2008-01-05
■[雑学]明治時代の地鶏の味 ― 長島要一「明治の外国武器商人」
今日は松竜さん、佐藤登志雄さんといった方々と今年最初の新年会をしてきました。なじみの店に黒龍の石田屋とニ左衛門をいただき、先客で来ていた富槻義裕さんと酒を交換などしつつ宴を堪能。明日からはちゃんと仕事します。押忍。
さて。明治時代、欧州の武器商人たちは日本を顧客にすべくしのぎを削っていたのですが、そのうちの一人にアームストロング社の海外派遣代理人、バルタサー・ミュンターという人がおりました。
長島要一「明治の外国武器商人」は日本と中国での彼の活動を書いた本です。なお、アームストロング社がどのような会社であるかについてはこちらを。
そしてミュンターが大日本帝国海軍にどれほどの物を売りつけたかについてはこちらを参照ください。
1892年の「吉野」から1900年の「磐手」までがミュンターの仕事です。
それはさておき。「明治の外国武器商人」という本は、ミュンターの死の商人としての活躍ぶりももちろんですが、合間合間に差し込まれる当時の日本の様子が大変面白かったりします。いくつか抜き出してみましょう。
もうひとつ海軍省でミュンターの目についたことは、(ほかの省でも同様だったとは思うが)厩舎があって、それが昼間の勤務時間に馬でいっぱいになっていたことである。その理由は、当時の日本では馬の数があまり多くなく、乗馬を奨励するために、月給百円以上の官吏は騎乗して出勤すべしという決まりがあったからである。 (56ページ)
四月のある日、ミュンターは伊藤博文伯爵から仮装舞踏会への招待状を受け取った。日本史上最初の催しで大変な話題となった。(中略)ダンスがうまくいかなかった分、料理のほうは申し分なかった。日本人はようやくナイフとフォークの使い方が身についたようだったが、それでも立ち食いは不慣れと見えて、そこいらの床にぺたりとすわりこんで食べるものが多かった。 (63ページ)
日本国民の道徳意識はまだまだ未熟すぎて問題にならなかった。商取引の方面でもトラブルが絶えず発生していて、現金取引しかしようとしない日本商人、注文どおりの商品を引き渡さない日本商人に対する苦情があとをたたなかった。横浜の外国系の会社では、倉庫係その他、信用のおける人物を要するポストには、どこでもみな中国人を雇用していた。日本人は「まだ」だめであった。 (80ページ)
当時の東京での生活は、決してぜいたくなものとは言えなかった。物がよくそろわなかったからである。食べ物ひとつをとっても牛肉はめったに手に入らない。羊肉も上海に注文を出さなければだめ、鶏は入手しやすかったものの、魚くずを餌にしていたので味が悪い。魚は豊富だったが、いまひとつ口に合わない、といった具合だった。 (111ページ)
ミュンターが活躍したのは一昨日紹介した増田巡査が生きていたのとほぼ同時代なのですが、このころの日本がアジアの発展途上国のひとつとして試行錯誤していた様子がうかがわれます。重要なポストには中国人をあてるという話もショックですが、現代よりもずっと自然な環境で放し飼いにされていたであろう鶏の肉がマズいというのがかなり意外でした。
■[編集]「ダメ書評」に対するマンガ編集者の視線
前回のエントリでは「作り手側」と言いつつもかなり作家寄りの視点で意見を書きました。ただ、それでは伝えられなかったことがありますので、今回はマンガ編集者の視点で、トラックバックに答えつつ書評の問題に取り組んでみようと思います。
愛情ゆえの「批判」と、愛情なき「中傷」はイコールでない。モノに対して、望ましい評価は「作り手」が望むことが自然だけど、その望むことだけで世の中渡りきれるわけがあるまいに。それが出来れば、世の中みんなおんなじ価値観の中で生きることになるのだから。一見すると正論のようにみえて、違和感を感じますよ私は。
批判される側の身になって考えていただきたいのですが、愛があろうがなかろうが、一所懸命やったことを批判されてモチベーションが上がる人間はいません。創作はメンタルな作業ですので、落ち込みは絵や執筆速度にはっきりと影響します。そして執筆速度の低下は雑誌連載するマンガにとって死活問題でもあります。
また、読者の総意を代弁した適切な批判ができる人間はそうはいません。沙村広明さんの「おひっこし」に「お前以外の人間は全員お前じゃねえんだよ!」という台詞がありますが、批判と称されるものの大半は批判者個人の嗜好にすぎません。好きな作品に自分好みの展開を望むことは自然ですが、すべてが望み通りいくわけがありません。それをするためには、世の中のすべての人間が同じ価値観の中で生きる必要があります。
404 Blog Not Found:blog書評のためのクソ本対策
確かに、ダメ書評は関係者にとって心理的ダメージは小さくないと思います。しかしよく考えてみて下さい。「ダメ」だというのもまたアテンションであることを。そしてこれだけ出版物も書評サイトもある現在、このアテンションこそが最も貴重な資源であることを。ダメだと言われるのは、何も言われないよりずっとましなのです。「クソ本」という表現を流行らせた日垣隆は、「三割の読者にダメと言われるのが理想」と言っていますが、「売り手」としてこれは肌で分かります。
私も編集者をやっている手前、そのへんのところは重々承知しております。マンガの世界でも一番売れるのはアンケートで「おもしろい」票がたくさん入る作品。次に売れるのは「つまらない」票がたくさん入る作品です。票が入らない、つまりはアテンションのない作品が一番売れません。
しかし、ダメ書評がアテンションであり、それで売れたとしても大半の作家や編集者は嬉しくないはずです。特にマンガ編集者にとっては、ダメ書評で得られる数字と作家のメンタルを交換するというのは、割に合わないことはなはだしい。ダメ書評の影響で絵が荒れたり、原稿が落ちたりしたら困るのです。
「ダメ」の一言を言うのだって、手間暇がいるのです。本当につまらない、取るに足りぬものであれば何も言う気が起きぬほど。
そこのところを、よろしくお願いします。
自分が携わっている作品に手間と時間を割いてものを言ってくれる人がいるというのは、本当にありがたいことだと私個人としては思っております。ただ、雑誌連載のことを考えるとどうしても手放しで喜ぶわけにはいかないのです。
中でもウチの子たちは問題児が多いので、小飼様におかれましては私の担当作品に興味をお持ちになられることなく、三木一馬担当の「みーくんまーちゃん」シリーズのほうを今後ともご愛顧いただければ嬉しいなと思う次第です。
※追記
こちらのかたのエントリも合わせて読んでいただけると嬉しいです。
不倒城:作家心理と、ファンレター。