2009年4月の日記

2009.04.01.
ようやくエピローグだー。ここまで長かったー……時の不定期連載。
 船が港を離れることについて、格別なものはなにもない。
 結局のところ、それはタイミングに過ぎないからだ――開拓計画を実行にこぎ着けるまでは数か月を要し、それすら常軌を逸する急ピッチで、その間は終わらない夢でも見ているようだった。船出そのものは、その年月に比べれば余録のようなものだ。これまでの準備期間と、そして、これから開拓に費やす数年間に比べれば。
 セレモニー、きっかけ、記念日、まあその程度のものだ。甲板の手すりに身を寄せて、桟橋に集まった人々と離れゆくのを実感しながらも、どこか他人事のような寂しさは感じずにいられない。
 離岸してまだ数分。今のところ航海は順調だ――と、こいつはつい皮肉げに物思った。嵐や、得体の知れない大怪物や、逃げ場のない船上の疫病にも見舞われず、少なくともあと数分は順調なままでいられそうである。
 見えない場所に新たに記された船名もまた、皮肉に捉えようと思えばそうできる。
 開拓船スクルド号。
 この大陸からは断絶していた未来への船。外界への船出だ。
 甲板の上は興奮した開拓民でひしめき、最後に見る大陸の姿を目に焼き付けようとしている。最後だけではない――ほとんどの者にとって、海上に遠ざかる大陸というのは初めて目にするものでもある。
 人出で賑わう中、こいつは、背後から男がひとり近づいてくるのを察していた。嘆息する。
「なんでお前が船長なんだ」
「顔を見るたびにおっしゃいますな」
「見てない時も言ってるが」
 振り向いて、それを見やる。


2009.04.02.
雷で窓が震えるの初めて見た!時の不定期連載。
 いかにも船長らしい――と言うべきなのかどうか――海賊衣装に、肩にオウムまで乗せている銀髪の男は、こいつと同じ手すりからニュッと首を伸ばして、船体の側面を見下ろした。不満らしくつぶやく。
「船長に無断で船名を変えるのはいかがなものかと思いますな」
「オーナーの承諾済みなんだから文句もないだろ」
「わたしの中では九分九厘、漂流窒息丸で決まっていたのですが……」
 こいつは半眼で睨みやった。
「だからなんでお前が船長なんだ」
「黒魔術士殿の魔王に比べれば、さほど奇天烈ではありますまい? 閉じこめられていなければ、すべては変わるべき時に変わる。それだけのことです」
「……まあ、そうか」
 納得はする。あいつの警備主任に、開拓民の指導者になったあいつ、他にも諸々――なにが変哲でなにがまともなのか、考えるだけ無意味だ。
 肩を竦めて、こいつはうめいた。
「目が回るみたいだったよ。ここ半年は特に。なにやってんだか自分でもよく分からなかったが、周りの風景が変わるのだけはよく分かった」
「良い風景でしたかな?」
 意外といえば意外だったが、そいつははぐらかすことも、曲解することもなく訊ねてきた。こいつはとりあえず、思い浮かんだままを口にした。
「どうかな。そんな大袈裟なものでもねぇよ――後で考えるんで十分だ。まあ、ようやく人心地ついたんだ。航海は平穏無事、せめて三日くらいは予想外の事態は遠慮したいね」
 そいつがわずかに目を逸らすのが見えた。
「そういうわけにもいかないようですな」
 それだけ言って、去っていく。


2009.04.03.
ふと自分がうっかり全身ユニクロだと気づいた時の衝撃。時の不定期連載。
「?」
 怪訝に思っていると、ざわめきが耳に入ってくる。
 もともと開拓民は出航に興奮していたが、その騒ぎの中で、誰かの叫び声がはっきりと響いた。
「なんだあれは!」
 こいつは咄嗟に身構えた――得体の知れない大怪物を、本当に警戒していたわけではないが。それがないとも言えない未知の航海だ。
 だが奇妙なことに、叫びを発した開拓民は船の行く手ではなく、港のほうを指さしている。こいつもそちらを見やった。
 ちょうど桟橋から、黒い巨大な獣と、その上にまたがった誰かが海に向かって飛び込んだところだった。
 無論、式典にそんな段取りはない。だが緊急事態に号令をかけようとしているあいつの姿を見つけて、こいつは制止した。
「待て!」
 ざわっと、船上の全員がこちらを向く。
 こいつは改めて制止した。
「……大丈夫だ」
 黒い獣は、背中に乗せた少女ごと、しばらくは海に潜っていた――浮上してくる頃には、岸からかなり離れている。一直線に船に向かっていた。かなりの速度だ。見る見るうちに追いついてくる。
 間近になったところで、ディープ・ドラゴンは海面から跳び上がった。後甲板、騒ぎに集まった連中のただ中に、音もなく飛び降りる。べちゃりと物音を立てたのは、勢いあまって転がり落ちた獣の乗員のほうだ。
 そいつは少しも休まなかった。海水を飲んだのか咳き込みながらもずぶ濡れで起き上がり、声を張り上げた。


2009.04.04.
にもかかわらず2日連続でユニクロに行ってしまった俺の慟哭。時の不定期連載。
「来たか」
 苦笑して、つぶやく。
 そいつは髪を切り、多少見た目も変わっていたが、それでも一年前を思わせる行動の速さで駆け寄ってきた。ふらふらで、なにをしようとしているのか、こいつはしばらく分からなかった――が、そいつが拳を振り上げるのを見て察した。
 とはいえそこでまた激しく咳き込んで、うずくまってしまった。げほげほと身体を震わせるそいつを心配するように、ディープ・ドラゴンが黒い目を丸くして背中から見下ろしている。
 こいつもそいつに近寄り、髪にからまった海草やらヒトデやらを取ってやった――海底まで潜ったんだろうか? ともあれそうしているうちに、そいつはまた弱々しく拳を振り上げた。
「殴って――おけって。あいつが。でも」
 まだ力が入らないのか、腕を下げる。
「ちょっと……待ってて。少し――」
 笑い出すのを我慢して、こいつは呆れ顔を作った。うめく。
「落ち着いてからにすりゃいいだろ。逃げ場もねぇし」
「勢いってもんが……あるでしょ。もういい」
 諦めたのか、思う存分咳き込み始める。ぜいぜいと残った息で、こうぼやいた。
「殴ったことにしといて」
「分かったよ」
 こいつは同意して、あいつに、問題はないと身振りで示した。あいつはそいつを見分けられなかったか、覚えていなかったようだが、開拓民に『なんだか分からないが別に良いらしい』と説明を始める。みんな、そいつにというよりはディープ・ドラゴンの姿に唖然としているようだが、ひとまず騒ぎは落ち着いたようだ。


2009.04.05.
やっと終わったーーーーーーーーーーーー時の不定期連載。
 あいつの姿を探したが、どこにも見当たらない。なるほど、岸を離れたと思えば密航者、平穏無事にとはいかないらしい。
「ま、そうでもないかな」
 なんとはなしにつぶやく。
「なにが?」
 そいつがきょとんと声をあげた。
 服を絞って海水を滴らせているそいつに、答える。
「このくらいのことは予想してても良かったかもなってことだよ」
 そいつはピンとこなかったようだが、こいつはさっきまでしていたように、手すりにもたれ掛かった。港のほうも今の騒ぎで混乱しているようだ。
「本当に予想外ってのは、例えば――」
 と、目にしたもののおかげで、話そうとしていた続きが頭からすっぽり抜け落ちる。
 今度こそ呆気に取られて、こいつはぽかんとした。
「どうしたの?」
 訊いてくるそいつに、指し示す。港だ。もうかなり距離は離れて、集まった人間の判別などつかないが。明らかに人間でないものなら分かる。小柄な体格に、毛皮のマント、古ぼけた大袈裟な武器まで担いだ――
 地人がふたり、港の端から船を見送っていた。
「あいつら、ここまで見送りに来た……のか?」
 まったく予想外だったが、あいつらなりの理由で。
 そいつも見つけたのだろう。やはり驚いたようだが、そう長くは驚いていなかった。隣でうなずく。
「そうかな。そうだね」
 が、奇妙にも思ったようだ。顔をしかめて疑問を口にする。
「でも、どうやって? 街の門は――」
 入れなかったはずだが。
 こいつは、そいつの頭と、ついでにのぞきこんできたディープ・ドラゴンの鼻先を軽く叩いた。
「行きたい場所と、理由があれば、方法だってどこかにはあるさ」
 そう信じたから旅立った。
「旅ってのはそんなもんだろ。そう思う」
 その程度のことだ。
 陸はなおも遠ざかっていく。人も、港も、建物もひとつの影になって、いつしか海の向こうに消えれば、新しい旅が始まる。