ゾンビ映画史概要



 1920年代の後半、ハイチに渡ったウィリアム・シーブルックは、ブードゥー教の信者と共に一年間生活し、アメリカに帰国した後、自らの体験を『THE MAGIC ISLAND』にまとめた。シーブルックは、この本の中でゾンビを目撃したと証言している。農作業に従事するゾンビたちは、まるで機械のように操られ、「盲目ではないものの、焦点の定まらない虚ろな死人の眼をしていた」という。

 この本の出版から間もなくのこと、生ける屍ゾンビという怪物が、今では悪い冗談としか思えないブームを巻き起こした。人々が集まればゾンビの話題になり、雑誌や新聞はゾンビの特集を組み、オーソン・ウェルズが舞台をハイチに変えた『マクベス』を上演。同じ頃、ホラー映画制作の中心地はドイツからアメリカに移り、『魔人ドラキュラ』(31)『フランケンシュタイン』(31)など、ユニバーサルの名作が矢継ぎ早に発表された。31年代前半、ゾンビ映画誕生の条件は揃っていたのだ。GENE-03.gif

 ゾンビとホラー映画、両方の人気に着目したのは、弱小プロデューサーのハルペリン兄弟だった。彼らは『魔人ドラキュラ』のベラ・ルゴシを担ぎ出し、ユニバーサル映画の使用済みセットを拝借し、世界初のゾンビ映画『ホワイト・ゾンビ』(32)を完成させた。この映画は批評家からは無視されたものの、ルゴシの知名度とゾンビの物珍しさが手伝い、予想を上回るヒットを記録したようである。

 『ホワイト・ゾンビ』の成功により、他の製作会社もその興行的な価値を知り、次々とゾンビ映画を制作し始めた。『OUANGA』(35)を皮切りに、『THE GHOST BREAKERS』(40)『死霊が漂う孤島』(41)が続く。

 こうしてゾンビ映画は一応のブームになったが、ゾンビという怪物そのものが人気を得たわけではない。ドラキュラ伯爵やフランケンシュタインの怪物に比べ、怪物としてのカリスマ性に欠けていたのだろうか。いくら題名に名前が掲げられようと、ゾンビは悪玉の奴隷役でしかなく、ジョージ・A・ロメロ言うところの“怪物界のブルー・カラー ”だったのだ。彼らが主役の座を勝ち取るのは、『ホワイト・ゾンビ』から50年後、スプラッター全盛期の80年代まで待たねばならない。

 40年代頃のゾンビ映画の大半は、ハイチを舞台にするか、もしくはブードゥー呪術師を登場させていた。その一方、ゾンビはハイチ伝承から独り歩きを始め、ブードゥー教とは関係のないゾンビ映画も作られている。例えば『REVOLT OF THE ZOMBIES』(36)。この映画の舞台はカンボジアであり、死者を操る手段もまたカンボジアの呪術だった。

 ブードゥー・ゾンビ映画は、『ブードゥリアン』(43)で最初の頂点に達する。ジャック・ターナーが監督した本作は、悲劇的ロマンスを絡めた文芸ゾンビ映画であり、80年代のゾンビ映画とは正反対の意味で傑作だ。興行的にも充分な成功を収めたことから、制作会社のRKOは大幅に予算を増やし、再びゾンビ映画『ZOMBIES ON BROADWAY』(46)を発表する。ところが、これは完全なコメディ映画。『ブードゥリアン』のセンチ路線は受け継がれることなく、それから数年のうちにブードゥー・ゾンビ映画は失速する。

 ブードゥー・ゾンビ映画の衰退は、50年代のSF映画ブームに起因する。ジョージ・パル製作『月世界征服』(50)が公開されると、SF映画が急速に観客の支持を集め、ホラー映画全般が下火になったのだ。しかし、そうしたことが逆に刺激となり、SF的な要素を取り入れたゾンビ映画が登場する。『フランケンシュタイン』の流れを汲む、マッド・サイエンティスト・ゾンビ映画は昔からあったが、新たに侵略異星人が死者を甦らせるゾンビ映画が作られ始めたのだ。その最初のものだと思われるのは、かの『プラン9・フロム・アウタースペース』(58)である。ベラ・ルゴシ出演の『ホワイト・ゾンビ』がゾンビ映画史の幕を開き、彼の遺作『プラン9』がSFゾンビ映画の先陣を切ったとは、単なる偶然ではあるものの興味深い事実ではないだろうか。GENE-04.gif

 こうして生まれたSFゾンビ映画は、モダン・ゾンビ映画の原型でもあった。とりわけ『INVISIBLE INVADERS』(59)『THE EARTH DIES SCREAMING』(64)『THE LAST MAN ON EARTH』(64)は、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(68)に多大な影響を与えた。『THE LAST MAN ON EARTH』の終末的な世界観、『INVISIBLE INVADERS』に描かれたゾンビの姿と行動、『THE EARTH DIES SCREAMING』に見られる生存者同士の確執は、まず間違いなく『NOTLD』に受け継がれている。『NOTLD』の重要性は誰もが認めるところだが、その誕生は突然変異的なものではなく、過去のSFゾンビ映画の延長線上にあるのだ。

 むしろ、目新しさで評価すべきなのは、エドワード・L・カーンだろう。B級SF映画で知られる彼は、50年末に五本のゾンビ映画を発表し、そのどれもが奇抜なアイデアに満ちていた。飛行機や列車を破壊するゾンビを描いた『CREATURE WITH THE ATOM BRAIN』(55)、世界初の水中ゾンビが登場する『ZOMBIES OF MORA TAU』(57)、ゴリラのような怪物しか出ない『女黄金鬼』(57)、南米インディオの首狩りゾンビ『THE FOUR SKULLS OF JONATHAN DRAKE』(59)、そして『NOTLD』に影響を与えたSFゾンビ映画『INVISIBLE INVADERS』。どれもB級映画の名に恥じない怪作・珍作ばかり。

 SFゾンビ映画の流行と同時期、二本の重要なゾンビ映画が誕生している。『恐怖の足跡』(62)と『吸血ゾンビ』(66)である。両作とも日本で劇場公開されたが、残念なことにビデオ化されていない。『恐怖の足跡』は従来のゾンビ映画と違い、生と死の間に迷い込んだ主人公の恐怖を描いている。ゾンビ対人間の単純な図式ではなく、自らの存在が足下から崩れるような恐さである。正式でないものを含め、何度かリメイクされているが、オリジナルを越えるものはない。一方、ハマー制作の『吸血ゾンビ』は、古典的ブードゥー・ゾンビ譚を焼き直し、ハマー的な格式と猟奇趣味を加えた佳作である。過去のブードゥー・ゾンビ映画の総決算とも言え、『ブードゥリアン』以降の最重要ブードゥー・ゾンビ映画だ。ゾンビが土中から這い出す描写は、恐らく本作が初めてではないだろうか(吸血鬼が這い出す映画なら他にもあるが)。特殊効果も従来の白塗りゾンビから大きく進歩し、腐りかけた汚らしいゾンビを作り出している。

 60年代前半、H・G・ルイスが発表した一連の残酷映画は、80年代スプラッターの先駆的な役割を果たした。その影響を受けたかどうかは定かでないが、ゾンビ映画にも残酷描写を前面に押し出したものが登場する。首切断&顔面丸焼きを見せるデル・テニーの『I EAT YOUR SKIN』(64)、小人や大蛇が乱舞するボリス・カーロフの遺作『SNAKE PEAPLE』(68)。フィリピンで撮影された『THE MAD DOCTOR OF BLOOD ISLAND』(68)と、その続編『BEAST OF BLOOD』(70)は、後の東南アジア映画に通じる原始的な凶暴さを感じさせた。眼球を抉り出し、生首を切断し、美女の濡れ場も満載である。

 また、スペイン映画『美女の皮をはぐ男』(62)は、『顔のない眼』(60)の露骨な亜流映画だが、新味を打ち出すためにゾンビ的なモンスターを登場させ、さらに本家にないサディズムとエロティシズムを匂わせていた。当時、独裁政権に支配されていたスペインは、ヨーロッパで最も検閲の厳しい国であり、『美女の皮をはぐ男』の扇情的な描写は画期的だった。監督はヘスス・フランコ(ジェス・フランコ)。後年、彼はユーロ・トラッシュを代表する監督になる。

 68年、ゾンビ映画に転換期が訪れる。すでにゾンビ映画の主流は、ブードゥーからSFに移行していたが、より現代的なゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が登場したのだ。SFゾンビ映画から借りたアイデアに、ロメロ監督の新たな解釈を加えた本作は、現在も変わらないモダン・ゾンビの定義を確立した。以来、ゾンビは人肉を食い、脳を破壊されるまで活動する。公開直後の興行成績は振るわなかったが、フォロワーは絶え間なく作られた。アメリカの学生が撮った自主映画『死体と遊ぶな子供たち』(73)、イタリア・スペイン合作の『悪魔の微笑み』(72)と『悪魔の墓場』(74)、デビッド・クローネンバーグの『シーバース』(75)……。

 後のクローネンバーグの活躍は御存知の通り。『シーバース』はカニバリズムを過剰な性衝動に置き換え、いかにもクローネンバーグらしい歪んだ恐怖を描き出していた。日本で劇場公開された『悪魔の墓場』は、『NOTLD』の影響云々よりも、むしろ世界初のゴア・ゾンビ映画として記憶される。特殊メイクを担当したのはジャネット・デ・ロッシ。80年代の仕事からも分かる通り、ゾンビ・メイクで彼の右に出る者はいない。内臓すら露出する強烈な残酷描写は、 80年代のイタリアン・ゾンビ映画と比較しても遜色ない。

GENE-06.gif 同じ頃、スペインの『NOTLD』とも言える、重要なゾンビ映画が誕生した。アマンド・デ・オッソリオの『エルゾンビ/落ち武者のえじき』(71)は、『NOTLD』に逆行するようなゴシック・ホラーだが、従来のゾンビ映画にない斬新さを持ち合わせていた。眼を失った髑髏の騎士団が、夜な夜な廃虚と化した墓地から甦り、物音を頼りに犠牲者を探し求める。このヨーロッパの古い怪談を下敷きに、エロティシズムとサディズムを加味し、オッソリオ独自の奇妙な世界を作り上げていた。その圧倒的なイメージは、スパニッシュ・ゾンビ映画の方向性を決定づけ、ブラインド・デッド・シリーズと呼ばれる三本の続編と、多くのエピゴーネンを生んだ。ジョン・ギリングの遺作『THE DEVIL'S CROSS』(74)も、アンオフィシャルな形での続編であり、髑髏騎士団に似たゾンビたちが登場する。そうした影響はハマー・フィルムの『ドラゴンVS7人の吸血鬼』(74)にも見られ、当時の“ブラインド・デッド効果”を伺い知ることができる。

 オッソリオのブラインド・デッド・シリーズだけでなく、70年代スパニッシュ・ホラーはゾンビ映画の花盛りである。国民的な変身怪奇俳優ポール・ナッシーはキャリアの全盛期を迎え、『VENGEANCE OF THE ZOMBIES』(72)『HORROR RISES FROM THE TOMB』(72)に出演した。彼の映画は支離滅裂だが、濡れ場と残酷描写がふんだんに用意され、少なくとも退屈させられることはない。スペインの鬼っ子、ヘスス・フランコも自らのスタイルを完成させ、存在自体が悪夢のような異色作『悪夢の死霊軍団/バージン・ゾンビ』(71)を発表した。先に挙げた『悪魔の墓場』もスペイン・イタリア合作であり、スペイン人のホルへ・グロウが監督を務めている。

 70年代のゾンビ映画は、やはり『NOTLD』と『エルゾンビ』の流が眼につく。この状況を一変させたのは、ジョージ・A・ロメロによる『NOTLD』の続編、『ゾンビ』(78)の登場である。ダリオ・アルジェントの協力を得て予算は前作の10倍以上、トム・サビーニの特殊効果を得て血糊は20倍(推定)。巨大なショッピングモールを舞台に、ドキュメンタリーを思わせる乾いたタッチで人間vsゾンビの死闘を描いこの作品は、主に若い観客の支持を得て世界中で大ヒットを記録した。この映画に影響を受け、または二匹目のドジョウを狙い、翌年からゾンビ映画の大量生産が始まる。ホラー映画の脇役に過ぎなかったゾンビが、ついに人気怪物の座を獲得したのだ。カニバリズムという特徴を備え、過激な人体破壊を許すゾンビは、80年代スプラッターが理想とする怪物像だったのである。

 最初に飛びついたのはイタリアだった。史劇、コメディ、西部劇と娯楽映画を渡り歩いた職人監督たちが、競うようにしてゾンビ映画を撮り始めたのだ。ルチオ・フルチの『サンゲリア』(79)『地獄の門』(80)『ビヨンド』(81)、ウンベルト・レンツィの『ナイトメア・シティ』(80)、アリスティーデ・マッサチェーシ(ジョー・ダマト)の『ゾンビ99』(80)、アントニオ・マルゲリティの『地獄の謝肉祭』(80)、ブルーノ・マッティの『ヘル・オブ・ザ・リヴィング・デッド』(81)……これらは『ゾンビ』を上回るほどの残酷描写と、救いようのない暗さが特徴的であり、俗に80年代スタイル・ゾンビ映画とも総称されている。

 イタリアン・ゾンビ映画は、『ゾンビ』の影響下に作られたせいか、意外にブードゥー・ゾンビ映画が少ない。ブードゥー教を正面から描いたのは、恐らくウンベルト・レンツィの『BLACK DEMONS』(90)だけだろう。また、ルチオ・フルチの『サンゲリア』は、劇中でブードゥーに言及することはないものの、30年代に始まるブードゥー・ゾンビ映画の影響を強く感じさせる。離島を舞台にした古典的ゾンビ映画に、『ゾンビ』のカニバリズムを盛り込んだのが『サンゲリア』なのだ。離島を舞台にしたゾンビ映画と言えば、『人間解剖島/ドクター・ブッチャー』(80)もあるが、こちらは別の文脈で語られるべきである。島は島でもブードゥー島ではなく、ドクター・モローの島。『獣人島』(32)『ドクター・モローの島』(77)にインスパイアされたと思しき、離島型のマッド・サイエンティストものである。GENE-07.gif

 『ゾンビ』効果はイタリアに留まらない。イタリアの量産体制には敵わないものの、フランスでもゾンビ映画が作られた。セクシー吸血鬼映画で有名なジャン・ローランは、わざわざイタリアから特殊効果スタッフを呼び寄せ、フランス初の本格ゴア・ゾンビ映画『殺戮謝肉祭/屍肉の晩餐』(78)を発表した。さらに失踪したヘスス・フランコの代役を務め、脱力系ゾンビ映画『ナチス・ゾンビ/吸血機甲師団』(80)を監督。続く『ゾンビ・クィーン/魔界のえじき』(82)は、ローランの得意なセクシー吸血鬼映画に接近し、ゾンビ化したレズビアンの不幸を描いている。

 ローランは『ナチス・ゾンビ』を変名で監督したが、ほどなくして彼の監督作であることが知れ渡った。海外の配給会社は余りの出来の悪さに驚き呆れ、それからローラン映画に手をつけなくなったという。以来、ローランは映画を撮りにくい状況に追い込まれ、フレンチ・ゾンビ映画は自主映像作家が担うことになる。『OGRE』(82)『魔性のしたたり/屍ガールズ』(85)の監督、ピエール・B・レイノールがその代表格である。

 一方、失踪していたフランコは、何事もなかったようにスペインに戻り、以前にも増して精力的に作品を発表する。当時の彼はプロデューサーから予算を引き出すと、その金で同時に何本もの映画を撮影し、他の制作会社に売りつけていたという。こうして作られた『MANSION OF THE LIVING DEAD』(82)『THE TOMB OF THE LIVING DEAD』(81)は、プロデューサーと心ある観客のハラワタを煮えくり返らせた。もちろん、ごく少数の好き者を喜ばせたのは言うまでもない。

 『MANSION OF THE LIVING DEAD』は、フランコ版ブラインド・デッドとも言われるが、そうした影響以上に彼の怠惰な演出が印象に残る作品である。『THE TOMB OF THE LIVING DEAD』は未完成、またはフィルムが現存しないとも言われてきたが、スペインのTV放映用に完成していたようだ。本作のフランス語テイクを流用し、ユーロシネの社長マリウ・ラスールが『ゾンビの秘宝』(82)を完成させている。

 アメリカに話を戻そう。ある一線を越えてしまった残酷描写は、スラップスティックな笑いを生み出すことがある。それを証明してみせたのが、サム・ライミの『死霊のはらわた』(82)だ。ライミは78年に自主製作8ミリ映画『WITHIN THE WOODS』を撮っており、『死霊のはらわた』はその実質的なリメイクとも言える。一軒家に集った若者がゾンビに襲われるという、ごく単純なプロットではあるものの、劇画的なスピード感とスラップスティックな人体破壊により、最後まで一気呵成に見せてしまう。阿鼻叫喚ゾンビ・コメディの系譜は、この『死霊のはらわた』から始まり、『死霊のしたたり』(85)、『ブレインデッド』(82)へと続くのである。

 また、もうひとつのコメディ・ゾンビ映画の先駆者として、ダン・オバノンの『バタリアン』(85)を忘れることはできないだろう。本作は『NOTLD』の続編であり、良くできたパロディでもある。ロメロが監督した『NOTLD』の続編、『死霊のえじき』も同年に公開されたが、世間の支持は『バタリアン』に集まったようだ。しかし、『バタリアン』を模倣したコメディ・ゾンビ映画の大半は、語る価値もないクズばかりであり、続編の『バタリアン2』(87)も例外ではない。前二作に共通するコメディ色を排し、陰惨なロマンスに仕上げた『バタリアン・リターンズ』(93)は、ユズナ監督作とは思えぬほどの快作だったが。GENE-08.gif

 ゾンビ人気も落ち着いた80年代後半、イタリア娯楽映画界は世代交代を進めていた。アルジェントやマッサチェーシが、積極的に若手監督をプロデュースし始めたのである。アルジェントは『デモンズ』(85)でランベルト・バーバを、マッサチェーシは『キリング・バード』(87)でクラウディオ・ラタンツィを監督デビューさせるが、バーバーもラタンツィも次世代を担う監督としては役不足だった。最も期待されていた新人監督ミケーレ・ソアビは、作品を撮るごとに評価を高め、シュールなゾンビ映画の傑作『デモンズ95』(94)を発表するが、様々な事情から現在は一線を退いている。

 ソアビ引退の理由のひとつは、イタリア娯楽映画界の衰退である。残酷描写に対する規制が厳しくなり、アルジェントら一部の有名監督を除き、自由に映画を撮れる環境が失われたのだ。それに追い打ちをかけるように、イタリアン・ゾンビ映画の看板監督ルチオ・フルチが、糖尿病による合併症で96年に死去した。次いで99年、トラッシュの帝王アリスティーデ・マッサチェーシが死去。イタリア娯楽映画の最後の輝き、イタリアン・ゾンビ映画の黄金時代は、これで完全に終わりを告げたのである。

 アメリカの状況はどうだろうか。90年に『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』をリメイクして以来、ジョージ・A・ロメロに新たな動きはないようだ。いくつかの企画は持ち上がったが、立ち消えになったか、あるいは進行が止まってしまったか。ロメロ以外に眼を向けても、『バタリアン・リターンズ』の後、めぼしいゾンビ映画は作られていない。80年代後半、イタリアン・ゾンビ映画の洗礼を受けた若者が、ビデオ撮りの自主制作ゾンビ映画を撮り始めたが、それらに関してはもう沢山という気分。本当に面白くないのである。ただ、『新・死霊のえじき』(92)『SHATTER DEAD』(94)など、何かを感じさせるものは生まれており、期待せずに今後の展開を見守りたい。

 ざっとゾンビ映画の歴史を振り返ってみたが、本心を言えば、このジャンルは80年代で終わったように思う。90年代の傑作『ブレインデッド』と『デモンズ 』は、最後の悪あがきだろう。ゾンビ映画は、死者が甦るという原始的な恐怖から、カニバリズム、スプラッターという究極の露悪に幅を広げ、もはや行き着くところまで行き着いてしまった。『ブレインデッド』以降、人体破壊のバリエーションはネタ切れ。『デモンズ 』のようにひと捻り、ふた捻り加えるしかないが、それが簡単なことなら無数のクズ・ゾンビ映画は存在しない。ゾンビ映画は寂しくフェード・アウトするのか。

 いや、考えようによっては、またスタート地点に戻ったとも言える。ブードゥー・ゾンビ映画の衰退から ゾンビ映画が生まれたように、また新たなゾンビ映画が誕生する可能性はあるのだ。個人的には、流氷に乗ったキタキツネのゾンビ映画を観たいですね。森光子と東山紀之の共演で。



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