「弾圧に抵抗した革命家」というのがその理由だが、身内の弾圧と左派運動の弾圧に走った、というのが実態。
これじゃあ、昭和天皇による御聖断によって大東亜戦争が終結されたと信じる人々と変わらない。
日共を陰で操っている不破は、手放しでミヤケンを称えている。
この七月十八日、宮本顕治さんが亡くなりました。宮本さんは一九三一年、党創立九年目という年に入党し、三三年、戦前の党の最も困難な時期に指導部に加わりました。この時期に、専制権力がとったのは弾圧にとどまらず、スパイの手で党に社会的犯罪を押しつけ、戦争反対の党、国民主権の民主主義の党を犯罪者集団にしたてあげる、そういう陰謀でした。
一九三三年に逮捕された宮本さんも、この陰謀の最大の標的になりました。三日前の党葬の席での弔辞でも述べましたが、宮本さんの法廷闘争は、侵略戦争と専制政治に反対する平和と民主主義の旗を守りぬくと同時に、この陰謀をくつがえして党の政治的名誉と道義的権威を守る闘争でもありました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-11/2007081225_01_0.html
ところが、ミヤケンとは査問での拷問を得意とするヤバイ男だったのである。
○浜田委員長 あのね、あなたの質問が終わる前に、ちょっとおかけください、恐縮ですが。第112回国会 予算委員会 1988年2月6日、衆院予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員に対し衆院予算委員長の浜田幸一が放った突然のメチャクチャな答弁であるが、ミヤケンが殺人者なのは事実である。
○正森委員 私は質問中です。これの切りのいいところで伺います。切りのいいところで伺います。
○浜田委員長 いいんですか、そうでないと後悔しますよ。それはどういうことかというと、昭和八年十二月二十四日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……
○正森委員 委員長、そんなこと言ってないじゃないか。何言うてんです。
○浜田委員長 針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね。
○正森委員 何を言っておるんだ。そんなこと、聞いておらないことを何を言っているんだ。(発言する者あり)
○浜田委員長 いいですか。それを言わぬとあなた方は……そのことだけは言っておかなければ、あなた方はそのことでごまかそうとしておる。
○正森委員 委員長は、私が質問しているのに対して関係ないことを何言うんだ。(発言する者あり)
○浜田委員長 異議があるなら言ってきなさい。それだけを明確にしておかなければなりません。
○正森委員 先ほど委員長の発言で……
○浜田委員長 質問を許します。
○正森委員 先ほど委員長の発言で、我が党の宮本議長に対し著しく事実に反する不当な発言がありました。宮本議長の事件は、侵略戦争反対を貫く日本共産党指導者であること自体を重罪とする治安維持法等違反に問われたものであります。
○浜田委員長 それはうそだ、刑事犯だ。
○正森委員 その戦前の判決でさえ殺人とは認定していないものであります。しかも、その治安維持法自体、戦後の民主化の中で廃止され、宮本議長は勅令七百三十号で刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとされ、判決自体がなかったものとされているのであります。ここに私は判決を持ってきております。勅令適用の文書もここにあります。このことは国会でもたびたび確認されていることであります。(発言する者あり)
○浜田委員長 懲罰動議にかけなさい。受けて立
ちます。
1933年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。その間に、警察が逮捕されたほかの人間の取調べから突き止めたアジトを捜索し、床下より小畑達夫の死体を発見した。検察は「1933年12月23日〜24日に東京 幡ヶ谷の隠れ家で、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔、木島隆明の4人と共に、大泉兼蔵と小畑の両中央委員をスパイ容疑で査問。大泉はスパイであることを自白したが、小畑は認めなかったため、その際暴行を加え、ついに小畑を死亡させた」というストーリーをつくり、治安維持法違反、殺人、不法監禁、死体遺棄などの罪で起訴した(共産党は、小畑の死因は「特異体質による内因性の急性ショック死」であり、査問時に暴力をふるったことはなく、事件はでっち上げと主張している。一方、同事件で共に有罪となった袴田里見は、共産党除名後の1978年に、週刊新潮誌上において宮本が小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。なお、大泉は公判でも自分がスパイであったことを証言し、それを理由に無罪を主張したが有罪とされた。小畑達夫はスパイではなかったことが後に判明している)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E9%A1%95%E6%B2%BB
(中略)
宮本の病気のため裁判の開始が遅れ、1940年に公判が始まり、1944年12月5日、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、不法監禁致死、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪とした(「スパイ査問事件」に関して裁判所の判断は「殺人」ではなく、「傷害致死」である)。1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。
ミヤケンは柔道が得意で、厳しいスパイ査問中も、しばしば柔道の技をかけていたらしい。党央委員の小畑達夫はミヤケンによる査問中に急死したのだ。
スパイの疑いをかけられた者は、手足を針金でしばられ、耳にメシツブを入れられ、拷問されていた。
自分たちが特高警察にされていた拷問を、身内の党員にも課していたのだ。