登山とエキノコックス
あなたは、「エキノコックス」という名前を聞いたことがありますか? ここでは、エキノコックスについて簡単にご紹介します。ちょろっと勉強してみましょう。 目 次 T エキノコックスとその生態 U 山で虫卵を摂取しないために
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エキノコックスの和名は「多包条虫」、体長5mm以下のサナダムシの一種です。 このように、中間宿主と終宿主という二つの宿主に寄生しながら、エキノコックスは生活しています。元来、このサイクルに私たち人間は含まれていません。ところが、偶然に虫卵が私たちの口の中に入った場合、肝臓に嚢胞性病変が形成されることがあります。これが「エキノコックス症」と呼ばれるものです。早期に治療されないと
エキノコックスにとっては、人間は野ネズミと同じ中間宿主の位置にあります。ネズミとの違いは、以下の二点です。
確認しておきますが、人間は虫卵からしか寄生されません。多包虫や多包条虫は人間に寄生しないのです。つまり、ヒトからヒト、ネズミからヒト、ブタ(ブタは中間宿主です)からヒト、に感染することはありません。 また、虫卵を摂取した人が必ずしもエキノコックス症を発症する訳ではないらしい、ということが最近の研究からわかってきました。人によってエキノコックスに対する感受性(免疫反応)が異なっているため、嚢胞が形成されなかったり、発育が途中で止まって、治ってしまうこともあるようです。 エキノコックスは日本では基本的に北海道にしかいない、とされています。(寄生虫学の分野では、「エキノコックス」は、多包条虫を含めて3種類なのですが、日本では他の2種は稀なのでここでは多包条虫の話に絞ります。)どうしてでしょう? エキノコックスは、ヨーロッパとアラスカには以前から分布していたようですが、もともと日本には生息していませんでした。19世紀後半、毛皮目的で飼われていたキツネの餌として、ロシアのカムチャツカにアラスカから野ネズミが持ち込まれたのがエキノコックス生息域拡大の始まりでした。その中に、多包虫に寄生されたネズミが混ざっていたのです。その後、そのネズミを捕食したキツネ、キツネから排出された虫卵を摂取したネズミへと、寄生サイクルが成立したのは言うまでもありません。当時、千島やカムチャツカのほとんどの島々に、毛皮目的の養狐場が作られていました。キツネだけでなく、好物の野ネズミも餌としてこれらの島の間で取引きされました。こうして、当時日本領の千島列島にも20世紀初めにはエキノコックスの生息域が広がりました。 エキノコックスが北海道までもう少し、というところまでやって(運ばれて)来ました。結果から言うと、北海道に持ち込んだのも、やはり人間でした。今は「花の浮島」とも呼ばれる礼文島に、大正末期に毛皮とネズミ駆除の目的で千島から移入されたキタキツネに、エキノコックスが寄生していたのです。活発・濃厚な寄生サイクルが成立した礼文島では、約130名の患者が発生しました。 戦後、礼文島とは別の経路から、エキノコックスは根室地方に広がりました。こちらの経路については、「養狐場から逃げ出した寄生キツネが歯舞から流氷伝いにやってきた」とか、「根室で飼うために千島から持ち込んだキツネに寄生していた」、などの諸説がありますがはっきりしません。
現在では、離島を除く北海道全域にエキノコックスが分布しています。数年前、青森県の食肉検査でブタの肝臓にエキノコックスが見つかり、「東北への生息域拡大か」と騒がれました。今までのところキツネヤタヌキなど、終宿主になり得る動物への寄生は確認されていません。ただ、養豚場の周囲に野生動物間の寄生サイクルが成立していない限り、ブタへの寄生は起こり得ません。「根釧地域限定」とされていた1980年代前半に、網走の東藻琴など各地のブタからエキノコックスが見つかり、その後全道への生息域拡大が確認された経緯もあります。伝播経路も同定されていない現時点では断言できませんが、終宿主調査の労力と限界を考慮すると、本州にエキノコックスが広まっている可能性は高いと思われます。
キツネは環境適応能力が高く、都市周辺部など人里近くで暮らすキツネも多いようです。エキノコックス症は以前は地方の疾患とされてきましたが、最近は札幌在住者からも患者が出ていて、都市だから安心、という訳でもありません。また近年では、野ネズミを捕る飼い犬にも、エキノコックスの寄生が確認されています。イヌと飼主はとても近い関係にあるので、飼い犬に寄生している場合は、飼主が虫卵を摂取してしまう危険性が大きくなります。特に放し飼いのイヌは要注意です。現在、精度の高い糞便検査法が開発されつつありますので、定期的に検査を受けて、陽性が出たら駆虫薬(プラジカンテル)で虫下しした方が良いでしょう。 U 山で虫卵を摂取しないために 山に直接関係のない話が長くなりました。ここからは、登山に的を絞っていきたいと思います。 まず、虫卵(右写真)が高濃度で存在しそうな 場所 時期 を推測すれば、ある程度のリスク(接触機会)回避にはなると思います。 野ネズミとキツネの間で展開されている寄生サイクルが、一つのヒントになります。
エゾヤチネズミはササ原や湿地(「ヤチ」の名は「谷地」です)、防風林など、キツネにとっても営巣しやすい所に生息しています。上のサイクルからも、「エゾヤチネズミにとって住みやすい、キツネの巣穴周辺」は大変危険だということはおわかり頂けるでしょう。逆に、キツネを見かけてもエゾヤチネズミが住みそうにない所なら、心配しすぎる必要はありません。気候の厳しい高山には、エゾヤチネズミは住めないでしょうから、キツネが居たとしても虫卵密度は非常に薄いと思われます。また、虫卵はキツネの糞に混じって出てきますから、基本的には地面の上に存在すると考えていいでしょう。 ここで、参考までに、虫卵の性質を実験データから眺めてみましょう。 この表は、気温と虫卵寿命の関係です。
一般には、下のような性質があります。
以上を考え併せると、「比較的標高が低く、湿度が保たれるササ原や湿地の土」が一番要注意です。春の山菜取りが代表的です。最中はもちろん、帰ってからの生食は洗ったとしても危険です。また、北海道の夏山では、沢を辿って稜線に出る場合が多いです。特に標高の低い沢や湿地でのササ藪漕ぎには一定の注意が必要です。稜線に出たら手袋を換えるのもいいでしょう。逆に、日の当たる尾根や斜面上では、高温・乾燥という条件が重なりますので、感染性のある虫卵に接する機会は極めて少ないでしょう。
よく、登山の本には「北海道の川の水は危ないから飲むな」と書いてあります。用心に越したことはないのでしょうが、礼文島の例から考えても、溜まり水は別として、水量のある沢水の危険性は非常に小さいと思います。標高の高いカールの融雪水も、基本的には飲めると思います。危ないのは、地面が泥で、ササ薮からちょろちょろ出ている流れの水。 もちろん、沢水には他の微生物(大腸菌など)も含まる可能性がありますので、危なそうな水源を使う場合やし尿汚染の可能性がある場合は、ろ過器を通すか、5分程度煮沸するのが安心です。虫卵の直径は30μm・細菌の直径は小さくても1μmなので、ろ過器のフィルターの穴がそれ以下なら大丈夫です。因みに、日本製のスーパーデリオスのフィルターは0.1μmですからよさそうですね。MSRもセラミックフィルターの立派なやつを作っています。長持ちしそうですが高いのが難点。また、コーヒー飲みの方でしたら、紙フィルター(ポアサイズ1μm程度)を通せば目に見える土壌粒子も併せて除去できます。 第一条 山に行かないこと。これなら絶対です。 第二条 軍手・手袋をこまめに換える。休憩中は外す。(汗を拭ったり、水を飲んだ 第三条 溜まり水やチョロチョロ水は飲まない。危険な水はろ過か煮沸。 プラス1 万が一を想定して、3年に1回、市町村のエキノコックス検診を受ける。 エキノコックス検診は、血清中の抗体を測定するものです。3年に1回、というのは抗体が陽性になるまでの時間と病変の進行速度を考慮した期間で、ヨーロッパでは抗体が陰性ならば次回は3年後で大丈夫、とされています。抗体検査が陽性の場合、別の方法で抗体検査を行い、超音波検査やCTスキャンも行います。最終的には、病巣の病理組織診断からエキノコックス症と診断されます。寄生が確認された場合、早期であればほとんどが内服薬(アルベンダゾール)で治ります。北海道内では市町村の検診が無料で実施されていますので、保健所など関係機関に問い合わせて受診しましょう。
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北海道大学獣医学研究科動物疾病制御学講座寄生虫学教室 l
本州のエキノコックス(横浜市立大学医学部衛生学講座・土井陸雄教授作成) l 多包虫症(エキノコックス症)の予防に向けて−生態系と危機管理の視点から− l
IASR (Infectious
Agents Surveillance Report) Vol.20 No.1 January
1999
l エキノコックスの検査はどこで受けられますか l
狐を見たら石を投げて追い払おう l
Pet Travel Scheme(英国ペット旅行協定:多包条虫流行域から移入するペットに駆虫を義務づけている) l IDWR(感染症発生動向調査週報)
文 献
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