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1月24日 AFP】朝鮮戦争(1950-53年)から数十年の沈黙を経て、韓国でようやく自国史の暗い歴史が「真実・和解のための過去の歴史整理委員会」によって明らかにされつつある。共産主義者とみなされた数万人が自国民によって処刑された事実である。
 独立調査機関「真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)」は、韓国全土約160か所の朝鮮戦争中の大量虐殺現場のうち4か所の調査を2006年7月から行っている。これまでに約400人分にあたる遺体の各部位を発掘したが、これは全犠牲者のほんの一部にすぎない。
 発掘作業により、山腹の塹壕跡に大量の犠牲者の遺骨が山となって、あるいは湿った坑道で泥にまみれ絡み合った状態などで発見されている。見つかった頭蓋骨の後頭部にはどれも背後から撃たれたとみられる銃痕が残っているという。
■「左派」韓国人25万人が自国当局の犠牲に
(中略)
 国立公文書館にあたる韓国国家記録院によると、朝鮮戦争中、殺害、または行方不明となった韓国側市民の数は約75万人にのぼる。 国家人権委員会(National Human Rights Commission)の出資で2005年に行われた調査では、このうち「左派」とみなされた韓国人25万人が、自国の軍隊や警察、民兵などに殺されたと推測される。一方、国家記録院によると、北朝鮮側でも非戦闘員108万人が死亡している。
 こうした犠牲者の実態に関する公式な数字はない。
■調査で浮かび上がった目撃者たちの証言
 2007年に同委員会がまとめた報告書には、ある刑務所からコバルト鉱山に人々が連行された様子を語る目撃者談が取り上げられている。「毎日、朝9時から夜7時まで、人々を満載したトラックが次々に鉱山に到着しては45分おきに銃声が鳴り響き続けた」
 イ・テチョ_ン(Lee Tae-Chyun)さん(70)はこの鉱山で行われた虐殺でいとこを失った。現在も時々坑道を訪れては、1人で親族のいとこの遺骸を探しているという。坑道の低い天井に頭をぶつけないよう身をかがめながら、イさんは懐中電灯で人骨の山を照らしてみせた。「当時、付近の住民は皆、この鉱山に連れてこられた者は全員殺されることを知っていたんだ」
 委員会への証言は犠牲者の遺族からだけではない。まれながら殺害に加わった側からももたらされる。
 ある元陸軍軍曹(81)は昨年、共産主義者とされた市民数十人の処刑をソウル東部江原道の横城(Hoengseong)で命じたことを告白した。この現場はまだ発掘調査されていない。しかし、元軍曹はこの証言以降、沈黙を守っており、真実和解委員会も証言者の罪を免責する権限はないと述べている。AFPもこの元軍曹には接触できなかった。
 調査担当の責任者ノ・ヨンスク(Noh Yong-Seok)氏は、こうした調査はすべて人間としての価値観に基づく問題だと語る。「儒教を尊ぶ韓国で、このように長年も遺骨を放置しておくことは正しいことではない。人権を尊重する国にふさわしくないことだ」

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2341088/2555822
 
戦後 韓国人による虐殺事件
 
ハンセン病院虐殺事件 1945年8月21日
ハンセン病の隔離施設「小鹿島」で園運営をめぐっての対立で朝鮮_人職員らにより入所者患者中自治会員ら84名が虐殺されます。
しかし、まだ朝鮮に駐留していて、武装解除していなかった日本軍が緊急出動し24日には鎮圧されました。
 
済州島事件 1948年4月
韓国政府は、正確な被害者数を未だに公表していない。
韓国政府の発表では、 「共産主義者の手により」死者 一万五千人、400の村のうち、300が被害を蒙った。二万戸の家が火災で焼け、六万五千人が家を失った。と、されている。政府関係者が口にしているのは死者六万人~七万人。反体制の人々は死者十万人以上を主張していた。アメリカ人学者ジョン・メリルは「正確な事は解らないが、死者は3万人あまり」と記している。

麗水・順天反乱事件 1948年10月
済州島事件の鎮圧に赴くはずだった第14連隊の1個大隊が反乱。
反乱軍は人民裁判により、400人以上の警官やその家族などを殺害した。
鎮圧軍は、順天町民5000人を順天北国民学校の校庭に集め(中略)、反乱軍と一級をその場で棍棒で殴り殺した。
 
国民保導連盟事件 1950年夏
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計10~30万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、韓国人によって全て虐殺された。
 
大田刑務所虐殺事件 1950年7月始め
朝鮮戦争勃発直後の1950年7月初め、韓国の軍と警察が、大田刑務所の収監者約1800名を銃殺していたことが、このほど資料的に裏付けられた。このことは、2000年1月5日、韓国マスコミが、機密指定解除されたアメリカ国立公文書館の文書から「処刑」が確認されたと報道したことにより、明らかになった。
 
国民防衛軍事件 1950年冬
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
中国の人民解放軍が”義勇軍”として介入すると、米韓軍は南に退却した。このときに、北朝鮮の占領地域に青年達を残してゆくと、北朝鮮側に使われる事になる。敵を利してはならない。というので、これらの青年を狩り集めて、南に連れて帰った。この時の受け皿となったのが「国民防衛軍」であった。しかし、南に連れて帰るとはいっても、輸送手段も無く、宿泊施設も、食料も、衣類も、寝具も無い。酷寒の中を、ただひたすらに、南へ南へと進んだ。通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。
 
全羅北道居昌郡、西山村虐殺事件 1951年1月5日,
西山村民に「パルチザン部隊と内通している」との嫌疑をかけられ50~60名の韓国軍によって、村民全員が縛られたまま機関銃の一斉射撃を受けた。
韓国軍の蛮行は午前11時から午後6時頃まで続き,500人を越える村民が虐殺された。生存者と遺族たちは政府当局に真相の究明を要求したが、逆に"栄誉ある韓国軍"の蛮行を暴露したことが韓国軍の怒りを買い、運動の中心人物達は投獄され、さらに村人の合同墓地を荒らし慰霊碑の文字までも削り取った。
 
居昌事件 1951年
朝鮮戦争中の1951年に慶尚南道居昌郡で起きた住民虐殺事件。朝鮮戦争の『ソンミ事件』といわれる。陸軍第11師団第9連隊が「堅壁清野」と称しゲリラ狩りを行うが、ゲリラの選別ができず、関係のない住民をまで付近の谷で無差別に虐殺。被害者数は680人~千数百人といわれている。近年、遺族が韓国政府に損害賠償を求めたが、大法院(最高裁に相当)は時効が成立しており(といっても、事件発生から3年で時効が成立.ヾ(・ε・。)ォィォィ、国家の賠償責任を問うことはできないと、原告の上告を棄却している。こちらも慰霊碑は横倒しにされ、長年放置されていた。
 
 
 
ピカソ『韓国での虐殺』(Massacre in Korea /1951)
 
ピカソが朝鮮戦争中に市民虐殺をテーマに描いた作品。ピカソが実際にあった韓国軍の市民虐殺を元に描いたといわれている。ピカソ自身は、元の事件が何んだたのかは明記していないが、時期的に保導連盟事件か国民防衛軍事件のどちらかといわれている。女性の足元の赤い大地は共産主義の色。虐殺してる兵士の青は、アメリカについた韓国兵をあらわす。別に朝鮮戦争の悲劇をあらわした絵画ではないのだが、結構誤解してる人がいるので注意を。(ピカソって真っ赤な人だよ。それを忘れずに)

 
建国60年しかたってないのに、何十万人虐殺してんねん
ヤレヤレ… ヽ(゜~゜o)ノ アキマヘンワ