医者は言った。
 「現状のままなら(治療しなければ)、あなたは5年後に死ぬでしょう。精度はプラスマイナス1年です。的中率は 80%です。これがシミュレーションで得られた結果です」
 あなたは憤慨した。
 「いつ死ぬかを知りたいんじゃない! 死なないようにしてくれ、と頼んでいるんだ!」
 すると医者は反論した。
 「私のシミュレーションは絶対的に正確です。コンピュータでやっているんだから、こんなに正確なシミュレーションはない。私の言っていることは真実です」
 このあと、どうするか? あなたが「なるほど」と思ったら、あなたは医者の指摘に従って、何もしないでいる。そして5年後に見事に死ぬ。そのとき、医者に感謝する。
 「なるほど、医者のおっしゃったように、おれは5年後に死ぬことができた。医者のシミュレーションの通りだった。実に正確な真実を教えてもらった。おかげで、悔いなく死ぬことができる。ありがとう」
 こうしてシミュレーションのおかげで、喜んで死ぬハメになる。

( ※ オーストラリアの干ばつでも、同様だ。シミュレーションは、「干ばつが来る」という予想はできるが、干ばつの解決策を示すことはできない。被害の到来を予想できるが、被害の回避策を示せない。)
( ※ 原因を探るにしても、せいぜい見当違いの結論を出すだけだ。「エルニーニョ・ラニーニャが原因だ」というふうな。仮に、それが核心的な真実だとしたら、歴史上これまで何度も、干ばつが起こったはずだ。だが、オーストラリアの干ばつは、ここ数年になって起こったことだ。シミュレーションに基づく推論は、物事の核心をうまく示せないのだ。……もともとそれは狙いになっていないのだから。シミュレーションの目的は、「患者はいつ死ぬか」を知ることであって、「患者を死なないようにする」ことではないのだから。)

 シミュレーションの精度

 なお、シミュレーションの精度というものは、あまり当てにならない。
 天文学のシミュレーションならば、精度はとても高い。そこに法則性が成立するからだ。しかし、気象のシミュレーションでは、法則性は低いし、精度も低い。
 たとえば、単純な空力計算でさえ、その精度は十分ではない。飛行機の形状の空力計算など、理想的な状態における単純な計算なのだから、精度は完全なほど高くていいはずなのだが、現実にはそうなっていない。実際、航空機の設計では、空力計算もやるにはやるが、最後には必ず風洞モデルで確認する必要がある。精度の不十分さが知られているからだ。
( ※ 実際、風洞モデルで調べると、計算との違いがいくらか判明するのが普通だ。致命的なほどではないが。)

 飛行機の空力計算で精度は不十分なのだから、気象のシミュレーションとなると、もっと大幅に精度は下がる。
 典型的なのが、天気予報だ。先日の朝日新聞(読売だったかな?)の記事
によると、天気予報の精度はここ数十年の間にどんどん上昇したという。初期は、70%ぐらいの的中率で、人間が予想するのよりも劣っていたが、近年では、85%ぐらいの的中率になって、かなり精度が上がってきたという。その理由は、スパコンの計算能力が飛躍的に上がったから。毎秒何十億回もの計算をこなすようになった。
 こういう話を聞くと、「おお、すごい」と思う人が多いようだが、とんでもない。「毎秒何十億回」という数を聞いて、数を多いと思うようだが、現実の自然というものは、それをはるかに上回る複雑な世界となっている。「毎秒何十億回」という数では、あまりにも簡略化しすぎているのだ。それは空の色を「青」という一語だけで示すようなものであり、現実の空にある微妙な複雑な色の変化をまるきり描写していないようなものだ。……人間の知恵など、複雑な自然と比べれば、九牛の一毛にすらならないのだ。(たとえ十億という数になったとしても。)

 「天気予報の的中率は、近年では、85%ぐらいの的中率になった」
 という話を聞くと、「なるほど、たいしたものだ」と思う人も多いだろう。しかし、私のように天気予報をちょいちょい見ている目からすれば、気象庁の予報はまるで当てにならない。なぜか? 予報が頻繁に変わるからだ。
 なるほど、現実の半日前または1日前の予報ならば、85%ぐらいの的中率はある。それは実感している。
 しかし、二日後、三日後、となると、とてもそうは行かない。なぜか? その予報がコロコロ変わるからだ。
 たとえば、9日の天気を知りたいとする。すると、次のようになりがちだ。
  ・ 5日 …… 9日は曇りでしょう。
  ・ 6日 …… 9日は曇りときどき晴れでしょう。
  ・ 7日 …… 9日は晴れでしょう。
  ・ 8日 …… 9日は曇りでしょう。

 こういうふうに、天気予報がコロコロ変わってしまうのだ。そして、前日の「曇りでしょう」という予報の的中率は 85%だとしても、それまでの予報がコロコロ変わってしまうので、あまり当てにならないのだ。

 上の変動は、「数日後の予報があまり当てにならない」ということだった。数日ぐらいでさえこうなのだから、「1カ月後の予報」など、ろくに当てにならない。まして、「半年後の予報」など、全然当てにならない。
 当てにならないのならまだしも、「逆を予報する」ということすらある。十数年前の気象庁の長期予報がそうだった。毎年毎年、長期予報とは逆の結果が起こる、ということが続いた。よくもまあ、うまく逆を予報できるものだ、と呆れたものだが。
 とにかく、長期予報というものは、「下駄で占う」というのと同じぐらいの精度でしかない。
 というわけで、気象のシミュレーション(数値予報)なんて、この程度のものなのだ。

 さらに言えば、数十年後の地球の温暖化を予想する、なんて、ちゃんちゃらおかしい。それは、当たるかもしれないが、当たらないかもしれない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。科学とは全然違う。ただの「数値予報ごっこ」というお遊びにすぎない。
 実際、ここ1〜3年ぐらいの気温を見ても、IPCC の予想とは大幅に異なる形で、気温の低下が起こっている。その気温の低下の幅は、「計算誤差」を大きく越えるほどの、大きな幅だ。
 とすれば、このような予想など、あまり信頼しない方がいいのだ。
 ( ※ 「IPCC のモデルを信頼しない方がいい、ということは、先にも示しとおり。)
 ( ※ 「IPCC のモデルは過去の温暖化を説明する」という説もある。しかしそれは、競馬の勝ち馬を知ったあとで、「このモデルでは勝ち馬を予想できました」と示すようなものだ。未来を予想することには意味があるが、現在の結果を知ったあとで、「過去において予想できたはずです」と言っても、それはただの後出しジャンケンにすぎない。無意味。この件も、先に示したとおり。)

 結論

 コンピュータのシミュレーションには、あまり意味はない。それは、物事を定量的に知りたいときには、そこそこ役に立つ。しかしながら、物事の原理や本質を知りたいときには、コンピュータのシミュレーションとは別のことが必要だ。
 はっきり言えば、コンピュータの計算能力を高めることよりも、コンピュータの計算をすための式を探り出すことこそ、本質的なのだ。
 原理も知らず、式も知らず、いい加減な式だけを採用して、いくら計算を高速に繰り返しても、真実を知ることはできず、正確な虚偽を知るだけだ。

 経済学者のケインズはこう言った。
 「 I’d rather be vaguely right than precisely wrong. 」
   ( 精確に間違うよりは、おおまかに正しい方がいい。)


 この言葉にすべては尽くされている。シミュレーションにとらわれる計算馬鹿は、頭がコンピュータ並みになっている。「計算だけできて思考力がない」という頭に。(頭が砂漠化している?)
 人間はそういう陥穽に陥ってはならない。



 [ 付記 ]
 駄目な思考の例。何でもかんでも、気候変動のせいにしてしまう。
 「サハラの砂漠化は気候変動のせいだ」
 「モンゴルの砂漠化は気候変動のせいだ」
 こういう発想では、人類の介入を無視してしまう。人類の介入が自然破壊をする初期値を与えたのだ、ということを無視してしまう。そして、そのあとの推移だけを計算して、「こんなに正しい計算結果が得られました」と自慢する。
 こういう発想では、物事の本質を見抜けないのだ。いくら計算をしても、精確に間違うだけで、おおまかに正しい真実を得られないのだ。
 ここでは、正確さにとらわれるあまり、かえって真実に到達できない、という陥穽に陥っている。



 【 関連項目 】

  → IPCC の温暖化モデル
 
posted by 管理人 at 18:00 | Comment(0) | エネルギー・環境2
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