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アマテラス(天照大神)は、ツクヨミ(月夜見尊)に、「葦原中国にいる女神ウケモチ(保食神)とやらのところに行って来なさい」といった。
アマノクマヒトは、産み出されたすべてを天に持帰った。アマテラスはそれらを見ると、お喜びになった。「これは人間が食べて活きていくものなり」と言って、地上の人間にすべてをお与えになった。そこから、陸稲(おかぼ)、養蚕(ようさん)、水田稲作が誕生した。
これが、「日本書紀」の牧畜・農耕・養蚕が起った始まり言われる物語である。
土偶が女神の殺害のくり返しであるとする学説
Secret Witness そこで、偶像崇拝が単に偶像を拝むことだけを指すとしたら、それは誤解である。
Secret Witness
○牛がなぜ守り札になっている?
○牛頭大王(ごづだいおう)と婆利采女(ばりうぬめ)の謎
これで行列は・・・終わったという。この祭りは、朝廷から馬や田楽が、民衆から芸能の奉納があり、にぎわいは沿道ことごとく人で埋め尽くされたほど。以後、祇園御霊祭は官祭となったとされる。京都四条通の突き当たりに八坂神社がある。七月の祇園祭で知られているが、この神社がスサノヲの命を祭神に八坂神社と社名を改めたのは明治元年のことで、それ以前は祇園感神院と呼ばれた宮寺で、天台座主が別当をかねていた。祇園祭(ぎおんまつり)の前身が祇園御霊会だった。
○新人類の誕生
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○洪水伝説の真実 洪水伝説は世界各地の民族に見いだすことができるが、日本には残念ながらない。 洪水伝説の起源は、もっとも古くはシュメールの粘土板から解読されたものである。だいたい、共通する内容はつぎのように要約できる。神々の会議で承認され、戦士の神エンリルが洪水を起こし、人類を滅亡させる。天の偉大なる神々は大洪水を恐れ、彼らは身を引いて天神アヌのいる天に昇っていった。もう一人の叡智の神・エンキはこれに不賛成だった。一人の男に大変動の到来を告げて、船を建造させて救う。洪水は七日続き、どちらも洪水がひくと、救われた男は神々に犠牲を捧げる。最後に、エンリルはこの男を許して、神々の列に加える。イシュタルは、神々の集いで決めたことに後悔して、痛恨の叫び声を上げた。アヌンナキたちは頭を垂れて彼女とともに泣いた。救われる男の名前は、シュメール版では「ズィウズド」、セム語では「ウト・ナピシュティム」または、「アトラクハシス」、それぞれの種族で名前こそ違うが一人の男性である。これは、ヘブライに伝承されて、ノアとなったのだろう。洪水伝説はシュメール人種に起源するもので、セム種族のそれは借用だろうと言われている。ヘブライ版はさらにその後である。
これが、すでに紹介した中国の伏羲(ふつき)と女(じょか)の神話であるが、類似した洪水伝説は世界各地にあって、それらが伝播した神話なのか、もともと其の地で伝承されていたのかは定かではない。 もっとも古く、そして起源的な神話はシュメールの粘土板に記された内容だった。
日本にワニがいたのは、ナウマン象と同期していただろう。ナウマン象が4万年前から、原人はその肉を食べていた。2万1千年頃に起きた大洪水伝説にまつわる大災害でナウマン象が消えた。日本のワニもこの時、一緒に絶滅したと考えられる。日本列島は一挙に緯度で20度近く北にジャンプした。さらに、南北が逆さまになってしまった。フィリピンプレートと太平洋プレートに押されて、左にほぼ120度回転したのだ。琵琶湖の湖底を静かにボーリングして、湖底の地層をスライスして分析すると、鉄の微粒子が逆さまになっている層にでくわす。地球の大異変があったのだろう。ナウマン象やワニが滅びたと同時に、原人も消えてしまった。そう考えられる。 シュメールのギルガメッシュには大洪水の記録が残されており、この時に大地殻変動があったと思われる記述がある。こうした伝説は世界各地に100以上あると言われている。 この地球規模の異変によって、現在の海水位は、その異変の前より300b以上、一挙に上昇した。いまの世界地図は、なんとたった2万前にできあがった。それまで、日本は大陸と地続きであった。彗星が数万年周期で地球に接近し繰り返し、地球に壊滅的な破壊をもたらしていたのだ。さて、マンモスや生き残りの恐竜はこのときまで生存していた。かつて、人類は恐竜に脅えながら生活をしていた。 凍土にくるまれたままのマンモス シベリアのタイミル半島で、臓器も損傷なくマンモスが冷凍状態のまま掘り起こされた。なんと2万380年間、永久凍土の中に眠っていた。マンモスは「ジャコフ」くんと名づけられた。ジャコフくんは、凍ったまま旧ソ連軍の貯蔵庫の巨大な洞穴に納まった。(1999年12月6日朝日新聞) 日本の「マンモス復活協会」は、ジャコフくんの完全なDNAの採取を目指している。ジャコフくんのおかげでマンモス復活は夢ではなくなった。ジャコフくんも、すでに大きな謎に包まれている。彼の体には、青々とした草が付着し、小さな赤い花も見つかった。死ぬ直前までもっと温暖な気候地帯に居たのである。これは、ジャコフくんが腐敗する間もなく、おおきく北へ移動したということで、地軸の極ジャンプが短時間で、一挙に起った可能性が高い証拠である。 [恐竜が歩く絵文字?] この上下二枚の画像は、エジプトのカイロ南500km、スハグ県のスコーピオン一世の墳墓から発掘された世界最古と言われる文字である。これを文字とすれば、シュメールのくさび形文字より古い。ドイツの考古学研究所は、これらの文字は約5400年前に遡れるものがあると発表した。(98・12) 線刻文字であるというのは発表されただけで、確かなことではない。あるいは、祭器に使われた粘土版で、画である可能性もある。仮に文字だとして、これから以下は絵文字という。 この絵文字の上の一枚には、どう見ても恐竜ではないかと思わせる生き物が描かれている。下の画像の二匹の生き物はなんと、二本足歩行をしている。ラクダでもない、鳥でもない。残された選択は恐竜だろう。この生き物が恐竜だとすると、この絵文字が発見された墳墓が3200年前に造成されたことはどうでもよいことになる。この絵文字は、人間が恐竜を描いた、あるいは描ける記憶があった時期に刻まれたことになる。なんと、驚くべきことに、12000年以上前に遡るイメージが描かれたことになる。 ペルーのイカで発見された恐竜が刻まれた石(紀元前3500年頃)(南山宏) ○原人という古代人 古代人類は、結合したペニスとヴァギナの造形に至福(不死)と豊穣を透視した。縄文の超性のシンボルは、リンガによって表わされる。リンガは大地と天空の結合である。このような、もっとも初期の原形を見ることができるのは、縄文中期の大男根石である。そこは大地のへそとなった。中心からは、大地の気が噴出して、天をつき、再び地に戻った。荒地でさえ豊かな地味をもって潤い、見違えるようになった。雑穀も、果実も妖精が守護し、そして狩猟もうまくいった。毎年の収穫のあと、生命が再びよみがえることを祈願した。旧石器時代の原人の居住跡でも規則的な穴が見つかった。(2000年2月21日朝日新聞ほか)5万年前、すでに部族的集団社会を作り、広域での交易を行い、また、呪術的な祭事もあった。ただ、原人は、ホモサピエンスではなく、現代人の祖先ではない。彼らは、なぜか一人残らず滅びてしまった。原人とは、広くネアンデルタール人、ペキン原人、ジャワ原人、明石原人、そして、小鹿坂の”秩父原人”のことである。 およそ、20万年前、アフリカの一組の新人類から現代人が誕生した。大洪水は、20万年より以前で、それまで原人が石器時代を形成していた。新人類が増えて、ヨーロッパ人とアジア人が分岐したのは、まだ9万年前である。縄文人と呼ばれる旧石器人は、この7〜5万年前から日本に来たのである。古代人は2相あって、滅びてしまった人類を原人、現在につながる人類を新人類とよびわけると、縄文人は新人類であって原人ではない。 新人類は5万年前から2万年までマンモスが大陸と地続きの時に日本に渡ってきている。大陸からマンモスと一緒に日本に来たのが縄文人を形成した。 その後、日本は、海に孤立した。やがて、1万年すぎから南方系族(インドネシア・パプア・ミューギニアなど)が黒潮にのって渡海し、漁労が盛んになり南方型習俗が拡がる。ここで、これらの人々が基本的な日本人のベースを作ったと言える。 そこに第一次、BC6000年頃から遼東付近から殷を勃興させたインド系シュメール人が渡海し、水稲耕作を始めた。*岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚からは、今のところ最古のプラントオパールが発見されたが、これが約6000年前である。三内丸山遺跡の縄文人は、この渡海系の人々だろう。中国では、BC7000年頃から、黄河と長江の高温多湿で肥沃な土地で水稲が行われていた。この時は地球が高温期で、関東、甲信越、東北地方など北の方が住みやすく発展していた。いわゆる「牛と蛇のトーテム種族」である。また、土偶や土器が盛んに作られた。すでに銅の精練技術はすでにあった。また、第二次にはケルト人とインド系シュメール人がアーリア民族移動期の前1900年すぎから渡来した。彼らは、遺伝子的に酒にとても強い。 *プラントオパール 植物に由来するガラス質の細胞の化石。植物の種類によって形状が異なる。イネ科は地中から珪酸(けいさん)を吸収して細胞にため込む性質がある。 BC1000年頃から東南アジア、長江、雲南・インドネシアから倭人という人々が(弥生人の中核)が渡海し、広く潅漑稲作を開始、弥生式土器と鉄器の農耕具を残した。とくに長江のすぐれた焼物が日本にもたらされた。鉄の生産技術が同時に入って来た。彼らは、遺伝的に酒に弱い。 その後、紀元前後から加耶、百済、高句麗、新羅などから主として騎馬系モンゴロイド渡海人が来たと大筋を組み立てることができる。 ○日本語とシュメール語
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*石上神宮の七枝刀の謎
第六章こうやの宮の謎のご神体へ戻る。 邇芸速日命(にぎはやひ)が大倭で、物部氏の長脛彦(ながすねひこ)の妹を娶って、生まれたのが宇摩志麻治命(うましまじのみこと)。宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上して、瓊々杵命(ににぎのみこと)に帰順した。これらの品々は、十種神宝(とくささんたから)と言われ、布留魂大神(ふるのみたまのおおかみ)の御霊である。「ひふみよいむなやことたりももちよろず ふるっべゆらゆら、ふるべゆらゆらとゆらかしまつれば、まかれるたまもいきかえりなん」と唱えてゆらゆらと振ると、死人も生き返る霊力マナ(Mana)があったとされる。これを布留倍の祝詞(ふるべののりと)と言う。素戔嗚が、はじめ紀伊国熊野邑に上陸したときから持っていた神宝剣で、佐士布都神(さじふつのかみ)、又の名を甕布都神(みかふつのかみ)、又の名を布都御魂(ふつのみたま)とも言う。石上神宮はこれを祀った物部氏の氏神であり、その権力の象徴であった。物部の長は大連(おおむらじ)で、朝廷最高の職官にあった。すべてが、「邇芸速日命」を総氏神とする。例外的に島根県の物部氏は、邇芸速日命の子「宇麻志摩遅命」を総氏神にしていた。神剣は王権の徴(しるし)であり、これを奉る大きな意味があった。石上神宮は、宝剣そのものが依代(よりしろ)という異例の社である。石上坐布留御魂神社(元名)の布留(ふる)は、魂振り(たまふり)の呪術、鎮魂(ふるみたま)からきたとされる。この場合、韓語でフツは、火、赫(かがやく)く物の意味があった。これが、語源ということになる。たまふりに使う用具にフツがあったらしい。二十二社本縁という古書に、「鎮魂(たましずめ)は、身体から遊離している魂を身体の中府に鎮めるの儀で、この十種神宝の御名を一宝づつ唱えて、それを呪文とし、それを振るのである。だから、石上神社の神のことを『ふるのかみ』と申し上げるのである。」とあり、「ふる」は、そこで、鎮魂(ふるみたま)からきた・・・と考えられている。 そこで、さらに別の角度から可能性を探ってみよう。物部氏は天皇を輩出してきた母系氏族で、言わば皇軍の支柱だった。赤い丹塗りの軍装をした兵は、真っ赤な旗を林立させて大地を覆うように陣を構えた。「赤」といえば、紛れもない物部の皇軍だった。彼らの太刀の柄(つか)には赤い丹塗り(にぬり)を施し、刀尻には赤い布を裁って飾っていた。そこで、物部の宝剣は、「赤」というアイヌ語、「フレ」が語根であるとも考えられる。子音のr音は、t音に日本語化されるので、フレはフツにもフルにもなるのである。物部氏の東国拠点、鹿島神宮・香取神宮が蝦夷との接点だとすると、蝦夷語が入っても可笑しくない。 もう一つ、「ふる」、「ふつ」にある語根にある意味を探ってみよう。 「ふ」は、「あらたまの年が来布礼(きふれ)ば、」の用例から、日、月、年、時が、くりかえす・めぐるといった意味に使われるた。また、「もっとも重要なもの」といった意味もあった。それが転じて、単独で、太陽を意味していた。 次に、「つ」は、海神(わだ・つ・み)・山神(やま・つ・み)のように、日本語の膠着語特有の助詞とみることができる。 一方、「る」は、坐すといった意味で、「ある」という語根から来ている。どこどこに坐す○○神という用例の古代語となる。・・・そこで、「ふ・つ(る)・みたま」で、「日のみたま(霊)」という単純な意味になる。さて、ここまでは判った。 そこで、佐士布都神(さじふつのかみ)、又の名を甕布都神(みかふつのかみ)の、「さじ」と「みか」が、地名か、神の名称・・・のどちらに対応しているのだろうか。新たな重要な謎が生まれてしまった。「さじ」と「みか」は、いったい何を意味するのだろうか。・・・? この剣は、はじめ素戔嗚尊が持っていた。そして、子の邇芸速日命に相続され、次に武御雷神がこれを譲り受けて、瓊々杵命に献上されたという経緯(いきさつ)がある。佐士布都神(さじふつのかみ)と甕布都神(みかふつのかみ)とは、剣の持ち主、つまり王そのものを意味していた。 ○素戔嗚尊は、刺国(ダビデ王国)からやって来た! 佐士布都(さしふつ)を分解すると、およそ次のようになるだろう。フツ・フルとも、「高千穂の久士布流(くしふる)(久士は、肥後から薩摩にかけての地名、瓊々杵命の降臨地)」(古事記)の用例と同じで、フツ・フルとは、「坐(ましま)す・降下鎮座なされる」という古代語だろう。そこで、「佐士(サシ、サジ)に坐す」と、読み下すと、「サシ」という地名に落ち着く。つまり、「サシ・サジ」とは、「刺」と書ける。すでに第七章で紹介したように、大国主命は、天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ)が、刺国(サシノクニ)の大神(おおみのかみ)の女、刺国若比売(さしのこくわかひめ)を娶って生まれたと古事記に書かれている。日本書紀の第四の一書では、素戔嗚尊は、その子、五十猛神を伴って、新羅の国に天降り、曽尸茂梨(ソシモリ)にまして、その後、素戔嗚尊は埴土(しょくど)にて船をつくり、出雲に到着したと書かれている。(ソシモリとは朝鮮語で、「高い山」という単純な意味) 素戔嗚は、刺国から、新羅の聖山に天降り、それから出雲に渡海したのだろう。第七章で紹介したように、刺国とは、海外の地名の音写だと思われる。刺国は、素戔嗚の本来の出自(故郷)ではないだろうか。前章の解釈に従えば、刺国は中国内領域ともとれるが、ダビデ王国ともとれる。 なんであれ物部の奉る祖神とは、ストレートに素戔嗚尊に直結する。 音がそれぞれ訛っているが、これらは皆同一の地名から来ており、素戔嗚にすべて比定できる。 1)佐士布都神とは、まさしく素戔嗚尊のこと。神剣は王権の象徴であった。神剣を依代にしているが、素戔嗚尊を奉っている。呼び名は他にもあり、伊波比主神(イワイヌシノカミ)、斎主神(イワイヌシノカミ)、豊布都神(トヨフツノカミ)とも言われる。これらすべて、素戔嗚尊のことである。 2)甕布都神(みかふつのかみ)の「ミカ」は、「ミケ」の訛りで、これも素戔嗚尊の別名である。「ケ」は、稲の意味で、素戔嗚尊の異名。熊野本宮大社(くまほんぐうたいしゃ)の、「家津美御子大神」(けつみのみこのおおかみ)とは、素戔嗚尊のことである。 ○50に関連する事例 なんと、シュメールでは、神々は数字をもっていた。エンリルが50という数字をもって、雷神を意味することは、日本でもいくつもの似たような例をあげることができる。出雲(いづも)は、「いつも」が古音で、五十+津+藻ともだという説がある。出雲の代表的豪族が信奉した石上神社の『いそ』の音は”50”の古代音から来たかもしれない。「い」は、「・・・五十隠る山のみ峰の・・・」(いかくるやまのみをの)(記・清寧天皇・童子の名乗り)のように、五十は「い」と読まれ、神が坐す山の意味になる。「い」は、恐れ多く直接御名を呼ぶことをはばかるとき使用された。別に、「斎」は「い」と読まれ、神聖であること、タブーであることといった意味をもつ。「い」は、神を指す「それ」とか、「もの」とかいった代名詞であった。「い」に五十という数字があてられている。このことは大きい意味を持つ。
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○十握剣(とつかのつるぎ)の秘密 スサノヲは後に牛頭大王として祀られた。スサノヲはとして、あるいは族長の英雄神として祀られたのであろうか。牛頭大王と婆利女の神名は韓国に牛頭山という山がたくさんあること、また、スサノヲが新羅のソシモリ、(韓国語で牛頭、牛の首の意味)にいたと日本書紀にあることから、牛頭の由来は朝鮮渡来の神名とされる。(八坂神社編) スサノオは出雲神話に登場する牛族系の神であるのは周知のことだ。スサノヲがエジプトの「ホル」や、シュメールの「エンキ」という古代の普遍的な神を体現しているのだろうか。そして、スサノヲが、革新派で大蛇神を殺し、稲田比売命(いなだひめのみこと)を救って、結婚するが、この結婚譚の背景にはなにが隠されているのだろうか。 T、大蛇 U、人身御供の女 V、救済する男 W、古代の呪術を転覆すること。 X、異種族結婚をしていること。 ・・・・この要素は、卑弥呼の人生そのものと言えるほど良く似ている。 この話は、驚くことに大蛇は大神の大物主、人身御供の姫は卑弥呼、救済する男は瓊々杵命(ににぎのみこと)と、ほぼ同じキャストにあてはまる。すでに紹介したホト突き神話のように卑弥呼は、大物主神(大蛇)に、自ら生贄(いけにえ)になった。と、すれば、この物語はなんと悲しい結末なのだろうか。 また、牛をトーテムとする種族と蛇をトーテムとする種族がからんでいる。そこで、異種族結婚を盛んにだったことを示すのではないだろうか。母権性社会では近親結婚をタブーとし、遠縁の男をむしろ歓迎した側面をもっていた。
*閻魔大王 中国では十王の一人となっている。別名、閻羅王。仏教のタンカなどでは、すでに角(つの)が無くなってしまっている。〔仏〕(梵語 Yama) 地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神、冥界の総司。経典によっては地蔵菩薩の化身ともいう。像容は、冠・道服を着けて忿怒の相をなす。もとインドのヴェーダ神話に見える神で、最初の死者として天上の楽土に住して祖霊を支配し、後に下界を支配する死の神、地獄の王となった。地蔵信仰などと共に中国に伝わって道教と習合し、十王の一となる。焔摩。閻羅。閻魔王。閻魔羅闍(エンマラジヤ)。霊異記下「忽然(タチマチ)に死して―の国に至る」(広辞苑四版) *ヤマはチベット語だが、タイ語ではヤーク。「鬼」の意味となる。そこで、「薬師寺」のヤクは「鬼」という意味である。このことは、すでに知られていることだが、薬師寺にヤクはどこにいるのだろうか?探してみると、おられましたね。どこに?かと・・・いうと、本尊台座の四方にちゃんといましたね。 薬師三尊像とその台座 台座に彫られた窓のような部分にヤックがおられる。ヤックは「薬」の音訳である。 本尊台座(国宝)に描かれるヤック(鬼)は、窓から顔を外に覗かせているといった感じで、まるで閉じこめられているように見える。
Secret Witness スサノヲ=ヤマはなんと古代ペルシャ、インドにまたがった広大な地域、ほとんどヨーロッパ・ユーラシア大陸全域に広がって信仰されていたのである。「マヌの法典」ではヤマは死者の審判者で、生前のおこないの賞罰を司る。それにしたがって、死者はスヴァルガかナラカ(天国か地獄)に行くことになる。このスヴァルガとナラカは「のるかそるか」という日本の俗語になり、いちかばちかという意味合いで現在も使われている。スサノヲは、冥界とのあいだの「境界神」でもある。日本密教の真言陀羅尼(しんごんだらに)が梵字の音写だったと考えれば、こうした庶民言葉にインド語が残っていることも驚くこともなかったのだろうか。スサノヲをスサ・の男と分解すれば、これはシュメールにあったスサという都市の男という意味になるが、ちょっと捨て難い解釈である。
○半島の神話は卵生型という元型がある。 新羅の国号の前は鶏林と呼ばれた。新羅では神聖な場所を鶏林(けいりん)と言い、聖なるニワトリやその卵は人々は食べなかった。従って、慶州では卵が神聖なものだった。
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Secret Witness
神格をもつヘビ
ヘレニズム文化圏の蛇となると、ゼウスこそ大蛇神として崇められていた。つまり、大物主神はまさしく「ゼウス」。大物主神は天上の最高神ということになる。日本神話はギリシャ神話のオルペウスと非常によく似ている。イザナギはオルペウス、イザナミはエウリュディケとすると神話全体の筋書きが一致している。アマテラスは女神デメテル、スサノヲはポセイドンに当てはまる。大国主命はアドニスの話。あまりにもギリシャ・ヘレニズムに近いのは不思議である。 神々が宇宙人ならぬ、宇宙蛇であったと考えるのは、あてずっぽうではない。むしろ真相を単純明快にしてくれる。仮に彼ら神々を宇宙蛇族と読んでみよう。宇宙蛇族は、神として人間の上に君臨し、かつ、人間を食料としていた。なぜ、神々が人間を好んで食べていたのか、それは、伝承のなかに数多く見いだせる。古代では、人間を供犠として差し出しだすことが現実に行われていた。あの、マヤ文明では13世紀のころまで、神殿で若い男女を供犠に捧げていたのはよく知られている。また、スサノヲの八又の大蛇も、似たような話だ。大蛇に喰われなければならない櫛稲田比売がいて、それを救うという筋書きである。ようするに、蛇が若い娘を食べるというのである。箱根の「芦の湖」の伝説では、龍神が若い娘を毎年、供犠に要求していた。蛇神は完全な肉食で、とくに人間を、むしょうに喰いたくなる寄生獣だったようだ。こうした意味では、蛇が神々として恐れられていた謎は氷解する。 ウラボロスと不死
望山島とはセイロン島のことだろうか。このインドの王姫一行が海路でインドから朝鮮半島にやってきたのが事実とすれば西暦50年前後のこととなる。この姫はドラヴィダ語の一つを喋っていたのだろう。「船に乗って、(海をわたってきた)」と語っている。インドから船で航海することが紀元一世紀に現実に可能だったと推測される。ところで、中国人は、加羅国(朝鮮南部)も倭国と見ていたらしい。また、安羅には日本府(やまとのみこともち)があったところ。加羅国はAD562年に新羅が併合したとき、大半の加羅人が日本に亡命したと言われている。 ○スサノヲの后も異種族?
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Secret Witness なんと、ターラーは多羅菩薩として、 伝真言院胎蔵界曼陀羅の蓮華部院のなかに描かれている。 ヤマは焔魔天(えんまてん)として 外金剛部院南に、 ナーガ(ナーギ)は、難蛇竜王(なんだりゅうおう)、 跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)として、 外金剛院部南、西、北の三門に、 マホーラガは 外金剛北に摩ご羅伽(まごらか)として三尊ほど描かれている。 古代の神々が包摂され、今も息づいている。マンダラはまさに壮大な歴史をもった神々、仏菩薩たちのパンテオンでもある。マンダラはパンティズム(汎神論)の頂点だといえる。しかし、それは多神教ではなく、一つの原初仏大日如来の化身(ペルソナ)でもあるので一神教でもある。欧米のキリスト教の指導者たちは、ほとんどこのパンティズムを理解できないでいる。
**Secret Witness
第8章 |