登山とエキノコックス

  安心して登山を楽しみましょう・・・

 あなたは、「エキノコックス」という名前を聞いたことがありますか?
 北海道の方、あるいは登山をする方でしたら一度は聞いた名前だと思います。
でも、名前以上のこと、ご存知ですか?キタキツネは悪者でしょうか?

 ここでは、エキノコックスについて簡単にご紹介します。ちょろっと勉強してみましょう。


目  次

T エキノコックスとその生態

  1. エキノコックス(多包条虫)の一生

  2. エキノコックス症とは?

  3. エキノコックス症はどこから?

  4. 北海道ではいつ、どうやって広まった?

  5. 本州に生息域拡大?

  6. 「都市周辺」と「飼い犬」も危険?


    U 山で虫卵を摂取しないために

  1. 虫卵はどこにある?

  2. 虫卵の性質

  3. 山菜取りは要注意

  4. 沢水は飲んじゃだめ?

  5. 虫卵を摂らないための3か条プラス1

  6. エキノコックス検診について


V 情報源・役立つリンク集



T エキノコックスとその生態

  1. エキノコックス(多包条虫)の一生

 エキノコックスの和名は「多包条虫」、体長5mm以下のサナダムシの一種です。多包条虫です成虫(右写真)はキツネやイヌ(「終宿主」と呼びます)の小腸に寄生し、産卵します。終宿主の糞便に混じって出てきた虫卵が野ネズミ(「中間宿主」と呼びます)の口から体内に入ると、腸の中で孵化し、幼虫(多包虫)となって主に肝臓で増殖し、たくさんの袋状(「嚢胞(のうほう)性」)病変をつくります。発育した幼虫を宿す中間宿主を終宿主が捕食すると、幼虫は吸盤と鉤で小腸の粘膜に取りつき、成虫に育ちます。


 


  1. エキノコックス症とは?

 このように、中間宿主と終宿主という二つの宿主に寄生しながら、エキノコックスは生活しています。元来、このサイクルに私たち人間は含まれていません。ところが、偶然に虫卵が私たちの口の中に入った場合、肝臓に嚢胞性病変が形成されることがあります。これが「エキノコックス症」と呼ばれるものです。早期に治療されないと 多包虫症末期の肝臓肝臓癌のような病態(下写真)を示し、肺や脳にも転移巣を作る恐ろしい疾患です。発症後に見つかった場合は、手術で治療しますが、完全には回復しない場合がしばしばです。

 エキノコックスにとっては、人間は野ネズミと同じ中間宿主の位置にあります。ネズミとの違いは、以下の二点です。

  • 多包虫の成長が遅い⇒潜伏期間(肝臓の嚢胞病変が顕著になるまで)が平均15〜20年と長い⇒手遅れになることが多い

  • 多包虫の成長が悪い⇒成虫に育つために必要な原頭節がほとんど形成されない

 確認しておきますが、人間は虫卵からしか寄生されません。多包虫や多包条虫は人間に寄生しないのです。つまり、ヒトからヒトネズミからヒトブタ(ブタは中間宿主です)からヒト、に感染することはありません。

 また、虫卵を摂取した人が必ずしもエキノコックス症を発症する訳ではないらしい、ということが最近の研究からわかってきました。人によってエキノコックスに対する感受性(免疫反応)が異なっているため、嚢胞が形成されなかったり、発育が途中で止まって、治ってしまうこともあるようです。

 


  1. エキノコックス症はどこから?

 エキノコックスは日本では基本的に北海道にしかいない、とされています。(寄生虫学の分野では、「エキノコックス」は、多包条虫を含めて3種類なのですが、日本では他の2種は稀なのでここでは多包条虫の話に絞ります。)どうしてでしょう?

 エキノコックスは、ヨーロッパとアラスカには以前から分布していたようですが、もともと日本には生息していませんでした。19世紀後半、毛皮目的で飼われていたキツネの餌として、ロシアのカムチャツカにアラスカから野ネズミが持ち込まれたのがエキノコックス生息域拡大の始まりでした。その中に、多包虫に寄生されたネズミが混ざっていたのです。その後、そのネズミを捕食したキツネ、キツネから排出された虫卵を摂取したネズミへと、寄生サイクルが成立したのは言うまでもありません。当時、千島やカムチャツカのほとんどの島々に、毛皮目的の養狐場が作られていました。キツネだけでなく、好物の野ネズミも餌としてこれらの島の間で取引きされました。こうして、当時日本領の千島列島にも20世紀初めにはエキノコックスの生息域が広がりました。 礼文島北部

 


  1. 北海道ではいつ、どうやって広まった?

 エキノコックスが北海道までもう少し、というところまでやって(運ばれて)来ました。結果から言うと、北海道に持ち込んだのも、やはり人間でした。今は「花の浮島」とも呼ばれる礼文島に、大正末期に毛皮とネズミ駆除の目的で千島から移入されたキタキツネに、エキノコックスが寄生していたのです。活発・濃厚な寄生サイクルが成立した礼文島では、約130名の患者が発生しました。
 患者さんの性比は男性:女性=1.39:1ですが、小児や働き盛りの年齢ではこれ以上に男性に偏っています。小児では戸外で遊ぶ時間が、壮年期では屋外労働時間が長かったことと、キツネのマーキングの習性から、土や埃を介した感染が有力な経路と考えられています。(礼文島を含め)これまでの調査で川水や井戸水から虫卵が検出されたことはありません。(基本的には沢水を飲んでも大丈夫、という一つの根拠です。)北海道では、従来水系感染対策に重点が置かれてきましたが、エキノコックス症対策としての効果は疑問です。なお、現在の礼文島にはエキノコックスは生息していませんので、心配はありません。

  戦後、礼文島とは別の経路から、エキノコックスは根室地方に広がりました。こちらの経路については、「養狐場から逃げ出した寄生キツネが歯舞から流氷伝いにやってきた」とか、「根室で飼うために千島から持ち込んだキツネに寄生していた」、などの諸説がありますがはっきりしません。
 ただ、密猟者のキツネ狩りがエキノコックスをも根絶した礼文島と違って、こちらは北海道という大きな島です。まして、多包虫にとって最適な中間宿主であるエゾヤチネズミが、北海道には生息しています。(キツネの大好物でもあります。)寄生サイクルは容易に成立したと考えられます。キツネは秋の巣立ちに伴って数km(〜50km)移動します。この分散行動を通じて、エキノコックスは全道に広まっていったと考えられます。おら悪くねだ 

 

  1. 本州に生息域拡大?

 現在では、離島を除く北海道全域にエキノコックスが分布しています。数年前、青森県の食肉検査でブタの肝臓にエキノコックスが見つかり、「東北への生息域拡大か」と騒がれました。今までのところキツネヤタヌキなど、終宿主になり得る動物への寄生は確認されていません。ただ、養豚場の周囲に野生動物間の寄生サイクルが成立していない限り、ブタへの寄生は起こり得ません。「根釧地域限定」とされていた1980年代前半に、網走の東藻琴など各地のブタからエキノコックスが見つかり、その後全道への生息域拡大が確認された経緯もあります。伝播経路も同定されていない現時点では断言できませんが、終宿主調査の労力と限界を考慮すると、本州にエキノコックスが広まっている可能性は高いと思われます。

 

     
  1. 「都市周辺」と「飼い犬」も危険?

  キツネは環境適応能力が高く、都市周辺部など人里近くで暮らすキツネも多いようです。エキノコックス症は以前は地方の疾患とされてきましたが、最近は札幌在住者からも患者が出ていて、都市だから安心、という訳でもありません。また近年では、野ネズミを捕る飼い犬にも、エキノコックスの寄生が確認されています。イヌと飼主はとても近い関係にあるので、飼い犬に寄生している場合は、飼主が虫卵を摂取してしまう危険性が大きくなります。特に放し飼いのイヌは要注意です。現在、精度の高い糞便検査法が開発されつつありますので、定期的に検査を受けて、陽性が出たら駆虫薬(プラジカンテル)で虫下しした方が良いでしょう。 

 


U 山で虫卵を摂取しないために

  1. 虫卵はどこにある?

 山に直接関係のない話が長くなりました。ここからは、登山に的を絞っていきたいと思います。
 

まず知っておきたいのは、「どうしたら虫卵を摂取しやすそうか?」ということです。実は、人の口に入る経路ははっきり同定されていないのです。ここでは私たち自身の知恵が必要です。
私が卵だ!
 まず、虫卵(右写真)が高濃度で存在しそうな  

  •  場所

  •  時期

  • を推測すれば、ある程度のリスク(接触機会)回避にはなると思います。

     野ネズミとキツネの間で展開されている寄生サイクルが、一つのヒントになります。

    1.  4月下旬から6月: 仔ギツネが巣穴の周りで野ネズミを捕り始める時期。この時期の野ネズミは越冬個体ですが、一部は多包虫が寄生しています。ここで、仔ギツネへの寄生が起こります。キツネは、春の間は特に野ネズミへの依存が高いので、濃厚な寄生サイクルが成立します。

    2.  6月から9月: 野ネズミが当年個体に置き換わっていきます。キツネの巣穴の周囲では、キツネの糞に混じった虫卵を摂取する野ネズミに寄生が起こります。もちろん、捕食によってキツネへの寄生も繰り返されます。

    3.  10月以降: キツネのファミリーから仔ギツネが巣立っていきます。分散に伴って、エキノコックスが運ばれます。越冬する野ネズミの一部には、多包虫が寄生しています。

       エゾヤチネズミはササ原や湿地(「ヤチ」の名は「谷地」です)、防風林など、キツネにとっても営巣しやすい所に生息しています。上のサイクルからも、「エゾヤチネズミにとって住みやすい、キツネの巣穴周辺」は大変危険だということはおわかり頂けるでしょう。逆に、キツネを見かけてもエゾヤチネズミが住みそうにない所なら、心配しすぎる必要はありません。気候の厳しい高山には、エゾヤチネズミは住めないでしょうから、キツネが居たとしても虫卵密度は非常に薄いと思われます。また、虫卵はキツネの糞に混じって出てきますから、基本的には地面の上に存在すると考えていいでしょう。 
     


    1. 虫卵の性質

     ここで、参考までに、虫卵の性質を実験データから眺めてみましょう。

     この表は、気温と虫卵寿命の関係です。

    温度(℃) 4 10 15 20 25 30
    虫卵の寿命(日) 205〜269 90〜120 45〜60 24〜30 12〜15 6〜8

     一般には、下のような性質があります。

    • 高温には弱い。(100℃で1分以内、70℃では5分で死滅)

    • 乾燥には弱い。(21〜24℃、相対湿度6.2〜33.8% で7日間放置されたものに感染性なし)

    • 低温には強い。(-30℃で28日置いたものに感染性あり)

     


    1. 山菜取りは要注意

     以上を考え併せると、「比較的標高が低く、湿度が保たれるササ原や湿地の土」が一番要注意です。春の山菜取りが代表的です。最中はもちろん、帰ってからの生食は洗ったとしても危険です。また、北海道の夏山では、沢を辿って稜線に出る場合が多いです。特に標高の低い沢や湿地でのササ藪漕ぎには一定の注意が必要です。稜線に出たら手袋を換えるのもいいでしょう。逆に、日の当たる尾根や斜面上では、高温・乾燥という条件が重なりますので、感染性のある虫卵に接する機会は極めて少ないでしょう。

     


    1. 沢水は飲んじゃだめ? 流れていれば大丈夫

     よく、登山の本には「北海道の川の水は危ないから飲むな」と書いてあります。用心に越したことはないのでしょうが、礼文島の例から考えても、溜まり水は別として、水量のある沢水の危険性は非常に小さいと思います。標高の高いカールの融雪水も、基本的には飲めると思います。危ないのは、地面が泥で、ササ薮からちょろちょろ出ている流れの水。

     もちろん、沢水には他の微生物(大腸菌など)も含まる可能性がありますので、危なそうな水源を使う場合やし尿汚染の可能性がある場合は、ろ過器を通すか、5分程度煮沸するのが安心です。虫卵の直径は30μm・細菌の直径は小さくても1μmなので、ろ過器のフィルターの穴がそれ以下なら大丈夫です。因みに、日本製のスーパーデリオスのフィルターは0.1μmですからよさそうですね。MSRもセラミックフィルターの立派なやつを作っています。長持ちしそうですが高いのが難点。また、コーヒー飲みの方でしたら、紙フィルター(ポアサイズ1μm程度)を通せば目に見える土壌粒子も併せて除去できます。


    1. 虫卵を摂らないための3か条プラス1

  •  第一条 山に行かないこと。これなら絶対です。

  •  第二条 軍手・手袋をこまめに換える。休憩中は外す。(汗を拭ったり、水を飲んだ
            り、行動食を食べたり、危険だらけ)手を洗う。うがいをする。

  •  第三条 溜まり水やチョロチョロ水は飲まない。危険な水はろ過か煮沸。

  •  プラス1 万が一を想定して、3年に1回、市町村のエキノコックス検診を受ける。



    1. エキノコックス検診について

     エキノコックス検診は、血清中の抗体を測定するものです。3年に1回、というのは抗体が陽性になるまでの時間と病変の進行速度を考慮した期間で、ヨーロッパでは抗体が陰性ならば次回は3年後で大丈夫、とされています。抗体検査が陽性の場合、別の方法で抗体検査を行い、超音波検査やCTスキャンも行います。最終的には、病巣の病理組織診断からエキノコックス症と診断されます。寄生が確認された場合、早期であればほとんどが内服薬(アルベンダゾール)で治ります。北海道内では市町村の検診が無料で実施されていますので、保健所など関係機関に問い合わせて受診しましょう。




    V 情報源・役立つリンク集


    ホームページ

    l         北海道大学獣医学研究科動物疾病制御学講座寄生虫学教室
     
    エキノコックスに関する研究では、日本の最先端です。「北海道におけるエキノコックス」は必読。

    l         本州のエキノコックス(横浜市立大学医学部衛生学講座・土井陸雄教授作成)
     丁寧で分かりやすい土井先生の説明です。私たち人間も襟を正さなければ。

    l       多包虫症(エキノコックス症)の予防に向けて−生態系と危機管理の視点から−
     疫学データや最近の研究を中心にレビューした論文です。

    l         IASR (Infectious Agents Surveillance Report) Vol.20 No.1 January 1999 
     「北海道における多包性エキノコックス症」。これまでの対策がまとまっています。

     

    l       エキノコックスの検査はどこで受けられますか
     小宮さんの「北海道の山とスキー」内にあります。検査の実体験も。

    l         狐を見たら石を投げて追い払おう
     狐は悪者ではありません。キツネとネズミが運び込まれた経路がわかります。

    l         Pet Travel Scheme(英国ペット旅行協定:多包条虫流行域から移入するペットに駆虫を義務づけている
     エキノコックスの生息していない英国の対策。英語です。

    l         IDWR(感染症発生動向調査週報)
     国立感染症情報センターのページ。月ごとの患者発生状況を見ることができます。

     

    文 献

    •  エキノコックス−その正体と対策   
      山下 次郎、神谷 正男 著  北海道大学図書出版会 1997

      一般の書店で入手できる唯一の書籍。一般向けにしては詳細な記述。内容は古いが、神谷先生が近年の状況を巻末に増補している。

    • 北海道のエキノコックス:創立50周年記念学術誌
      北海道立衛生研究所 編 1999
      図書館に行けば見られるかも。寄生サイクルの話や、宿主の生態など、広範囲にわたってわかりやすく書かれている。