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世迷言

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☆★☆★2009年04月09日付

 最近は電波時計なるものが普及し、一秒の誤差さえない正確な時間を教えてくれる。「時は金なり]か、民族の遺伝子がなせるわざか、旧本人は特に時間の観念が固い。しかし古代インドでは、時間や人の死生観も随分違っていた▼つまり、時間が一直線に過去から現在へと続き、人の一生も誕生から成長、この世とのお別れという現代人の感覚とは違うというのだ。古代インドにおける発想には輪廻・転生があった。それが仏教に取り入れられて日本に伝播▼人も動物も寿命が尽きた時、その魂は宿っていた生命体から離れ、七×七の四十九日間「中有」の状態で行き先を探し、その後に新たな生命に生まれ変わる。だから、人が亡くなった場合は初七日から七日置きに故人を偲び、四十九日を以て喪が明ける。故人の往生は、別の世界に「往って生きる」ことを意味する▼弊社会長・鈴木正雄儀の密葬が昨日営まれ、参列者に見送られて旅立った。会社創業から五十年。本欄執筆では四十六年二カ月と二十六日、全一万四千二十九回というコラムニストの国内最長を記録した。ギネス記録の七十年には及ばないが、歯に衣着せぬ筆致は読者が一番ご存じ▼本紙製作には「田舎饅頭の味を忘れるな」が持論。緊急入院する三日前まで晩酌を欠かさなかったという愛飲家。どこに往生するのか。いや、もう行き先は決まっていて、親しい故人のもとにお酒を持参し、談笑しているかも知れない。九十二歳の天寿全うに合掌。

☆★☆★2009年04月08日付

 春を代表するサクラが、六日に大船渡市で開花した。昨日も穏やかな好天に恵まれたが、この季節を迎えて本格化するのが春耕。稲作農家にとっては一年で一番忙しい時期となる。農地改良が進んだ今日、水争いはなさそうだが、その昔は随分苦労したようだ▼何しろ、水田は水がなければ始まらない。そのため農家は、土地に湿り気があるかどうかが最大関心事。その名残が、地名や苗字にも残っている。戦国武将の織田信長の織田は、「御田」という有力者の所有地を意味したほか、「澱田」すなわち湿田との解釈もある▼宇喜多秀家の宇喜多も「浮気田」という湿田を表す言葉への当て字から生じた。大久保彦左衛門の大久保は、本来は「大窪」だったし、真田氏家臣には小田切清定という武将がいるが、この小田切もまた「澱田切」という湿地を切り開いた意味があった▼県内の地名では、雫石町の男助は「大しけつず」すなわち大きな湿地、東和町の絹川は「木沼川」すなわち草木が生い茂った湿地を流れる川、啄木生誕地である盛岡市渋民は「渋溜」という鉄さびの浮く湿地、北上市の渋谷も「渋谷地」という鉄さび水の多い湿地の意があった▼現在の漢字表記だけ見ていると、一体どこに湿地の意味があるか検討もつかないが、湿地を意味する言葉は他に幾つもある。それだけ土地の状態に対する農家のこだわりの強さを表すが、御田植えの季節を迎えて、足元の地名や苗字の原意を再確認する「地元学」の面白さと必要性もまた再認識したい。

☆★☆★2009年04月07日付

 気象庁は、三月三十一日から地震によってどのような現象や被害が発生するかを示す「震度階級関連解説表」を、十三年ぶりに改訂した。昨年六月の岩手・宮城内陸地震(震度6弱)が記憶に新しいが、従来の解説表の震度と被害にずれがあったことを受けてのものという▼「あいまいな言葉を用いず、表現をより分かりやすくする」としているが、裏を返せばこれまでのものは「あいまい」で「分かりにくかった」のだろうか。しかし、生命財産を守るということにつながるなら、改訂はおおいに歓迎しよう▼例えば、震度5強。従来は「非常な恐怖を感じる」「多くの人が行動に支障を感じる」だったが、改訂版では「非常な恐怖…」は人によって程度の差があることから削除。後段は「多くの人」を「大半の人」にし、「物につかまらないと歩くことが難しいなど」と、行動に支障を感じる具体的な表現にしている▼以上は人の体感・行動の面からだが、木造建築(低耐震性)の状況では「壁や柱がかなり破損したり傾くものがある」を、「壁などにひび割れ・亀裂がみられることがある」と下方修正=B確かに従来の表現だと実際より被害が大きいイメージがあり、誤解を与えかねない▼「海フェスタ」開催中の昨年七月、大船渡でその震度5強の地震があった。幸い、従来の解説表のような状況ではなく、新解説表なら5弱程度だった。とはいえ、落石や水道管破裂、商品の落下、交通機関への影響は出た。災害は弱いところを衝いてくる。ゆめゆめ油断なきよう。

☆★☆★2009年04月05日付

 はてさて、日本語は難しい。そこで出題。「農作物」をなんと呼ぶ。NHK盛岡放送局では「のうさくぶつ」と統一している。しかしたまたま聞いていた全国放送ではアナウンサーが「のうさくもつ」と読んでいた。正解は盛岡の方だ▼正直を言うと、小欄は同じ過ちを犯していた。だって「作物」は「さくもつ」だからだ。そこで辞書を引いてみると、同じ文字でも「さくもつ」は、田畑に作る農作物である。では「さくぶつ」は?これは、ある人が作った絵・彫刻などの制作物、作品のこととか▼作物はまた「さくもの」とも呼ぶらしい。同一文字をめぐって起こる混乱を果たして先人たちは予想していたのであろうか?それはともかく、苦手な論理思考を駆使?して考えて見ると、作物は農産物と同義だからその上に「農」を加えるのは重複表現となる。だから「のうさくもつ」ではなく、農作の結果としての「ぶつ」ということなのだろうか▼同様の混乱はしばしば起こる。文書は「ぶんしょ」だが、「古文書」は「こぶんしょ」ではなく「こもんじょ」だ。妄言は「もうげん」とも、「ぼうげん」とも呼ぶ。話した相手が「ぼうげん」と呼んだ場合、「暴言」か「妄言」か、解釈によってニュアンスが異なる▼なにせ「生」が、「なま」「き」「いき」「せい」「しょう」などと変化するのだから、日本人もさりながら外国人は大いに戸惑うだろう。いずれ同音異義、同文意義には今後も悩まされ続けるだろう。

☆★☆★2009年04月04日付

 海の向こうから「招かれざる客」が本日あたり飛来してくるかもしれないというわけで、日本列島もいささか緊張気味。だが、迎撃態勢も整い、最悪の場合は撃ち落とすというから、まずは安心して見ていよう▼ただ、ミサイルにしろ人工衛星にしろ他国の上空を飛来し、「粗大ゴミ」が近海に落下するというのは、まさに「近所迷惑」というものである。船舶も飛行機もコースを変えねばならず、こんな不条理な実験を正当化されてはたまらない。政府が断固とした対応を取るのは当然だ▼しかし世の中には能天気な方々もおられて、作詞家のなかにし礼さんなど、イージス艦やPAC3(地対空誘導弾パトリオット)の配置などは「過剰防衛」といった発言をしていた。こうした先例が防衛力の拡大強化につながり、やがて憲法改正の動きを加速させるとか。おやおや▼上空を通過するだけで本土落下の危険性は少ないという状況を踏まえてのことだろうが、ロケットというのが打ち上げに失敗する前例を多く持つ「危険物」であることは周知の通り。「迷走」して落下してきた場合はどうすればいいのか。巻き添えOKという覚悟ならそれはご立派▼社民党の福島瑞穂は「もし迎撃して破片が国内に落ちてきたらどうするか」と質問していたが、これは何もするなというに等しい。これまた立派な覚悟だが、その通りにしてもし落下してきたら「自衛隊は何をしていたのか」と柳眉を逆立てるだろう。転ばぬ先の杖は用意しておいた方がいいのだ。

☆★☆★2009年04月03日付

 勝敗の分かれ目は運だけだったという気がして納得した。敗れても悔いのない試合とはこのようなものだろう。春のセンバツ決勝で花巻東が1点差で涙を呑み、優勝こそ逸しはしたが、同校ナインの健闘は優勝旗の半分に値しよう▼本日のネタはこの決勝戦と決め、仕事中堂々とテレビ観戦した。これまでは、何の試合でも地元にかかわるものは見ず、結果だけを知ることにしているのは、見ると負けるという自分なりの経験則からだが、この日ばかりは違った。高校野球は春、夏を通じて東北に優勝旗をもたらしたことがない▼その最初のチャンスともなる試合を見ずにおられようか。そしてその期待がかかった一戦は、大方の予想通り1点を争う死闘となった。花巻東も相手の清峰(長崎)も共に打ってよし、守ってよしのチームであり、毎回が息詰まる展開となって勝敗はどちらが運を味方につけるかにかかっていた▼そう一言で片づけては申し訳ないが、大会屈指の両投手が持てる力を振り絞って力投し、打撃陣は打撃陣で必死に球に食いついていく。そのさまは壮絶そのもので、実力はどちらが勝ってもおかしくないという表現が決して陳腐ではなく、伯仲、拮抗そのものだった▼九回裏の攻撃に最後の望みを託し、一打同点、あるいはサヨナラの場面を祈る思いで見守ったが、幸運の女神はどちらかの選択を余儀なくされたようだ。そうとしか言いようがない。

☆★☆★2009年04月02日付

 一カ月ほど前、どこかのメディアが行った世論調査で政党支持の設問とは別に「政界の再編成に期待」という声が多かったことに注目した。それは政治に対する閉塞感の打開を既成政党には委ねられない、という思いが国民の間に強いことを意味するだろう▼与党が提出した法案を衆院で可決、それが参院に送られると否決に遭い、再び衆院に戻されて成立という、衆参のねじれ現象による結果を度々見せられると、この時間的ロスは大きいだけでなく、緊急を要する事案はどうなるのかという疑問がつきまとう▼ねじれ現象も有権者の選択によるものであり、議会制民主主義上やむを得ないことではあるが、しかし課題山積のこの時、その一つ一つを即決していかなければならない必要に迫られても、党利党略が優先するという「大局不在」の現状に国民は飽き飽きしている▼その答えが政界再編成への期待という形で表れているのだと思う。政権交代をより可能にする二大政党時代はよしとするが、しかし自民、民主両党共に、中味は羅針盤を欠いた「呉越同舟」状態であり、一つの法案をめぐってもしばしば党内対立を繰り返しているのは、元々「同志」ではなかったからだろう▼ここは両党を解党してガラガラポンし、志を同じにする同士が新党を作り、「自由党」と「民主党」に再編成したらどうか?そんな荒療治を期待する声が充ち満ちている。その際は当然としてダーク、グレーゾーンにいる方々にはご遠慮願いたい。

☆★☆★2009年04月01日付

 「大船渡湾さ鯨が入って来たズ。見さ行くべ!」「本当が?行くべ、行くべ」なんて会話が交わされた時代もあった。今日四月一日は大手を振ってウソを言える日。毎日がそうならいい?発言の主は永田町あたり?▼エープリルフール。訳して四月馬鹿。「万愚節」ともいう。発祥は不明だが、一年に一度ぐらい罪のないウソをつける日があってもいい。しかし「ウソも方便」をいいことに、年柄年中ウソをついているご仁にはこの日ぐらい休んでいただくことにしよう▼それにしても、この日ばかりは大っぴらにウソを吹きまくっていた以前と比べて、近年はめったに聞かれなくなったのはなぜだろうか?それは心の余裕の問題でなかろうかという気がする。もともとユーモアセンスに欠ける民族で、たとえ一日でも人をだますということに罪悪感を覚えるのか、当時の年配者には抵抗があったようだ▼車など高嶺の花で、ろくな楽しみもない時代、若者はこんな他愛のない遊びで気をまぎらわしていたのかもしれないが、いずれ「さて、明日はどんな話で引っかけてやろうか」と前日あたりから構想を練っていたものだった。だが、いまや「本当?」と聞き返す代わりに「ウソっ?」とはなから疑問視する時代と変じてしまった▼こうなるとウソを言ってもはじまらない。最初から信じてくれないのだから、ウソをつく気力も起きない。こうして四月馬鹿は過去の遺物と化しつつある。「人を見たら泥棒と思え」というせちがらい世相もあずかって。

☆★☆★2009年03月31日付

 「光陰矢のごとし」とはよく言ったもので、ついこの間新年を迎えたとばかり思っていたのに、きょうはもう平成二十年度の最終日。各学校や官公庁、あるいは民間企業でも年度末は大きな区切り▼中には、本日付で退職の方々もあると思われ、それぞれ職場は違えども「団塊の世代」の中軸として地域と日本経済の屋台骨を背負って来られた長年の努力に、敬意を申し上げたい。そしてまた、各職場での「送り人」はまた、明日からは「迎え人」ともなる。年度替わりの配置転換や新人を迎えて、互いに職場の空気を風通しの良いものとしていきたいものだ▼心機一転を期すのに年度替わりは絶好の機会ではあるが、一方では何か習い事をしていたり、健康に良いことを始めている場合など、年度替わりでご破算とするのではなく、ある程度続けることも大切ではなかろうか▼古代中国の話で、趙の国の人は歩く姿が理想とされた。そのため、燕の国の若者が趙の都邯鄲を訪れ、歩行術を学ぼうとしたが果たせず、途中であきらめて帰国した。その結果、趙人の歩き方を習得できなかったばかりでなく、もともとの歩き方さえも忘れ、四つん這いになって帰ったという故事がある▼「邯鄲の歩み」は、人ごとではない。区切りを付けない中途半端なままでは、かえって自らに禍が及ばないとも限らない。自戒を込めながら、とくに若い人たちには自分の寄って立つ場所を忘れることなく、学びの道が生涯続くことを祈りたい。

☆★☆★2009年03月29日付

 「意を体す」というのは、暗黙の了解だから証拠が残らない。悪代官と出入りの商人の企みごとが、風車の弥七に盗み聞きされるようでは下の下。黙って「よしなに」と相手の懐に山吹色をしのばせるのを最上とする▼西松建設の違法献金は与野党双方に及んで、次々と新事実が明るみに出ているが、これによってこの会社が公共工事の受注のため「即効薬」の開発にどれほど涙ぐましい努力をしてきたか、そして実際その効能というか霊験あらたかなること、見事なまでに実績として表れていることを知らされた▼献金を受けた側は、当然として便宜供与を否定するが、西松建設が配った献金の巨額さと、工事受注件数の増大、受注範囲の拡大という比例式を眺めて、それを額面通りに受け取るお人好しがいたらお目に掛かりたいものである。ここでも「費用対効果」の数式が適用されてよかろう。国民の目は節穴ではない▼元首相、元閣僚らのパーティー券購入問題は、代金の「返却」によって「一件落着」したが、いずれ西松建設の「投網」は雑魚を狙ったものではなく、影響力を持つ大魚だけに的を絞ったものであることがうかがわれる。政治献金とは本来、国の将来を託せる政治家を育てるための浄財なはずだが、現実は「現在」を託す相手に限られている▼「水心あれば魚心あり」というが、政治献金の実体はこの格言に尽きる。贈る側、受け取る側それぞれ偽装にあの手この手を尽くしても、時に「上手の手から水が漏れる」ことがある。だから、わざわざ黄門様がお出ましになることもない。


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