2007-11-03
■[編集]マンガはバクチ。編集者はバクチの代打ち。そしてバクチには信用が必要ということ
多摩坂です。最近忙しいのと、家に帰るとネコ2匹にすごい勢いでぬっこぬこにされるので、なかなかblogを書く時間が取れません。困ったものです。
さて。出版業というとわりとご立派なイメージがありますが、実際のところは売れるかどうかよくわからんものをいろいろ作って、当たればめっけもんという、運とセンスにえらく依存した仕事であります。当たれば大きいけれどもそれ以外は死屍累々ですので、事業と言うよりはバクチと言ったほうが近いかもしれません。
ただ、ふつうのバクチと違うのは、まず会社ではなく会社に雇われた編集者がバクチを打つということ。そしてそのバクチの種銭もアガリも損失もすべて会社のものだということです。出版業をバクチとするなら、編集者は組や親分の代わりにバクチを打つ、代打ちみたいなものです。
代打ちは基本勝つこと、最悪負けたとしても被害を最小限に食い止めることを求められます。私のようなフリーランスは、負けがこんだらお座敷から声がかからなくなるので、特にシビアです。
代打ちを続けていると、ときおり大勝負のチャンスが訪れます。いい企画を思いついたり、作家が刺激的なプロットをあげてきたりした時ですね。この時、組(雑誌)や親分(編集長)が張らせてくれるか否かは、(組の性質にもよりますが)これまで積み重ねてきた信用がものを言います。
ホンダの創業者である本田宗一郎氏の「俺の考え」という本に、次のような一節があります。
信用というものは一つできると、信用の上にまた信用がどんどん積み重なっていって、雪だるま式に大きくなるものである。
だから信用という階段を上がるだけで、カネはあとからついてくる。
チャンスはふつうの人が思っているほど希少なものではなく、いたるところに、それもけっこうぞんざいに転がっています。ただ、チャンスをつかむ準備ができている人があまりいないだけです。そして準備を整えるうえで一番大切なことは、周囲の信用を得ることです。
読者、特にマニア層は、作家や編集者にやたらととんがった作品を求める傾向があります。しかし、信用を得る前に大張りして負けてしまったら、次がありません。バクチはただ「打つ」だけなら簡単です。「打ち続ける」ことが非常に難しいのです。
バクチを打ち続け、時に大バクチに挑戦させてもらうためには、まずは利益をあげること。売れて信用を得ることです。作家も編集者も、信用があってはじめてやりたいことがやれるのです。
※追記
このエントリを書き上げた直後に、ヤクザがマンガの編集をするイカスネタのエントリをみつけたので貼っておきます。
ユウガタ:続ロリエロ漫画規制の世界
「メリハリのねえ展開!回収する気もねえ思わせぶりな伏線!デウスエクスマキナよろしく終盤に出てくる新設定と新キャラ!家族殺し程度で深い作品になると思い込む教養のなさ!半端者が身の丈以上のストーリー構想すんじゃねえ!」(折れ曲がったゴルフクラブを投げ捨てる)
■[編集]Re:ナイスキャッチ、ナイスタオル、ナイスボート
このエントリは「404 Blog Not Found」の小飼弾氏のエントリに対する返事になります。
404 Blog Not Found:ナイスキャッチ、ナイスタオル、ナイスボート
榎本 吉田[戦車]さん、以前も「タオルでボールを受ける」とか、架空の競技を漫画の中で出していたじゃないですか。あまりうまく受け取ると「ナイスタオル」とかほめられたりするネタ。でも、突き詰めて考えると、ある技術を一生懸命つきつめて上手になるとかという意味では、本当は野球とかサッカーとかメジャーなスポーツと、「タオルキャッチ」もなんら代わりはないんですよね。
上野 野球のことをなにも知らない人が見たら、「タオルキャッチ」と同じように感じるだろうね。
榎本 野球やサッカーの技術があると、ものすごく偉いって見られるけど、「ナイスタオル」だと誰もほめてくれないし、お金ももらえない。突き詰めると漫画も同じじゃないかって気がしてならないんです。見たことのない動きとか構図とか、ものの見方とかを、考えてきたけど、「自分はいったい何をやっているんだろう」と感じることがあるんです。俺は「ナイスタオル」をやっているだけじゃないんだろうか。
マンガ家にそんな責務はありません。出版社にも雑誌にも編集者にもありません。あるとするならばそれは当人の思いこみか、上からの命令かのいずれかだと思います。
ナイスタオルを描く場を与える編集部は私も尊敬しますが、その理由は「ナイスタオルを試せるだけの余力と度量がある」「その余力と度量をナイスタオルにふりわけている」からです。売り上げのことだけ考えるなら、もっと効率のいいやり方がいくらでもあるはずで、そこをあえてナイスタオルで行ってみるという選択には、表現者としての凄味を感じます。
できることならば私もかくありたいとは思いますが、私自身と作家の2人分の人生をあずかる身としては、正直なかなか難しいものがあります。フリーは数字をシビアに見られますから。
漫画のすごいのは、ここから。「ナイスタオル」はとにかく「ナイスシュート」や「ナイス一目 」を売れるようにしてしまうだけの力があるのだ。しかし、それだけのことを成すのは作家だけでは不可能でなければ極難。その周辺がどれだけ売るかにかかっているのだ。
私はここは違うと思います。新しいことをやろうとするときは、確かに雑誌や編集のサポートがあるに越したことはないですが、それよりもなによりも、作家にナイスタオルを魅せるだけの力がなければどうにもなりません。ナイスタオルが売れるのは、現実だの状況だのといった小賢しい理屈をねじ伏せる、超絶的な力を持つ作家が描いたときだけです。そんな作家を見つけだすことこそが極難なのです。
ある編集者の気になるノート : 「面白い」だけの本も、「売れる」だけの本も、僕は作りたくはない。
僕の場合、企画を考えるとき、「自分が面白がれる本なのか?」が第一にある。
「自分が面白がれる」本というのは、要は「自分が知っている競技」ということでもある。野球しか面白がれない編集者がナイスタオルを売ってくれることはないだろう。一昔前なら、ナイスタオルはその時点でナイスボートだっただろう。
面白がるのに知識は必ずしも必要ではありません。というか誰も(自分すらも)知らなかった面白いことを見つけだして世に問うことこそが編集者の醍醐味だと思うのですが。
ところが、最近ではむしろ同人誌やインターネット経由で、編集者が「面白い競技」を見つける前に世間が面白いものを見つける機会が加速度的に増えてきた。「ひぐらしのなく頃」なんてまさにそうだし、「月姫」に至っては、もはやオリジナルが手に入らないのに「商業化」された作品がごろごろしている。
そういう時代に編集者のやるべきことは何だろうか。
その「商業化」の中には当然マンガも含まれていまして、どちらも10万部単位で売れております。世間が見つけた面白いものを「すぐに手に入れられるよう手配する」ことも編集者の仕事のひとつです。何でもマンガが最初でなければならないなどという法はありません。
S級編集者が、それも二名一緒に我が家にいらしたことがある。二人合わせれば1000万部は下らないのではないか。その時に印象的だったのが、二人ほぼ同時に「我々は本を書く能力がある」と言ったこと。「作る」ではなく「書く」。彼らは漫画で言えば作画まで出来てしまうのだ。
その彼らが出来ない--少なくともやっていない--のが何かというと、「種を作る」こと。これが、著者の仕事。あと育てて出荷するまで彼らは全てやってのける能力があるし実際そうしているのだが(もちろん自前で「育てられる」、すなわち文章を書ける著者は出荷のみ担当する)、種だけは仕入れてくるしかなく、そしてそれ故に彼らの名前は著者名としては表れない。
書く能力がないなどという人は「今はたまたま編集の仕事があって食えているだけの人」であって「編集者」ではないと私は思います。編集者を名乗るからにはそれくらいはできてあたりまえです。
それと、編集者は30点の作品を60点まで持ち上げたり、60点の作品を80点に引き上げたりすることはできますが、0から1を生むことはできない人種です。だからこそ、それができる作家を見つけだすことが編集者の一番の仕事なのです。
もはや作家は、編集者に持ち込んで認めてもらうよりWebに作品をうpしてから認めてもらった方がいい時代なのかも知れない。そういう時代における編集者の付加価値とは一体何なのだろうか。
編集者の仕事は売り上げをあげること。そして売り上げをあげるために有望な作家を見つけてきて育てることです。これはいつの時代も変わりません。