「絵文録ことのは」の人の雑記帳。
なお、「ことのは編集室」は個人事業の屋号、「松永英明」はライター(文筆業者)としての営業上の筆名です。ハンドルだの通名だのではありません。
ここは「いっぱんじんがごちゃごちゃいうな」と言われそうなことばかり書いています。
><すみません
黒夜如果不黒暗 美夢又何必嚮往
破曉會是堅持的人最後獲得的獎賞
黒夜如果太黒暗 我們就閉上眼看
希望若不熄滅就會亮成心中的星光
(S.H.E.「星光」より)
2009年02月22日
■正字正かなについての速記*1

きちんとまとまっていないのでメモ書き程度になるが、「日本語が滅ぶだの滅ぼせだのといった話題がかまびすしいが」でちらりと触れた(したがって言葉の尽くされていない)正字正かなについての発言が、いわゆる「正統表記」を用いる「正字正かな派」(id:kahusiさんの用語)の逆鱗に触れたようである*2。もともとがメモ的に書き流したエントリーなのだが、改めて簡単にポイントを押さえておきたい(いずれ清書するつもり)。
- 「正」という言葉は、必然的に「邪」(善悪)または「誤」(正誤)との対照で使われるものである。いずれにしても、「正しからざる漢字・かな遣い」が存在し、それを排除したいという表現である。一方、「旧字旧かな」であれば過去の一ヴァリアントとしての表記法という意味になる。わたしは旧字旧かなを使うこと自体を否定はしないし、プライベートでは旧字旧かなを読んだり書いたりするのも好きである。(わたしがブログ等で旧字旧かなを使わないのは、旧字旧かなを読めない現代日本人の大多数に届かなくなってしまうからである)
- 「正字正かな」という主張は、戦後のいわゆる「現代表記」を批判するものである。それが国家によって進められたがゆえに定着したという事実はそのとおりである(が、強制力によって押しつけられた場合の話は、言語が滅ぶか否かという話の関連であって、ここで持ち出すのは筋違いではある)。ともあれ、「正字正かな」派は、その戦後の押しつけに反発し、契沖に定められ、それをもとに戦前まで用いられた表記を「正」とする。あるいは、戦前までの「歴史的仮名遣い」の結果としての戦前までの表記を「正」とし、戦後を「正でない」とする(このあたりは論者によって揺れがあるように思われる)。いずれにしても、「正字正かな」は「戦後の文部省が推し進めた表記」を誤/邪とする、と定義して間違いないと思われる。以上は正字正かなの主張についてのわたしの認識である。
- わたしは常々、「日本の伝統」とされるもののうち、かなりの割合のものが実は「明治以降」に定着した、「極めて歴史の浅いもの」であることに関心を持っている。厳密に言えば、水戸学の系譜を引く国学によって江戸時代に萌芽が見られ、その後明治になって主導権を握った「日本的なもの」というものは、実は江戸時代以前の日本文化と大きく異なるものである。たとえば、靖国神社の教義(滅ぼされた者の怨霊を鎮めるのではなく、官軍の犠牲者を一まとめの神として祀る、など)は、幕末に生まれた新興宗教というべきである(がこの話は別のところできちんとやる)。「神前結婚式」なども明治以降の極めて新しい日本的文化である。「横浜開港150周年」であるが、およそ150年前を境に新しい日本が作られ、それがあたかも古来の日本であるかのように勘違いされるようになった。そこにわたしは大きな疑問を持っている。そして、日本の多くの「民族派」の主張(日本財団に代表される)が、「戦前に回帰せよ」=「戦後民主主義への反発」であることに、まったく共感を覚えることができない。なぜなら、彼らの主張する「古きよき日本」が江戸時代や室町時代や鎌倉時代や平安時代や奈良時代や飛鳥時代のスタンダードを顧みないからである。彼らは明治維新以後終戦までを美化することによって現代の「戦後民主主義」を批判しようとする。(※正字正かな派と民族派は異なるが、終戦を境に正邪/正誤が分かれると考えている点では共通しているとわたしは感じている。また、その意味でわたしは呉智英が嫌いではない。)
- わたしは戦後民主主義の信奉者というわけではない。しかし、大日本帝国や明治維新を美化するつもりもない。それ以前のすべての時代と同じく、変化し続けてきた日本の一形態であると思っている。
- したがって、戦後の政治による現代漢字・かなの押しつけを批判するなら、大日本帝国による「国語」政策も、明治新政府による言語政策も、同じく批判されるべきであり、「戦前はよいが戦後は悪い」というのは認められない。明治時代にどれほど日本語が「作られた」かを考えれば、戦前の表記は伝統を受け継いだものであり、戦後の表記は伝統を破壊するものだ、というような考え方をわたしは受け入れることはできない。いずれも日本語の表記の歴史におけるヴァリアントにすぎない(ただし、その中でどれが好きとか嫌いとかいう程度のことは否定しない)。
- 戦後批判という側面を持つ「正字正かな」運動であればこそ、昭和二十年(ごろ)までの「戦前の表記」が「正」とされるのであろう。しかし、わたしにとって「正」という基準は存在せず、ただ過去の表記もヴァリアントとして尊重したいと思う。だからこそ、「戦前表記」をもって現代文を表わす者「だけでなく」、たとえば定家仮名遣いを基準にして記すサイトや、平安仮名遣いを基準にして記すサイトや、万葉仮名をもって日記を書くサイトなどがあってもよいと思う。少なくとも「歴史的仮名遣い」というものがその最終形としての戦前表記だけに限定されるのはおかしい。もし、正字正かなサイトがこれらの歴史的表記のすべて(あるいはある程度)をカバーしているのであれば、わたしもさほど反発を覚えなかっただろう。
- 「正字正かな」の「正字」も、康煕字典を規範とする流れにある。「戦後日本政府の強権による漢字字体の制限」とは言われても、「康煕帝の強権による漢字字体の制限」などという批判が聞こえないのは気のせいか。わたしは繁体字・簡体字・現代日本漢字のそれぞれをヴァリアントとして認めるし、「俗字」「略字」の対義語としての「正字」という言葉遣いは認めるが、「これこそが正しい、あとは間違い」という考え方は受け入れない。そして、楷書体以外の様々な漢字(それこそ甲骨文字から始まる)のさまざまな「字形」の差をすべて(正邪の区別なく)受け入れた上で、自分の採用する文字はこれとする、という表明だけを行ないたい。
- 「正字正かな」は表記だけの問題であるから、文法などは関係ない、と主張された。さらに、わたしの「正字正かな利用者が古典文法で書かない」という指摘について「古文と旧仮名遣いが一体だと思っている、現代教育の犠牲者」というような批判までなされた。わたしは、「表記」と「文法」が切り離して考えられることについては理解している。しかし、その上で、正字正かなが「表記」における批判にとどまり、文法についてはまったく顧慮しないことを中途半端だと考えている。わたしにとって、「失われた仮名遣い」に対する郷愁は、「失われた表現方法」への郷愁の一部である。であるから、わたしにとっては「旧字旧かな」という「字面の表記」だけでなく、「明治大正の擬古文」という文体や、言文一致運動以前の文体、あるいはいわゆる古典文法の文体*3といったものすべてに及ぶ。逆に言えば、「正字正かな派は、字面の表面的なものだけしか扱っていない」という批判である。日本語表現における相対的な視野が完全に欠落している。文字表現は文法や文体を含めた記述システム全体の中で論じられるべきであり、正書法だけを切り離して論じるのは片手落ちである。
- わたしにとっては、たとえば「べき。」問題がある。「べし」は古典文法から現代文法に生き残った言葉である。これは、終止形が「べし」となるはずなのに連体形「べき」で終わる「○○すべき。」という表現が気持ち悪くてたまらない。係り受けもしていないのに、連体形で終わるのである。しかし、正字正かな派はそういうことを問題視しない。何だよ、正しい表記とかいいながら、「べき。」を見逃すのかよ、と思う。
- 正仮名遣いは、現実に使われている発音とまったく無関係でよい、正字法は独立した存在だ、という主張もある。それはもちろん言文一致的な流れとまるで対極に位置する(完全な言文一致は不可能である。音声学・音韻論を学べばそれはわかる。しかし、だからといって現行の発音と無関係でよいというのは極論である)。かな文字というものが本来、当時の日本語の音を表わすために漢字を借りて作られたシステムである以上、それは時代の変化とともに更新されてしかるべきではないか。
- わたしは幸田露伴派を名乗ることにする。それは、幸田露伴の思考方法とわたしが非常に似ているからであり、主張もうなずけるものが多いからである。幸田露伴は、「普通文章論」でこのように書いている*4。
仮名遣については今や新しい運動が起つて居る。その結果の何となるかは予測し難いことであるが、その運動の大体の方針が仮名遣と国民との間の距離を縮少しやうといふに在るのは、実用的文章を要する一般世人に取つては、益も無い負担の重さの幾分を減じて貰ふ訳に当るのである。が、今のところでは来年の事をいつても役には立たぬ、やはり厄介物を肩にしなければならぬのは実に迷惑千万である。ただし仮名その物は漢字とは違つて「義」を表はすために用ゐられるのでは無く、「音」を表はすために用ゐられるのが本来の約束である。実用的文章はこれを草する人の言語に関する智識を示さんがためでは無くて、用事の目的を達せんがためなのである。「かはほり」よりは「かうもり」の方が近い世の語だけにその表はさんとするものをば適切平易に表はし、「かうもりがさ」よりは「こうもりがさ」の方が通じ易い。蝙蝠は「蚊屠り」であるから、「かはほり」は「皮張り」であるから「かはほり」か知らないけれども、「かうもり」でも差支が無いならば「かうもり」の方が吾人との距離が近いから、耳にも心にも受取りが明確容易であるによつて、何様か「かうもり」にした方がその語を使ふゆゑんの目的に副ふらしい。「こうもり」といふ仮名遣は無いかも知れ無いが、すでに「かはほり」を「かうもり」にして許容しても宜いのならば、「こうもり」も許容して貰ふと甚だ都合が宜い。電車は二度乗換が出来るのでいよいよ便利な理屈である。「向ひ小山のがんけのつつぎ」と相馬で歌ふからといつて、躑躅花(てきちょうか)を「つつぎ」と書いたり、懸崖(けんがい)を「がんけ」と書いたりしたらば(心を「けけれ」と書いてある例が有るからといふにしても、それは特に方言を表はす目的で書いた事勿論であるから特例である)、それは何様も困つた談で、他国の人には解せぬ事になるけれども、「かうもり」を「こうもり」と書くがごとき事は誰にも解つて、蝙蝠と受取れるのであるから、実用一方からいへば差支無いのである。すべて立場が異なれば論が異なる、仮名遣一ツについても様々の立場があつて従つて様々の論があるが、実用的文章から論ずれば、もし統治権を有して居る仮名遣が有らばその仮名遣に従ひ、統治権を有して居る仮名遣も無いならば、「実用」といふわが目的に協ふ仮名遣を取るとして差支無いのである。
- そもそも、文字表記というのはすべてが「約束」にすぎない。「し」という文字でshiの音、「よ」でyoの音、「しょう」でshouの音を表わすというのもすべて約束事にすぎない(ギリシア語のιはiの音である)。であるから、「せう(seu)」を「しょう」と読む、というのも約束の一つである。約束は、多くの人が共有しているということが前提である。表音文字の場合、同じ音が伝わることが大前提である。同じ音が伝わればよい約束であり、同じ音が伝わらなければよくない約束である。
- わたしはすべてにおいて「正しさ」を振りかざす言説を信用しない。「正確さ」は求めることができるが、絶対的な「正しさ」としてそれを振りかざす者を信用しない。自分の信念を持ち、「自分はこの考え方を選ぶ」というのならわたしは尊敬するが、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言は受け入れられない。それは「正義」を振りかざす者どもも同様である。「正字正かなではなく旧字旧かなや歴史的仮名遣いなら許容できる」というのはそういう意味である。なぜなら、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはあるからだ。
- 正字正かなに並んで「正文法」を主張したらどうなるだろうか。明治新政府(あるいは大日本帝国)によって押しつけられ、ゆがめられた日本語を是正するとして。
*2:あえてここで出典を書くのは、それがわたしの勝手な命名や造語ではなく、ある意味「自称」として用いられていることを示すためである。何かというとわたしがシャドーボクシングみたいな見えない敵と戦っているような印象操作を行なう人たちがいるので、それを避けるためでもある。一方で、わたしが書いていないことについて、勝手に「こういう動機だろう」と決めつけている人たちは実在する
*3:ここで「いわゆる古典文法」と述べているのは、過去の日本の文法すべてを指すからである。源氏物語と平家物語と徒然草と浮世草子がそれぞれの時代の異なった文法に基づいて書かれていることを総称している。
*4:明治四十一年。ちなみに、露伴は昭和二十二年に亡くなった。昭和二十一年末の「現代仮名遣い」を使って書いていないから正字正かな派だというのはおかしな主張である。
「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
かうして幾多の先學の血の滲むやうな努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、……、慌ただしく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。
正統表記と云ふ言ひ方を福田氏が使つた事は、我々正字正かな派の立場が全く偏狹とは無縁のものである事實を福田氏が認めてゐた決定的な證據と言へませう。
また「旧字旧かなと言わない奴は絶対にゆるさないよ」等と言ふ事自體、相當に偏狹な立場だと言ふ事が出來るでせう。
よくあることで、信者でない人の方が信者よりもえてして寛容さに缺ける。(ロゲンドルフ)
新潮社版の「私の國語教室」を讀んで以來、手紙、その他を現行の假名遣から正假名遣に更へたといふ人が隨分ゐる。
昭和五十八年の文章です。
福田氏は晩年、正假名遣と書き、正統表記と書いてゐる訣です。
また「國語政策に關し総理に訴ふ」の「註」の五番目に、
正字「龍」の方が略字「竜」より先に人名漢字として許されたが、たとへさうでなくとも、当用漢字、補正漢字、人名漢字にあるものなら、命名に關する限り文句なしに正字が許されてゐる事を諸君は御存じだらうか。
とあります。「諸君!」昭和五十二年四月號掲載。
年代を見ても、福田氏が次第に「正字」「正假名遣」といつた語を用ゐるやうになつてゐる事が判ります。はじめの頃に使はなかつた語を後の頃には使ふやうになつてゐる、と云ふ事です。
日常の生活においては氣にする必要のない部分――漢字に隱れて見えなくなる部分の假名遣では妥協して良い、と露伴は述べたに過ぎません。字音假名遣にしても、實用上、覺える必要はない訣です。
が、さう云ふ事は福田恆存も認めてゐます。字音假名遣については、福田氏も、實用上問題にする必要はないと云ふ事を言つてゐます。その點、露伴と福田氏の間に懸隔はありません。露伴派と言へる存在が「ある」と言ふのでしたら、それは勘違ひです。
實際、露伴は「現代かなづかい」のやうな表音的假名遣を認めた訣ではなく、ずつと正字正かなで書いてゐます。
しょせんは一種のコスプレ愛好家のくせになにを威張っているんだ。
誰も何も福田恆存が使ひ出した、と指摘しただけです。
それにしても。
>しょせんは一種のコスプレ愛好家のくせになにを威張っているんだ。
あなたは人の事を「偏狹」とか罵つてゐましたが、自分は何樣の積りなのですか。
それにしてもコスプレ愛好家とは……コスプレ愛好家は松永氏でせう。松永氏は「愛好家」としての「旧字旧かな」は認めると言つてゐるのです。私は正字正かな派であり、ただの趣味や何かで歴史的かなづかひを使つてゐるのではありません。
「〜のくせに」とか、偉さうな事を言つてゐますね。tanzen氏、何樣の積りなのでせうか。正字正かな嫌ひの人は、得てして斯う云ふ人です。
アンチ「正字正かな」の人は、「正字正かな」と云ふ用語を見て「これは叩くのに都合が良い!」と嬉しくなつて、人を罵倒して、快を貪つてゐるのです。tanzen氏のやうな人は、他人を侮辱するのが樂しくて樂しくて堪らない、だから快を貪る目的で他人を攻撃する――さう云ふ人です。さう云ふ人々だからこそ、正しさと云ふ事を憎んでしまふ。
喜六郎とか「義」とか、俺の事が嫌ひな人つて、必ず斯う云ふ裏表のある人間なんだよな。自分の性格の惡さを俺に投影して――自分の鏡像を罵つてゐるんでないの。
「旧字旧かな」愛好家の人の「正字正かな」嫌ひにも、案外さう云ふところがあるやうな氣がする。みんな少し反省した方がいいよ。
ようするに、福田氏が「正字正かな」という言葉をそのまま使った事例は一例もないんじゃないかな。私が上で「ほとんどない」といくぶん控え目に書いた理由は上記の事例のように類似の言葉が晩年の劣化した福田氏には多少見られるということにすぎない。
しかし野崎は「正字正かな」という言葉を福田氏は「時々使つてゐる」と書いている。悔しかったら「正字正かな」(正字正仮名でも可)という言葉をそのまま使った事例を挙げてみな。
大體、tanzen氏は、なぜ「じゃないかな」などと臆測でものを言ふのだらう。それに「晩年の福田氏は劣化した」とは聞き捨てならない。福田氏は劣化した、等と言つて福田氏を信用しない人間が、福田氏を讀んでゐる筈もない。tanzen氏は、福田氏が「正字正かな」と言つてゐたとしても「劣化してゐたのだ」と極附ける用意をしてゐるのだとしか思へない。さう云ふ事なら、「正字正かな」と言つた實例を擧げるべき理由はない。
國語問題協議會でも普通に正字正かなと言つてゐる。もちろん、「正漢字正假名遣」と言つたら正式だらう。略して正字正かなと言つてゐるに過ぎない。そもそも、「誰が言出した」なんて言ひながら、自分では探さないなんて、探す氣が無いんだらう。當てこすり・嫌がらせをtanzen氏は言つてゐるのだ。
tanzen氏は、個人攻撃を樂しむだけの爲に、わざと尤もらしい事を言つて見せてゐるに過ぎない。
少くとも。
>「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
と言つたtanzen氏の方こそ偏狹であつた――さう云ふ偏狹な人間だからこそ、tanzen氏は自分の事を棚に上げて、氣に入らない「正字正かな派」の人間を「偏狹」だと極附けようとしたのだ。
それから、俺一人に粘着してゐる喜六郎は、狂人以外の何ものでもない。自分が狂人だからこそ、喜六郎は俺を狂人「といふこと」にしようと必死になつてゐる。
何年も俺の惡口だけを「ブログ」に書き續けるなんて、氣狂ひのする事だらう。俺が今言つてゐる事は正しいから、喜六郎は絶對に反論しない。
tanzen氏のやうな「自分の正しさ」をその場で印象づけるだけのために事實を歪曲する態度が一番許せない。
正字正かな派の「正しさ」を非難しながら、自分が正しくない事をしてゐる事實に、tanzen氏も喜六郎も氣附かない。これは、彼等が眞實を求める積りがなく、ただ彼我の人間關係を問題にしてゐるだけである證據だ。tanzen氏も喜六郎も、「俺よりも立場が上だ」と確認し、俺を馬鹿にして喜ぶ爲に、俺を攻撃してゐる。
さうでなかつたら、喜六郎とtanzenの目的は何か。彼等は絶對に説明できない。個人攻撃をもつともらしい批判に見せかける爲に、喜六郎はチェスタトンの權威を利用し、tanzenは福田氏を不必要に貶めてゐる。
彼等の心理は、ヴァレリイの所謂「精神の政治學」やニーチェの心理學で、十分解明できる。彼らの行爲は、飽くまで自分の心理的な欲求を滿たすのが目的で、學問とか眞實とかとは何の關係もない。
しかし、俺を否定するなら、否定した先に、彼等は何か肯定するものをはつきり提示しなければならない。それを提示しない・出來ないでゐるのだから、彼等はただ快を貪つてゐるだけなのだ。
「現代かなづかい」以前に死んだ人は「正字正かな派と呼ぶ事は出來ない」と云ふのは、をかしな主張である。表音的假名遣は假名遣ひにあらずを書いた橋本進吉は正字正かな派だ。
金田一京助が橋本氏を「現代かなづかい」肯定派の側に組入れようとした事があるけれども、それと同じ事を松永氏もしようとしてゐる。
それに、「現代かなづかい」以前でも、表音主義者は、表音的に書いてゐた。露伴が本氣で「實用主義」を信じてゐたのなら、制度としての「現代かなづかい」が存在する以前に、自分の信ずる所を實踐してゐただらう。しかし、露伴がそんな事をした事實はない。
松永氏は、露伴の文章を、自分に都合良く歪めて解釋してゐる。tanzenに至つては、福田氏を自分に都合良く「劣化」した事にしてしまつてゐる。
誰も反論できないが、話と何の關係もない一般論を言つて、すました顔をしてゐる喜六郎は論外。
悔しくもなんともないよ。なぜならあんたが挙げた2つの事例、おれはもちろん最初から知っていたから。
断定しないのは「絶対に使っていない」と断言するには福田氏の文章をすべて読んでいなくてはいけないから。福田氏の残した全集未収録の文献まですべてに目を通しているわけじゃないからね。
まあはっきり断言できるのは、野崎が福田氏が「正字正かな」という言葉を使った事例を一つも知らない、ということだ。これだけは断言できる。kirokuroさんもこれは覚えておいてね。
斯う云ふ本質的な問題となると、途端に腰が引けるのが日本人です。意地になつて本質論から話をそらし、「週刊誌なみ」のスキャンダル問題をでつち上げて、わーわー騷ぎ立てる。
その時、喜六郎を見れば實にはつきりわかりますが、大抵「道徳」を持出し、「人を裁く」のですね。喜六郎は俺を「狂人」だと判定して見せてゐます。これを如何にも論理的なやり方だと喜六郎は信じてゐるのですが――tanzenにしても、「偏狹」と言つて、道徳的に「正字正かな派」を非難してゐる。
「道徳的な立場」からの非難・攻撃は、偏狹ではないのですか。喜六郎とtanzenには、反論を要求します。或は松永氏、松永氏も「正字正かな派」を斷罪してゐるのですが、さうあなたがする權原は何ですか。
松永氏にしてもtanzenにしても、喜六郎ですら、「日本人的な、餘りに日本人的な」物の見方をせずにはゐられません。彼等は、「正しい」と云ふ言ひ方に――言葉に――感情的な反感を示してゐます。
彼等は、言葉を信ずる事が出來ない、彼等は、言葉の裏に、何うしても人間の姿を見出してしまふのです。彼等は、觀念に就いて考へる事が出來ません。觀念を持出す人間に就いて考へる事は出來るのです。抽象的な思考を苦手とする日本人だから當り前の態度なのですが、それを當り前だからと言つて彼等は絶對に反省しません。それが問題なのです。
tanzenが喜六郎の取卷きで、俺に對する粘着アンチである事がはつきりした。かう云ふ陰險な人間だからこそ、「正しい」と云ふ事を輕蔑し、「正しい」事を支持する俺のやうな人間を侮辱するのだ。
なあtanzenよ、俺が福田氏が「正字正かな」と言つた實例を出せないし、事例を知らないからと言つて、何か問題があるのか。福田氏は正字と言ひ正かなづかひと言つた。それで正字正かなと言つて良い事は明かだ。なぜ言つてはいけないのか。
tanzenは反論しない。しないで「野嵜は知らない」「野嵜は知らない」と言ひ續け、そのただ一つの「事實」を楯にとつて、俺を非難するのは正當な行爲だと言張り續ける。しかし、さう云ふ態度は偏狹ではないのか。
自分が偏狹であるtanzenは、何うして他人が偏狹である事を非難するのか。もちろん、tanzenは、反論しない。「野嵜は知らなかつた」とひたすら繰返すだけだ。tanzenは俺に反論出來ない。tanzenの敗北は明かだ。
これは卑怯なやり方だ。
正字正かな派は何時だつてこの手の鄙劣な攻撃に惱まされて來た。俺は思ふのだが、松永氏にしてもtanzenにしても、なぜ、既に問題であると判つてゐる國字改革を問題にしないで、敢て「正字正かな」と云ふ言ひ方を今「問題にする」のか。
國字改革と云ふ問題が「ある」事實を隱蔽し、或は問題である國字改革から人の目を逸らして擁護しようとする目的で、松永氏もtanzenも工作活動をしてゐるのでないか、と云ふ事だ。
「正字正かな」と云ふ文言が氣に入らない、野嵜と云ふ人間が氣に入らない――なんでそんな下らない事を、松永氏もtanzenも、喜六郎も、當り前のやうな顔をして言つてしまふのだらう。誰が何う考へても、下らない事ではないか。俺はごまかしてゐるのではない。俺個人の事をtanzenが問題にする意味がわからない。或は松永氏が「正字正かな」と云ふ「用語」を目の敵にする理由が解らない。個人攻撃や、言葉尻を捉へる揚げ足取りが、何うしてそんなに大事な事なのか。もつと重要な、大きな事があるだらう。なぜさう云ふ些細な事を一生懸命問題にできるんだらう。
tanzenは「これは覚えておいてね」と言つてゐるが――なんて不氣味な事を言ふのだらう。目的をはつきりさせず、ただ示唆するやうな事を言ふのは、不氣味だ。何うしてこんな不氣味な眞似をできるのだらう。
ストーカーは何時もかう云ふ訣のわからない不氣味な事を言ふ。最近もニュースになつただらう。
このやりとりはこれでおしまいとする。kirokuroさん、これをアーカイブスに追加希望。
この事だけで、tanzenが「勝つ」だけの爲に、羂を張つたのだ、と云ふ事實は明かだ。俺は羂に引掛つたのだ。
だが、羂を張つて人を陷れる行爲は、意味がない。論者一人が羂に落ちるだけで、眞實は敗れはしないからだ。
福田氏が「正字」「正かなづかひ」と言つてゐさへすれば
>正字正かなについての発言が、いわゆる「正統表記」を用いる「正字正かな派」(id:kahusiさんの用語)の逆鱗に触れたようである
と云ふ松永氏に對する反論として十分だらうが。
なんでtanzenは俺がtanzenに反論したと思ひ込んだんだ。ここは松永氏の「ブログ」であり、コメント欄は松永氏の記事に對するコメントに決つてゐるだらうが。
もちろん、俺の主張を聞入れさへしなければ、tanzenも喜六郎も「大勝利!」と言へる。馬鹿は勝手に喜んでゐればいいんだ。
陰險なtanzenは、今は勝つたと思つて喜んでゐるがいい。俺は貴樣らの鄙劣な羂にかかつただけだ。鄙劣なやり方で人を陷れて、その場は勝つた氣分になれても、歴史が惡人を裁く事になる。その時、tanzenや喜六郎のやうな鄙劣な人間が「正しい」と認められる事は絶對に無い。
俺は、人間の裁きは怖くない。歴史の裁きこそが恐ろしい。
(1)マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったように、福田恆存が今のネットを見たら「私は正字正かな派ではない」と言っただろうな。
(2)その福田は俺の見立てでは1960年の「常識に還れ」あたりから急速につまらなくなり、劣化していく。あんたのように信者じゃないから全部ありがたがってるわけじゃないんだよ。
だから1960年以降の「正字正かな」の用例を一件でも見つけたら「(負けは認めないが)恐れ入りました」、1960年以前の例を一件でも見つけたら「(負けを認めて)負けました」とコメントしてやる。
福田恆存が正字正かな派ではないと言ふと何うしてtanzenは斷定出來るのか。
つまらないと云ふのは個人的な感想であり、劣化だと云ふのはtanzenの獨斷的な判定に過ぎない。信者か何うかは關係ない。
別に勝ち負けは關係ない――いや、「正字正かな」と福田氏が1960年代以前に言つたか何うかが何うして重要な意義を持つのか、説明して貰ひたい。そもそも「劣化」とは何が何うであつたら「劣化」と判定できるのか、誰もが納得出來る基準を提示していただきたい。俺が納得出來たら、俺の負けだ。俺が納得出來なかつたらあんたの負けだ。それなら勝負していい。
俺は馬鹿だから、あんたみたいに福田氏が「劣化した」等と傲慢にも判定を下す事は出來ない。そして、俺は馬鹿だから、福田氏が「私は正字正かな派ではない」と言ふ理由がわからない。
そもそも、「正字正かな」と言ひ「正しい」と言ふ事に對して、福田氏が否定的な見解を持つてゐた筈だ、とtanzen氏が福田氏に成代はつて言ふ視覺があると云ふ事自體が納得出來ない。
それらを全て納得出來るやうに、頭の良いtanzen氏や喜六郎は俺に説明できる筈だ。俺が納得出來たら、あんたらが勝つたと云ふ事にしておいていい。しかし、それができないのなら、俺の勝ちだ。
俺は頭が惡いから、「偏狭な感じの言葉」が「普及」すると必然的に「信奉する連中も偏狭にな」ると言ふのが、理窟として納得出來ない。理窟でないなら、なぜ無關係の事を關係があるかのやうにtanzenが言つたのか、解らない。
頭のいいtanzenだから、頭の惡い俺に、ちやんと納得出來るやうに説明出來る筈だ。説明できないなら、俺とtanzenとは、大して頭の出來は變らない事になる。もし頭の出來が變らないのなら、どうしてtanzenは俺を馬鹿だと嘲れるのか。俺は馬鹿だからさつぱり解らない。
喜六郎が俺に粘着してゐるのも理解できないが、さう云ふ粘着をtanzenが良い人間だと思ふのが理解出來ない。あゝ云ふ粘着行爲をする人間が、どうして偏狹として非難されないでいいのに、「正字正かな」と言つてゐる人間は「偏狹」だとして非難されなければならないのか、それも理解出來ない。
頭のいいtanzenなら、俺が納得出來るやうな説明を出來る筈だ。それが出來ないのなら、tanzenの負けだ。しかしtanzenが俺のやうな馬鹿に負ける事はないのだらう。面倒かも知れないが説明して貰ひたい。面倒だからと説明しないのなら、俺が面倒だからと本の山をひつくり返して福田氏の發言を掘り出さないのもtanzenは非難できない筈だ。
もしさう云ふ拘りがないのなら、福田氏が「正漢字」と言ひ「正かなづかひ」と言つてゐる事實を指摘するだけでtanzenの言ふ「偏狹」と云ふ事は論破された事になるのだが――俺が馬鹿だから「正字正かな」と云ふtanzenの拘りが理解できないだけなのか。
福田氏が「正字正かな」とくつ附けて言ふ事に、tanzenはどうして拘るのか。拘らなくて良いのでないか。拘らなくていいのなら俺の勝ちだ。拘る必要が何うしてもあると言ふのなら、俺を説得して貰ひたい。俺を説得できれば、tanzenの勝ちだ。tanzenは頭が良いから、俺を説得できるだらう。面倒臭がらずにやつて貰ひたい。
われわれも簡易化そのものには反對しない。その實現のためには、應分の努力を惜しまぬものである。しかし、文字は言葉のためにあり、國字は國語のためにある。文字を易しくすることによつて、言葉の正しさを歪めてはならない。國字の簡易化はあくまで國字の正しさを守るためのものであり、その限度内にとゞまるべきものである。
この宣言書の方針は、多分全ての正字正かな派が承認するものですが、「露伴派」の松永さんは認められないのでせうか。正字正かな派が偏狹であるとの指摘がありますけれども、一體何處を何うとれば實際の正字正かな派の活動が偏狹であると言へるのでせうか。「正字正かな」と云ふ字面を見て、それで「正」と云ふ字は何うの斯うの、と昔の儒教の訓詁學者がやつたやうな講釋をしても、それは事實と懸離れた空論でしかないのではないでせうか。況してや、理念的に正字正かな派は現状に對して相當の譲歩或は敗北を覺悟の上で正字正かなの主張を續けてゐるのです。確かに「現代仮名遣」一色に染まつた現代の日本で、依然として「旧かな」に固執するのは偏狹と呼ばれても仕方がないでせう。しかし、松永さんの意見では、「旧かな」は偏狹でなく、「正かな」は偏狹だと言ふのです。松永さんの主張は、事實と名とを混同した誤つたものだと思ひます。
松永さんが教団を離れた理由はこれですか。麻原師は「絶対の存在」として君臨して居た。それに我慢ならなかったという事でしょうか。初めての投稿なので、記事の主旨を理解するために質問します。
ちなみに言葉は固定出来ないというのが歴史的かな遣い支持者の考え方です。一方、言葉は固定出来るというのが現代かな遣い支持者、または見掛け「正字正仮名論者」を名乗る懐古主義者の考え方です。固定化するにはどうしても政治力が要る。内閣告示などの他に「権威」、「なだめすかし」、「恫喝」、「宣伝」などを動員する必要があります。簡単に言えば商売の手法です。常にそういう手法を用いて居なければならない。何故か。何もしなければ言葉は変動するからです。
ただし歴史的経緯に基づいて少しづつ変えて行くのが正しい。この程度の意味で「正」と言って居る訣で、「絶対的な正しさ」を現実に実現しようとは思って居ない。そんな事は無理に決まって居る。これは宗教を知る松永さんなら理解して戴けると思う。おそらく麻原師のような「絶対者」が現実に居るために、通称正字正かな論者もそうだと思い込んでをられる。
問題は、自身を「絶対者」だと信じ込む人が麻原師以外にも大勢居る事。そういう人に限って一般には「絶対者ではない」と見せ掛ける。そうしなかった麻原師の方が多少増しなのですが、いづれにしても何故自身を「絶対者」だと信じ込むのか。この辺を考える必要があると思います。
松永氏は、「正」と云ふ文字に拘つてゐるし「正しい」と主張するからと言つて「正字正かな派」を憎んだ。さう云ふ文脈から言つて、tanzenのコメントは、福田氏が「正しい」と云ふ主張を「殊さら押出さなかつた」と云ふ主旨のものと解釋するのが當然だ。
それに對して、俺が、いや、福田氏は「正字」と言ひ「正かなづかひ」と言つて、正しさを強調してゐた、と指摘した。普通の解釋なら、tanzenの主張はこれで完全に論破された事になる。
ところが、tanzenは、さうではない、觀念として「正しさ」を言つた、とか、さう云ふ事ではない、飽くまで「正字正かな」と云ふ言葉を使つたか何うかが問題なのだ、と、後だしじゃんけんの後出しのやうなやり方で、「本當に言ひたかつた事」を言出した。
しかし、「正字正かな」と云ふ言葉を使つたか何うかを問題にする事は何の意味もない。もしさう云ふ言葉遣ひを問題にしなければならないのなら、tanzenの人を見下した樣な物の言ひ方は十分、tanzenと云ふ人間の惡辣さを證明してゐるし、さう云ふ人間の惡辣さが證明されれば、tanzenが「正字正かな派は偏狹」なる主張をして、「正字正かな派の人間の惡辣さ」を避難する資格がない事は證明される。
となると、訣がわからないのは、何の爲にtanzenが「正字正かな」と福田恆存が言つたか否か、を問題にしてゐるのか、と云ふ事だ。此れは今に至るまでtanzenがはつきりしないから、はつきりとは判らない。恐らくは、言掛りを附けて俺を凹まさうとしたのだらう。「釣り」だ。俺は「釣り」に引掛つた訣だが、「釣り」にひつかかるよりは、ひつかける方が惡質だと云ふ事はウェブでは良く知られてゐる(それがわからないから喜六郎もtanzenも、嬉しさうに「釣り」をやる。アンチには自分が惡い事をしてゐると云ふ自覺がない、氣狂ひに氣狂ひの自覺がないのと同じ)。何れにせよ、tanzenが喜六郎と連繋してゐて、俺をひつかけた顛末を宣傳して、俺を侮辱して樂しまうとしてゐる事實は明かになつた。
かうしたひつかけを狙つてゐるがゆゑに、tanzenは無理を強要して、相手が「できない」と泣き言を言ひ出すのを待つてゐる。一方の自分は、豫防線を張つて、「負け」ととられないやう、準備をしてゐる。これが卑怯なのだが、卑怯な人間は自分が卑怯だと思はない。天然だから卑劣極まる事を當り前のやうにやらかす。
福田氏が「正字正かな」と言つたか何うか、そんな事を調べさせようと言ふのは、人の時間を奪つて、ほくそ笑まうとtanzenが企んでゐるからだ。相手が眞面目だと思つて、tanzenは揶揄つて喜んでゐるのだ。これ程惡質な人間はゐない。
しかし、福田氏が1960年代以前に、「正字正かな」のやうな事を言つてゐなくても、當り前の話で――その頃、まだまだ歴史的かなづかひは生きてゐたのだ。時代が下がつて、「現代かなづかい」が「現代仮名遣」となり、「定着」「普及」が進んで、歴史的かなづかひの立場が從來のそれより遙かに低下した時、改めて立場を主張して、正しさを主張する事は、當然だ。
松永氏にしてもtanzenにしても、「正しい」と「言ふ」事それ自體を問題にし、それを論破されたからtanzenは「正字正かな」と「言つたか言はないか」と、税務署の人間のやうな意地の惡い事を言出したのだが、何れにしても、餘りにも間違ひである「現代仮名遣」の進出が進み、歴史的かなづかひは正しさを殊更に主張しなければならない状況が生じてしまつてゐる。
國語問題協議會でも、早くから「國語の正常化」を主張してゐる。さうした流れの中で、歴史的假名遣派が「正假名遣」と言ふやうになるのは當然の事だし、それは早い時期ではなく、寧ろ遲い時期の事である筈だ。
それに對して福田氏も當然の事ながら、時期を見て、正しさを強調する必要がある――らーめん屋や地方の名物の店等が、「元祖」とか「本家」とか稱するやうになるのは大抵、贋物が跳梁跋扈するやうになつてからの事だ――と判斷したから、後の時期になつて正かなづかひとか正統表記とか言ふやうになつた。それは自然な事だ。
それを知つてゐるからこそ、tanzenはわざと、理由を附けて、早い時期に言つた事例を出せ、と無理を言つてゐるのだ。昭和二十年代、まだまだ歴史的かなづかひが生きてゐる時代に、正かなづかひ等と言ふ必要がない。だから福田氏は言つてゐない。それだけの事だ。だから、俺が「1960年代以前」に福田氏が言つた事例を示さなくても、無理な要求をしてくるtanzenが惡いのは明かであり、無理な要求をして勝たうとした惡質さゆゑに、tanzenは敗北してゐると言つて良い。
福田恆存が『私の國語教室』で、斯う書いてゐる。
のみならず、私たちの學校教育を顧みても、かなづかひをやかましく言はれた記憶はほとんどなく、それに苦勞した憶えもない。書取といへば、漢字に決つてゐたのです。漢字が難しいからといふこともありましたが、それ以上に、漢字が本字だといふ觀念があり、かなはその「つなぎ」に過ぎないと考へてゐたからです。その證據に江戸期、明治期の小説を讀んでごらんなさい。漢字は正しく使はうとしてゐるくせに、かなづかひときては全く無關心であります。信用できるのは鴎外、露伴くらゐのものでした。
それに。
>「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
ウェブでは多分、俺が普及させたのだが――もしさうなら、それは罪だらうか。「そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。」とtanzenは言ふけれども――
1.「正字正かな」は果して本當に偏狹な言葉か。
2.「偏狹な言葉」が普及すると、「偏狹な言葉を信奉する人間も偏狹になる」のか。
3.偏狹であるのは何時如何なる場合のも例外なしに道徳的に惡いのか。或は「政治的」なのか。
これらの事をtanzenは絶對に論じられないと思ふ。論じたら、tanzenは自分の言つてゐる事が異常である事實に氣附いてしまふからだ。だからtanzenは間違ひなく逃げる。
そして、tanzenが敗走して、全てが「丸く納まつた」あと、喜六郎がログを「アーカイブス」に轉載して「野嵜は敗北した」と何の根據もなく宣傳する落ちが附く。何もしなかつた喜六郎が「ひとり勝ち」する事になる訣だ。
何もしないのが一番賢いと云ふ事か。さう云ふ嫌な「賢人」にだけはなりたくないものだ。しかし「賢人」に見えるのならば何んな手段をとつてもなるべきだと喜六郎は心から信じてゐる。
然るに、松永氏は何うだらうか。松永氏も、尤もらしい事を言つたら言ひつ放しで、反論は放置してしまひ、或はまともに再反論しない。それによつて、松永氏は批判をかはしてしまふ。さうやつて、喜六郎のやうに、自分の頭がよい事をアピールしようとしてゐるのでないか。
その爲に、「正統表記」とか「正字正かな」とかの「言葉」を、ひねくりまはし、「正字正かな派」を散々に侮辱して、「釣り」をやつたのでないか。
俺は少くとも、さう云ふ不眞面目な態度だけはとらないやうにしてゐる。今囘だつて、馬鹿だと言はれるであらう事をやつて見せてゐる。かうする事こそが誠實な應對だと思つたからだ。しかし、喜六郎なんかは、ただ「馬鹿な事をした」としか人のする事を見る事が出來ないだらう。さう云ふ人間だからだ。
ネット上での「正統表記」復権活動は、會津士魂氏のような真面目な人がやってたんだけど、後から野嵜○秀や木×貴、波△究一みたいな手合いが割り込んできて滅茶苦茶にされた感がありますね。
處で此處のコメント欄は既定の文字が小さすぎるのでは。
貴樣こそ俺を見下して快を貪る知的スノッブだらうが。何を言つてゐるんだよ。
俺がいつ「正字正かな」を「ツール」として他人を見下す爲に利用したつて言ふんだよ。
貴樣やtanzenこそ、俺を見下すのに「正字正かな」と云ふ言葉を利用してゐるだろ。俺は人を馬鹿にしてゐない。貴樣の方こそ俺を見下して馬鹿にしてゐるんだからな。
喜六郎は俺を馬鹿にして喜んでゐないのか。喜んでゐないと何うして言へるんだ。反論できないだろ。だから反論しない。
俺は弱いから良く吠える。それの何が惡いんだ。弱い人間を弱いと知つて打ち据ゑる喜六郎のやうな人間こそ惡人だろ。何で弱い人間と解つて叩く。「自分は強い人間だ」と思つてゐるからだろ。それは傲慢ではないのか。傲慢だからこそ喜六郎らは俺を馬鹿にして喜んでゐるんだらうが。
俺は正字正かなが大事だから正字正かなと言つて正字正かなの正しさを主張してゐる。喜六郎らはさう云ふ俺が氣狂ひだと言つて馬鹿にする。俺より喜六郎の方が惡人なのは明かぢやないか。何で喜六郎は自分が善人だと思へるんだ。反論しろよ。
喜六郎は俺を氣狂ひ呼ばはりしながら數年間粘着し續けてゐるんだ。俺が氣狂ひなら喜六郎は變質者だ。變質者だからこそ人の事を氣狂ひ呼ばはりできるんだ。「義」と同じだ。變質者。
>ネット上での「正統表記」復権活動は、會津士魂氏のような真面目な人がやってたんだけど、後から野嵜○秀や木×貴、波△究一みたいな手合いが割り込んできて滅茶苦茶にされた感がありますね。
何でこんな嘘を廣めようとするんだらう。嘘吐きの變質者だから喜六郎は正しい事を言はうとしてゐる俺の事が氣に入らないんだらう。
俺がいつ會津士魂氏の邪魔をしたんだよ。俺が何時割込んだんだよ。嘘を吐くのも大概にしろ。俺の發言を何時も妨碍してゐる貴樣の方こそ俺を目茶苦茶にしようとしてゐるだろ。なんで貴樣は自分が犯罪者の變質者だと自覺できないんだよ。匿名の假面を被つてゐるから何だつてできるとでも思つてゐるのか。
俺は會津士魂氏の邪魔をしようとした事は一度もない。會津士魂氏がサイトの更新をやめて、掲示板を放置した事實はある。そこで「義」が跳梁跋扈して俺を侮辱する發言を執拗に繰返した事實もある。喜六郎だつて知つてゐるだらう。しかし俺は會津士魂氏を責める積りもないし、先人だから今でも氏の存在を尊重してゐる。それを何だ。喜六郎は俺を怒らせて何が面白いんだ。俺は怒つてゐるんだ。そんな俺を見てアンチの連中は喜んでゐる。屑野郎どもが。
喜六郎のやうな人間が、會津士魂氏の足を引張り、俺の足を引張り、正字正かな派の活動を目茶苦茶にしたんだ。このコメント欄だつて、喜六郎の仲間のtanzenが目茶苦茶にしただろ。何で反省しないんだ。
そもそも連中は、「アンチ」である時點で價値觀がをかしいのですが、さう云ふ問題を全く氣にしないで、ひたすら「事實」「事實」と言つて俺に迫つて來る――事實の選擇をするのは價値判斷で、哲學ですが、その點で彼等は非常に意識が低い。
誰か三行でまとめてください
誰がなんと言おうと
正しい
あと、捨臺詞を言つて逃げようとしたのはtanzenだ。俺が反論しなかつたらそのまゝ逃げる積りだつた。何で先に逃げようとした人間を非難しないで、俺が「逃げた」事に「しようとする」んだ。何でそんなに俺を惡者にしたいんだ。
何で事實を正反對の意味に解釋しようとする人間が澤山ゐるんだらう。さう云ふ人間が大多數であるのが今の日本の問題で、だからそれを俺は指摘してゐるのだが――さうすると「大多數」だからこそ「正しい」、否、「正しい」ではなく「大多數」である事それ自體を理由に人の言ふ事を潰しにかかる。
俺に楯突く香具師は誰であろうと
許さない
「正字正かな」は偏狭
長文は荒らし
松永はオウム
匿名は人間の屑
でええやん
「正字正かな」は偏狭
長文は荒らし
松永はオウム
匿名は人間の屑
でええやん
まづhaikyo氏。何故三行で纏める必要があるんですか。長くて議論の全容が見えないと言ふのなら、適切な要約を求めれば良い。そもそも三行で纏めると言ふことがナンセンスで、殊長ければ長いほど短文で纏めることは不可能になるし、それを實行しようとすれば、自づから正確な要約は出來無くなり、出來た要約もただのレッテル張りか、さもなくば時系列に沿つた事實の羅列に過ぎなくなる。とすればhaikyo氏は何を求めてあのやうな投稿したのですか。ただ他人にレッテルを張つて戲れようとしたのか。それとも何か他に目的があるのか。
次に3行で氏。いつ野崎氏が自己の絶對無謬性を主張したんですか。それどころか多くの傍證を上げつつ論理を用ゐて反論してゐる(「福田恆存が『私の國語教室』で、斯う書いてゐる。」以下など)。さういふ議論に於いて正當な、反證可能性のある態度が何故「俺は正しいから俺の主張は正しい」と言ふことになるのか。それとも、何か主張したら、他人の反論に再反論したら、その再反論が長かつたら、或は議論における正しい方法を用ゐたら、直ちに自己の絶對無謬性の主張となるのか。
最後に匿名氏。何故「訂正」「正字正かな」といふ言葉が「どこか偏狭な感じの言葉」なのですか。自己の誤りを指摘され、或は自ら氣がついて、それを正しいものに改める。この態度のどこが偏つてゐて心狹い態度なのか。それどころか正しいと言ふことを認めないのなら、後は個々人の好みだけが殘り、結果各々が自分の好きなことしか受け入れないといふ大變偏狭な事態になりませんか。そもそも、「でええやん」といふ判斷、提案もその前の3行で氏の訂正を受けた、「良いか悪いか」の判斷を下す言葉であるから、この上で示した
「正字正かな」は偏狭
長文は荒らし
松永はオウム
匿名は人間の屑
もまた訂正ではありませんか。訂正といふ言葉が偏狭な感じならその行爲もまた偏狭ではありませんか。
また長文であることが何故荒しなのか。文章が長からうが短からうが議題にあはないことを言ふのが問題であつて、さういふことをする人間が荒しではないのですか。
いづれの三方も(殊に後の二者は完全に)ただレッテルを張つて戲れたいだけなのではないのですか。だとしたら餘りにも論者に對して失禮ではありませんか。さうならば謝罪の上で議論から御退席されるのが筋でせう。さうでないなら是非とも反論願ひます。私は長文を厭いませんから。
>むしろ野嵜さんは、野嵜さんに加勢した塗炭さんが書いた、松永さんへの嫌がらせをたしなめた方がよい。塗炭さんの論法を応用すれば、何でもかんでも蒸し返されたくない過去と結びつけることができてしまう。「**さんが**した理由はこれですか?」って、本当に訊ねたいならメールにすべきだよ、こんなの。
私ははっきり野嵜さんを擁護する積りで書いて居る。この点で道徳的にたしなめられる理由はない。それに、どうして私の書いた質問が”嫌がらせ”なんだよ。オウムだからか。私はわざわざ麻原「師」と書いた。仮に「絶対者」として君臨して居ても、それを変に誤魔化そうとしなかった彼は多少増しだとも書いた。問題は誤魔化そうとする人が大勢居る事だ。
徳保さんもそう。社会的な勝ち目のために「あなたの足を引っ張る悪人をたしなめよ」と言う。冗談じゃない。私は野嵜擁護のための事実や証拠なら何だって提出する。嫌がらせだのマナーだのを持ち出して「敵」を分断して何をしたいのか。松永擁護か。そういう事を隠して「中立」を装いつつ説教する人を偽善者という。
誰かを悪人に仕立て上げ「敵」の勢力を弱める。商売では当たり前に使われる手法だ。こういう事を議論の場でも平気でやる人が居る。現代仮名遣い支持者か、さもなければ政治主義者。徳保さんに限らない。喜六郎さんもだ。喜六郎さん、見て居るかい。
捨てハンの人達だって、野嵜氏という一塊の生きた人間らしい存在を見つけたからこそコメントする程の興味を持つ事が出来たんだ。そのくせ話が通じないと頭から決めてかかるのは、目の前の人が居ないかのように振舞って見せ付けているのと同じで明らかな虐めだ。火消しとか丸く収めようとかいうつもりでも、外野ぶっている時点で同類だ。放置するのも同類だとよく言われるし私もそう思う。多分まともなら虐めを止めようとする前に虐めの悪さを論証する必要性など感じないだろう。
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字
(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて
疑わない人たちの呼称。
★ノズラーの性質★
「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教する
が、語り口が傲慢なので皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やす
という事態に陥っている。
また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、こ
れを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、保守を名乗りながら「正字正
仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしてい
る。
はいはい、使ひ古されたコピペ乙。それにしても、まさかこのためにidを取ったなんて異常なことはしてませんよね。日記は全く書いてないみたいだけど、だからってまさか……。
Taeko_fukudaさんはそんなこと無いだらうけど、この手のコピペを嬉々として書く奴のことを思ふとゾッとしますね。
喜六郎らはいかにも松永さんの意見に同意してゐるやうに見せていますが、本當は「正字正かな」だのはどうでもいいことで、野嵜さんを揶揄するネタにしてゐるにすぎません。つまりは松永さんは惡口の「片棒」を擔がさせられてゐるのです。
松永さんはこのような連中に「反正字正かな」の仲間ヅラされてゐてもいいのでせうか。
>アーカイブスに追加希望。
つまり野嵜さんは「勝つた」ことを記録しておきたいほどの「大物」だつてことだ。
「さいごまではつげんしたもののかちだ」だと。巫山戲るな。そんなレベルの意識で發言してる譯ぢやないんだよ。正字正假名を用ゐ、その正統性・正當性を主張するのは、論戰に勝つて自分を大きく見せたり、御仲間を増やしてつるみたいからぢやない。正しい事を正しいとしたい、正しくない事を正しくないとしたいからだ。それを政治主義者みたいにいひやがつて。
その下のtaeko_fukudaも同じだ。こんな失禮なコピペを平然と貼り付ける神經を持ち主を思ふと全くtwoinekoさんの言ふ通りゾッとする。大體勝手にでつち上げた公理に基づかない定義を以つて人を論はうとするのはその人に對する甚だしい侮辱だ。その定義を公然と頒布する輩も同罪だ。
喜六郎にしても、tanzenにしても、前に批判した二人にしても今囘の二人にしても、論爭に關係のない雜菌のやうな言葉を觸れ囘つて眞面目な人間を不快にさせるゴキブリ野郎どもだ。
(1)「現代かなづかい」にあれだけ反対した福田恆存は「歴史的仮名遣い」という言葉を使い、「正字正かな」などという言葉をほとんど使っておりません。
(2)「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
このうち野崎が(2)だけに文句をつけてきたのなら最初から相手にするつもりはなかった。いわば価値判断の問題であり野崎のようなやつを説得しようとも思っていない。
ところが野崎は無謀にも(1)にも異論を唱え、
>そもそも福田恆存が「正字正かな」と云ふ言葉をほとんど使つてゐない、と指摘して、何か意味があるんですか。「ほとんど」使つてゐない、と云ふ事は、時々使つてゐる、と云ふ事です。福田氏は使つてゐるんです。
と主張した。これは事実として争えるテーマだ。だから私はその事例を挙げろと主張した。ところが野崎は福田氏が「正字正かな」という言葉を使った事例を(1960年以前以後を問わず)たった一件も挙げることができなかった。以上。
>あれが野嵜擁護になると本当に思うのですが
日本語としてをかしいのですが。というか徳保さんは自分の価値判断で”本当に”と言って居るに過ぎない。それなのに「野嵜さんの立場」と自称するからをかしい。誤魔化して居る事に気付いて居ないだろう。
抑もこのブログのコメント欄は松永氏の記事に對する意見を述べる場だ(成程私のコメントは松永氏の記事には直接關係ないが、全く關係のないコメントを投稿するのを止めさせ、意見を述べる場を守るための投稿であるから松永氏の記事に對して間接的に關係がある)。
その松永氏は記事の中で何と言つて居るか。
「「正」という言葉は、必然的に「邪」(善悪)または「誤」(正誤)との対照で使われるものである。いずれにしても、「正しからざる漢字・かな遣い」が存在し、それを排除したいという表現である。一方、「旧字旧かな」であれば過去の一ヴァリアントとしての表記法という意味になる。わたしは旧字旧かなを使うこと自体を否定はしないし、プライベートでは旧字旧かなを読んだり書いたりするのも好きである。」
「わたしにとって「正」という基準は存在せず、ただ過去の表記もヴァリアントとして尊重したいと思う。」
つまり正といふ基準を凡ゆる漢字・假名遣に對して立てず、全てをヴァリアントとして認めると言つて居る。そこでtanzenは松永氏の記事を受けた一番最初のコメントで、
「ご参考までに申し上げますが、「現代かなづかい」にあれだけ反対した福田恆存は「歴史的仮名遣い」という言葉を使い、「正字正かな」などという言葉をほとんど使っておりません。」
といつた。當然このコメントは先の松永氏の記事を受けた物だから、その内容は、「蘄田氏も復た「正字正假名」といふ言葉を殆ど使はないことで、正といふ基準を立てずに、「現代かなづかい」も歴史的假名遣もヴァリアントとして認める立場であつた」といふ物だ。正字正假名といふ言葉を使つて居るか居ないか、或いは殆ど使つて居ないかと言ふことは全く關係ない。然うでなければ「「歴史的假名遣」といふ語を用ゐた意味がない。其故野嵜さんは、蘄田氏が所謂「舊漢字舊假名」こそ正しい國語の表記であると主張し、「現代かなづかい」と歴史的假名遣をヴァリアントとして認めるといふ立場とはほど遠い立場であつた事を示すために、「正統表記」と云ふ用語を昭和六十二年の福田恆存全集第四卷の覺書の末尾ではつきり使つた例を示し反論したのだ。元より蘄田氏が正字正假名といふ語を幾ど使つて居ないことの何が正字正假名の正しさと關係があるのか。正邪善惡の觀念は屬人的なのか。「幾ど使つて居ない」にしてもさうだ。單なる度合ぢやねえか。何處が「事實として争えるテーマ」なのか。どれだけの度合なら「殆どない」で、どれだけの度合なら「屢々」でどれだけの度合なら「頻繁に」なのか。論者の主觀次第ぢやねえか。假にその度合を提示しても、其が公理公論に基づくものたり得るのか。何%から何%までが「殆どない」で、何%から何%までが「屢々」と言へる樣になるのか。その主觀次第の領域に隱れることで手前は野嵜さんを愚弄して居るのだ。それとも蘄田氏が幾ど使つて居ないことを以て正字正假名の正しさを主張する人間を愚弄したかつたのか。「お前ら信者は?祖樣のご意向に背いて居る」とでも言ひたかつたのか。それにだ、
2つばかりの用例をあげることが何で「正字正かな」などという言葉をほとんど使っていない、という記述の反証になるんだ?
と言ふことは此處でお前は「正字正假名」といふ言葉の用例として野嵜さんが擧げた
「新潮社版の「私の國語教室」を讀んで以來、手紙、その他を現行の假名遣から正假名遣に更へたといふ人が隨分ゐる。」の正假名と
「かうして幾多の先學の血の滲むやうな努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、……、慌ただしく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。」
の正統表記を正字正假名の用例として認めて居ることになる。(若しこの時點で正字正假名と言ふ用例のみしか認めて居ないなら、「用例として妥當ではない」といふ反論が於是出來る)其故お前の「正字正假名」と言ふ用例のみしか許容しないといふ態度は後知惠だ。論爭において指摘された問題を改めて再度論爭するのとは明確に區別される論爭における虚僞だ。tanzenよ、お前は卑怯者の詐欺師だ。
(1)ご参考までに申し上げますが、「現代かなづかい」にあれだけ反対した福田恆存は「歴史的仮名遣い」という言葉を使い、「正字正かな」などという言葉をほとんど使っておりません。
そもそもこの指摘は何? 正かな派の「御本尊」の用語を持ち出して恫喝したわけだよな。「御本尊は偏狭ではなかったのだぞ」と偉さうに。さういふ意味でないとしたらいったいどんな「ご参考」になるだらうか?????
で、(後年のことではあるが)福田氏は「正統表記」「正字」「正假名遣」といふ「偏狭な」(笑)用語を使ふやうになった、と指摘されたわけだ。
「正統表記」ならば偏狭ぢゃないんだ、といふtanzenの屁理屈反論マダ〜? もしかしてちゃんと書いてあるのに見逃したかな。
それで、tanzenは後出しジャンケン的に「1960年」云々のマイルールを言ひ出したわけだ。自分の「意図」を、福田氏は「偏狭ではなかったぞ」から「「正字正かな」と言はなかったぞ」にすり替へもした。
以上、簡単なまとめ。
屁理窟だとこの糞野郎。何遍言や分んだコラ。
良いか。耳の穴かつぽじつて、否、目の玉ひんむいて俺の文章をよく讀んで見ろ。松永氏は記事の中で「正といふ基準を凡ゆる漢字・假名遣に對して立てず、全てをヴァリアントとして認める」事を主張した。それに對して手前は「福田氏も復た「正字正假名」といふ言葉を殆ど使はないことで、正といふ基準を立てずに、「現代かなづかい」も歴史的假名遣もヴァリアントとして認める立場であつた」と言ふことをその直下のコメント欄で主張した。これに對して野嵜さんは、「福田氏が所謂「舊漢字舊假名」こそ正しい國語の表記であると主張し、「現代かなづかい」と歴史的假名遣をヴァリアントとして認めるといふ立場とはほど遠い立場であつた事」を「「正統表記」と云ふ用語を昭和六十二年の福田恆存全集第四卷の覺書の末尾ではつきり使つ」た例を示し反論したのだ。この話の流れを指し示すために俺は松永氏の文章を、それに對する手前のコメントを、野嵜さんの手前のコメントに對する反論を提示し、手前の文章の意圖及其が論破されたことを論證したのだ。さらにその後手前が論爭の議題を松永氏の記事と何の關係もないものにすり替へたことを
2つばかりの用例をあげることが何で「正字正かな」などという言葉をほとんど使っていない、という記述の反証になるんだ?
といふコメントを提示し、このコメントにおいて「用例として妥當ではない」といふ反論が出來なかつた、則ち正字正假名の用例として認めて居たことを以て論證したのだ。其をなんだこの糞野郎。屁理窟と吐かしやがつた。論戰の流れを説明するのに文章を例示しながらその内容を、論者の意圖を、そして論爭に於る論者の虚僞を論證することの何處が屁理窟だ。それにだ、
正字正かなの用例はマダ〜?
だと。何で詐欺師の詐欺に付合ふ必要があるんだ。えぇ?論爭の正邪とも論爭の筋とも關係ない物を提示する必要なんかねえんだよ。野嵜さんがやつてをられるのはサービスみたいなもんだ。それに付け上がりやがつてこの糞ゴキブリが。論爭の方法も知らない害蟲が論爭なんかすんぢやねえよ。人間樣の世界に入つてくんぢやねえよ。すつ込んでろ。
twoinekoさんへ
>既視感があるのだけど、喜六郎の(オンボロの)小屋に以前そんな投稿がありませんでしたかね
まあ在つて當然でせう。こんなこと言ふと文章の讀方も論爭の方法も知らないtanzen邊りから「ならお前はチンピラだ」とか言葉の表面的な意味しかとらないイチヤモンが返つて來さうですが、似た樣な思考の持主が似た樣な發言をするのは、其の人の自由意志に基づく発言は其の人の思考の範圍外には出ない事からもあり得ることだと思ひます。喜六觔やtanzenは論外として、此處の主人の松永氏も相對主義の範圍外に出て假名遣を論ずる事がなく、其故に絶對主義の弊に陷つて居ます。
正字正かなで書いてあれば現代語でも昔の人は「日本語だ」と言ふんでないのか。
tanzenの言動で明かになつた事實――「アンチ正字正かなの人間こそが偏狹で陰險で陰濕である。だからこそ彼らは正字正かな派の人間を侮辱して好い氣になつてゐられるのである。」云々。
喜六郎も協力して、喜六郎自身も含めてアンチと云ふ人種が陰濕で陰險かつ偏狹である事實を世間に廣めて呉れてゐるから、俺としては助かる。
などと書いていたくせに、福田氏の著作の中からたった一件の用例さえも挙げられないやつがよくも恥ずかしげもなくふたたび登場できたもんだな。
tanzenの目的は人格攻撃だつたんだよ。
>「正字正かな」などというどこか偏狭な感じの言葉を普及させたのが誰かは知りませんが、そういう言葉の普及とともに信奉する連中も偏狭になってきたのでしょう。
tanzenはこの文章を二囘も書いた。これは明かに人格攻撃だ。これの何處が「論理の矛盾を衝く事」なんだ。證明できないだらう。
だから話を逸らして「福田氏は正字正かなと言はなかつた」と云ふ話をしてごまかした。tanzenは、「偏狹」と言つた事實を隠蔽し、「惡いのは正字正かな派」と云ふ印象を周圍に與へるだけの爲に、「正字正かなと言つた證據を出せ」と言ひ續けた。これがtanzen自身が偏狹である事實を證明してゐる。
ところが、本來の話の主題である「偏狹」と云ふtanzenの人格攻撃に話が戻ると困る。だからtanzenは意地になつて「野嵜は馬鹿」と言ひ續けてゐる。しかし。
>よくも恥しげもなく
これは、「論理の矛盾」と關係ない。ただただ俺個人の人格を攻撃してゐるだけのものだ。
tanzenは卑怯者だ。卑怯者だからこそ、自分を守る爲に他人を「卑怯者と云ふ事」にしなければ困る。それで執拗に「福田氏は」「福田氏は」と言ひ續ける。それがtanzen自身こそが偏狹である事實を證明し續けてゐる事に氣附けない。
實際、福田氏は「正字」「正かなづかひ」と言つたんだよ。正字正かな派かと聞かれればさうだと答へたに違ひない。正字と云ひ正かなと言つた人が正字正かな派では無いなどと言ふ訣がない。そもそもtanzenのやうな卑怯者の身方をする筈がない。福田氏は根性の曲がつたtanzenのやうな人間をこそ憎んだ筈だ。tanzenは俺を嘲るだけの目的で福田氏を利用し、福田氏を歪曲した。これが一番許せない。
大體「ほとんど」と言つたのはtanzenなんだぜ。tanzenこそ、「絶對に使つてゐない」と「知つてゐた」のなら、なぜ「ほとんど」と言つたんだ。「ほとんど」と言つたtanzenこそ福田氏が「正字正かな」と言つた證據を示す義務がある。その義務をこつちに押附けて、自分一人が樂をして、tanzenは氣樂に正字正かな派を――他人を愚弄して、好い氣にならうとしてゐるんだ。福田氏はさう云ふ氣樂に他人を叩き、遊びで假名遣を弄ぶやうな人間をこそ憎んだ。福田氏は眞面目な人だつた。tanzenはふざけた人間だ。福田氏が正字正かなと云ふ言葉を肯定したに違ひない事は斷言出來る。
何うして斯う云ふ解釋を「しなければならない」のか。tanzenは何うして其處で偏狹な態度に出なければならないのか。
tanzenに訊ねるが、「偏狹である」事は、良い事なのか、惡い事なのか。惡い事なら、何うしてtanzenは自分自身が偏狹な態度をとるのか。良い事なら、何うしてtanzenは正字正かな派を偏狹だと言つて非難したのか。
論理矛盾。
tanzenは「正字正かな」と云ふ「言葉に拘つた」が、事實を論じたやうで、實は「正字正かな派の野嵜個人を貶める目的」でした事だから、人格攻撃だ。tanzenは「福田氏が正字正かなと言はなかつた」事を證明して、それでどのやうな理想を實現したいんだ。どのやうな理念を表現したいんだ。
>よくも恥ずかしげもなくふたたび登場できたもんだな
>(笑)
このやうな他人を馬鹿にするだけの文言を書込んだ時點で、tanzenの目的が人格攻撃なのはバレバレなんだよ。tanzenの目的は、俺個人を馬鹿にする事だらう。だから喜六郎と連係してゐるんだ。喜六郎の目的も、俺個人を馬鹿にするだけの事だからな。俺を馬鹿にして喜んでゐるだけだらう。
そして、松永氏もさうだが、正字正かな派を馬鹿にする連中は全員、ふざけて馬鹿にしてゐるのであり、馬鹿にする事で「俺は頭がいいんだ」と「確認」し、自分の偉さを誇示しようとしてゐる。tanzenの根性は明かに曲つてゐるが、tanzen以外のアンチ正字正かな派の人間も――喜六郎のやうなアンチ野嵜と同樣――根性が曲つてゐる。彼らは、自分は頭がよく偉いのだ、と言ひたいが爲に、自分に屈して呉れる犧牲者を求めてをり、そこで自分が如何にも偉く見えるやうに、立派な理想を語つてゐる人間をやつつけようと考へる――今囘はその犠牲者が俺であり正字正かな派であつた訣だ。
事實としてtanzenは他人を嘲つて好い氣になつてをり、彼の目的が俺や正字正かな派を嘲つて好い氣になるだけのものであつた事は明かだ。
>本書の假名遣が正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)に據つてゐる事について、讀者の中には反撥を懐く人もあらうかと思ふので、一言、辯じておく。正假名遣ひと現代假名遣ひ(占領假名遣ひ)とは、大雜把に言つて前者は語義、語法に從ふ事を原則とし、後者は現代の發音に從ふ事を原則とする。勿論、正假名の場合も少くとも奈良、平安時代までは當時の發音に隨つてゐたのであり、……。
ここの「やまとうた」とやらの仮名遣いはめちやくちやですね。「かほり」とか「つゐに」とか、非道く間違つてゐます。野嵜さん、かういふ輩を放置してよいのでせうか?