« 桜海老のフェットチーネ・コン・スピナーチ | メイン | タクシンの復権は永遠にない »

2009/04/15

男装の麗人・川島芳子

Dscf8515


昔は、馬賊とか、大陸浪人とか、いたわけです。モーゼルとか持ってるのね。有名どころでは満蒙独立運動に参画して戦後、戦犯として処刑された、華族の子である伊達順之助なんぞが、小説「夕日と拳銃」のモデルになってるんだが、馬賊が何故、モーゼルを使うのか、とか、馬賊風モーゼルの横遣いとか、そういう話も面白いんだが、今日、お話するのは
男装の麗人です。なんか凄いね。男装の麗人。男装の麗人というと、すぐに思い浮かぶのが「宝塚」なんだが、最近では秋葉原にも男装の麗人とアキバデートできる男装エスコート店「ギャルソンと一緒」なんてのもあったりするらしいが、この言葉の元になった人物が、東洋のマタハリとも呼ばれた有名なスパイ、
川島芳子です。

愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎 愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2009-01-31



川島芳子とは何者か? と、その前に川島浪速という人について語らなきゃならないわけだが、川島浪速というのは松本藩出身の大陸浪人で、満蒙独立運動家です。芳子というのは、その養子です。
 外国語学校支那語科に在籍した後退学。大陸に渡り放浪した。
 日清戦争が起こると、語学能力を買われて通訳として従軍。第2師団長だった乃木希典と知り合い、台湾総督府で働くことになる。

 義和団事件でも陸軍の通訳を務め、軍政事務官兼任となる。
 清王朝と親しく、北京警務学堂の創設にあたるなど清朝末期の政治にも携わった。
 辛亥革命で粛親王の脱出を手伝い、その娘金壁輝を養女とした(川島芳子)。
 蒙古諸王家とも親しく、満蒙独立運動工作を行い、宗社党、パプチャップらと関わる。この工作には積極的で、日本政府の方針に従わないこともしばしばあった。
粛親王というのは清王朝の皇族で、親日家で、開明派でした。日本人との関わりも深かったため、王女の一人を託したわけですね。もっとも、この人には王子が11人、王女が17人います。

1911年に辛亥革命で清王朝が倒れると、日本は清王朝の旧皇族たちを担いで、その復権にことよせて影響力を行使しようと画策するんだが、そんな中、大陸浪人とか、馬賊とかが大活躍した時代があったわけです。さて、ところで「馬賊」とか「大陸浪人」とはなんぞや? まず馬賊なんだが、おいらの書いたものなんだが、再録しておきます。2007年4月28日の、馬賊撃ち!というタイトルなんだが、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北朝鮮という国を考える時には、連中が馬賊だという事実を抜きにして始まらないわけだが、じゃあ、馬賊って何なの? と言われても平和日本の人間にはピンと来ないわけだ。で、馬賊って何者なのか考えてみる。

まず、馬賊撃ちという言葉があるんで調べてみると、Altキー押しながら引き金引いて・・・じゃなくて、まず、拳銃を横に寝かせて引き金を引くわけだ。こうすると薬莢がどうこうとか、映画に撮った時に俳優の顔が隠れないとか、色々と言われるんだが、そういうのは後付の理由。秘密は、馬賊が愛した銃にある。写真のヤツがソレだが、モーゼルのセミ・オートマチックだ。当時の最新式なんだが、馬賊が愛したのは、スペイン製のコピーの方で、そちらにはフルオートがあった。ハンドガンのフルオートなんて代物は、およそ実用的とは言えないわけだが、馬賊はコレが得意だった。馬に乗ってフルオートのモーゼルコピーを馬賊撃ち。当然、片手で保持しているわけで、そんなじゃ、弾丸がどこに飛んで行くか、わかんないわけだ。普通に持っていたら、弾丸はどんどん上に逸れてしまう。横にして撃てば機関銃で撃つように、横にバラけてくれる。フルオートで撃つ時の反動を利用して銃を振るわけだ。狙って撃つのでなく、敵を制圧する撃ち方だな。コレが、馬賊撃ちというものだ。

で、馬賊とは何者なのかというと、海賊や山賊は強盗なんだが、馬賊というのは基本的に軍隊である。一人でも軍隊。その点では諜報機関と同じなんだが、馬賊のスポンサーというのは農民だ。中国はむかしから治安が悪いので、自警団の組織というのが発達していた。その中で専従として武装していたのが馬賊なのだ。日本で言うなら任侠の徒といったところだろうか。で、明治大正の頃には、日本人の中でもはみ出し者が大陸に渡って馬賊になるというのが流行った。地方の大地主なんぞが、こういう馬賊を抱えて土匪、匪賊から村を守るわけだ。日本人馬賊で有名なところでは、小日向白朗、伊達順之助なんてのがいる。伊達順之助は伊達の殿様の子孫で、華族出身なんだがね。夕日と拳銃という小説のモデルでもある。また、新選組十番隊組長で、坂本竜馬暗殺犯とも言われた原田左之助が、明治維新後に中国に渡って馬賊になったという伝説もあったりする。で、馬賊やっていた日本人の息子さんがやっているサイト。なかなか読み応えがある。で、もうひとつ馬賊流の拳銃扱い
 後年、進一郎は二挺拳銃の名手として知られたというが、その使い方は西部劇とはまったく異なる馬賊流のものだった。
 西部劇では二挺の拳銃を両手で同時に発砲するが、馬賊の二挺拳銃は敵と戦う場合に一挺の拳銃で敵と戦いながら、片手でもう一挺の拳銃に弾を込めるのが流儀だった。
 激戦の間も弾丸がある間だけは射撃を続けられ、友軍が到着するまでの時間稼ぎをするというのが馬賊流の二挺拳銃の使い方だった。
おいらの仲間には右手でPhotoshopやりながら左手で同時にレイアウトしているヤツとかいるけどね。プロというのは、忙しくなると突拍子もないワザを使うモノだ。

で、この馬賊が集団として巨大化すると軍閥というモノになる。張作霖とか李鴻章とかいうのが軍閥なんだが、馬賊も軍閥も基本的にはヤクザ者であり、傭兵だというのは覚えておこう。政治家でも軍人でもないから、彼らには思想も愛国心もないし、法律さえないわけだ。

さて、そんな中で馬賊や軍閥が跋扈した時代が、日本軍や国民党軍といった近代的軍隊によって変わって行く。あの時代の中国というのは誰が誰と戦っているのか判らないような時代で、金日成が抗日パルチザンだったと言われるんだが、そもそもそんな単純な構造ではなく、
金日成のルーツは馬賊です。その手口は拉致して身代金をとる。日本人の拉致ばかりじゃない、偽札もつくる、アヘンや武器の密売もやる。ゆすりたかり専門の連中の集まりだと、私は思っています。そもそも北朝鮮を建国した金日成が、抗日ゲリラとして活躍した同名の英雄の名を騙り、北朝鮮の歴史そのものを捏造したという説も事実でしょう。
とまで言われるんだが、まぁね、馬賊というより土匪、匪賊の類いだな。で、下のAmazonリンクの本が、金一家は馬賊説を唱えているわけなんだが。もちろん近代国家においては、フルオートのハンドガンで武装した騎兵なんてモノは違法そのものなので、日本軍にも国民党軍にも追われ、処刑される。満州ではこうして処刑された「馬賊」の生首写真なんぞが土産として五銭で売られていたそうで、それが南京大虐殺の証拠としてよく出てくるらしい。

で、キムさんにとっての核兵器というのは、フルオートのモーゼルみたいなもんだから、絶対に核兵器は手放さないよ、というような意見も出てくるわけなんだが、そもそも馬賊が愛した、中国で流行したフルオートモデルはモーゼルではなく、スペイン製コピーのアストラやアスールだというのだから、北朝鮮の核兵器というのも何だか怪しいなぁ、と思う今日この頃ですが、美奈様に置かれましてはいかがお過ごしでせうか、あらかしこ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、この時に紹介したのが、下記のAmazonリンクの本です。

朝鮮半島「永世中立化」論 朝鮮半島「永世中立化」論
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2004-12

Amazonのカスタマーレビューによれば、
この本がちょっと面白いのは、「金正日政権は軍閥政権である」という視点だ。
中国内戦というのは、もともと軍閥同士の内戦だったわけだが、その中で満州でのゲリラ戦を戦っていた金日成がソ連の後押しで北朝鮮を支配した。
だから、彼らには満州での抗日パルチザン闘争の意識しかない。
抗日パルチザンとは馬賊のことで、馬賊とは、裕福な地主商人を脅したり、家族を拉致したりして、金をゆすり取る。
北朝鮮の血の中には、この馬賊精神が脈々と流れている。
北朝鮮が核開発を武器にして恫喝し、世界から援助を取るというのは、これは馬賊だと考えればすんなりナットクできるわけだね。
で、馬賊が武器を手放すはずがないわけだから、北朝鮮は核を放棄しない。
というわけで、北朝鮮が馬賊国家だというのは、おいらも大賛成だね。以上、馬賊についてのの基礎知識なんだが、
じゃあ、大陸浪人て何なの? という話になるんだが、さて、やっとコレで大陸浪人について語れるわけで、いつもながらおいらの文章は前振りが長いですね。

浪人というのは、今では「受験に失敗して来年を狙う人」を指す言葉になってしまったが、かつては、失業武士の事だった。なんせ失業しているので、目的は官位に付く事です。そこに「大陸」と付くので、「中国大陸での官位を狙っている日本人」という事になりますね。

中国では、辛亥革命以来、政情が不安定で、復権を目指す旧清王朝とか、袁世凱とか、蒋介石とか、毛沢東とか、ドタバタやってるわけです。そんな中、日本政府は清王朝の皇族を担いで満州国を作ったりするんだが、そうした日本政府の動きと連動したり、側面から支援したりしていたのが、大陸浪人だ。馬賊が個人軍隊だとすれば、大陸浪人は個人外交官であり、個人諜報機関だな。政府系では「特務機関」というのがあるわけなんだが、大陸浪人は個人的な資格でやってるわけで、必ずしも政府の手羽先ではないです。

で、清王朝の王女だった金璧輝は、幼くして川島浪速の養女となり、松本市で育ちます。馬に乗って女学校に通っていたというエピソードがあるね。おいらのオジサンも軍人だったので馬に乗って出勤していたらしいが、馬に乗って通うというのは、よっぽど偉い人です。ちなみにおいらのオジサンは「会計」屋さんなので、偉いと言っても「武人」ではないんだが。軍隊にも算盤勘定はあるわけです。で、Wikipediaによれば、
川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日?)は清朝粛親王の王女。本名は愛新覚羅 顕シ(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)、字は東珍、別名は金璧輝。歌集では和子という筆名を使用。他に芳麿、良輔などと名乗っていた時期もある。

日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために日本軍に協力し、戦後中華民国政府によって「漢奸」として訴追され刑死したとされる。

近年、中国の民間団体や日本の報道検証番組などが1970年代まで生存していたという説を唱えているが、決定的な科学的証拠を欠き、生存論争はいまだ結論に至っていない。
中華民国政府が「処刑」したとされているんだが、それが、最近になって「処刑されたのは替え玉で、実は1978年まで生きていた」という説が浮上、川島芳子に育てられたという人物まで登場して、TVで特集番組まで放映されたわけです。とりあえず中国紙の報道によれば、

 証言したのは長春市の画家で、今年41歳になる張☆さん。「わたしが小さい時にお世話になった『方おばあちゃん』が川島さん。78年に死んだ」などと明かした。

 張さんの母が1歳の時に養子入りした男性の身辺にいたのが「方おばあちゃん」。張さん自身もよく遊んでもらった。2004年末、86歳だった男性が死の間際に「方おばあちゃん」は川島さんだと告げたという。

この男性は満鉄や満州警察の通訳をやっていた人で、元は清王朝に仕えていた人物らしい。仲間と三人で替え玉使って芳子を脱出させ、長春に連れて来たというんだが、戦後、残留日本人孤児を養子にして育て、その孤児が産んだ娘というのが、TVに出てきて「方おばあさん」の思い出を語ってました。

おばあさんに教わった「子守歌」です、と口にしたのが「君が代」で仰天したんだが、「方おばあさんは、この曲が好きでよく聞いてました」とかけたSPレコードが、確か「蘇州の夜」とタイトルあったんだが、聞いてみると「蘇州夜曲」だったような気がする。つうか、この、育てられた「孫」というのがアカペラで歌うわけです。フルコーラス、きちんと歌っていた。





ちなみに、「蘇州の夜」という映画もあり、「蘇州の夜」という曲もあります。ようつべにはないんだが、こちらで聞けます。文字化けしたらユニコードでエンコードし直してください。で、「蘇州夜曲」というと映画「支那の夜」の挿入歌なんだが、戦前には李香蘭のレコードは出てないそうで、なんでも契約の関係で、渡部はま子が歌ってますね。で、「アタシが死んだらこのレコードを李香蘭に渡してくれ」と謎の遺言残したそうで、この「方おばあさんに育てられた孫娘」というのがレコードを持って来日、李香蘭に会いに行くわけだ。



さて、ここで
李香蘭です。まだ生きていたんだね。驚いた。御年、89歳です。



♪君は日の本 桜のおのこ 
我は故郷 百合の花 
花は違えど思いはひとつ 
待つは亜細亜の 待つは亜細亜の
花咲く 明日♪
おいら、戦前の妖しい歌謡曲のマニアなので、こういう話題になると脱線してとめどなくなってしまう。「紅い睡蓮」という曲は、有線で知っていたんだが、タイトルと歌手は今になって初めて知りました。李香蘭だったんですね。さて、どんどん行きます。「サヨンの娘」というのは台湾が舞台ですね。



若い頃の李香蘭は、ジュディオングみたいな顔してますね。エキゾチックな美人です。歌がうまいです。なんせ名前が李香蘭なので、中国人だと思われていたんだが、純粋な日本人です。Wikipediaによれば、
1920年(大正9年)2月12日に、中華民國奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、撫順で生まれた。満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ、「淑子」と名付けられる。奉天(現:中華人民共和国遼寧省の省都・瀋陽市)と北平(現:北京市)で育った。本籍は、佐賀県北方町。

親中国的であった父親の方針から、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天(現:瀋陽)市へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女兒)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ。中国の旧習では、元来縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があった。これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、杯を酌み交わしそれぞれの姓でお互いの子に名前を付け合うなどのものである。

その後、奉天に住む幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバの母からの紹介を受け、白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフのもとに通い、ここで声楽を習うようになった。1934年、淑子は「潘淑華」(潘毓桂としての義子名)の名で北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、1937年に卒業した。
最初は奉天放送局の歌手としてデビューするんだが、満映の大スターとして物凄い人気になる。どれほどの人気があったかというと、1941年2月11日の紀元節に、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演、ファンが押し寄せ、日劇の周囲を七周り半、消防車が出動・散水するほどだった、と伝えられてます。



さて、この、人気絶頂だった時代、彼女はやはり人気絶頂だった川島芳子と交遊がありました。

川島芳子という人は、17歳の時に髪をすっぱり落として「これからは男性として生きる」と宣言するわけだ。なんでも、養父に関係を迫られたのが原因という説もあるんだが、川島芳子はなかなかの美人で、しかも清王朝の王女なので、そんなのが自宅にウロウロしてたら犯したくもなるなw ところが、この男装宣言が思わぬ反響を呼ぶ。真似して断髪する女性が現れたり、ファンになった女の子が押しかけてくるなど大騒ぎだったらしい。いつの世も、女の子ってのはこういうのが好きなんだね。で、自称
女優に毛が生えた程度の人気」というんだから、お姫さまの言う事は違いますw ところで、この川島芳子もレコードを吹き込んでます。「十五夜の娘」というんだが、蒙古の歌らしい。彼女は、蒙古人の夫と結婚していた事があるので、そこで覚えたらしい。TV局がその音声を手に入れて「孫娘」に聞かせると、この娘(といっても、もう40過ぎ)がレコードに合わせて懐かしそうに歌います。「方おばあさんは、この歌を唄いながら踊っていた」

こうした証言からすると、今回のネタというのは、どうにも信憑性が高いわけです。本人は死ぬまで自分が「川島芳子」だとは言わなかったそうだが、証拠は色々あります。でも、川島芳子というのは「漢奸」(売国奴)として「処刑」された事になっているわけで、共産党時代になっても日本は「悪役」だったので、口に出来なかったわけだ。ちなみに、李香蘭も裁判にかけられたんだが、彼女は純粋な日本人だったので無罪になってます。で、川島芳子を「処刑」しなければならなかった理由というのは、GHQがその行方を追っていたという事からも判る。戦前から政治家やっていた笹川良一という人は、
川島芳子の恋人だったわけです。もっとも、本人に言わせると「数多い恋人のうちの一人」だそうで、他にもオトコが何人もいたらしい。男装の麗人でバイセクシュアル。カッコイイです。しかも清王朝の王女で、秘密工作員。コレで人気が出ないわけがない。まぁ、社会的には「死刑」にしなきゃいけない理由というのがあるわけですね。

さて、ところで李香蘭です。「孫娘」がレコードを持って訪ねます。李香蘭はTVカメラを拒否、スチール写真と音声だけが流れるんだが、長く女優をやった人だけに、老い、衰えた姿を晒したくなかったんだろう。で、「孫娘」が描いた「方おばあさん」の肖像画を見せると、
「お兄ちゃん!」と叫んだんだが、そうですか、李香蘭は川島芳子をそう呼んでいたんですね。

ところで、川島芳子生存説というのは昔からあるわけだ。処刑当時から、「アレは替え玉で、末期癌で死にかかっていたオンナを金の延べ棒で買って、本人は逃亡した」と噂されていた。処刑の写真というのはこちらで公開されているんだが、後頭部から射殺しているので、顔が潰れて判別できないわけだ。しかも、どうも身体付きが違う。川島芳子という人は、男装していても身体付きが華奢で、細いです。そもそも、川島芳子は断髪しているので髪が短いんだが、処刑写真ではけっこう長いです。TV局では骨格の分析までやっていたが、「ほぼ別人」との事で、「肩幅が広くて逞しいので、肉体労働やっていた人。多分、農婦とか」だそうで、この時代の中国では、階級によって体格が違うので、嘘はつけないです。

さて、替え玉使って逃亡したと言われる「川島芳子」なんだが、以前にも同じような話が出てます。
ABCテレビのダダダダーン番組「川島芳子」の後半も、 事実を披露しました。 1948年、川島芳子は死刑を逃れて、 鹿児島県出身の軍人、松本章さんと結婚して、 建国の年に(1949年)娘の暁玲さん(ショウレイ)を生みました。 1953年5月に、松本夫婦は何者かの襲撃を受けて亡くなりました。 暁玲さんは生き残っていて、長年教師をしていて、 今も中国東北部の寒村で元気に生きています。
こちらの話は続編がないんだが、どうなったのかね?

で、とりあえずテレビ朝日の問題の番組の告知を貼っておきます。妙なプロパガンダがなくって、なかなか良く出来た番組でした。ぜひ、再放送をお願いしたいです。
 清朝の王女でありながら、日本のスパイとなり、戦後は「売国奴」として死刑を宣告された川島芳子。
 その「処刑」から60年後の昨年11月、中国・長春に「川島芳子に育てられた」女性がいる、とのニュースが飛び込んできました。現地の報道によれば、芳子は替え玉を使って処刑をまぬがれ、「方おばあちゃん」として、その後30年間も生き続けた、とか。「ありえない・・・」との思いを抱きながらも、私たち取材スタッフはひとまず長春へ飛びました。
 証言してくれたのは、画家の張鈺(ちょうぎょく)さん、41歳。小さい頃、実の孫のように可愛がってくれた「方おばあちゃん」は、一体何者だったのか・・・。その本当の身分を知ったのは、2004年末のことでした。臨終を迎えた祖父が「方おばあちゃんは、実は川島芳子だったんだ・・・」との遺言を残してこの世を去ったのだといいます。
 狐につままれたような面持ちの私たちの前で、張鈺さんの口から紡ぎだされる晩年の「方おばあちゃん」のエピソード。そして「芳子」につながる遺品の数々。
 獅子像に隠された謎のメッセージは・・・・?
 「李香蘭に渡して」と託されたレコードは・・・?
 5ヶ月に渡る総力取材の結果、私たちは、「川島芳子は生きていた」と確信するに至りました。
 事実は小説より奇なり。60年の時を越えて掘り起こされた「真実」の奥には、小説や映画をも凌駕する、壮大な歴史ドラマが隠されていたのです・・・・。
まぁ、方おばあさんが川島芳子であれ、誰であれ、日本人孤児を育て、孫娘に「君が代」を子守歌に聞かせて育てた、一人の老婆がいた、というのは事実であり、男装してあまたのオトコどもと浮き名を流した、あの希代のスーパースター、川島芳子ゆえ、そう簡単に処刑なんかされるものか、というのも確かなわけで、いかにも川島芳子らしい、ロマンに満ちた人生だったと言えるだろう。

コメント

コメントを投稿

コメントはエントリー投稿者が承認するまで表示されません。

Yahoo!検索

  • ウェブ全体を検索
  • このサイト内を検索

人気blogランキングへ

最近の記事

2009年4月

ジャンル

伊豆グルメ
ヨット
三島
カメラ
カリスマ・オーディオ

通販専用水着屋さん

帆船Ami号

ずっと富士山

銅版画資料アーカイブ
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30