私が思いつくことくらい誰かが他に書いてる気がするけれど、学者と役人の違いは、前提を疑うか疑わないかの違いだろう。
学者は基本的に「前提」を疑う。それで、新しい方向性や価値観を見出そうとする。他方、役人は、ある前提を元に突き進んでいく。でないと、「政策」は遂行できないもの。
今の学校が行っている「教え方」(←あくまでも、「方法」ね。)は、前者の立場より、後者寄りになっているように思う。
施す教育の質そのものは前者のあり方を目指していたつもりだったのに、いつのまにか、はっと気が付いたら実は後者だった、って感じ。
やっぱり、どー見ても、書き込み式とマーク式が最悪。無意識のうちに思考を規定する。
学者は基本的に「前提」を疑う。それで、新しい方向性や価値観を見出そうとする。他方、役人は、ある前提を元に突き進んでいく。でないと、「政策」は遂行できないもの。
今の学校が行っている「教え方」(←あくまでも、「方法」ね。)は、前者の立場より、後者寄りになっているように思う。
施す教育の質そのものは前者のあり方を目指していたつもりだったのに、いつのまにか、はっと気が付いたら実は後者だった、って感じ。
やっぱり、どー見ても、書き込み式とマーク式が最悪。無意識のうちに思考を規定する。
と言うのも、東大には「進学振り分け(シンブリ)制度」があり、たとえば理科一類に入学してもその後1.5年間の成績によって進学学科が規定されるのです。類似の制度は北海道大学にもあります。京大とか東北大なら、数学科に入ればそのまま数学科に進学できるのです。どっちがいいかなあ。
入試問題からして違いますよね。京大は、じっくり考えさせる問題で、東大は論理的処理問題(?)の時間勝負でしょうか。問題数も違うと思うな。
英語だったら、文章の内容は、京大の方が絶対に面白いですよ。
進学振り分け制度は、理系はキビシイと聞いたことがあります。
ある中程度?の大学が、進振りのような制度にして、受験者を減らした、という話を聞きます。
理系って、工学系は、生徒の好みがはっきりしているのが不思議。でも、最近は、電気電子志願者が少ないと聞きますが、確かに、面談しても少ないです。昔は結構いたように思うのに。希望と言っても、世間的な流行廃りの影響が大きいようですね。
私のころの花形だった「電気・電子工学」、そうですか、今人気がないんだ。
人気のない学科がいくつか集まって再構成される傾向が最近あります。いわく「システム創成学科」(確かこんな名称)。カタカナ学科を東大で見たのは、この例が初でした。うすっぺらな感じです。今年はじめ「東大生が書いた頭が良くなる算数の教科書」を出版した東大学生起業サークル・TNKの初代代表・保手濱彰人さんは、この学科の「おちこぼれ」です。(以前ブログでこの本の書評を書きました。メタクソ。)
学業(権利)をほっぽりだして起業(義務)にうつつを抜かす。その事業とは「塾経営」だそうです。
工学部であれば、旧来変わらず「機械工学科」がもっとも普遍的だと思いますね。
東大生が書いたなんたら本は数冊読んだことがありますが、惰性的な部分を感じることもたまにあります。
入門的な本が多いようですが、なぜ入門にこだわるのかがいまいちぴんとこない。「東大生が書いた本格的な学問書」というコンセプトでつくる本のほうが、内容が多少荒削りであったりしたとしても個人的には読む気がするんですが。どちらかというと、「わかりやすく教えて・あ・げ・る・うふ・入門書」みたいなコンセプトの本がほとんどのような感じがします。で、そういう本なら他にも良いものが一杯あるわけで、あんま触手が伸びませぬ、うふ、暴言。
何年か前に工業系の大学説明会に行ったとき、(って、私、担任するのは理系クラスが多い。笑)セラミックスなどの研究は人気がないと言っていました。機械が人気あるのは、ぱっと見てわかるのが面白いみたい。
機械科が一般に難しいのは、機械そのものが難しいかどうかの問題ではなく、そんな風に人気があるせいだと知ったのは、教員になってからでした。
子供の時でも、一番馴染みやすいものですね、きっと。男の子がほとんど赤ちゃんの時に車のおもちゃを喜ぶことから、既に機械科の難易度が上がるようなものですね。
東大生の書いた入門書、一冊も読んでいません。何だか名前で売ろうって、根性がイヤラシイ気がして手に取る気になりません。(結構食わず嫌いです。笑)
入門書だったら、書きやすく感じるのではないでしょうか。
でも、入門書こそ切り口が大事だろうからなぁ。。。
「東大生・・・」というタイトルの本、一冊は読む価値があると思います。ただし、ただ一冊で十分です。出来れば自腹を切って購入するのがよろしい。自腹を切る分、損した気がするので、「ブログのネタにしないでおくものか」という感じになることを保証します。次善の策として図書館の本を借りれば、気軽に楽しめます。
ほりさんが指摘されているように、「東大の金看板」を最大限利用してやろう、という意識が見えますね。ただその内容たるや、「東大生が書いた頭が良くなる算数の本」であれば、だいたい「算数=小学生が学ぶ教科」という前提が欠落していて、かなり高度な「数学」を教えています。だからこの本は「教科書」ですらありません。唯一、この本を書いた人たちの知的レベルが知れるというメリットがあるのみです。
「起業、起業」と言う学生には、私は「学問を舐めるな!!」と言いたいですね。あまりに大学で学ぶということの意味を軽視しているように思えます。
それが販売上の戦略だからでしょう(笑).内田先生の言葉をお借りすれば,それはさしずめ,彼らが「『消費者はバカだ』ということを企業活動の前提にし」,「うつろな幻想を追う消費者から収奪することを経済活動の根幹にしている」からと考えれば話の辻褄が合います.
入門書に手を出すのはその分野について何も知らない人たちです.知識の有る人が知識が無い人たちを欺く(というか弄ぶ,いいように操作する)ことほど簡単な事はありません(※).
追伸1:
正気であればこんな本は,気恥ずかしくて上梓できません(笑).ただ,ここでいうところの「正気」でない人が増えてきているのも事実です.理由は「そうでもしてないと食ってらんねー」からではないでしょうか.本以外のメディアがたくさんできてしまった現在,既存のメディア業の経営は厳しいものと推測されます.その外にいる者はその辛辣な内情を酌むべきでしょう.誰しも「自分が生きのびる」ことが大切ですから(苦笑).
追伸2:
これって学校の先生が日常的にやってることなんですよね〜.「自分が彼らをいかようにも導くことが可能である」という徹底的な自由こそ,教師業の魅力の一つではないかと思っています(怖れながらw).
人間はその生活において,表出の仕方に差はあれど「自分自身が外界に影響を与えた」ことの確たる証拠を得て納得し満足する存在であります(あくまで私の仮説です.例1:この人は私を必要としてくれている→だから私も生きなければ.例2:目の前の消しゴムを左から右へ動かす.この動いたという事実はいま確実に"私の手"によってなされた.→ 私は満足である.例3:数学者が未知の定理を発見して「この定理は,世界中の,いや,地球上に存在した全ての人類の中で,私が見たのが初めてである → 死んでもいいと思うほどの喜びを感じる.).
価値というのは,転落する可能性があるにも関わらず転落せずにおれることにあります.それを担保しているのはすなわち自分自身の意思と行為の結果に他ならないからという理由に,理由を収斂させることができるからです(他に理由が考えられない.→ 確かにこれは私の行為によるものなのだとの確信をより強める).教師業というのは,この意味において「生徒たち自身の人生を台無しにしてしまうこともできるのだが,あえて私はそうはしない」ことに教師は自分が教師をやっていることの価値を感じているのではないでしょうか(笑).無論,「そんなに簡単ではない」という現場サイドからのご批判があることを承知の上でのコメントですが(笑
「東大生が書いた〜」がよく出た頃だったかな、新聞の記事に、有名私大と言っても首都圏で強いだけで東大は全国区だから、売れる、みたいなこと書いてありました、そういえば。
失礼ながら、東大生と言っても、「学部生」ですから専門家ではないでしょう。中に凄い人がいるのはわかるけれど、まだまだこれからって人がほとんどでしょう、と基本的に思っています。
追伸2は、う〜ん、難しいなぁと思って読みました。
>「生徒たち自身の人生を台無しにしてしまうこともできるのだが,あえて私はそうはしない」
ですが、無責任な言い方になりそうですが、少なくとも、個人レベル、一人一人の生徒にとっては、まあ、何が幸いするかわからない部分が大きいです。学校以外でも何だってそうだろうけれど。
ただ、学校はあくまでも「集団教育」の場なんですよね。で、今のゆとり教育に関する揺り戻し?的なものでも未履修問題でも何でも、「マス」として捉えたときどうであるかの方が、実際は大事な気がする。
その意味で、学校の教師は無名性というか、「個人」としての存在は案外不要だと思ったりもします。(でも、こんなことを言うと、教員から反発をくらいそうです。「アンタは自分の人間性に自信がないから、生徒の気持ちをつかめないから、そう言うんだろ」とか。)なぜなら、子供が言う「あの先生は良い先生だ」は、意外に相対的な観点からの評価であることが多いからです。その学校が持つ「場」が持つ雰囲気のような感覚の方が、一個人の能力を凌ぐものです。(ちょっとこの辺り、舌足らず。)具体的には、「何やっても良いんだ〜」という雰囲気があると、一人二人の個人の指導では全く及ばなくなる。学校は、そういう雰囲気を作ってはいけない。で、それは、教員個人としての能力云々の問題ではないのですよ。なのに、今は何でも「個人」に帰する傾向がある。いじめの問題で、一人の先生が非難されることがありますが、そもそもは「そういう先生を生む土壌」があるんのです。前にUPした「楽しいクラス」にしても温床になる。そこを改善しないと、どうしようもない。意外に、そういった観点に欠ける考え方をする人が(世間的にも)多い気がします。
(ちょっと視点がずれたかしら。)
戻すと、生徒の人生を台無しにしないためには、教師一人一人云々というより、(もちろん、全くないとは言わないが。)あくまでも「集団の場」としても力動の影響の方が大きいと思います。
ただ、子供が大人になったときに印象に残るのは、「場としての学校」ではなく、あくまでも「個人の先生」なんです。そこに、「勘違い」が生じ、「良い先生を個人の資質に求めさえすれば学校が良くなる」と考え勝ちになるのだ思います。
あ、凄いこと、書いちゃったかも。
ここは常連コメンテーターさんがいい味出してますなあ。
東大生が書いたなんたら本は私は自腹で買いましたです、はいw。生協でw。
>>それが販売上の戦略だからでしょう(笑).
そうですね。売れないと本になりませんから。内田さんが出てきたので内田さんでいくとw、どこぞで言っていたようなことだと思いますが、皆が同じようなものを求めて、それが故に、満足が得られず、ますます欲求不満になっていくという循環とこれを利用した経済のあり方の話を思い出します。
>>その外にいる者はその辛辣な内情を酌むべきでしょう.誰しも「自分が生きのびる」ことが大切ですから(苦笑).
このことを否定する人はいないと思われますw。ただ、需要サイド供給サイドに関係なく、ちょっとズレることで意外と簡単に満足が得られるかもしれませんよ、という提案を内田さんはなされていたように思うのですが、そういう意味で、私も東大生が書いた入門本に対してぴんとこないなあと思ったのでした。説明不足ですいません、ま、いつものことなんですが(苦笑)。
追伸2についてのheisanさんとほりさんのやりとりは教育の微妙なところが現れていておもしろいなと思いました。
>ここは常連コメンテーターさんがいい味出してますなあ。
そう、そうなんですよ。皆さんが揃って良いコメントをくださるので、感謝してます。有り難いことです。どうもありがとうございます。
>ちょっとズレることで
ちょっとずれるかもしれないけれど(笑)、昨今は、問題があると、目先の視点で、言わば直球で解決を測ろうとする。目の前に山があったら、登って向こうに行こうとする感じ。横を回れば平坦な道があるのに、遠回りだから気が付かないとでも言うか。
そうそう、前の私のコメントですが、だれでも「個人」に着目しがちになるのは、heisanさんがおっしゃるとおり、
>「自分自身が外界に影響を与えた」ことの確たる証拠を得て納得し満足する存在であります
からです。
ちょこっと付け加えでした。
すぐに専門課程になるのがちょっと・・・ね
今や高校3年なのに未だに
興味のある学部→全部
好きな科目→全部(ただし「お勉強」以外)
だから教養2年の東大に行くつもりなのだけれど。
本当に、心の底から学問勉強が好きな人向けの大学ってない気がする。
そもそも文系理系とかいう区切りが嫌。
それと飛び級はいつになったら可能になるのだろうか・・・
元?常連コメンテーターです(^^;
> 京大の方が理念は面白いけれども
> すぐに専門課程になるのがちょっと・・・ね
yuusakiさんの希望学部が分からないのでアレですが、少なくとも理学部については、細かく分かれるのは3年からだと聞いています。
京大と東大のいいところは、「同一学年の学生が同じキャンパスにいる」ということが達成されているという点にあると思います。
だから、他学部の授業にもぐったりもしやすいし、他専攻の人間と友だちになったりもしやすい --- ということはあると思います。
> 今や高校3年なのに未だに
> 興味のある学部→全部
> 好きな科目→全部(ただし「お勉強」以外)
それは非常に大切な感覚です。
絞らなきゃいけないのは、学校の制度的なルールがそうなっているからに過ぎません。
そしてそういうルールは、あなたの興味とは無関係に存在しているのです。大抵の場合は。
でも、処世術として「学部を選択しなくちゃいけない」ということはあるでしょう。
そういうときに重要なのは「完全に自由にしていいって言われたらあなたは勉強するのか」というところです。
まずはこれを想像してみるところから始められるのがいいのではないでしょうか。
> そもそも文系理系とかいう区切りが嫌。
文系理系という区切りは、上に行けば行くほどなくなっていくものだと考えてください。
文理の区切りがクリティカルに重要な世界なんて高校くらいなもんじゃないかな、と私は思っています。
あと、補足ですが、ここのブログの管理人であるほり先生は、現役の高校生(たぶん浪人生を含む)がコメントすることを喜びません。だから多分あとで忠告が入ると思います。
また、私自身もあまりここにコメントすることができない身分ですので(高校生だからではないです)、たぶんここでこれ以上話を続けることはできないでしょう。
yuusakiさんは以前私のブログにコメントをくださっていたかと思いますが、私のブログではそういう規制は特にしていませんので、もしこれ以上話を続けたければ、私のブログへいらして頂いて大丈夫です。