Room 8
ヴェネツィアの広場で
須賀敦子 すが・あつこ (1929−98)
『ヴェネツィアの宿』(1998・文春文庫)
ヴェネツィアの広場で
(前略)音楽会の中身が劇場前の広場にスピーカーで通行人にまで分配されるなど、考えてもみなかった。
デイパックを背負ったままで、男の子の胸に頭をもたせて聴きほれている少女。暗い空に広がっていく音を目で追うかのように、顔をあげたままうずくまる金色の髪の青年。ひっそりと手をつないで、用意よく小さな金属製の折りたたみ椅子にこしかけている夫婦らしい白髪の男女。四、五人つらなっている女子学生ふうの一群。そのうえを光と音がゆっくりと流れていて、まるで、どこか遠いところの川底で夢を見ているようだった。
魔法のように目前にあらわれたその光景と、それを包んでいる音楽が、忘れかけていた古い記憶にかさなった。ある夏の夕方、南フランスの古都アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、ロマランの茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しっかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私は、あのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。
海
レイナルド・アレナス Reynaldo Arenas (1943−90)
『夜になるまえに』(安藤哲行訳・2001・国書刊行会)
海
六〇年代にぼくは素晴らしいことを三つ体験した。一つはタイプライターで、完璧な演奏家がピアノの前に坐る、そんな感じでタイプの前に腰をおろしたものだった。二つめはその時代のかけがえのない若者たち。誰もが自由になることを、体制の公的な路線とは違う道をたどることを、セックスすることを望んでいた。そして三つめは海を完全に発見したこと。
子どものころヒバラに行ったことがあった。伯母のオサイダはその町の左官をしているフロレンティーノに嫁いでいた。その伯母の家で何週間か過ごしたときにもう海に入ることはできたが、やがて二十歳ちょっとのときにしたような海での冒険はまだ体験できなかった。六〇年代にぼくは泳ぎが達者になった。沖に出て、何か遠くのものでも見るかのように浜辺の方を眺めながら、あの透明の水の中で泳ぎ、大きな波に揺すられるのを楽しんだものだった。水に潜って海底を見るのは素晴らしいことだった。どんなに旅行をして他の場所を、むろんとっても興味深い場所を知っても、あの光景にまさるところはない。あのごつごつとした白い、黄金色の、かけがえのない珊瑚の海底はキューバ島の大地を取り囲んでいる。ぼくは水中で光を拡散して輝くあの太陽に向かって艶やかにきらめき、元気いっぱいになって浮きあがったものだった。
そのころのぼくにとって海は発見であり、最高の喜びだった。山のような冬の波を、海を前にして腰をおろすこと、家から浜辺まで歩くこと、そして、その浜辺で夕暮れを楽しむこと。キューバで海の近くにいるとき、とりわけハバナで味わう夕暮れは比べるものがない。太陽が巨大なボールのように海に落ち、すべてが束の間の比類のない神秘の中で、潮の香や生活や熱帯のにおいの中で変化していく。波はぼくの足の間際まで来て、砂に黄金色のきらめきを残していった。
ぼくは海から離れて暮らすことができなかった。毎日、朝起きると、あの小さなバルコニーから首を出し、無限へと消えていくあのキラキラ輝く青い広がりを見つめた。自分が不運だとは思えなかった。あのような美と生気の表現を前にしたら誰だって自分が不運だなんて感じられるものじゃない。
あの青い冬
須永紀子 すなが・のりこ (1956− )
『わたしにできること』(1998・ミッドナイト・プレス)
あの青い冬
長いこと会わなかった友人が
一度死んだ体になって訪ねてきた
見覚えのある青い上着を着て
〈これから新しい生活をしたいのですが
手を貸してくれませんか〉と言う
〈わたしにできることなら、よろこんで〉
誘われるまま地下に降りて
墓のような店で向かい合った
〈お金も貯まったし、今では勇気もある
ただおわかりだと思うけれど、ぼくには実体がないのです
どうしたら手に入れることができるのだろう〉
しゃべるたびに
口から青いインクが出てテーブルに落ちる
以前もらった手紙の文字そっくりの
ただのしみなのに
気になってしかたがない
〈誰かと結婚、結婚をですね、すれば
魂に肉がつくかもしれない〉
わたしは肉体と魂の交わりを想像する
少し輪郭がぼやけて青白い友人の
手首のあたりにどうしても目がいってしまう
それを彼はじっと見ている
何か言ってあげようと思うのだが
混乱していて思い浮かばない
〈こんなに言っているのに
あなたには情ってものがないんですか〉
怒りに満ちた声が耳の奥に侵入し
彼の気配がわたしにおおいかぶさってきた
魂と暮らすのは奇妙なものだった
邪魔はしないと言うのだが
わたしの肩にのったまま
ひっきりなしに話しかけてくる
冬の休日
海へ行こうということになった
町なかでは気配も人の目もうるさくて
疲れだけがふくらんでしまう
朝早く海行きの快速電車に乗った
乗客は少なく、車内はあたたかで
授業中のように眠い
魂の存在を忘れて
浅い夢の入口で先生のことを思った
このごたごたが起きる前は
先生のことばかり考えていた
頑ななところのあるわたしを
問題のある生徒のようにではなく扱ってくれた
もう学校に戻ることはできないかもしれない
クラスの誰かが気配に気づくおそれがある
わたしは何にも集中することができず
体が半分に割かれて
別々に動いているような感じなのだ
戸塚を通過する大船も通る
わたしたちは海へ向かっている
晴れて海は光っている
思っていたほどきれいではないけれど
海があるというだけで世界はすてきだ
心から感動しろ、と先生はいつも言った
心から怒れ、心から泣くんだ
少しでも気を抜くと
先生はこめかみを締めあげる
淡々と生きたいと願うのは
まだ早いとはわかっているが
ひとの一生の怒りの量はすでに決まっていて
それにあらがうことはできないんだと思う
愛と笑いの夜も
わたしたちは決められた分を消費していくだけだ
そう信じれば
いろんなことが楽になる
彼の気配は何度かおおいかぶさってきたけれど
肉が移ってくるかもしれないという希望は
もう捨てたようだ
気配の下ではひたすら先生のことを考えていた
彼の悲しみが伝わってくる
〈一度でいいから
手をぼくの背中にまわしてくれませんか〉
それで気がすむのだったら、でも
魂にも先生にも
その肉体にふれることは永遠にできないのだろう
心から悲しくなって
いつまでも泣いた
追悼式
エドワード・ファウラー Edward Fowler (1947− )
『山谷ブルース』(川島めぐみ訳・2002・新潮OH!文庫)
追悼式
(前略)神戸が葬送者全員に聞こえるような声で、私にもひと言、どうかと提案する。準備はない。神戸から追悼式の話を聞いたのは前日で、出席できるかどうかもわからなかった。今日は木曜日だ。在日外国人の団体から山谷について、この月曜日に講演を頼まれていた。私にとっては初めての正式発表である。先約があったため、週末にはまったく準備時間が取れない。一日だけ空いている今日を講演の準備に使おうと思っていた。
私は立ち上がり、供物台まで歩く。知り合ってから一年以上経つ、この男の肖像写真に他の人がやったように頭を下げてから、葬送者のほうを向く。「浜松……それから……山谷全般について私の気持ちを明らかにするために、今日私が何をやろうとしていたか話そうと思います」
言葉がなかなかつながらない。黒く縁どりされて頭の輪郭近くまで不要な部分が切り取られている写真にもう一度目をやる。とくに山統労組合本部で行われた企画会議など、去年の浜松とのさまざまな出会いに思いを馳せる。重苦しい思い出ばかりである。酒と仲間からの頻繁な虐待で体を破壊させられた男の姿が私の心の中にこっそりと潜んでいる。たぶん、今やっと、安らかに眠っているのだろう。
あまり知られていない東京の一地区に興味を持っているという学者やビジネスマンそして外交官や専門職の人々の団体のための講義を、今日は一日、家で準備するつもりだったと葬送者に告白する。しかし、神戸からの電話を受けて、その計画は諦めた。今まで何度か、知り合いに弔意を表す機会を逃してきた。そのたびに後悔した。できることなら、もう二度と後悔したくはなかった。自分の部屋で知り合いでもない聴衆のための講義に気をもむよりはここで行われていることにかかわるほうが大切であると決めた……。
ここで私は止まる。回想話を終わらせるには格別にいいところではないが、言葉が何も思い浮かばず席に着く。(後略)
賢治と柳田
西成彦 にし・まさひこ (1955− )
『森のゲリラ 宮沢賢治』(1997・岩波書店)
賢治と柳田
山男の異形の風貌については、宮沢賢治も『遠野物語』のそれをほとんど踏襲している。しかし、柳田国男の「山人」が「平地人を戦慄」せしめる暴力性を強調されているのに対して、宮沢賢治のそれは、むしろ、ユーモラスなまでの「デクノボウ性」を基本としているところが、二人の山男観の違いである。とりわけ、宮沢賢治の山男は、いわば難民・流民化した孤独な存在として描かれることがほとんどで、中国からの行商人に山男が弄ばれる「山男の四月」などはその代表的な例である。一方、難民・流民化する代わりに零細化していった山男が、ついにはみずからの宿命と業を知らされるところで「山の人生」を終える「なめとこ山の熊」がもうひとつの極にある。宮沢賢治においては、少なくとも、農民以上に、山男に対する自己同一化が顕著なのである。
宮沢賢治において、山男と農民とのあいだの文化的対立は、近代以降を背景とする作品の中では、むしろ山男対商人、山男(=象)対経営者(=オッペル)の階級的対立の影に見えにくくなっていくのだが、それでも「山人」と「平地人」の対立の構図は、揺るぐことがない。しかも、「山人」対「平地人」の対立から始めてフォークロアの定型性を語り、二十世紀の東北の山村に伝わる伝承の中に、古代から同時代に至るまでの、あらゆる異人観を均質的に読み解こうとした民俗学者柳田国男と、植民地主義がもたらした異人観と、さらに産業資本主義の伸長と共にいっそう補強されたそれとを、別個に、しかもそれらのあいだの腑分けまでおこないながら描き分けてみせた考古学者宮沢賢治のあいだの差は、大きい。
天ツ神による国ツ神の征服と順化の物語から柳田国男の「山人」研究まで、「勝利する開拓者」対「帰順する先住者」という主題の反復からなりたってきた日本の植民地主義的な物語群の中で、宮沢賢治もまたどこかその系譜から逃れえていない部分を有している。しかし、古代日本においてすでにその萌芽を胚胎していた植民地主義の物語が、近代日本において産業資本主義という新しい衣装をまとって再生産され、しかもそれが天皇制とコメ文化を頂点にいただくイデオロギーへと結晶していく過程に対して、無防備であったばかりか、大いにそれに加担さえした柳田国男と、宮沢賢治とのあいだの距離については、いくら強調してもしすぎることにはならないはずである。
肉屋
ルース・L・オゼキ Ruth L. Ozeki (1956− )
『イヤー・オブ・ミート』(佐竹史子訳・1999・アーティストハウス)
肉屋
ルイジアナ州で十六歳の日本人留学生、服部剛丈(よしひろ)が射殺されるという事件があった。彼を撃ち殺したロッドニー・ドウェイン・ピアーズは、スーパー・マーケット、〈ウィン・ディクシー〉に肉を卸す精肉業者だった。道をたずねようと家の呼び鈴を鳴らした服部の胸を、ピアーズは四四口径のマグナム銃で撃った。彼は発砲するまえに「止まれ(フリーズ)」と叫んだという。ピアーズは起訴され裁判となったが、陪審員たちは正当防衛を主張し、過失致死による無罪の判決をくだした。
その評決は日本に衝撃を与えた。あれは殺人であり、それが言いすぎだとしても、非人間的な所業、もしくは性質(たち)の悪い過失致死であるとの見解のもと、日本のマスコミは連日のようにこの事件を取りあげ、そのような明らかな誤審がなされた原因を探ろうとした。アメリカ文化専門の東京大学の教授がテレビに出演し、アメリカ人は銃に深い愛着を持っているのだと論じた。日本のニュース番組のロケ隊は、アメリカのガソリン・スタンドやセブン・イレブンにおもむき、銃や弾薬や狩猟の専門誌がずらりと並んでいる売り場をカメラにおさめた。さらに、ガラスケースに入った小型の銃を芸術品のように置き、その横に狩りでしとめた動物の首の剥製を飾っている酒場を撮影した。拳銃がウォルマートでいともかんたんに手に入る様子を、紹介する番組すらあった。(中略)異国の文化に対する誤解を解きたいと思う気持ちもあって、ドキュメンタリー作家になったわたしは、アメリカ文化にたいする誤解がこれほどまでに強くなったことに歯ぎしりする思いだった。
服部が殺されたのは、ピアーズが銃を持っていたからであり、服部が奇妙な格好をしていたからでもある。ピアーズが銃を持っていたのは、わたしたちアメリカ人にいまだにフロンティア精神が残っているからで、ここアメリカでは奇妙な格好をした他人の襲撃に備えて、いつも自分を守っていなければならないのだ。ピアーズが肉屋だったから銃の引き金を引いたのだと言うつもりはないが、そういう職業ならそのような行動に出たのも驚くにあたらない、とわたしは思っていた。銃、人種、肉、明白な運命(マニフェスト・ディスティニー)。それらすべてが衝突しあい、暴力的で非人間的(ディ・ヒューマナイズド)な行為となって噴出したのだ。つづけておこなわれた民事裁判では、刑事裁判では伏せられていたさまざまな事実が明るみに出た。ピアーズはクー・クラックス・クランのメンバーだったという。民事裁判で、彼は有罪となった。
[司書注]本文章はフィクションの一部です。かっこ内の文字は訳書のルビです。
サハリンに残された朝鮮人
高木健一 たかぎ・けんいち (1944− )
『今なぜ戦後補償か』(2001・講談社)
サハリンに残された朝鮮人
戦後、ソビエト連邦の支配下となったサハリンには、約三〇万人の日本人も残されていた。終戦直後には、敗戦国民である日本人よりも朝鮮人のほうが、祖国帰還に有利と見られていたらしく、一九四六年春に、ソ連の人民警察に身分証明書を申請しなければならなくなった時、朝鮮人と偽って申請する日本人もいたという。
ところが、その年の一一月、「ソ連地区引揚げに関する米ソ暫定協定」によって引揚げることができたのは日本人だけであった。朝鮮人は引揚げ対象者から外されたのである。
一〇年後の、一九五六年、日ソ共同宣言による第二次集団引揚げで、残りの日本人もほとんど全員が帰国した。しかし朝鮮人の場合は、日本人を妻とする朝鮮人のみが日本に引揚げることができたのである。
(中略)二〇〇〇年一二月に公開された外交文書のなかに、外務省アジア局の本音を語った文書があった。それは韓国政府が、サハリンの残留韓国人の引揚げを要請したことに対して、一九五七年(昭和三二年)八月九日付けで外務省アジア局第一課が作成した文書である。
そこには外務省幹部のことばで、「朝鮮人の引揚げは見当違いもはなはだしい」とある。戦時中の「朝鮮人は何ら差別を受けていたわけではなく、日本人も徴用を受けていた。むしろ、朝鮮人は終戦近くまで兵役免除の特典を受けていた」「終戦後、朝鮮人は解放者としていばりだした」などと書かれている。一九五七年といえば日ソ共同宣言の翌年であり、日本人の第二次引揚げ事業が開始された年である。(中略)
また一九八七年に、ソ連赤十字社のベネディクトフ総裁が日本赤十字社社長に宛てた書簡のなかに、「一九四五年から一九四八年にかけて、日本国籍の日本人は日本に引揚げていきましたが、朝鮮人については、(日本政府は)ポツダム宣言の条文を引用して、以降日本公民とみなさないように公式に要請してきました。その結果、朝鮮人は無国籍者として定住すべく(サハリンに)残留しました」という記述がある。これは、最初の日本人の引揚げ事業と時期的に対応しているのである。
これらの事実は、日本政府が明確に朝鮮人の帰国阻止に動いていたことを示している。こうした日本政府の棄民政策、原状回復の放棄によって、サハリンに残された人々の上に異郷の地での五五年の歳月が流れることになる。
朝鮮語
チャンネ・リー Chang-rae Lee(1963− )
『最後の場所で』(高橋茅香子訳・2002・新潮社)
朝鮮語
それから彼女は、ごく何気なく言った。「朝鮮人ですね」
「いや。違う」
「そうだと思います」彼女は目をそらさずに言った。私は何と言っていいかわからなかった。口ごもったり、なかばささやくように日本語で話すときと違って、母語で話す彼女ははるかに自信にあふれた大人だった。背がのびて姿勢もしゃんとしている。黙れと命令したい衝動にかられたのは確かで、すぐに部屋を出るよう厳しく指示したかった。しかし私は驚くと同時にふしぎに気後れを感じ、彼女の積極的な振る舞いにたじろいだ。
私は答えた。「生まれたときから日本に住んでいる」
彼女はうなずき、私がすすんで耳を貸すかどうか試すようにゆっくりと言った。「でも日本人はたいていあなたほど上手になるまで朝鮮語を一生懸命学ぼうとはしないと思います。もし朝鮮語を話せたとしても、けっして表には出しません。私の家族が住んでいる地域には商売人とか行政官とか警察関係の人たちなど、たくさんの日本人が移住してきているから知っています。最初、外で聞いたとき、弟が話しかけてきたのかと思ったほどです。声がとてもよく似ているのです」
それ以上彼女と会話をつづけたくはなかったが、その言葉をこれほど長く聞くのはずいぶん久しぶりで、思わずしっかりと耳をかたむけていた。安定した、転がすような調子は日本語と似てもいるし似ていなくもあって、おそらく朝鮮語のほうが喉よりも腹から出てくる音なのだろう。その言葉が正しい音域で発せられるのを聞くのは気持ちがよかった。しかも彼女の話し方は、ほかの女たちと違って下品ではなく、地方なまりも強くなかった。明らかに教育があり、それもかなり高いもので、いけないと思いながらも私はいっそうひきつけられていった。彼女にもそれが伝わったようで、私が何か言うのを待って、そのまま立ちつくしていた。私は咳ばらいをしたが、言葉は何も出てこなかった。
すると彼女が言った。「あなたはどこかほかの人たちと違うと思っていました」
「なにを言っているのかな。私は帝国陸軍の医務士官で、ほかには何も言うことがない。そうだ、ある意味では正しい。子どものころに朝鮮語をいくらかしゃべった。だがそれきりだ。言葉は簡単には忘れないものだから、いまでもわかる。しかしきみにはなんの関係もない」
「私の朝鮮名はクッアです」彼女は私の言葉を気にせず言った。表情は明るく輝き、その顔は見とれるほど美しかった。「でも本当はこの名前がいやでした。名前でわかるように四人娘の一番末っ子だったのです。あなたのお名前は?」
「私にはない」私はすぐに言った。しかしそれは本当ではなかった。当然、生まれたときの名前があったが、だれにも、私の実の両親からも一度も呼ばれたことがなく、それは率直に言って、私以上に両親が心身ともに私が完全な日本人になることを望んでいたからだった。両親は私を児童保護の当局にゆだねることに同意し、そこが私を黒畑家に引き渡したのだが、役人が私を引き取りにきた日が、実の親のきしむような声と、生まれたときにつけてくれた名前を聞く最後となった。
蟻の涙
辻征夫 つじ・ゆきお (1939−2000)
『萌えいづる若葉に対峙して』(1998・思潮社)
蟻の涙
どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく
かずおおくの若いひとたちのなかの
任意のひとりでもなく
この世界にひとりしかいない
いまこのページを読んでいる
あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか
人間と呼ばれる数十億のなかの
あなたが知らないどこかのだれかではなく
いまこの詩を書きはじめて題名のわきに
漢字三字の名を記したぼくは
たとえばこういう言葉をききたいと思う
きみがどんなに悪人であり俗物であっても
きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときでも
きみを信じている
[司書注]辻さんの「辻」は正式にはしんにょうの点が2つです。
わたなべまき語録
渡辺真木 わたなべまき (1994− )
発言・作文などより(2001、02・渡辺家族再録)
わたなべまき語録
ぼくは、こうおもいます。さいしょはたった3このたねだったけど、いまは、もう32こです。それがふしぎです。なんでなんでしょう。いまもふしぎです。(「あさがおにっき」2001年10月6日の記述)
あのね。(1日に20回は力強く言う言葉。語尾に力が入る)
おねえちゃんはよその子にはやさしいんだよなあ。(姉にかなわなくて、ときどき口にする言葉。ちなみに、2人はおおむね仲良しです)
いやあ、2001年は楽しい年でしたなあ。(2002年正月。レポーターのつもり)
突き指をしたり、けがしたりすると、死ぬことに近くなるのか?
ウルトラマンコスモスのお話の中に出てくる人が、どうしてウルトラマンコスモスの歌を知っているんだろう?
子どもはお母さんから生まれたんだから、お母さんに似ているのはわかるけど、どうしてお父さんに似るのかなあ?(2001年末から2002年正月にかけての疑問)
こんなこわいところにいきたいとおもう? えっ、こわくない? そう、じゃあ、いけば。えっ、いきたくない。じゃあ、ぼくのせつめいきいてよね。上のひだりがわに、タイマーがあります。このおばけやしきのじかんは、30ぷんです。ここは、ちが出てるように、見えるけど、ちみたいのはケチャップです。まんなかへんに、パックマンがいます。さがしてください。しかも、ここは、いじげんくうかんです。(以下略)(学校で書いた自由画文「おばけやしき いじげんばん」より)
ものもの(姉とお芝居ごっこモードに入るときの役名のひとつ。ナマケモノが好きなことから。そのほかに「よわよわ」などもあり。姉との合作)。
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