「チュチェの新世紀構想」の意味と展望

−自主性を実現するための朝鮮人民のたたかいと2012年−

韓東成(朝鮮大学校 政治経済学部 教授)

 2007年11月30日、平壌で開催された全国知識人大会では「金日成主席の生誕100周年を契機に強盛大国の大門を開こうという党の雄大な構想」(朝鮮労働党中央委員会祝賀文)が公にされた。2012年が主席生誕100周年にあたるが、1912年を元年とするチュチェ(主体)年号で2世紀目に入るという意味で、これを「チュチェの新世紀構想」と言うことができる。強盛大国の建設については、10年来ひきつづき主張されてきたが、今回の宣言は、@初めてタイムテーブルを示したという点で、A5年後の2012年に期限を定めたという点で、特別の意味をもつ。

 

1.強盛大国建設論の位置づけ

 「強盛大国」とは、「国力が強く、すべてが栄え、人民がうらやむものなく暮らす国」であり、それは「政治思想強国・軍事強国・プラス経済強国」とされている。「チュチェの新世紀構想」の歴史的意味を明らかにするために、まず、強盛大国建設論が、どのような脈絡のなかで、いかなる意図をもって提示されたのかを考察したい。

 

金日成主席の遺訓貫徹のためのビジョン

 強盛大国建設論は、二つの側面から位置付けることができる。第1は、それが金日成主席の遺訓貫徹のためのビジョンとして提示されたということである。

 金正日総書記は主席の逝去100日をむかえた1994年10月16日の朝鮮労働党中央委員会責任幹部との談話の中で「われわれは、主席の遺訓を守り祖国をより富強に建設しなければなりません。国をより富強にしてこそわれわれの社会主義をさらに輝かし、祖国統一偉業も促進することができます。」と述べている。主席逝去の年を送る12月31日にもこの意志があらためて表明され、1995年の元旦には、同じ内容からなる全人民への直筆の書簡が発表されている。

 もちろん当時は、強盛大国という概念は使われていない。しかし、総書記の発言には、のちに強盛大国建設と表現される思想がはっきりと示されていることを確認できる。主席の逝去後、その遺訓貫徹への総書記の意志表明とともに強盛大国建設論が提示されたと言えよう。すなわち遺訓貫徹イコール強盛大国建設ということである。

 

金正日時代の国家建設ビジョン

 第2に、強盛大国建設論は金正日時代の国家建設ビジョンとして提示されている。先の遺訓貫徹と表裏一体とも言えるが、「強盛大国」という概念自体が、主席の3回忌が過ぎ金正日総書記が党と国家の最高指導者に就任し、名実ともに金正日時代がスタートする過程で登場したことが、それを示している。

 まず、主席逝去3周年追悼行事の直後であり10月の党総書記推戴を前にした1997年7月22日に「強盛大国」という表現が初めて「労働新聞」の紙面に登場する。「偉大な党の指導のもとに社会主義建設で一大高揚を起こそう」と題する社説のなかで「チュチェ革命の新しい時代」が「金正日同志の指導のもとにチュチェ革命偉業遂行において決定的勝利が達成される時代、祖国の地にチュチェの強盛大国が建設され、統一朝鮮民族の威容と気概が高くとどろく歴史的時代」と規定されている。

 当時は公表されなかったが、翌年5月12日の光明星製塩所にたいする現地指導をつうじて、総書記自ら強盛大国建設構想を明らかにしたことが後に確認されている。

 また、総書記の国防委員会委員長推戴を前にした1998年8月22日の「労働新聞」には、「強盛大国」というタイトルの長文の政治論説が掲載され、強盛大国建設が「総書記が先代の国家首班の前に、祖国と民族の前に誓った愛国心の盟約であり、朝鮮を導いて21世紀を燦然と輝かせようする壮大な設計図」と位置付けられる。強盛大国建設論が金正日時代の国家建設ビジョンだということを示したものとして注目される。

 続いて、人工衛星「光明星1号」の発射と「金日成憲法」の制定、総書記の国防委員会委員長推戴によって、まさに新時代の幕開けを内外にアピールした共和国創建50周年の当日、「党の指導のもとに社会主義強盛大国を建設しよう」と題する「労働新聞」社説が発表される。



2.民族自主100年闘争史と2012年

 強盛大国建設論はこのように、主席の遺訓貫徹のためのビジョンとして、かつ金正日時代の国家建設ビジョンとして提示されたということができるが、これにそって「チュチェの新世紀構想−2012年構想」の歴史的意味についても二つの角度から考察したい。一つは、民族自主100年闘争史との関連での2012年の意味である。

 

世紀とともに追い求めてきた目標

 今日、強盛大国建設と表現される思想は、本来、金日成主席の生涯の志であり目標であったとされている。それは、大きく三つのかたちで提示されているが、第1は、「富強な自主独立国家の建設」という建国理念である。「祖国光復会創立宣言」と「十大綱領」(36.5.5)、「ピョンヤン市群集大会における凱旋演説」(45.10.14)、「朝鮮民主主義人民共和国政府の政治綱領」(48・9・8)などがそれを示す代表的な文献だ。抗日武装闘争から解放後の建国期には「富強な自主独立国家建設」が、今日の強盛大国建設のような一貫したスローガンであった。

 第2は、「人民大衆中心の朝鮮式社会主義建設」に関する路線と方針だ。「朝鮮革命の性格と課題に関するテーゼ」(55.5.4)、「朝鮮民主主義人民共和国十大政治綱領」(67.12.16)、「人民政権プラス三大革命」という社会主義建設の総路線などを通じて、搾取と抑圧がなく人民が主人となる新しい社会、主体性が確立された自主、自立、自衛の国家、すべての人々が衣食住に不自由なく仲むつまじく暮らす人民の楽園を建設するためのビジョンが提示されている。

 第3は、北の地での社会主義建設とともに、「全国的範囲での民族の自主性実現」のための構想だが、それが「祖国統一三大原則」(72.5.3)、「全民族大団結十大綱領」(93.4.6)、「高麗民主連邦共和国創立方案」(80.10.10)からなる祖国統一三大憲章である。

 主席の回顧録のタイトルが「世紀とともに」であるが、以上のようなビジョンには、受難の20世紀、自主性を蹂躙された朝鮮人民の自主と統一、平和と繁栄へのひたむきな指向と要求が反映されている。したがって主席の生涯の志と目標を実現するということは、すなわち20世紀が残した民族史的課題を解決するということを意味すると言えよう。

 

20世紀が残した民族史的課題の解決

 金正日総書記は主席の3回忌を目前に発表した論文のなかで「わが党はこれまでと同様にこれからもチュチェの原則、民族自主の原則を変わりなく堅持して、金日成同志が取り戻し築き上げたわが国、わが祖国をより富強にし、祖国統一を実現し、チュチェの社会主義偉業を完成していくであろう。」(『革命と建設において主体性と民族性を固守するために』、97.6.19)と述べているが、ここで示されたものは、みな20世紀の民族史的課題である。

 20世紀は朝鮮民族にとって「植民地半世紀・分断半世紀」として特徴付けられる受難の世紀であった。19世紀末から20世紀初に列強の角逐のすえ日本の植民地となり、第2次世界大戦後は植民地支配から解放されたにもかかわらず大国の利害関係によって民族の分断が強要され今日に至っている。

 ゆえに朝鮮民族の100年闘争史は、自主性を実現するためのたたかいの歴史であった。植民地時代は、抗日武装闘争を中心とする民族解放運動を展開し、解放後は、一方では社会主義建設を推進しながら、全民族的には祖国統一のための闘争をねばりづよく繰り広げてきた。世紀とともに脈々と続けられてきた朝鮮人民のたたかいは、世紀が替わった今日にいたっても実を結ぶことができず、したがって自主と統一、平和と繁栄は民族史的課題として残されている。

 強盛大国の大門を開くということは、このような20世紀の民族史的課題を解決することによって民族自主100年闘争史を総決算し、自主と統一、平和と繁栄の新世紀を開拓するという歴史的意味をもっている。

 

3.金正日時代の強盛大国建設事業と2012年

 次に「チュチェの新世紀構想−2012年構想」の意味を、この10年間推進されてきた金正日時代の強盛大国建設事業との関連で考察したい。強盛大国建設というスローガンが前面にうちだされ、それを実現するための事業が本格的に始まったのは1998年である。それから10年間の過程を大きく二つの時期に区分することができる。

 

強盛大国建設の活路を(1998−2002)

 1998年から2002年は、強盛大国建設の活路の開くための闘争期であった。この時期、強盛大国建設の「活路を開く」、「進撃路を開く」という表現がさかんに使われている。
 主席逝去後の「苦難の行軍」を経て、共和国創建50周年を迎えた1998年9月に、最高人民会議第十期第一次会議における「金日成憲法」の制定と金正日総書記の国防委員会委員長就任によって新しい国家指導体制がスタートする。

 翌1999年1月1日には、総書記が「今年を強盛大国建設の偉大な転換の年として輝かせよう」という談話を行い、同じ日に同じタイトルの主要3紙新年共同社説が発表される。

 一方、総書記は2000年から中国およびロシアとの関係強化へと自らのりだし、電撃的な両国訪問と首脳会談、中露の主要都市にたいする視察を行う。これは、かつてのような蜜月関係を復元するとともに、東北アジアにおける平和と安全、相互協力体制構築への足場作りであったと言えよう。

 もっとも身近な国際環境を整えたうえで次に進められたのが、統一にむけた北南関係の歴史的転換である。分断歴史上初めての2000年の北南首脳会談と6・15共同宣言は、民族の悲願である祖国統一への活路を開くとともに、核問題をめぐる朝鮮半島情勢の緊張のなかでも、北南間の交流と協力がたえまなく前進する土台となった。

 続いて、歴史的な懸案であるアメリカおよび日本との関係改善への動きが本格化する。趙明緑国防委員会第1副委員長とオルブライト国務長官の相互訪問と「朝米共同コミュニケ」の発表、「朝・日平壌宣言」にいたる朝・日間接触の始まりである。

 そして、このような環境整備を前提に2002年には、金日成主席の生誕90周年を民族の運命における歴史的転換をアピールするがごとく「アリラン祭」で記念し、満を持したように社会主義経済管理システムの改善と経済特区の相次ぐ設置等、社会主義原則を堅持しながら実利主義を前面におしだした一連の措置が講じられる。

 2003年の新年共同社説はこのような成果を反映し、2002年を「歴史的な勝利の年」として総括している。

 

強盛大国建設の転換的局面を(2002−2007)

 順調に進むかのように見えたこの流れの前に立ちはだかったのが、ブッシュ政権の対朝鮮強硬政策であった。「悪の枢軸」規定と「核先制攻撃も辞さず」との圧力、特に2002年秋の米国務次官補の訪朝後、ビジョン実現への動きは失速し停滞を余儀なくされる。「朝・日平壌宣言」後、内外の期待を裏切って朝・日関係の改善が頓挫したのも、これと密接に関連している。

 このような状況のもとで2003年以降、強盛大国建設の転換的局面をもたらすための闘争がくりひろげられることになる。

 国内的には2003年から科学技術発展5ヶ年計画と食糧増産5ヶ年計画がスタートし、2005年からは強盛大国建設のための「先軍革命総進軍」が始まる。

 一方、2006年には核試験とミサイル発射訓練を通じて核抑止力が確保される。これを契機にアメリカが直接対話の場に引き出され、6者会談も大きく進展することになる。地殻変動とも称される朝鮮半島情勢の好転を背景に、2007年には歴史的な北南首脳会談が実現し10.4宣言が発表される。

 抑止力によって経済建設に力を集中できる環境が整うなか、経済も上昇軌道に乗り、全面的な技術改造によって主体性と潜在力が強化され、ついに「経済強国建設における新しい飛躍の展望が開かれた」(2008年新年共同社説)と総括するにいたる。

 このような流れのなかで、2006年からは「強盛大国の黎明」という表現が、2007年の夏以降は「強盛大国の日の出」という表現が登場し、総書記の「歴史的決断」によって、ついに今年から「強盛大国の大門を開くための最後のたたかい」(労働新聞・政治論説、08.1.4)が始まることになる。

 1998年以降10年間の過程を整理すると、金正日総書記の党と国家の最高指導者への就任とともに提示された国家建設ビジョンとの関連での2012年の位置が浮き彫りになってくる。すなわち「チュチェの新世紀構想−2012年構想」は、強盛大国建設事業の遂行=金正日時代の国家建設ビジョンの実現という意味をもつということである。

 金正日時代の歴史的課題は、総書記自らが表明しているように主席の遺訓貫徹であり、それはとりもなおさず強盛大国の建設による民族自主100年闘争史の総決算と、自主と統一、平和と繁栄の新しい時代の開拓を意味すると言えよう。

 

4.「チュチェの新世紀構想」実現の展望

 最後に「チュチェの新世紀構想−2002年構想」実現の展望と関連して問題提起したい。

 

「強盛大国の大門を開く」

 まず、強盛大国の大門を開くことが何を意味するのか、2012年までに解決すべきことが何かということである。

 第1は、政治軍事的緊張により経済生活上の忍耐を強いられきた「北の地における経済強国の建設」である。「強盛大国建設の主要戦線は経済戦線」(2008年新年共同社説)とされているが、第1の目標が経済強国の建設であることは言うまでもない。

 参考に2005年に出版された「わが党の先軍時代経済思想解説」は経済強国の表徴として、@自立性と主体性が徹底的に保障された民族経済をもつ国、A人民経済のすべての部門が現代化・情報化された国、B人民がうらやむものなく暮らす国、C強力な軍事力によって国の安全が保障される国の4つを挙げている。朝鮮の経済学者は、人民生活に関して先進国の都市住民程度の生活水準を指標としているという。2012年までの具体的な目標については、4月の最高人民会議第11期第6次会議や、今年予定されている代議員選挙後に開かれるであろう第12期第1次会議で提示されるものと期待することができる。

 第2は、分断の長期化により民族的悲劇が続いてきた「北南の和解・協力・統一」である。すなわち6・15宣言と10・4宣言にしたがって低い段階の連邦制と連合制の共通性にもとづいた統一過程に入らなければならない。低い段階の連邦制・連合制へのロードマップと評価されている10・4宣言が履行されるならば、それは充分に実現可能である。

 第3は、歴史的に大国の利害関系衝突の焦点になってきた「朝鮮半島と東北アジアの平和と安全」である。ここには平和協定の締結、朝米および朝・日の関係正常化、そして「朝・日平壌宣言」をはじめとする一連の文献で言及され6者会談でも合意された朝鮮半島と東北アジアにおける平和と相互協力の体制構築が含まれる。

 付け加えるならば、この3つは互いを必要不可欠とする三位一体のものだ。たとえば第1の経済問題は、指摘したように政治軍事的緊張状態が継続してきたことに主な原因があるので、第2と第3の朝鮮半島の統一と平和への流れが前提となってこそ解決できるものだ。そしてこの3つが実現されてこそ、はじめて朝鮮民族は受難の100年闘争史に終止符を打ち、自主と統一、平和と繁栄の新しい時代を開拓することができる。

 

今年の課題と可能性

 次に、「2012年構想」を実現するための今年の課題と可能性、すなわち2008年に限定して、やらなければならないことと、できることのは何かということだ。

 第1は、経済強国建設のための攻勢の開始、「人民生活第一主義」の実質的具現である。経済発展5ヶ年計画がスタートするという観測もあるが、2012年までの中期計画にもとづいた目的意識的な事業が始まるであろう。その意味では、4月と9月に予定されている最高人民会議が注目される。また、「人民生活第一主義」のスローガンを具現して「共和国創建60周年を迎える今年を、人民生活向上において実質的な転換がもたらされる誇らしい年、喜びの年にする」(2008年共同社説)ための国家的措置が講じられるであろう。

 第2は、6.15宣言の継承と10.4宣言の履行のための政治的・制度的枠組みの構築である。新年共同社説は「主義主張と党利党略を離れて民族の大義を前に団結し、同胞の統一念願を実現するためにすべてを服従させる」ことを呼びかけているが、まず南の新政権との関係で、和解・協力・統一を指向するという政治的意志が改めて確認され、信頼が醸成されなければならない。また10.4宣言の産物であり民族統一機構の母体ともいえる北南間の各レベルの協力機構を、新政権とのあいだで新たに稼動させなければならない。前者が政治的枠組みならば、後者は制度的枠組みと言うことができる。

 第3は、朝鮮半島非核化の第2段階の完了と第3段階の開始、朝鮮戦争終戦宣言である。2008年のブッシュ政権任期中に、非核化と関係正常化、平和体制構築を同時に実現するのがアメリカの立場だとする米高官の発言もあったが、アメリカ側の責任によって6者会談合意の履行が遅れている条件の下では、けっして楽観視ばかりはできない。しかし、少なくても非核化の第2段階は、それほど遠くない時期に完了することができるであろう。すなわち同時行動原則にもとづいて朝鮮側が核施設の無能力化と核計画の申告を行い、アメリカ側が朝鮮をテロ支援国家リストと敵性国交易法の対象から除外することは、充分に達成可能だ。これに続いて朝鮮半島非核化の第3段階が6者会談で合意され、それを履行する過程に入ることができるならば、10.4宣言が高らかにうたった朝鮮戦争関連3者あるいは4者首脳が朝鮮半島で会談し終戦を宣言する歴史的な出来事が実現するであろう。

(社協ブックレット No.011)