皇室

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特集:天皇、皇后両陛下ご結婚50年(その2止)

 ◇両陛下の記者会見

 結婚50周年の会見での天皇、皇后両陛下の主なお答えは以下の通り。(全文は毎日jpに掲載)

 ◇「象徴」常に念頭に

 《50年を振り返って》

 天皇陛下 多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。

 顧みますと私どもの結婚したころは、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。

 その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また、都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。

 結婚後に起こったことで日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43(68)年の小笠原村の復帰と、昭和47(72)年の沖縄県復帰があげられます。両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。

 一方、国外では平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお、多くの犠牲者が生じています。

 こんにち、日本では人々の努力によって都市などの環境は著しく改善し、また、自然環境もコウノトリやトキを放鳥することができるほど改善されましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。

 ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。私どもはこのように変化してきた日本の姿とともに過ごしてきました。さまざまなことが起こった50年であったことを感じます。

 皇后は、常に私の立場と務めを重んじ、私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。

 私ども2人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、天皇として務めを果たしていくうえに、大きな支えとなってくれました。

 私は即位以来昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また、日本国憲法にある天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるという規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。

 象徴とは、どうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めてこんにちに至っています。

 なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。

 皇后さま 50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りました時、不安と心細さで心がいっぱいでございました。今日こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います。50年の道のりは、長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯(しんし)に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので、こんにちまでご一緒に歩いてくることができました。陛下のお時代をともに生きることができたことを、心からうれしく思うとともに、私の成長を助け、見守り、励ましてくださった大勢の方たちに感謝を申し上げます。

 ◇木や花に思い重ねて

 《プロポーズの言葉やお互いに贈られる言葉、夫妻としてうれしく思われたこと、心に残るエピソード》

 天皇陛下 当時、何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。

 何回も電話で話し合い、私が皇太子の務めを果たしていくうえで、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれた時は本当にうれしかったことを思い出します。

 結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后は(結婚25周年の会見時と同様に)「この度も努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力をよみしての感謝状です。本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間にはたくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。

 夫婦としてうれしく思ったことは、やはり第一に2人が健康に結婚50年を迎えたことだと思います。何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、おもしろく楽しい面を持っており、私どもの生活にいつも笑いがあったことを思い出します。また皇后が木や花が好きなことから、早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。

 <語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓>

 婚約内定後に詠んだ歌ですが、結婚によって開かれた窓から、私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。私ども2人を50年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します。

 皇后さま 婚約のころのことは50年を超す昔、昔のお話で、プロポーズがどのようなお言葉であったか、正確に思い出すことができません。また、このたびも(結婚25周年の会見時と同じく)私はやはり「感謝状」を、何かこれだけでは足りないような気持ちが致しますが、心を込めて「感謝状」をお贈り申し上げます。

 次の、夫婦としてうれしく思ったこと。このようなお答えでよろしいのか……。嫁いで1、2年のころ、散策にお誘いいただきました。赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々巣を払うための、確か寒竹だったか、葉の付いた、細い竹を2本切っておいでになると、その2本を並べてお比べになり、一方の竹を少し短く切って、渡してくださいました。ご自分のよりも軽く、持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。その時のことを思い出すと、胸が温かくなります。

 小さな思い出を一つお話し致します。春、コブシの花が取りたくて、木の下でどの枝にしようか迷っておりました時に、陛下が一枝(いっし)を目の高さまで下ろしてくださって、そこにほしいと思っていた通りの美しい花がついておりました。うれしくて後に歌に詠みました。

 <73年のお歌「ある日」 仰(あふ)ぎつつ花えらみゐし辛夷(こぶし)の木の枝さがりきぬ君に持たれて>

 50年間、陛下はいつもお立場を自覚なさりつつ、家族にも深い愛情を注いでくださいました。陛下は、誠実で謙虚な方でいらっしゃり、常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。

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 ◇天皇、皇后両陛下のあゆみ(1994年~)

1994(平成 6)年

     12月29日 秋篠宮ご夫妻の次女佳子さま誕生

1995(平成 7)年

      7月26日 戦後50年の「慰霊の旅」として長崎、広島を訪問。8月2日に沖縄、3日には東京都慰霊堂へ

1996(平成 8)年

     12月23日 ペルーの日本大使公邸占拠事件を考慮し、天皇誕生日の祝賀行事を中止

1999(平成11)年

     11月12日 即位10年を記念し「国民祭典」開催

2000(平成12)年

      6月16日 皇太后さま逝去(97歳)

2001(平成13)年

      5月15日 宮内庁、皇太子妃雅子さま懐妊を発表

     12月 1日 皇太子ご夫妻に長女愛子さま誕生

2002(平成14)年

     12月24日 陛下、前立腺がん検査のため宮内庁病院に入院

2003(平成15)年

      1月18日 陛下、東京大学医学部付属病院で前立腺がんの手術

     11月14日 鹿児島県訪問で陛下は即位後、全都道府県を訪問

     12月12日 宮内庁が、皇太子妃雅子さまの静養を発表

     12月23日 陛下、古希

2004(平成16)年

      5月10日 皇太子さまが会見で雅子さまの「キャリアや人格を否定するような動きがあった」などと発言

     10月20日 皇后さま、古希

     12月30日 宮内庁が、紀宮さまと黒田慶樹さんの婚約内定を発表

2005(平成17)年

      6月27日 戦後60年で米自治領サイパン島を訪問

     11月15日 紀宮さまと黒田慶樹さんが結婚

     11月24日 小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が女性・女系天皇容認の報告書を提出

2006(平成18)年

      2月 7日 宮内庁が秋篠宮妃紀子さまの懐妊を発表

      4月11日 愛子さまが学習院幼稚園に入園

      8月17日 皇太子ご一家が静養のためにオランダへ

      9月 6日 秋篠宮ご夫妻に長男悠仁さまが誕生

     12月23日 陛下がこの日の誕生日に先立つ会見で、愛子さまについて「風邪をひくことも多く、会う機会が少ない」「うち解けて話すようになることを楽しみにしています」と語る

2007(平成19)年

      2月23日 皇太子さまがこの日の誕生日に先立つ会見で、06年12月の陛下の会見を受け「お気持ちを大切に受け止めて、両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と語る

      6月 6日 皇太子さまが東大病院で十二指腸のポリープの摘出手術

2008(平成20)年

      2月13日 羽毛田信吾宮内庁長官が会見で「ご参内(訪問)の回数は増えていない。(皇太子さまは)ご発言を大切に」と苦言

      2月25日 宮内庁が「陛下に今後、骨粗しょう症の可能性」と発表

      4月10日 愛子さまが学習院初等科に入学

     12月 9日 陛下が不整脈となり胃などに炎症が確認されたと宮内庁が発表

     12月16日 陛下の負担軽減のため75歳の誕生日会見の取りやめを宮内庁が発表

2009(平成21)年

      1月 7日 即位から満20年

      1月29日 原則として「お言葉」を廃止するなど陛下の負担軽減策を宮内庁が発表

      4月10日 結婚50年(金婚式)

毎日新聞 2009年4月10日 東京朝刊

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