「定家の否定的表現」赤羽淑 1/2 |
論文の標題は『定家の否定的表現』で、昭和五九年、有精堂から
の日本文学研究資料叢書『西行・定家』に掲載された。
著者は当時、ノートルダム清心女子大学文学部教授で
あった赤羽淑氏である。 定家の 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮
「例の有名な『見わたせば花ももみぢもなかりけり浦
の苫屋の秋のタぐれ』という歌について、古来さまざ
まな解釈がなされてきたが、現在もなお論議をよんで
いる。 否定的表現(この場合だと『なかりけり』)に定家の 特徴を見ている。「否定的表現は量的に多いばかりで なく、一般に代表作とみなされている歌に多くみられ る。」といい、次のようにこの歌を分析している。
「『見わたせば花ももみぢもなかりけり』はあきらか
に否定表現であるが、作者はここで『なにもない』と
はいってない。『あらゆるものがない』とも言ってい
ない。『花ももみぢもない』けれども、なにかがある
のである。この(なにか)を視ているのである。
「吉野や立田に花や紅葉がないというのなら月並にな
り、また浦の苫屋の「秋のタぐれ」が「春のあけぼの」
では否定表現が生きてこない。 そこで何をいわんとしたか? これまた、追々、勉強することにしよう。 ところで西行はこの『なかりけり』をどのように使っ ているかに興味をもち、『山家集』からあげてみた。 |
|
||
山寒み花咲くべくもなかりけり 定家は現実を超越した世界を目指し、西行は現実への こだわりを捨てきれなかった。それを歌で表現した。 歌と現実が同じレベルにあった。否、置こうとした。 一方、定家は置こうとしても置ききれぬ時代に生きね ばならなかったのかもしれない。 |
|
赤羽淑コーナーのつづきです | 西行の研究のトップページに戻ります。 |