貿易自由化のルールづくりで8年越しの対立が続いてきたWTOドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)は、年内合意を目指し閣僚会合が再び開かれようとしている。何が起き、これからどこに向かうのか。私たちは何をなすべきか。経済評論家の内橋克人氏に聞いた。
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――米国に端を発した世界金融危機を背景に「保護主義の台頭を許すな」とばかりに、WTO交渉が息を吹き返しました。どう見ていますか。
危険な論理のすり替えがまかり通っている。深い危機感を感じる。米国発の金融危機は、世界中に猛威を振るい、恐慌寸前の事態だ。危機の中にあってWTOは「第二次大戦を招いたような保護主義が復活しかねない」などと誤った言説で圧力をかけ、あたかも無原則な世界市場化、そのための自由貿易推進こそが危機からの脱出口ででもあるかのごとく、偽りの世界世論をつくり出そうとしている。
そもそも今日の危機、破綻(はたん)は震源地・米国発の新自由主義、マネー資本主義がもたらしたものだ。にもかかわらず、WTOは一片の反省もなく、再び同じ轍(てつ)を世界に踏ませようともくろんでいるかのようだ。保護主義を排除する“自由貿易”こそが戦争への危険を回避し、恐慌寸前の世界経済を救うなどというのは、まさに虚妄の論理そのものだ。
逆にWTOこそが、世界金融・経済危機への道を掃き清めてきた。WTOは、世界の富を増やすどころか、貧困を拡散した元凶だというのが私の考えだ。
――“自由貿易”では世界に未来はないということですか。
今、世界全体の交易額の3分の2は、マネー絡みの巨大金融資本、自動車、穀物商社はじめ国境をまたいで活動する超国家・多国籍企業内部の国境を超えた取引(同一資本の親会社と子会社間取引など)、あるいは多国籍企業同士の取引によって占められている。純粋に貿易の名に値する取引は、わずかに残り3分の1にすぎない。マネーに対する障壁を破壊し、世界をマネーの「お狩り場」にする。それを“自由貿易”といいくるめ、錦の御旗にしてきた。図らずも、そのからくりが白日の下にさらされたのが今回の危機の意味だ。
市場開放とは誰が求め、誰が利益を得るのか。WTOが進めるグローバリゼーションが「国際化」などであるはずがない。本質は「世界市場化」だ。世界を同一基準で市場化し、バリアフリー化し、全世界でわずか6万社にすぎない多国籍企業の利益追求の「お狩り場」にする。WTOは米国を中心とする多国籍・超国家企業の利益代表にすぎない。これが正体だ。
これまで「世界市場化」はWTO、国際通貨基金(IMF)、世界銀行の三位一体で強圧的に進められてきた。IMFは1970年代末から、たとえば経済破綻した国への援助と引き換えに、過激な市場開放、規制緩和、貿易・金融自由化、さらに国営企業の民営化を強制した。それまでの人道主義的支援から「ビッグバン・アプローチ」への転換だった。米国のオバマ次期大統領が選挙中から批判の対象としてきたのが、これを正当化する「新古典派経済学に基づく発展理論」だったことは、いまや世界の常識だろう。
■農を核に共生経済 古い米国の呪縛解き放て
日本ではあまり知られていないが、米国が世界戦略の中でゴリ押しに進めようとしたものに多国間投資協定(MAI)がある。1997年前後の動きだ。米国はMAIを経済協力開発機構(OECD)、WTOの場で通すことをもくろんだ。
MAIは、米国の「マネー」「ドル」による無際限な「投資の自由化」を世界に強制しようとするものだった。各国が独自に行う中小企業・地場産業などへの政策的支援から環境保護策までも「投資に対する障壁」ととらえる。MAIは、世界中の非政府組織(NGO)による強力な反対運動によってつぶれたが、狙いは米国一極の覇権主義そのものだった。この恐るべきMAIルールを、当時のレナード・ルッジェーロWTO事務局長は「これこそ統合された世界経済の憲法」などと定義づけた。
いまや「オールド・アメリカーナ」(オバマ政権以前の米国)に呪縛(じゅばく)されたWTOへの批判が世界的に高まっている。WTOの正体を見抜くべきときがきている。
――このままの流れが続けば、どうなりますか。
ウルグアイ・ラウンド交渉後、各国のNGOは、WTOの今後は、過去に行われた合意が何をもたらしたのか、富の偏在、格差拡大、一極集中などの現実を検証し、再査定する場(アセスメント・ラウンド)にすべきだと訴えてきた。いまこそ、WTO的グローバル化がもたらした無残な世界の現実を再査定すべきときだ。日本がこのままWTOの優等生でいくなら、日本農業の未来は根こそぎにされるだろう。
自由貿易体制の下、今年、資源・穀物の先物市場で投機マネーが暴走し、私たちの暮らしを直撃した。WTOが信頼に足る世界機関なら、この不条理な暴走を食い止めるべく、いち早くマネーに対する規制に動いていたはずだ。資源・穀物高騰、ついには世界金融・経済危機に至った今回の教訓を生かすことなく、「オールド・アメリカーナ」流儀の踏襲のまま、WTO交渉が続けられようとしている。
WTOは文明・文化の衝突の場といえる。米国型の大規模プランテーション農業と、日本の小規模、家族農業には根本的な質的相違がある。米国農業は工業的大量生産。日本は食、自然、地域、文化すなわち命の源流を育(はぐく)む。米国は、そうした歴史的な相違を一切認めず、市場原理に取り込もうとしてきた。
日本の交渉当事者は、WTOの裸の姿をしっかり認識して事に当たるべきだ。
――あるべき貿易の姿とは。
特定国への過剰な依存体制を仕組み、その地に根差す産業をつぶしてまで市場を制覇するような「覇権型交易」を許してはならない。互いに「良きものは交換しましょう」という「水平型交易」(共生経済)こそ、あるべき姿だ。
台湾はWTO加盟後に世界から米が殺到し「米のショーウインドー」と化した。零細な家族経営の農家は壊滅的な打撃を受け、農村は廃墟(はいきょ)となった。
温暖化が世界の課題となる中、二酸化炭素を排出しながら遠い国から平気で食糧を輸入することも許されない。食の自給圏形成に向けて踏み出すことの重要性は一段と高まっている。
――農業の疲弊は深刻。再起、再生の道はありますか。
私はフーズ(F、食糧)、エネルギー(E)、ケア(C、福祉・人間関係)の「FEC自給圏」の形成を主張してきた。農業はすべての営みの基本だ。単に食糧生産にとどまらず、多様な生態系を維持し、人の命、文化の源流となってきた。産業連鎖の核となるべき基幹産業だ。
食糧自給権は生存権そのものであり、それが脅かされている現状を深刻に受け止めなければならない。今後は、こうした生存の連鎖・連関性をきちんと洞察できる「自覚的消費者」を育てていくことが大切だ。「モノの値段は安ければ安いに越したことはないが、しかし、それはなぜ安いのか」。そう問える消費者を育てていくことだ。
中国製冷凍ギョーザ中毒事件が示したように、世界的な「貧困スパイラル」をさらに推し進めるような仕組みには加担しない、そう決意する消費者意識が求められる。
世界を覆う「競争セクター」は分断・対立・競争を原理としている。分断して、その間に利益追求のチャンスを求める。それに対抗して、連帯・参加・協同を原理とする「共生セクター」の足腰を強靱(きょうじん)なものにする運動を盛り上げなければならない。
「共生経済」を基盤としてこそ、私たちはWTOの暴走に胸を張って「待った!」をかけることができる。共生セクターの核として「農」が立つべきときがきている。
◇プロフィル
うちはし・かつと 1932年、神戸市生まれ。経済評論家。行き過ぎた市場原理、競争原理の社会・経済システムに対し一貫して警鐘を鳴らし、最近の日本の規制緩和、構造改革路線には痛烈な批判を浴びせている。主な著書に『匠の時代』『共生の大地』『内橋克人 同時代への発言』(全8巻)『規制緩和という悪夢』『悪夢のサイクル』などがある。