2002/11/26

山形浩生氏への公開質問状

池田信夫

ローレンス・レッシグ氏の"The Future of Ideas"は、これまでインターネットについて書かれたもっとも重要な本の一つであり、情報技術を語るうえでの必読書といってもよい。それがこのほど日本語に訳され、『コモンズ:ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』(山形浩生訳・翔泳社)として出版されたことは喜ばしい。しかし、その「訳者あとがき」で、訳者はなぜか唐突に私の実名をあげて、こう主張する:

「日本でもプライバシーを主張しすぎて住基ネットに反対するような連中がいたり、プライバシーをたてに情報公開を拒む役人がいる。だからプライバシーはまちがっている」こう主張するのは池田信夫だ。あぜーん。いやはや。レッシグもまさか自分の議論がプライバシー否定に使われるとは思っていなかっただろう(思っていなかった、と本人も言っていた)。(pp.416-7)

これは事実無根である。 コラムにも書いたように、私は住基ネット反対運動に代表されるプライバシーの過剰保護を批判し、彼らの主張する「自己情報コントロール権」を否定したことはあるが、プライバシー保護そのものを否定したことは一度もない。また、レッシグ氏にも確認したが、彼が私の意見にコメントした事実もない。

山形氏は、この「あとがき」で、朝日新聞のメーリングリストを引き合いに出し、そこで私がそういう発言をしたかのようにほのめかしているが、そういう事実もない。そこで私が「住基ネットを廃止したら、行政の電子化・効率化はどうするのか。代案なしで廃止を要求するのは無責任だ」と住基ネット反対運動を批判したのに対し、山形氏は「現状の[非効率な行政]システムがいつまでも続いても、多くの人は一向にかまわないのです」と発言した。これをモデレーターに「行政改革を否定するような議論はおかしいのではないか」とたしなめられ、メーリングリストの圧倒的多数からも批判され、山形氏は反論もできずに退散した。そのとき、私にやっつけられた恨みを関係のない訳書の「あとがき」で晴らすとは、あきれた話である。山形氏に対して、次の2点を要求する:

  1. 私が「プライバシーはまちがっている」と発言した証拠、および「プライバシーを否定した」証拠を具体的に挙げよ。
  2. 証拠が挙げられないなら謝罪し、あとがきからこの部分を削除せよ。

山形氏は「小谷真里は巽孝之のペンネームである」という中傷を行って小谷氏から名誉毀損で訴えられ、今年3月、330万円の罰金の支払いを命じられた。彼は、このようなでたらめを書き散らす常習犯であり、このような人物が「プライバシー」を語るとは笑止千万である。上記のいずれの要求も満たされない場合、法的措置をとることもありうることを付記しておく。

11/27

これに対して、山形氏の公開お答え状なるものが出されたが、何ら回答になっていない。彼に出した私のコメントは以下の通り(一部修正):

お笑いですね。「証拠」として挙げたのがタイトルと最後の1行だけで、そのどこにも「プライバシーはまちがっている」とも「否定する」とも書いてない。 あなたも裁判したからわかっているだろうけど、日本の裁判所の名誉毀損の基準はきびしいので、具体的に該当する文章がなかったら、いくらあやふやな「解釈論」で逃げても、確実に名誉毀損は成立しますよ。

「幻想だ」ということが、どうして「まちがっている」ことになるんですかね。いくら幻想でも、多くの人が信じれば正しいこともあります。吉本隆明の『共同幻想論』によれば国家も幻想ですが、そうすると国家も「まちがっている」のでしょうか。私は、プライバシーどころか近代的な「自我」そのものが幻想だと思っていますが、それは自我の存在を「否定する」ことをいささかも意味しません。「プライバシーがあらかじめ失われている」というのは、「日本の企業社会」についての事実判断であって、まちがっているとか否定するとかいう価値判断とは無関係です。

本文を注意して読めばわかるとおり、私はバーロウの「プライバシーは必要ない」という議論を肯定していません。山形さんが早漏(これはあなたの出した例です)であるという情報を、自分でコントロールするのは当然の権利です。P3Pのように「コード」で守るのも当然です。私がいっているのは、自己についての他人の言論をコントロールする一般的な権利(自己情報コントロール権)を法的に認めることは、表現の自由を侵害するということです。この区別がついてないことが、あなたの支離滅裂な議論の根本原因です。

これではっきりしました。要するに「まちがっている」というのも「否定する」というのも、どこにも書かれていない山形さんの妄想にすぎないわけだ。あたかも私がそういう文章を書いたかのように偽造された引用と、私の名前は削除してください。すでに印刷されたものはしかたないとして、重版のとき訂正するだけでよしとしましょう。「自己情報コントロール権」が認められると、今回のケースは「私の同意なしに私の個人情報を公表した」ということになり、それが事実であろうとなかろうと、著者は無条件に削除する義務を負います。自己情報コントロール権を推奨しているらしい山形さんが私の要求に応じるのは当然だと思いますが、いかがでしょうか。

11/28

山形氏から、再度の返事が来ました。私信なので公開は控えますが、私の名前を削除することを検討するそうです。削除が正式に決まった段階で、この公開質問状も削除します。

12/24

山形様

『サイゾー』のコラム拝見しました。率直に訂正されたことに敬意を表します。ただ問題の本筋である個人情報保護法についての理解が依然として逆になっているので、補足しておきます。米国の著作権法が20年延長されるのが「1歩後退」だとすると、それと類似しているのは個人情報保護法による「自己情報」への管理強化です。これが欧州のようなプライバシーの名による「相互監視社会」への「第1歩」になる可能性は否定できない。

「自己情報コントロール権」というのは、日本の法学業界ローカルの方言で、そんな権利を明記した法律は、どこの国にもありません。「本人同意」を条件とするEU指令がそれに近いと考えられているようですが、そんな言論統制につながる一般的な権利を法律に明記することは乱用の危険が大きく、ありえないというのが政府の見解です。これは正しいと私は思います。

レッシグの意見も私とおおむね同じで、「EU指令のような過剰規制には反対だ」といっていました。彼の師匠であるRichard Posnerは「プライバシー権とは自己についての情報を偽る権利であり、認められない」と明言しており、これが現在の米国の法曹界の主流です。プライバシーを「不可侵の人権」と称するMarc Rotenbergのような「極左派」は米国でも問題にされていません(レッシグも"CODE"で否定している)。こういう一部の極端な意見が日本に直輸入され、これに情緒的な「背番号」反対派や「メディア規制」と取り違えた新聞協会が野合したことが、今回の混乱の原因です。

もちろん、これはあなたが自分の早漏を隠すことを妨げるものではないし、契約ベースで個人情報を守ることは望ましい。問題は「他人の言論をコントロールする法的権利」です。あらゆる個人情報の流通に「本人同意」を要件とすることは、私的な「検閲」を認めるに等しい。私はプライバシーの存在を否定しているのではなく、それを公権力によって保護することは危険だといっているのです。

私が「個人情報をproperty ruleで守るという"CODE"の提案は、欧州のような過剰保護に結びつきやすい。個人情報の被害は限定的なもので、事後的なliability ruleで十分だ」と批判したら、レッシグは「あなたの意見は私の議論に対する批判の中でもっとも強力だ」と認めていました。

記述を公に訂正した以上、当然、「あとがき」の問題の部分も削除されるのでしょうね。重版をお待ちしております。

2003/5/25

このページも有名になり、山形浩生なる人物の正体についての貴重な情報だという評価も高いので、半年ぶりにバージョンアップ。

『コモンズ』は半年たっても重版にならない。『週刊ダイヤモンド』で私が「訳本は読むな」と酷評したのがきいたわけでもないだろうが、この訳者にとっても恥かしい(仲間内からも「ウソツキ小僧」などと呼ばれている)あとがきも、残念ながらしばらく削除されそうにない。私がこの「あとがき」の問題を英文でレッシグにcc:して批判したら、訳者があわてて「謝罪」してきたので、いったんは許したが、最近また私の悪口を再開しているのをみると、どうもあれはレッシグに正体を知られないための偽装だったらしい。とんだ狸である。いや、虎の威を借りる狐か。こうして「教祖」の威光を借りないと営業がなりたたない「知の輸入業」というのも哀しい商売だ。

今回の事件で明らかになったのは、事実誤認ばかりでなく、彼の「プライバシー」という概念についての理解がいい加減であることだ。「公開お答え状」で「自己情報コントロール権」の意味をまったく取り違えて使っているのは噴飯物である。彼の特徴は、こういうふうに系統的な勉強もしないで、海外の流行をすばやく輸入し、気のきいた雑文に仕立てるマーケティングのうまさにあるから、小谷真里事件や今回の問題のように「1次資料を出せ」といわれると、にっちもさっちも行かなくなる。最近、日本だけで流行するチョムスキーも彼のお気に入りらしいが、チョムスキーがポルポトの大虐殺を否定して米国のジャーナリズムに抹殺されたという常識すら知らないらしい*

ついでながら、このあとがきには「E2Eの意義を本書で初めて知った」と書いてある。まあ正直なのはいいが、「E2Eがなぜいいのかという説明はほとんどなく」などと、自分の無知を他人の責任にしないでほしいものだ。アイゼンバーグの"Stupid Network"が出たのは6年前だし、村井純氏がIPv6を推進している理由は、5年前から「インターネットの自由と創造性」を守ることである。この意味で"The Future of Ideas"には、本質的に新しいことは書いてない。いわば、よくできた教科書なのだが、IPv6についての事実誤認はその数少ない欠陥である。私が「v6をサポートしているのは、世界の4000万のウェブサイトのうち1000あまりで、v4に置き換わることはありえない」と批判したら、レッシグは「私はtechieじゃないから、よくわからない」と答えていた。

私信によれば、山形氏は私を「論客」として評価してくれているそうだが、あいにく私は彼をまったく評価していない。こういう横文字を縦文字に直す目先がきくだけの「通辞」がもてはやされるのは、後進国の現象である。外資系企業が失敗する最大の原因も、語学力と本質的な能力を取り違えて、日本の企業で使い物にならない「語学バカ」を雇うためだ。その語学力も、cathedralを「伽藍」と訳す程度のものである。類は友を呼ぶのかもしれないが、彼のまわりに集まっているのも、2ちゃんねるで私を匿名で誹謗し、身元がばれて大恥をかいたオタクや、チョムスキーを読みもしないで絶賛している偏執狂など、まるで見世物小屋である。こういうfakeが「座長」を張っている日本は、まだIT後進国ということなのだろう。

2004/2/1

問題の訳者あとがきが訂正され、山形氏は「誤解があれば申し訳ない」と謝罪した。これで私の抗議文も必要なくなったので削除したが、彼が昔のファイルを魚拓で引用しているので、このファイルをあらためてアップロードした。

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