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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>




「戦後補償」の亡霊にとりつかれた日本のサハリン支援(2)

産経新聞特集部次長 喜多由浩


目的は「日本の糾弾」

 サハリン残留韓国人問題が政治問題化したのは、昭和五十年十二月に東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」がきっかけだった。裁判は、残留韓国人四人を原告にし、日本国を相手どって、「日本へ帰還させること」を求めたものである。原告側は総勢十八人の大弁護団を結成。その“仕掛け人”は、後に「従軍慰安婦」訴訟などで中心的な役割を果たす人物であった。

 訴状の「請求の原因 原告らの身の上」の項にはこう書いてある。

「被告国(日本)は一九三八年、国家総動員法を制定し、人道無視の政策をとり、『聖戦完遂』の美名の下に大量の市民をかり立て、強制労働に従事させた。原告らは当時、日本の領土であった韓国の地を故郷とする一農民に過ぎなかったところ、被告国の政策の犠牲者として『南樺太』の地に強制連行され、日本の敗戦後は同地に置き去りにされて、被告国のなんら外交的保護も受けられないまま、同地にとどまることを余儀なくされている…」(一部省略)。

 また、「原告らの法的地位」の項では、こうあった。「『内地人』は、一九四六年から逐次日本領土内に引き揚げることができたにもかかわらず、被告国は不法にも原告らの引き揚げの機会を奪い、日本国に帰国させない措置をとってきた」。さらに、「日本人として日本領土であった『南樺太』に連行され、出身地の主権国のなんら法的保護も直接受けられないままに放置された原告らは、法律的には少なくとも本邦に帰国するまでは、いまだに日本国籍を喪っていないものと認めざるをえない。日本国籍を喪ったとして原告らを引き揚げの対象から除外した被告国の行為は違憲、違法のそしりを免れない」(同)。

 つまり、「日本が“強制連行”で連れて行ったのに、終戦後、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした。日本の責任で帰せ」と主張しているのだ。訴状は、まさに日本糾弾のオンパレードだが、これらが事実でないことはすでに述べた通りである。

 さらに、奇妙なことがいくつかある。残留韓国人が帰りたいのは「韓国」であるはずなのに、原告側は「日本へ帰せ」と訴えていた。その後、どうしようとしていたのか。また、原告が本当に「日本国籍を喪っていないこと」を争おうとしていたのか…。どう考えても無理がある。当時、この裁判にかかわっていた関係者によると、「原告として“選ばれた”残留韓国人の中には、帰国の意思がない人すらいた」という。原告の意思など、そっちのけで、裁判を起こすこと自体が目的だったことがうかがえるエピソードだ。

 この裁判で、原告側はさまざまな証人を法廷に立たせている。日本に帰還した残留韓国人や原告の韓国人妻、家族などだ。ある妻は、法廷で「夫を返せ」と絶叫し、裁判官にコップを投げつけた。ナイフで指を切り、血を流してみせる人もいた。国会議員や報道陣のカメラの前でも同じようなパフォーマンスが繰り返され、ある国会議員は、自分の足にすがって絶叫する韓国人妻の姿を見て、「本当に悲惨なことだ。何とか解決してあげたいと思った」と振り返っている。

 ところが、そのうちに、妻たちのみんながみんな、心底から夫の帰国を望んでいるわけではない、ということが分かってくる。「夫を返せ」とさんざん泣きわめいた女性が、いざ夫の帰国が実現する段になって、会いに来なかったり、「日本に来られるから(泣きわめいた)」とこっそり本音を漏らす人もいた。年月がたち過ぎたゆえの「悲劇」ともいえるのだが、こうしたパフォーマンスは、間違いなく日本糾弾キャンペーンに一役買っていた。先の関係者によると、証言する人たちには必ず、「強制連行でサハリンに連れて行かれた」と主張するように“指導”が行われていたという。

 そして、極め付きが五十七年に二度にわたって証言台に立った“慰安婦狩り”の捏造証言で有名な吉田清治氏である。

 この裁判で、吉田氏は、「昭和十八年に済州島で二百四人の若い女を狩り出し、女子挺身隊として軍に提供した」などと証言した。吉田氏とサハリン残留韓国人問題とは何の関係もない。“強制連行”を印象づけるために証言台に立たせたのである。このことだけを見ても、この裁判の目的が透けて見えるようだが、実際、「吉田証言」を機にこの問題は、“強制連行”や日本の責任が一気にクローズアップされることになってしまう。

 裁判は提訴から十四年後の平成元年六月、原告の四人が死亡または帰国を果たしたことで、訴えの理由がなくなり、原告側が訴えを取り下げることで終了した。だがこの間、こうした事実ではない証言や過剰なパフォーマンスが繰り返されることで、「すべて日本が悪い」という論調ばかりが印象づけられる結果となった。そういう意味では、この裁判の「日本糾弾キャンペーン」は確かに成功したのである。

→つづく

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 【略歴】喜多由浩氏 昭和三十五(一九六〇)年大阪府出身。立命館大学産業社会学部卒。五十九年、大阪新聞社入社、その後、僚紙・産経新聞に転じ、社会部で運輸省(当時)、国会、警視庁などを担当。ソウル支局、横浜総局次長などを経て平成十二年、社会部次長、十五年から現職。現在の主な関心分野は朝鮮半島情勢、旧満州など。著書に『満州唱歌よ、もう一度』(扶桑社)。

 「正論」平成17年1月号 論文





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