朝鮮戦争
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朝鮮戦争 | ||
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戦争:東側陣営と西側陣営の戦争。冷戦における最初の戦争 | ||
年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日(休戦日) | ||
場所:朝鮮半島 | ||
結果:38度線を境に両軍の間で1953年7月27日に協定が結ばれ休戦状態に至る | ||
交戦勢力 | ||
連合国 医療スタッフ |
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指揮官 | ||
戦力 | ||
連合国 |
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韓国での表記 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 한국전쟁/육이오 사변 |
漢字: | 韓國戰爭/六二五 事變 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
かんこくせんそう/ろくにご じへん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ハングクチョンジェン/ユギオ・サビョン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
ローマ字転写: | Hanguk-jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon |
北朝鮮での表記 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 조국해방전쟁 |
漢字: | 祖國解放戰爭 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
そこくかいほうせんそう |
片仮名: (現地語読み仮名) |
チョグッケバンジョンジェン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
ローマ字転写: | Chogukhaebang chŏnjaeng |
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、英語:Korean War、1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が韓国に侵略し勃発した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。
目次 |
[編集] 概説
北朝鮮の侵略を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソビエト連邦が武器調達や訓練などの形で援助した。
なお、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスではKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
- 本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。
[編集] 背景
[編集] 米ソの半島分割占領
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本はポツダム宣言に則り植民地下においていた朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソビエト連邦、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。
日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった[2]。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[3]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[4]。
朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。
国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため、建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず、建国準備委員会はこの頃の朝鮮において最も広く組織された団体だった。なお、建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。どちらにしても、成立期間が短く、また諸外国からは一切承認されていないため、影響力は限定的であった。
建国準備委員会は9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。アメリカに亡命していた李承晩が反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。
一方、北緯38度線以北では関東軍の壊走によってソ連の進駐が予定よりも早く進み、「各地で自発的に生まれた」と言われている人民委員会は10月にはソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人による独立運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。
このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に李承晩や、ソ連の支援を受けて重慶に亡命していた金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。
その後、信託統治案を巡る左右対立に、そのイデオロギーの違いから敵対し始めていた米ソの対立も反映され、結果的には、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。
[編集] 信託統治案
1945年12月には、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。
戦時中の1943年に行われたテヘラン会談では、イギリスのウィンストン・チャーチルとソ連のヨシフ・スターリン、アメリカのルーズベルトの3者会談でルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。
ルーズベルトは第二次世界大戦の終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。
[編集] 米ソ対立
米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツのベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナのベトナムがホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も国共内戦が繰り広げられたが、蒋介石率いる中国国民党の中華民国に対するアメリカからの援助が先細りになったことから、赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。
北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日に朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国際連合に提訴したものの、北半部は翌1948年2月8日に朝鮮人民軍を創設し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言、アメリカはこれを激しく非難した。
金日成は、3月には南半部への送電を停止(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件、麗水・順天事件)。
[編集] 分断の固定化と対立
- 南北の分離独立
1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者で独裁者でもあるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、第二次世界大戦で国力が疲弊しているために、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。その後大韓民国では11月に国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。
同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10月1日に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾島に遷都し、その後も中華人民共和国との対立を進めた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。
1950年1月12日、アメリカのディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」と発言し(「アチソンライン」)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と一方的に受け取った。
アメリカは同月、韓国との間に米韓軍事協定を結んでいた。これは李承晩の日本への復讐(李は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際拷問を受けた。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、僅かな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、僅か5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。
- スターリンによる侵攻容認
これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。
中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵略支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵略計画を知らされた事に不満の声もあった。
- 北朝鮮による侵攻開始
6月25日に、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部への侵攻を開始した。このことを全く予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は大きなショックを受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。
[編集] 戦争の経過
[編集] 南北の軍事バランス
詳細は国境会戦_(朝鮮戦争)#作戦計画および戦力配置の概要を参照
開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。
韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機を有するのみであった。
これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、戦車240両、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入されはじめており、これによって優れた練度が維持されていた。
また、戦闘単位当たりの火力にも大きな差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710m(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525m(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と大きく劣っていた。
[編集] 北朝鮮の奇襲攻撃
詳細は国境会戦_(朝鮮戦争)を参照
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。
また農繁期にあわせて多くの将兵が郷里への一時帰休をしていた時期であったこと、韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があったことなどで、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃により、各所で韓国軍は総崩れとなった。
一方、アメリカ軍の連絡系統は俊敏に機能し、連合国軍総司令官として日本の占領業務にあたっていたダグラス・マッカーサーが日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還した。
しかしトルーマン大統領の目は、当時冷戦の最先端とみなされていたヨーロッパへ常に向いていた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。トルーマン大統領はアメリカ市民の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬の補給命令、海軍第七艦隊の中華民国への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切れなかった。
[編集] 国連の弾劾決議
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0の全会一致で採択した。ちなみに拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の認証問題に抗議し、理事会を欠席していた。
決議の後、ソ連代表のヤコブ・マリクは国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンにボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月、「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。
[編集] 韓国軍の敗退
この間、韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都を水原に遷都、ソウルは北朝鮮の攻撃により住民に多くの犠牲者を出した末に6月28日に陥落した。このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも漢江にかかる橋を爆破してしまった。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍は士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが、各部隊毎の訓練が完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された物が中心であったが軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1両も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなった。
ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。
[編集] アメリカ軍の出動
マッカーサーは6月29日に東京より専用機「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。
マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。
この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど退役し、5年の平和によって新たに徴兵された多くの兵士は当然の事ながら実戦を経験していなかった。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。しかし、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月5日の烏山の戦いで敗北した。
[編集] 国連軍の苦戦
6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心としてイギリスやオーストラリアなどのイギリス連邦諸国なども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連は編入しなかった(詳しい参戦国は後述する)。
なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には国連軍ではなく、多国籍軍の一つとなっていた。
準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)[5]。
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[6](離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は「解放記念日」の8月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。
また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠北清州や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして大量虐殺した[6]。
[編集] 仁川上陸作戦
詳細は仁川上陸作戦を参照
マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度に渡る牽制の後の9月15日に、ソウル近郊の仁川に、国連軍の中から選別したアメリカ軍の第1海兵師団および日本に駐留する第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人を上陸させる事に成功した。大きな転換点の1つとなる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)である。これに連動したスレッジハンマー作戦で国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。なお、この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内でゲリラ化し、国連軍は悩まされた。
[編集] 38度線越境と中国人民志願軍参戦
10月1日に韓国軍は、「祖国統一の好機」と踏み、国連軍の承認を受けて単独で38度線を突破した。10月2日に、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を越えて進撃した。
これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍が放棄していった武器、そしてソ連から新たに支給された武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
10月20日に、国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(北朝鮮は1948年 - 1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、敗走する北朝鮮軍を追い、中国人民志願軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国人民志願軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した。
[編集] 初のジェット機同士の空中戦
また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。
MiG-15は当初、国連軍のノースアメリカンP=51やホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う「ミグ回廊」の形成)他、ボーイングB-29爆撃機の撃墜率を高めて行った。しかし、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。
初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。
なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国人民志願軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したといわれている。貧弱な訓練しか受けられないまま参戦したこれらの北朝鮮軍に対し、十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的に北朝鮮軍のMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった(この撃墜率には諸説あり、アメリカでは以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ロシアでは2対1の損失であったとされているが、いずれにしてもF-86の圧勝に終わった)。
[編集] 膠着状態に
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回し、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、多くの韓国国民が逃げ回った挙句に命を落とした。
当初は勢いづいていたものの、日本軍の残して行った残存兵器やソ連から補給された旧式兵器を主に利用し、近代兵器に劣るために人海戦術に頼っていた中国人民志願軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍り始めた。それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始した。3月14日には国連軍はソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
[編集] マッカーサー解任
1951年3月24日に、マッカーサーは38度線以北進撃を命令する[7]。またマッカーサーは第二次世界大戦以前に日本が一大工業地帯として築いた中華人民共和国の東北部(満州)をボーイングB-29とB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国人民志願軍の物資補給を絶つために補給路を無効化するために放射性物質の散布まで検討された(原子爆弾を使おうとしたともされる)。
この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立する発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることをことを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任した。
解任されたマッカーサーはただちに専用機「バターン号」で日本から帰国し、後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が充てられた。
[編集] 停戦
この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
7月27日に、板門店で北朝鮮、中華人民共和国両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である。(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)しかし、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国義勇軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
[編集] 犠牲と影響
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。一方、アメリカの推定では、北朝鮮軍が約52万人と言われている。中国人民志願軍は約15万2千人が「戦死」したと中華人民共和国側は発表している、毛沢東国家主席の息子の一人毛岸英も戦死した。
激しく移動を続けた戦線により、激しい地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、一説には全体で400万人の犠牲者が出たとされており、3年間でベトナム戦争に匹敵するほどの民間人の大量の死者が出た。また、夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。
一度戦火を交えてしまったために両国とも互いの主権を認めず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない)。ここが分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。
現在両国において日本による併合時代の建造物が、同じく日本の統治下にあった台湾島に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりもめまぐるしく戦線が移動した朝鮮戦争の影響が強い。
[編集] 韓国軍慰安婦
詳細は慰安婦を参照
韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった[8]。また、慰安婦で構成される特殊慰安隊と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達のなかには拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった[9][10]。
[編集] 現状
南北の緊張は2000年の南北首脳会談でアピールされたように、停戦当初に比べれば多分に緩和されたが、双方の和解は行われておらず、未だに両国間は準戦時体制である。従って国際法上では未だに「休戦」つまり戦争は継続中であり、一時戦闘を中止しているだけと言う事で、戦争は終結していない状態である。しかし、この様に国連軍と「戦争中」である北朝鮮が、「対戦相手」である国連に加盟するという歪な状況になっている。
[編集] 政治状況
- 韓国
- 韓国は停戦後、政治の混乱によって復興が遅れたが、朴正煕大統領がアメリカと日本から多額の援助を獲得(日本からは戦後補償も受けている)して以来、急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称された。朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、朴以降の30数年で、日本に次ぐアジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、政治的民主化が促進された。1988年に、アジアとしては2番目のオリンピックであるソウルオリンピックの開催に成功した時点の北との経済格差は4倍に拡大した(なお同オリンピックに北朝鮮は参加していない)。
- その後もアジア通貨危機に端を発する深刻な経済危機も日本などの援助で克服して、日本とともにFIFAワールドカップ(2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を獲得している。また、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から取り残されてきたが、緊張緩和によって急速に住宅地として整備されている。また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り壊されつつある。
- 一方、男子には一定の徴兵期間が義務として設けられているほか、数ヶ月に一回は各地方・都市で空襲に備えた民間防衛訓練(民防)が行われている。
- 李明博大統領は朝鮮戦争では兄弟がアメリカの空爆で死んだが、彼はこれを事故として見なし、親米的で対北朝鮮政策をしいている。
- 北朝鮮
- 北朝鮮は金日成が国内派閥の粛清を進めて、個人崇拝を強化した軍事独裁政権が確立し、政治の安定が図られた。中ソ対立のあおりを受けて自主を掲げる主体思想を前面に掲げた国づくりを目指したが、対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、しばしば外国民の拉致を行った。冷戦終結による東欧革命、ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家を揺るがす事態に遭遇した。
- 息子の金正日は一党独裁(朝鮮労働党以外にも政党はあるもののそれらは衛星政党である)による権力の世襲を行い、「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を作りだし、主体思想を体系化して公式イデオロギーとした。政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、餓死者などが数多く出たと考えられている。2000年ごろから中華人民共和国を手本にした改革を行っているが、かえって貧富の格差が広がった。また、偽札や覚醒剤の製造や、日本人の拉致をはじめとした諸外国人の拉致など、国家ぐるみの犯罪と人権蹂躙を諸外国から非難されている。
- 朝鮮戦争において国連軍と対峙し、現在も国連軍との間において「停戦中」という状況であるにもかかわらず、国連加盟を果たしているという歪な状況である。
[編集] 軍事バランス
- 韓国
- 韓国軍の装備はF-16戦闘機、K1A1戦車など、おおむね現在の西側先進国の水準(ポルトガル、ギリシャなどと同規模)である。また、男子に対して徴兵制が施行されている。これに更に在韓アメリカ軍の戦力も加わる事になる。なお、韓国は首都ソウルが軍事境界線に近く、軍事境界線の北側からでも北朝鮮の長射程砲やスカッドミサイルの射程内に収まる事が弱点で、北朝鮮から侵攻しやすい。また、現在に至るまでアメリカ軍を中心とした国連軍が駐留している。
- 北朝鮮
- 北朝鮮の軍備は旧ソ連から供与されたものが主で、現行水準の兵器はほとんどないと言う。2003年3月に公海上でアメリカ空軍のボーイングRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機のミコヤンMig-29戦闘機が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の偵察衛星に写る北朝鮮機はMig-15やMig-17のような古典機ばかりで、部品調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。こうした状況から、核兵器の開発を進めている他、韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な弾道ミサイル(テポドン、ノドン、ムスダン)の開発に熱心であると見られ、たびたび発射実験を行っている。
万が一、戦闘状態が再燃した場合、北朝鮮軍がゲリラ戦術を取って世界有数の規模の都市に成長したソウル周辺の短期間・限定的な戦闘に持ち込めれば、一時的には北朝鮮軍がやや有利であるが、いずれにしても北朝鮮が民主主義国家である韓国に対して侵略行為を行った場合、国際的な非難を受けて再度アメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、徹底的な攻撃を受けて軍は壊滅状態になり、国家崩壊と韓国への吸収による朝鮮半島統一という状況は免れないと予想される。
韓国側が先制攻撃した場合、中華人民共和国が北朝鮮を支援する可能性もわずかに残っているが、対米全面戦争を行う力はもっておらず、たとえその様な場合でも介入は極力避けるという推測もある。また、中華人民共和国にとっては、北朝鮮が崩壊して韓国によって朝鮮半島が統一されてしまうと、アメリカの軍隊ならびに基地が北京と目と鼻の先まで近づくことになり、安全保障上ならびに台湾海峡の軍事バランスにも大きな影響を与える可能性が高いのみならず、大量の難民が鴨緑江を越えて自国内に流入する恐れもあり、体制維持を望んでいると思われる。
[編集] 参戦国一覧
- 国連軍(22カ国)
- 朝鮮民主主義人民共和国:兵力135,000人
- 中華人民共和国(抗美援朝義勇軍)兵力780,000人
- ソビエト連邦(実戦参加は無いが、金日成に武器を援助している。また、ソ連軍パイロットが戦っていたという情報もある)
[編集] 日本への影響
朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、フランスなどを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えた。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結された。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給、製造などを依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済復興に弾みがついた。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになる(詳細は朝鮮特需を参照の事)。また、戦火を逃れるために朝鮮半島から様々な方法で日本に流入した難民は20万-40万人とも言われる。その一部は現在も日本に在留しているとみられる。
[編集] 日本特別掃海隊
朝鮮戦争には、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下においていた連合国軍の指示により、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる特別掃海隊も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。
[編集] 派遣の経緯
開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを認めたアメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極僅かであった。
元山上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることに決める。10月6日米極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。
1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし」とあり、連合国軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。
もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗のE旗を掲げることが指示された。
吉田茂首相の承認の下、日本占領にあたっていた連合国軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成した。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本にとって初めての参戦となった。しかし、国会承認もなしに掃海艇を派遣していた事実が明るみに出ると、憲法上の兼ね合いから当時の国会において問題となった。
[編集] 部隊編成
特別掃海隊の編成は次の通りである。
- 総指揮官:田村久三(航路啓開本部長、元海軍大佐)
- 第1掃海隊指揮官:山上亀三雄運輸事務官(第7管区航路啓開部長、元海軍中佐)
- 第2次第1掃海隊(11月15日編成)指揮官:花田賢司運輸事務官
- 第2掃海隊指揮官:能勢省吾運輸事務官(第5管区航路啓開部長、元海軍中佐)
- MS03艇長:大西慶治
- MS06艇長:有山幹夫
- MS14艇長:石井寅蔵
- MS17艇長:松本嘉七
- 第2次第2掃海隊(10月25日編成)指揮官:石野自彊運輸事務官
- 第3掃海隊指揮官:石飛矼運輸事務官(第9管区航路啓開部長、元海軍中佐)
- 第4掃海隊指揮官:萩原旻四運輸事務官(第2管区航路啓開部長)
- 第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀良平運輸事務官(元海軍大尉)
[編集] 元山掃海作業
日本掃海隊は10月10日に元山沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前でアメリカ軍の掃海艇2隻が触雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。国連軍のアメリカ艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。
触雷を回避するために日本隊は前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)アメリカ海軍少将に作業手順の改善を要求した。喫水の浅い小型艇(en:LCVP)が先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう求めたのだ。しかしスミス少将からの「指示に従わねば砲撃も辞さない」旨の指示を受け(解雇/fireを砲撃と誤訳した説あり)、能瀬隊のMS3隻は日本帰投を決定する。能瀬隊は10月20日に下関に到着した。
10月20日に石飛隊のMS5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。結局、元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げた。
[編集] 元山以外の掃海作業
- 仁川掃海作業
- 10月7日に下関を出港した山上隊は10日に仁川港外に到着し、掃海作業を行う。同隊は11月1日に海州を出発し、3日に下関に帰投した。
- 鎮南浦掃海作業
- 11月7日に、国連軍鎮南浦掃海任務隊(アーチャー(Stephen M. Archer)アメリカ海軍中佐)に、日本の石野隊が加わる。鎮南浦における第2掃海隊は2個の機雷を処分する成果を挙げる。石野隊は中国人民志願軍の侵攻間際まで活動を続けた。
- 群山掃海作業
- 萩野隊は10月17日に下関を出港し、19日に群山に到着して、掃海作業を実施する。萩野隊は3個の機雷を処分する成果を上げる。MS30号が座礁して沈没するが、死傷者はなかった。
[編集] 派遣後
12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示する。これにより日本特別掃海隊は解隊される。
特別掃海隊は、1950年10月から12月15日にかけて、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分する成果を挙げた。この作業により、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を左右する事になる。しかし、極秘である筈のこの作戦はアメリカ及びCIAの支援を受けた自民党がひた隠しにしていたが、ソ連や中華人民共和国からの情報提供を受けた日本社会党と日本共産党にすっぱ抜かれ、第10回国会以降吉田茂首相への攻撃材料となった。
なお、国連軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じらる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、昭和34年に退官する。
また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員、警備官、海上自衛官に進み、昭和52年に海上幕僚長となる。
[編集] 朝鮮戦争を題材とした作品
- 映画
- 鬼軍曹ザック(米国、サミュエル・フラー監督、1950年)
- トコリの橋(米国、マーク・ロブソン監督、1955年)
- 迫撃機(米国、ディック・パウエル監督、1958年)
- M★A★S★H マッシュ(米国、ロバート・アルトマン監督、1970年)
- ソウル奪還大作戦 大反撃(韓国、イム・グォンテク監督、1976年)旧題:ホワイト・バッジ・ファイナル 史上最大の作戦
- 史上最大の戦場 洛東江大決戦(韓国、イム・グォンテク監督、1976年)旧題:新ホワイト・バッジ 地獄への戦場
- アベンコ特殊空挺部隊 奇襲大作戦(韓国、イム・グォンテク監督、1982年)旧題:エア・コンバット 多国籍特殊空挺部隊
- インチョン!(米国、テレンス・ヤング監督、1982年)
- 38度線(米国、ハンス・シープメーカー監督、1986年)
- シルバースタリオン 銀馬将軍は来なかった(韓国、チャン・ギルス(張吉秀)監督、1991年)
- 太白山脈(韓国、イム・グォンテク監督、1994年)
- ブラザーフッド(韓国、カン・ジェギュ監督、2004年)
- トンマッコルへようこそ(韓国、パク・クァンヒョン監督、2005年)
- 朝鮮戦争…エポック社刊。1950年の戦争初期(北朝鮮軍の侵攻から国連軍による仁川上陸、ソウル解放まで)を扱う。開戦当初の国連軍戦線崩壊、その後の北朝鮮軍の補給不足、「マンセー突撃」による釜山橋頭堡戦線突破の試み、上陸作戦の機会をうかがう国連軍との駆け引きなどの史実が忠実に再現されている。韓国のある団体(詳細不明)の抗議により生産中止に追い込まれた。
[編集] 注釈
- ^ 「国際内戦」と呼ぶ論者もいる(小此木政男、他)。
- ^ 李景珉 『増補版 朝鮮現代史の岐路』平凡社、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203。
- ^ 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、自ら独立を勝ち取ることができなかったことが今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろうと述べたと言われている。
- ^ 前掲李景珉、22頁。
- ^ 최소 60만명, 최대 120만명! The Hankyoreh Plus
- ^ a b 「戦時中に後退、銃殺された将校の名誉回復を」 朝鮮日報 2008/11/28
- ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
- ^ 朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表 朝日新聞 2002年2月23日
- ^ 韓国軍'特殊慰安隊'は事実上の公娼 創刊2周年記念発掘特集 韓国軍も'慰安婦'運用した ② OhmyNews 2002-02-26 (朝鮮語)
- ^ ミニインタビュー‘韓国軍慰安婦’問題提起したキム・ギオック博士“明かされたのはパズルの一部” Ilyosisa 2002年3月26日323号 (朝鮮語)
[編集] 参考文献
- 大久保武雄『海鳴りの日々-かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会、1978年。
- 神谷不二『朝鮮戦争』(中公新書)のち文庫
- 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』上中下(原書房)
- 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』全10巻(原書房)
- A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社)
- 和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店)
- 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争-中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波現代文庫)
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫)
- 児島襄『朝鮮戦争』上中下(文春文庫)
- 赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会)
- 萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文春文庫)
- マシュー・リッジウェイ 熊谷正巳/秦恒彦共訳 『朝鮮戦争』(恒文社)
- 白善ヨプ『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)
- 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』上下(学研)
- 葉雨蒙『黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史』(同文舘)
- 軍事史学会編『軍事史学 特集朝鮮戦争』第36巻1号通巻141号(錦正社)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸まで
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸から
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ前編
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ後編
- 参戦国別朝鮮戦争(英語)
- Collection of Korean War videos(英語)
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