昨年12月初めの日曜日、私は鎌倉近くの山林と畑に竹薮がまだ残っているような所で、薪割りと粗朶づくりの講習会の講師を務めた。この会は、整体協会身体教育研究所の所長である野口裕之先生が「男の動法(身体運用法)は刃物を使うことで育つ」と話をされた事から、野口裕之先生の門下生であり、また刃物を扱って、以前からそうした仕事も行なってきた山田修氏が講師となって、関心のある人たちを対象に講習会を開いていたのである。その何回かあった講習会のうちの一回に私がゲストとして招かれて、山田氏と共に講習を行なった。
薪割りや粗朶(そだ※)で焚きつけを作るなどという事は、一昔前は山林や農村で生活する者にとっては、ごく当たり前の生活技術の一つで、わざわざ教えたり教わったりするようなものではなく、皆自然に習いおぼえたものである。しかし、電気とガスが普及し、日常のなかで薪や粗朶を燃料に使うという機会が皆無に近い状態になった今日、ほとんどの現代人がこうした技術を持ってはいない。
これは時代の流れからいって仕方のない事であるが、もし突然大地震に襲われ、電気もガスも止まって、日常の生活に木材等しか燃料として利用出来るものがないような事態になった場合、そうした燃料づくりに疎いと、ただでさえ大変な生活が一層手間取ってしまう。そうした事に備える意味もあり、また「仕事が出来る体」を作っておく、という意味からも、手頃な刃物を使って生活に必要な燃料を作るという事は大事なことのように思う。
現に今から17年前、阪神淡路大震災が起きて約一ヶ月後、私は災害救援ボランティアのカリスマ的存在として知られていた山田和尚氏の依頼で神戸に行き、震災後、避難生活を強いられている方々の為のボランティア活動を行なった。行ってみて、まるで現実とは思えないほどの震災の光景に驚いた。まるで巨大な怪獣に踏み潰されたようにして倒壊している家。二階が潰れているのに、まるで何事もなかったかのように、それより上の階がその上に乗っているビル。大震災を前にした人間の無力さをつくづく感じた。
そこで私が誰よりも一番役に立てたのは、被災者用の炊き出し用の薪づくりであった。とにかく倒壊した家屋だらけなので、薪の材料は山ほどあるのだが、これを実際に薪に割る作り手が殆どいないのである。高校生のボランティアはかなりいて、みな、人の役に立つことに生きている意味を見出したかのように生き生きとして目が輝いていたが、志はあっても今まで一度もやった事のない薪づくりは、まるではかがいかない。そこで、三十分ほど私が割って、横でやっていた二人の高校生が作った薪の量を比べてみたところ、ざっと見ても私の方が十倍くらいは割っていた。その時の呆然としたような高校生の顔を今でも覚えている。
この神戸のボランティア活動の時も、そうした薪割りのような単純労働も、それなりの技術があり、こうした事を若い人が受け継いでいくことの重要さに気づかせられたが、あの時から十五年以上経って、現代はますます刃物の扱いに疎い人間が増えていると思う。これは最近の刃物による犯罪増加のため、社会全体がまるで刃物そのものを持ってはいけないもののように危険視しているせいもあると思う。
しかし、よく言われることだが、人間が山の中で一人で生きていかなければならなくなった時、最も必要な道具とは何かといえばナイフや鉈のような刃物なのである。つまり、人が他の動物と異なる最も基礎となる道具が、これら刃物なのである。また、現代生活であっても、何か事故があった時、丈夫なロープや綱が体に絡まったり、出口を塞いでいた時、鋭い刃物があれば、そこからすぐに脱出できるが、そうしたものが手近にないと助かる筈の命も助からなくなってしまう。
最近は僅か数センチのナイフであっても、よほどハッキリした目的がないと、携行は法に触れることがあるようだ。しかし、このように刃物離れを促進して役立たずの人間が大量に増えても、国はそれでよしとしているのか大変疑問である。
| 主に切断用の鉈と斧。 薪割り専用の斧はまた別にある。 |
とにかく薪割り、粗朶づくりの講習会を行なってみて、たとえば鉈で枝をドンドン切ってゆくというだけの事でも、それをまるで初めての人に伝えていくというのは、いかに多くの注意点と手順があるのかという事を今更のように知り、こうした作業を現代人が経験しなくなった事で、仕事の段取りや知らず知らずのうちに育っていく筈の気づかいや、日常の中での工夫が失われていったかを実感した。
たとえば、台の上に枝を置いて、これを焚くのに適当な長さに切ってゆく場合、まず台がグラグラしないしっかりしたものである事、といって刃物で打ち込んで切るのだから、もちろん木の台であることが必要なのだが、何も知らない人は平気で石やコンクリートを台にしようとする。そんな事をしようものなら鉈の刃はたちまちボロボロに欠けてしまうが、経験のない人は全くそういう感覚がないようである。
とにかく木のしっかりした台を選んだら、次に鉈で切るべき枝をその台の上に置くのだが、この際、その枝の曲がり具合などを観察し、(右利きの場合)枝を持った左手を多少上げたり下げたりしながら、まさに鉈を入れるべき箇所が下の台に一番ピタリと当たるようにする。それから右手に持った鉈を、顔の左側の辺りに上げて、その枝に向って斜め下に振り落としてゆく、この場合、しゃがむか片膝を着いている体の右半身をズラし落とすようにすると、単に鉈をハンマーを振り下ろすように使うよりも遥かによく切ることが出来る。よく出来た鉈で研ぎも十分であれば、一握りくらいある生木の枝なら一撃で切ることも出来るだろう。この時、鉈を右前方に振り上げて手前に斜めに落とすようにして切る方法もあり、私自身はむしろこちらを用いることが多いが、この方法は鉈がハネて右手を襲う危険があるので初心者には勧められない。現に私も今までに二度、これで左手の人さし指を骨まで切りこんでしまった。
このように刃物は危険であるが、危険なものを使いこなすという感覚が育たなければ、何かあった時の対応力も育ちようがない。「剣は決断の器」と武術では言うが、危険な刃物を上手に使いこなし、人が生活してゆくという手ごたえを感じることは、人間を教育する上でも欠かせない大事なことのように思う。教育関係者にそうした事の大切さに気づく人が現れることを切に祈りたい。
※・・・直径数cm程度の細い木の枝を集めて束状にした資材のこと。