2009.04.14 やるせない日々
 ―チベット高原の一隅にて(41)―  
     
阿部治平(中国青海省在住、日本語教師)
         
3月に入って職員・学生・教師は身分証や学生証を提示し、車もいちいち許可を取って門を入るようにという指示がでた。教室の新しい掲示は、国家の安全を脅かし、民族団結を破壊するようなビラをまいたり貼ったりしてはならない、不法集会に参加したり、誘ったりしてはならない、インターネットでも社会の安寧を破壊するような宣伝をしてはならない、学内で宗教活動をやったり迷信を宣伝してはならない、という。帰郷のときは届け出るべしという指示もあった。

これは去年の3月、ラサ事件があったからだし、今年はダライ=ラマのインド亡命50周年ではあるし、国家が3月28日を「農奴解放記念日」としたからである。
中国人教授は国家社会学園の安寧秩序のために、7時から9時まで「夜自習」の時間には見回りをしなければならない。その上当番で研究室に泊まりこむ。
3日間ほど、パネルの展示があった。左にダライ=ラマ時代の辛苦の生活と地獄絵図、右に現在の希望に満ちた天国である。
留学生も留学先の学校を5日以上離れてはならないとされた。そのため、遠くジェクンド(玉樹)の仏画(タンカ)学校でカルマ=カギュ派の仏画を学んでいた研究生身分の留学生が引き揚げて、わたしのところに転がり込んだ。我家にはもともと居候がいたから若い娘二人と同居するはめになった。
 
3月下旬からチベット問題に関するニュースが俄然多くなった。
日本のインターネットは新華社電として、3月21日青海省ゴログ(果洛)チベット族自治州ラギャで数百人の群衆が警察署を襲撃、警察は自首を含めて100人近くを逮捕したと伝えた。黄河に面したラプジャ=ゴンパである。
3月27日には胡錦濤・呉邦国・温家宝・賈慶林ら首脳陣が民族文化宮の「チベット民主改革50年大型展覧」を参観に行った。
「チベット百万農奴解放50周年記念の座談会」を北京で行い、賈慶林が講話をおこなった。
28日、ラサで「農奴解放記念日」祝賀大会が盛大におこなわれた。テレビや新聞は喜びに満ちたチベット民衆の歌や踊りを伝えた。
西寧ではこの晩、虎台派出所で些細なことから群集数十人が警察のやり方に不満を抱いて騒ぎをおこした。だが、これは漢人らしいので大きな事件にはならなかった。チベット人でなくてよかったとおもったのはわたしだけではない。
漢人だと「騒ぎ」で終わるが、チベット人だとちょっとした「騒ぎ」でも「襲撃」、ときには「反革命暴乱」になることがある。
青海省のチベット・モンゴル農牧民も、1949年の革命前は「農奴」である。ならばその解放を祝ってもよかろうとおもって、いつかどこかで歌や踊りをやるだろうと期待していたが、青海省では行事はなかったようだ。わたしの学生も、歌と踊りとなれば日本語よりはこちらのほうが好きだから、張切って参加するだろうに。わたしは自分では踊れないが、ステップの複雑なチベタン=ダンスが大好きだ。
31日もラサでは「のど自慢大会」が盛大に行なわれた。
3月下旬、チベット関係の論評はニュース以上に新聞紙面を占領した。亡命政府に対する批判は新華社記者の「事実をもってでたらめを暴露する――ダライ=ラマへの7つの問い」(「青海日報」3月26日付)が比較的まとまっているので、見出しをすこし補充するとこんな内容である。
ダライはなぜ歴史上チベットが中国に属してきたことを認めないのか――1954年にダライはこれからチベットは祖国の大家庭に戻る、つまり中国に戻るといったではないか。
1959年チベット反動勢力が発動した(叛乱)は「和平抗暴」(平和的に暴力に対処)したことになるのか――先に暴力を振るったのは旧チベット政府側ではないか。
ダライはチベットから解放軍と漢人の撤退を求めるのか――軍は国家主権の基本的保障であって、そんなことができるはずがない。
旧チベットは誰の「シャングリラ」(天国)だったか。貴族と農奴主の楽園だったではないか――かつてダライは「17条協定」によって、「チベット人民は十分に民族の平等の全ての権利を享受でき、自由幸福光明の道をあゆみはじめた」といったではないか。
チベットは59年以前はヨーロッパ中世よりも暗黒で遅れた封建農奴制社会で、「人間地獄」というにふさわしかった。新旧のチベットのうちどっちがいいか。
さらに、「チベットの宗教・文化・言語・民族の特性は絶滅に瀕しているか」「誰が民族間の恨みと分裂をでっち上げたのか」とつづくが、省略する。
 
おもいおこせば、作家ハン=スーインも36年前にまったく同じ趣旨のことを書いている。「文化大革命」が四人組逮捕で収束に向かう9ヵ月前、「拓(ひら)かれるチベット」として「読売新聞」(1976年1月)に連載された(べつに『太陽の都』<白水社>があるがひどい訳文だった)。
「(チベット叛乱鎮圧以来)数十種の税、ダライ=ラマの囚人たちが投げ込まれたサソリだらけの恐ろしい監獄、手を切断したり、目をえぐるなどの残虐行為は禁止された。教育、農業、医療知識の普及がはかられ、資金、穀類、物資、機械が大量に投入された」
解放軍によって反乱は鎮圧され、同時に圧制の奴隷社会に別れを告げ、チベット人に希望と幸福がやってきた。いま「農業は大寨に学ぶ」政策のもと農牧業は繁栄しているという内容である。

そのほか、26日付人民日報署名論文は毛沢東を引いて「チベットの農奴制度は、われわれの春秋戦国時代のあの荘園制度のような、奴隷といっても奴隷ではなく、自由農民といっても自由ではない、いわば両者の間の農奴制度である」という。
だが、論者の封建制についての認識は陳腐だ。なかでもヨーロッパ中世に対する「古典的」評価には驚く。ハン=スーインは奴隷制と封建制の区別もできない。
たしかにチベット政府支配下の農牧民への搾取は重かった。絶対的権力によって民衆を無知の状態に置き、1949年当時は愚劣化し統治能力を失っていた。
信仰の問題を除けば、いま旧体制の復活を願う人はそうはあるまい。だが中国でいわれるように、旧体制下の「農奴」が長期に70〜80%も搾取されたとすれば、生命の再生産が危うくなり、チベット人社会は今日まで存在できなかったはずである。中国で毛沢東以後、封建制の実証的研究があるなら、それなりの論評があってしかるべきではないか。

ここまではまだいい。カムからの報道には、ぎょっとした。
3月25日付「青海日報」に載った、四川省ダルツェンド(康定=甘孜蔵族自治州)3月24日発新華社記者の「種播きをしないで何を食うのか」という「述評」である。要約する。

民は食をもって天とする。誰もが食料の大切さを知っている。ところが四川省の一部農牧地帯では近頃ダライ分裂勢力の暗躍によって「春耕」を放棄するところがあらわれた。
種を播かないで何を食うのか。農牧地帯の民衆生活の大部分は伝統的な農業に依存している。とりわけこの地方は1年1毛作である。
今まさに「春耕」の時期なのに、何もしなかったら今年は一粒の穀物も得られない。農民の「農業ストライキ」を煽るのは、ダライ分裂勢力が長年人心をまどわし、わが国経済社会の発展を破壊するために採用した『非暴力非協力』手段の一つである。
このようなわるだくみによる、手段を選ばぬやりかたは広大な農牧民の生死をかえりみない卑劣なふるまいである。(「農業ストは」)ダライ分裂勢力が大衆を利用して国家分裂をたくらんでいることをあからさまにした。
農民が作付け時期が大切なのを知らないはずはない。各地の政府は党中央・国務院の細かな措置によって食料の直接補助、農業資材や種子、農業機械購入の補填など優遇政策を実施している。
『罷耕』(農業スト)が四川一部農牧地帯にあらわれてから、現地党委・政府はさまざまな措置をとって不法分子の陰謀を暴露し、『春耕』をしっかりやるよう大衆を導いている。
広大な党員幹部は村々にはいり、ところによっては指導者が3戸の「積極分子」と一緒に一戸一戸まわるやり方をとった。農業部門は専門技術者を畑まで派遣して「春耕」を指導している。
いまは現地の多くの農牧民のほうも「春耕」の重要性をわかるようになり、続々農作業をはじめた。
「春耕」を保つことは民生を保つことだ。ダライ分裂勢力の、民衆を「農業スト」に駆り立てる卑劣な行為は人心を得ないし、彼らの凶悪な企みをよりいっそう暴露して終わるだろう。

このダルツェンドからの新華社「述評」が正確なら、カム東部では「人心を得ない」どころではない。「ダライ集団」はとうにカムパ(カムの人)の心臓をつかんでいる。党員幹部の「説得」によってカムパが「農業スト」を中止し「春耕」に向かったとしても、彼らの気持はダライ=ラマのほうに傾いていることにならないか。
貧窮と悲惨を過去のものとし、現在、カムパ大衆が生活の向上を実感しているなら、「ダライ分裂勢力」の暗躍する余地もないし、まして「農業スト」にはいることはありえない。
いや、生活があいかわらずのうえに、警察や軍は強圧的、役人の汚職はやり放題だとしても、カムパがこの秋には腹が減るのを覚悟で「農業スト」に入ることなど、一農民の子としてわたしにはとても信じられない。――このニュースを配信した新華社の意図はどこにあるのだろう。



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