|
伊藤のジャンプの芸術性
|
2009/ 4/ 5 0:06 [ No.2257 / 2257 ] |
|
|
伊藤のジャンプの芸術性 (日常生活に潜む暗闇)
引用: ---------------------- >伊藤みどりの常識離れしたジャンプ力は、 >「氷上の芸術家」の称号にふさわしい ジャンプが「新奇」で「型破り」だから芸術、 とは私は思えない。 むしろ 人間に潜む「醜さ」に近い。 (みどりは醜いという意味ではない) 醜さを「えぐり出す」とか、いやらしいすき間に入り込むとか、 とにかく、 私たちの空間の断面の一歩となりには、 「恐ろしいもの」「どす黒い闇」が潜んでいる、 楽しいはずの一日が、小さなことで一瞬でドン底に暗転する、 楽しいはずの麻雀が、次の瞬間ヤクザの事務所になる、 映画のエイリアンのように内臓に卵を産みつけるような、 見たくない真実を、 楽しいオリンピックで眼前に叩きつけられるような、 えも言われぬ(まさに「芸術性」と言っていい)ものがある。
伊藤みどりの「ジャンプの」芸術性は、 「常識離れしたジャンプ力」ではなく、 この「えぐり出さ」れた何ものかだと思う。 (ここではジャンプに限って書いたが、 ジャンプは伊藤の芸術性の一部でしかない) ----------------------
---------------------- 44 :2007/01/22(月) 23:23:33 ID:j4xZJKlV0 人間の「醜さ」や「新奇性」「驚き」 によって特徴づけられる「芸術」とは 一体何なのか。 それは 「人間(私)がこの世に存在すること」に対して 新たな認識や実感をもたらすものなのだと俺は思う。 または、 「生」の持つ意味を揺さぶり、日常の無自覚を打ち破るもの。 前スレで挙げられていた「認識の変革」は おそらく知性方面における芸術の作用を表しているのだと思う。
日常生活をそこそこ穏やかに暮らしていくことに慣れている 熟練生活者「私」がいるとする。 その「私」の眼前に 人間の内面に潜む「醜さ」が突きつけられるとどうなるか。 例えば、 「醜さ」を自覚することによって、慣れ親しんだいつもの「私」ではなく、 「醜さ」を内包した「私」、 「醜さ」と一生付き合っていかねばならない人間存在「私」が 強烈に感じられるようになる。 人間存在「私」の人生は 慣れ親しんだいつもの人生とは違うものに感じられる。 「私」が人生の舞台としていつも対峙している「この世」も これまでと違った意味を持って 立ちはだかってくるかもしれない。 生に関する強烈な感覚が生まれるために 「感動」する結果になることが多いだろう。
このように 人間に一撃を与えて「生」の有様を変化させる作用を持つ表現が 「芸術」なのではないか?
---------------------- (上記で「マージャン」とか「ヤクザの事務所」とか言ってるのが私です)。 出典: 語れ■(表現力) 芸術性について2■死ぬまで http://mimizun.com/log/2ch/skate/ex20.2ch.net/skate/dat/1169132859.dat
|
|
|
|
|
|
関連リンク |
|
|
|