西行学習ノート NO.010.1
「定家の否定的表現」赤羽淑  1/2

論文の標題は『定家の否定的表現』で、昭和五九年、有精堂から の日本文学研究資料叢書『西行・定家』に掲載された。 著者は当時、ノートルダム清心女子大学文学部教授で あった赤羽淑氏である。

定家の

  見わたせば花も紅葉もなかりけり
     浦のとまやの秋の夕暮

「例の有名な『見わたせば花ももみぢもなかりけり浦 の苫屋の秋のタぐれ』という歌について、古来さまざ まな解釈がなされてきたが、現在もなお論議をよんで いる。

この一首が、解釈者の問題意識を誘ってやまないのは、 この歌にみられる否定表現によるものではなかろうか。 定家の歌には否定的表現が意外に多いのである。

それは、定家のどのような精神構造に根ざすものであ り、さらにまた、定家の作風とどのようなかかわりを もつものであろうか。」

と赤羽淑氏はこの歌を核として定家の表現とその背景 について考察している。

否定的表現(この場合だと『なかりけり』)に定家の 特徴を見ている。「否定的表現は量的に多いばかりで なく、一般に代表作とみなされている歌に多くみられ る。」といい、次のようにこの歌を分析している。

「『見わたせば花ももみぢもなかりけり』はあきらか に否定表現であるが、作者はここで『なにもない』と はいってない。『あらゆるものがない』とも言ってい ない。『花ももみぢもない』けれども、なにかがある のである。この(なにか)を視ているのである。

この(なにか)は表現を超えるものであるために、 否定表現を通じて逆に、または暗示的に表現しようと するのである。この否定表現は、表現を超える存在を 志向的に指し示しているとみることができる。」

そして、これをもう少し噛み砕いて説明している。

「吉野や立田に花や紅葉がないというのなら月並にな り、また浦の苫屋の「秋のタぐれ」が「春のあけぼの」 では否定表現が生きてこない。

浦の苫屋に存在しないはずの花や紅葉を一旦ことぱに 出してから、そこにないとひっこめるところに複雑な 味わいが出てくる。「ない」と存在を否定されながら、 花と紅葉の幻影がそこに現われるからである。

そして、現実の花紅葉よりはもっとほの暗く、また、 現実の浦の苫屋の秋のタぐれよりはもっと華麗な世界 がそこにひらける。 それは眼前の景色より奥深く、 微妙なイメージと気分をともなっている。
この否定表現は、否定的なものを存在に転換する不思 議な力をもっている。」

 定家がなぜにこのような表現方法を採ったのか?
 そこで何をいわんとしたか?
これまた、追々、勉強することにしよう。

ところで西行はこの『なかりけり』をどのように使っ ているかに興味をもち、『山家集』からあげてみた。
西行・定家
見わたせば

   山寒み花咲くべくもなかりけり
        あまりかねても尋ね來にけり

 閑中時雨といふことを

   おのづから音する人もなかりけり
         山めぐりする時雨ならでは

定家の否定表現が人も入り込めぬ冷徹な世界に対して、 西行は否定しながらも否定しきれぬ余情を残す。 そこには、まだ「ひとのぬくもり」がただよっている。 救いがある。定家が否定的表現で浮上させようとした 世界は、確かに美しいのだが、それはイメージの世界、 幻想の世界である。

定家は現実を超越した世界を目指し、西行は現実への こだわりを捨てきれなかった。それを歌で表現した。 歌と現実が同じレベルにあった。否、置こうとした。 一方、定家は置こうとしても置ききれぬ時代に生きね ばならなかったのかもしれない。
山寒み


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