タイヤ交換2つの気持ち
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お仏壇(お内仏)の灯明(ロウソクの火)は何を表しているのか?
それは
私の“闇”を、仏の“光”に照らして明らかにしていただく、
という意味があります。
仏の“光”とは、
お釈迦様(仏)の覚られた「ものの見方」、つまり【智慧(ちえ)】を表します。
ある先生の解釈によると、
【智慧】の
「智」とは、この世を生きるために働かせる認識能力、
「慧」とは、現象の真実の姿を見つめる認識能力。
まとめると、
【智慧】とは、
“事実をどこまでも事実として ありのままに認める働き”
ということであり、
それは、
「縁起」というものの見方に目覚めて開かれてくる「ものの見方」だ、と説きます。
それでは、その【智慧】とは、どんなふうに「ものを見る」のかというと・・・・
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すべての存在は種々の条件により【因縁】
仮にそのようなものとして成り立っている【五蘊仮和合】
ゆえに条件次第で変化し【無常】
独立的存在をもたず【空・無我】
互いに依存する【お陰さま】
以上は、以前に何かの本からメモしたものです(何の本は失念してしまいまました)。
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・・・・またまた難しいですね(苦笑)
でも
お仏壇のロウソクの火は、
そういう「教え」にワタシ自身を照らす意味があるのです。
決して、線香に火をつける為の「火だね」ではありません(笑)。
あと
法要の最中にロウソクの炎が大きく燃えだしたりしたら
「あ!亡くなったバアチャンが帰ってきたんだ!」
と自己流に解釈する方が以外といるんですが、
(そう思いたい「情」としては分かりますが)、
ロウソクの炎が大きくなったのは、ある「条件」のもとでそうなった「事実」であり、それ以上の意味はないと思います。
ま、自由ですけど・・。
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さて、
4月に入った。
テレビをつけると
入社式やら進級・進学の話題。
京都の兄貴のとこも、甥っ子が高校に、姪っ子が中学に入るのだが、
やはり4月になると「春っ♪」って感じがしていいな。
しかし、年度が変わっても
お寺には
“新入僧侶”が入ってくるわけでない。
特に変化のない私も
「仕切り直し」
がしたくなって、
新しい「着物」をおろしてみた。
でも
たいして気分は変わらないわ…(笑)
さて
頑張るか!
今朝テレビを見てたら、化粧品のCMに綾瀬サンが出ていて、
少しだけココロが踊ってしまった。もうすぐ40歳なのにお恥ずかしい…
振り返れば、
アイドルやタレントなどの芸能人に対して……
・10代の頃は恋をした。(例えば、菊池桃子に)
・20代になると、恋はしないが 妄想は抱いた。(例えば、石田ゆり子に)
さすがに30代も終わろうとしている今は、「恋」もしないし、「妄想」も抱かない(笑)
《もし、そんなんならヤバイ(汗)》
ただ綾瀬サンを見ると
なんだかお気に入りの「絵画」をしずかに鑑賞しているような
なんかホッとするような……
つい
コンビニで雑誌の表紙に彼女を発見してしまうと……、
買ってしまうんだよな。
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今日は午後から何もなかったし、天気も穏やかだったので、
ビートル君の夏タイヤ交換でもしようかな〜〜〜
て思ってたら、
アマゾンから本が届いた。
先日注文していた
白岩玄・著「空に唄う」(河出書房新社・刊)
だった。
タイヤ交換は中止にして、さっそく小説を読み始めたら、どんどん引き込まれて、一気に読んでしまった。
※※物語は、23才の新米僧侶の海生が、同い年の女子大生・碕沢さんのお通夜を勤めるのだが、なぜか、彼には亡くなったはずのその碕沢さんが見えてしまう。しかも、彼女は海生にだけしか見えない。自己主張できない引っ込み思案な海生がドキマギしながらも、その同世代の“女子大生ゴースト”と過ごす日々。実際には亡くなっているはずの彼女に自分は何をしてあげられるのか悩みながら、次第に彼女の存在が大切なものに・・・。。そして、、突然の「別れ」。 それが、お寺の日常をベースにした中で展開していくストーリーだ。
“ゴーストに恋をする”っていうのは、よくある設定かもしれないけど、
僕がこの小説に引き込まれてしまった理由は、新米僧侶ならではの日常の描写である。
・住職(ジイチャン)とお参りを分担しているところ、
・朝や夕方の本堂でのお勤めの場面、
・突然入る葬儀、
・クリスマスの季節の対するギコチナサ?
・お坊さんに遠慮なくチョッカイをかけてくれる檀家サン宅の可愛いちびっ子!
・除夜の鐘やお正月のお寺の様子、
・住職の代理で法要(49日)に行かなくてはならない場面での若さ故の遠慮、、、、
・近所に住む学生時代からの悪友、、、
・相談できるちょっと可愛い女友達・・・・
などなど、そういった「お寺に住む人間の日常風景」の描写が、あまりにも僕自身の過去(今もか・・・?)と重なったからである。
なので、小説を読みながら、僕の頭の中に浮かべた「情景」は、僕自身の交友関係や人脈の中での人物でした!!(笑)
それに・・・
ふだん、亡き人が迷ってるとか、タタリがあるとか、いわゆる「霊」といった類の話をする事は、ものすごく嫌いな「真宗僧侶」の僕ではあるけれど、
こういう物語は、罪がなくていい。
突然に彼女がいなくなったあとの描写。
部屋で彼女が使った毛布がそのままだとか、遊んだゲームや食べたお菓子がそのままだとか、着信履歴に残る彼女のナンバーに何度も携帯をかけてみるとか・・・・そういったシーンには、切なくて、苦しくなってしまった。
あと、読みながら思ったのは、
“ゴースト彼女”と お寺の中で一緒にいても、自分以外の家族には見えない、分からない、でも、何となく怪しまれる・・・、そして、そんな関係を友達にも信じてもらえないからこそ語れない・・、それでも、積み重なってく2人の時間と思い出・・・。
これって、“ゴースト彼女”じゃなくても、
周囲に知られずに「水面下」での恋愛をキワドクしてきたような人には重なってしまうのでは??
な〜〜んて、
なぜか・・・泣けてきた僕でした・・・・(大笑)
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先日の研修会で講師の先生のご法話を聞いた。
まとめると、
「仏法を聞く事」自体を目的とするのではなく、
仏法を聞いて、親鸞聖人と同じ「ご信心」をいただくのが目的でなければならない。では。その親鸞聖人の「ご信心」の内容とは、
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へは まいるべきなり。」(『歎異抄』第9条)
という “まるごと人生をいただく”智慧である、と伺った。
まるごと人生をいただく、というのは、生も死も踏まえた(生死を超えた)世界である。
これは、
「自分に、死がおとずれた場合には、潔くカッチョよく死ね!」と言っているのではない。
「なごりおし」いのである。死にたくないのである。
でも、名残惜しい自分のままに、娑婆(この世)の縁が尽き、死んで行かなくてはならない時には、かの土(浄土)に参らせてもらおう・・・
つまり、「行く先」が定まっている・・・ということ。
繰り返すが、「行き先」が定まると言っても、やっぱりこの世には未練タラタラ名残惜しいし、死にたくないのである。
死にたくない自分、そのままの自分に寄り添う「真実」に,
今、気づかせてもらうのである。
それは、自分自身の心オンリー(自力)からは生まれてこない。
しかし、親鸞聖人の【浄土真宗】と一口に言っても、実は、宗派によって、人によって、受け取ったバトンによって、微妙なニュアンスの違いがある。
例えば、
「心配いらないよ、死んでも浄土があるから」
という言葉から、「死後(死んでから)の安心」という事をいただいたとする・・・でも、「死後」では、「今・ここ」にいるワタクシ自身のパワーにならない。いまの僕は、このニュアンスでは シックリいただけない。むしろ、誤魔化されたような気がしてしまう。
でも、
「心配いらないよ、死んでも浄土があるから」
という言葉の「心配いらないよ」という部分に力点を置いたとする。すると、、この私が、生きている「今・ここ」を心配なく歩める・・・という受け取り方になる訳で・・・・、
指定券を買ってあるので、混雑している休日でも安心して駅に向かえるって感じか?
同じ言葉を聞いても、微妙に違ってくる。(実は、真宗の書物を読んでいて、いつも難しく思うのは、こういった類の解釈の違いである。)
それから、
【他力】という言葉も、誤解されている。 自分は何の努力もせずに、他人をアテにして、いいとこ取りしようとしている「怠け者」「弱虫」という誤解である。
【他力】の反対語は、【自力】である。
自力とはどんなものか?自分の力を信じて、自分で何でもやってやる!と頑張っている私。 一生懸命に自力を尽して、努力をして、知識・経験を積み重ね、マジメにマジメに生きてきたとしても、
「死」という厳然たる事実の前には、知識も経験もマジメさも、そのすべてが吹っ飛ぶ。
それを、「自力無効」という。
「他力」とは、実は、「自力」を尽し一生懸命頑張った人が、そんな自分に破れ、見えてくる世界かもしれない。
身内や大事な人の「死」に出逢うということは、亡き人が他力となって「自力無効」を教えてくれている、ということだ。
「厳然たる事実」が、「自力」オンリーの私を問うのである。
しかし、
これは、「もう頑張らない」「もう努力をしない」ということではない。
今の自分の「モノサシ」の有り様を点検する機会をいただいているのである。
“まるごと人生をいただく”智慧をいただかなくては、
自力オンリーでは、いずれポキッと折れる。
いや、
ポキッと折れたからこそ、
「このままの自分」を照らす「もうひとつの世界」が見えてくるのか。
亡くなった方は、私に、
「死の前には、自力無効だよ、大丈夫かい?」
と問いかけている。
死すべき命が、今の私の「生」を課題にする。
では、「南無阿弥陀仏」と唱えるのはなぜか?
南無とは、「気づいてちょうだい」との仏からの呼びかけであると同時に、「気づきました」という私の方からの答え。
阿弥陀とは、「ア(否定の接頭語)・ミタ(量る)〜〜量ることができない・無量」という語源解釈もできるが、「量る」とはここで言うなら「自力」であり、それが否定されているってことは、「自力無効」という意味になるのである。
つまり、「南無阿弥陀仏」とは
仏からの、
「自力無効だよ」
との呼びかけであり、それを、この私の発声する「お念仏」の上に、その呼びかけを聞いて確認していくのである。
亡き人は、「問いかけ」となって、私の前にいる。
まるごと人生を受け取れるアナタであれ、と。
・・・・難しいね。
でも、
今日、お通夜のお話をさせていただきながら、
以上の事を考えてました。
今日の投稿は、そのメモです。
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