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気仙坂

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今年の新入社員は…
☆★☆★2009年04月03日付

 「環境問題に関心が強く、折り目正しい。小さくたためて便利だが、使う時には大きく広げる必要がある」
 財団法人・社会経済生産性本部が分析した、今年の新入社員の特徴である。
 同本部は彼らについて「採用面接の際に環境保護(エコロジー)や、社会貢献、コンプライアンスといった問題について関心をもっていると話す学生が多い。節約志向(エコノミー)で無駄を嫌う傾向がある」と指摘。
 分析は「酷使すると長持ちしない(早期離職)が、意外に耐久性に優れた面もあり、活用次第で有用となるだろう」と続き、一日から社会人となった新入社員を『エコバッグ型』と命名した。
 新入社員タイプの命名は一九七三年度からスタートした。現在は、学識経験者などで構成される同本部の「職業のあり方研究会」が多くの企業・学校などの就職・採用関係者の協力のもと、新卒入社者の特徴を調査、検討し、発表している。
 最近では、売り手市場入社組の二〇〇八年度の新入社員を、会社への帰属意識が低めで、磨きすぎると目標地点を越えてしまったり、はみ出してしまう『カーリング型』と命名。
 前年の〇七年度は、損得勘定で銘柄(会社)の物色を継続し、早期転職が予想される『デイトレーダー型』、〇六年度は、表面は従順だが、さまざまな思いを内に秘め、時にインターネット上の日記を通じ大胆に自己主張する『ブログ型』とそれぞれ名付けている。
 実際は、新入社員も十人十色。性格もそれぞれで、個性も違う。そんな彼らをひとつの型にはめ込み、十把一絡げにして論じることはできないが、各年度の新入社員タイプは時代の雰囲気や世相を反映し、「なるほど」と思わせるところが少なくない。
 ちなみに、筆者が新卒入社した一九八四年度の新入社員タイプは『コピー食品型』。当時の分析は「外見のみ本物風で手間いらずだが、歯ごたえなく、栄養も心配」というものだった。
 筆者ら一九六〇年代前半生まれは、今では死語となった「新人類」世代だ。それまでの団塊の世代などとは違う新しい感性や価値観が社会的に注目された。個人的には「物怖じしない」「常識にとらわれない」といった感覚を持っていたが、社会的には「自分勝手」とか「無感覚・無感動」といったマイナスイメージの方が強かったようで、新入社員タイプの分析結果も非常に厳しいものとなった。
 今年の新入社員は、そんな新人類世代を親に持つ「新人類ジュニア」世代でもある。
 彼らはよく、直接対話のリアルコミュニケーション能力が足りないといわれるが、周囲の空気を読む能力に長け、集団への親和性が高い。
 「意外にも耐久性に優れている」と評価されたのは、金融危機や経済不況の荒波に揉まれ、企業を取り巻く環境の厳しさが身にしみているからだろう。少し醒めた目で世の中を見ているが、正社員として社会のマス目に収まるにはどうしたらよいかをしっかりと考え、必要な努力と行動は惜しまない、という一面もあるのではないか。
 こうした分析、評価は、新入社員のためというよりも、彼らを受け入れる会社側の、人材育成への自覚を促すためにあるものだと思う。
 冒頭の「使うときには大きく広げる必要がある」「活用次第で有用となる」という分析は、早期離職傾向のある新人類ジュニアの新入社員をいかに上手に使いこなし、育成するか、という会社側の課題を指摘している。
 新人類ジュニア世代の戦力度とともに、『コピー食品型』や揉まないと熱くならない『使い捨てカイロ型』(八五年)、期待した割には変わり映えしない『日替わり定食型』(八六年)など、中間管理職となった旧・新人類の成長度、力量も測られる。(一)

情熱は約束を守る
☆★☆★2009年04月02日付

 日々の取材の中で、夢について考えさせられる機会が最近数多くあった。三十を手前にした私にも、叶えたい夢というものがある。正確に言うと、叶えたい夢があったことを、取材を通じて思い出させてもらったのだ。
 自分の夢のことを考えるとき、必ずセットになってついてくるものがある…それは「高校野球」だ。昨日も花巻東高校の活躍に一喜一憂しながら、ひどく懐かしい気持ちになっていた。
 初めて進路について真剣になったときの心境を、今も忘れない。高校三年の夏休みだった。そのころ私は、部活を引退しても受験勉強に現実味を持てず、朝から甲子園中継ばかり観ていた。
 ほぼ全試合、取り憑かれたかのように観戦した。ブラウン管に映るのは、同年代の少年たちが白球に右往左往する姿。一九九七年、その夏の試合内容を逐一記憶しているというわけではない(現ソフトバンクホークスの和田毅投手が二年生で出場しており、押し出しのフォアボールでサヨナラ負けを喫したことだけ妙に鮮明だが)。
 心に深く刻まれたのは、「この人たちと私は一体どこが違うのだろう」という強烈な思いだった。
 おそらく「嫉妬」とか「羨望」という言葉が当てはまると思う。
 私は一面識もない高校球児たちに激しく嫉妬していた。同じ年に生まれ、同じようなものを見てきたはずなのに、どこで違ってしまったというのか。「自分は何一つ為せていない」という焦燥感が全身を苛んだ。
 逆に言えばその焦燥感が、進路と正面から向き合わせてくれたとも言える。懸命になれること、自分だけが成し遂げられると胸を張れることを見つけたい、という思いが生来の怠け者を駆り立てた。
 幼いころからボンヤリと、教師か本の編集者になりたいという気持ちがあった。全く異なる職種のようで、「人に物事を伝える」という意味で似ている。自分は凡才だと早くに気づいていたせいか、表舞台に立つより「圧倒的な才能を近くで見せてもらいたい、送り出す側になりたい」という気持ちが強かったのかもしれない。
 成績が芳しくなかったので高三の秋から猛勉強し、マスコミ就職に実績のある大学へ進学した。そこで、今の夢に直結する明確な目標を見つけ、その夢を叶えるために東京の出版社へ入社した。
 段階を一つ踏むごとに自信が生まれた。相変わらず同年代の優れた人を見ると胸がざわついたが、それは糧にもなった。仕事も三年を過ぎるころには、やりたいことと、できることのギャップが埋まり、我が夢もそう遠からず実現させられるという確信があった。
 しかし、社会人になって五年目、私は目標半ばで岩手へ戻ることになったのである。 
 誰に強制されたのでもない。やむない事情こそあったが、あくまで自分の選択で戻ってきたのだ。
 …どれほどそう言い聞かせても、心の奥底にはずっと悔恨が潜んでいたのだと思う。
 Uターンを止めてくれる友人もあったが、「どこにいようと、目標を実現するのは自分の努力次第だから」と応えてきた。事実、そう信じることで故郷へ戻る自分の背中を押してきたのだ。
 だが、一番その言葉を信じられなかったのも自分だった。岩手へ戻ってからの二年の間に「どうせもう無理なんだ」という気持ちが、あれほど心血を注いできた夢への情熱を上回ってしまっていた。
 変わったのは、昨年十二月に編集局へ異動となり、人に会う機会が増えたことからだ。その中で冒頭に述べた「夢を思い出させてくれる出会い」がいくつもあった。
 彼らに共通するのは、自分に言い訳を作らないところだ。「田舎にいるから」「年が年だから」といった建前。これは即ち私自身がし続けてきた言い訳なのだが、それを障害と見なすのは甘えに相違ないのだと気づかされた。
 彼らは夢を「叶うか叶わないか」ではなく「叶えるか、叶えようとしないのか」で見ている。
 恥ずかしい…私もかつてはこうやって邁進してきたはずなのに、いつの間にか全てを周りのせいにして、ただ一つの持ち味である向上心までなくしかけていた。
 「情熱は約束を守る」
 大学時代に出会い、私の夢そのものとなったある人の言葉が、今も胸に刺さる。「こうなってみせる」と自分自身に誓った約束を果たせるのは、自分の情熱だけだ。私は私との約束を守らねばならない。
 高校球児を見て「何一つ為せていない」とうつむいていた十七歳の私に、一つだけ伝えられるのだとしたら。今なら、「十数年後のお前は、何かを為す途上にあるみたいだよ」くらいは、言ってあげられるかもしれない。(里)

お宝発見!汚泥から金
☆★☆★2009年04月01日付

 取材先で「何かいい話はないかね」と、よく尋ねられる。年がら年中、不景気風が吹いているとあって、世間は景気のいい話題に飢えているのだ。
 こんな時、「山ほどあってば」とホラの一つも吹かせたいところだが、なかなか気の利いた話が見つからない。と思ったら、あるところにはある。「エープリルフール」ではない耳寄りな話が。
 ところは、諏訪湖で有名な長野県諏訪市。地元紙の長野日報や信濃毎日などによると、諏訪湖流域下水道豊田終末処理場で処理した汚泥に「金」が含まれていることが、県と日本下水道事業団の調査で分かった。同事業団によると、下水道の汚泥から金が検出されたのを確認したのは全国初という。
 「塵も積もれば山」ならぬ、「汚泥も溜まれば金」である。まるで夢のような話だが、欽ちゃん風に「なんでそうなるの?」「どれくらい金が採れるの?」に対する答えは、こうだ。
 諏訪地方の汚水が集まるこの処理場では、汚れを沈殿させて濃縮、脱水して焼却し、その焼却灰に含まれる温泉成分中のヒ素の溶出を防ぐため、溶融結晶化施設で一六〇〇度の高温で溶かしている。それを冷却して再結晶化したものを、主に建設資材の人工骨材として利用しているという。
 溶かす過程で溶融炉の煙突から飛散する灰は、フィルターで集めてドラム缶に保管する。調査によると、この飛灰一トン当たり約千八百九十グラムの金が含まれていることが分かった。年間五トン強の排出量として、十キロ近い金が飛灰から採れる計算になる。
 県諏訪建設事務所では、貯蔵していた一年分の飛灰五トンを昨年十月から売却し始めた。収益は年間約一億七千七百万円かかる溶融結晶化施設の維持管理費に充当しており、飛灰の処理費(年間約六百万円分)も浮くとしている。
 同処理場では、二十年も前から汚泥に金が含まれていることが分かっていた。が、金の相場価格が当時、一グラム当たり千五百円程度で、経費的に赤字となっていた。
 ところが、最近は金価格が高騰。相場が二十年前の約二倍、一グラム当たり三千円前後とあって、愛媛県の金属精錬会社に売却したところ、二千万円以上を売り上げた。まさに「廃棄物の山から埋蔵金を掘り当てた」に等しい。
 では、なぜ諏訪の終末処理場に集まる汚泥にだけ金が含まれているのか。その理由は解明されていないが、県諏訪建設事務所では「メッキ工場や温泉が多い地域特性が主な要因では」とみている。
 諏訪湖周辺には、時計やカメラに代表されるように金メッキなどを扱う精密機械工場が千社ほどある。「それらの工場から金が混ざった下水が排出されているのではないか」というのだ。
 もう一つは、温泉成分に由来する可能性だ。長野県内は東日本の日本海側一帯に広がる「黒鉱ベルト」に含まれており、「地中の鉱床に含まれる金が温泉に溶け出した」との指摘がそれ。
 処理場の近くには、戦国時代に武田信玄が金を採掘したとされる金山跡もある。だったら気仙にも金山跡がボコボコある。今でも掘れば、金のかけらの一つや二つ出てくるかもしれない。
 如何せん費用対効果という壁がある。気仙には諏訪湖周辺に点在するような精密器機工場群もないし、大量の汚水を処理する高度な溶融炉も、大規模な温泉地もない。あるのは金掘りたちの夢の跡くらいなものだ。
 とはいえ、“他山の金”をただ指をくわえて見ているだけではつまらない。「廃坑から金発見」「ズリ石から金抽出」「気仙の家は砂金の上に建っている」。このあたりから“山師”のホラ話が生まれそうな気がする。(孝)

かばねやみの節句働き
☆★☆★2009年03月31日付

 自称「カリスマ主夫」。育児はともかく、炊事、掃除、洗濯と「家事三原則」をまずは無難にこなしている、といいたいところだが、掃除だけは苦手。これは物ぐさのしからしめるところで、炊事は生きるために必須。洗濯は洗濯乾燥機という利器がある。しかし掃除は来客でもない限り誰からもとがめられることはないので、つい後回しになってしまうのである。
 日曜の午後、ついに決意した。よし今日は大掃除だと。寝室の綿ぼこりが気になり始めていたし、台所のガス回りに付着した油膜がいかにもむさくるしくなってきている。居間、洗面所、トイレなどの床も本物?の主婦が見たら「まあ」とマユをひそめるだろう。しかしなかなかその気にならないのが物ぐさたるゆえんで、この決断は大袈裟にいえばまさに「清水の舞台から飛び降りる」覚悟に匹敵するだろう。
 さて、寝室の窓を開け放って見て驚いた。まあよくも貯め込んだものだ。綿ぼこりをである。これで粘膜を鍛えているわけだから花粉症にもならずに済んでいるわけだ。掃除機と化学モップを使ってきれいに除去していると鼻が刺激されて思わずくしゃみが出た。おそるべし綿ぼこり。
 ストレッチなど一切していないので、腰をかがめる姿勢が要求される床掃除は老骨にこたえる。そこでモップ式の掃除用具に、紙、布製などさまざまな雑巾を取り付けてごまかしてきていたが、本日はごまかしを拝してバケツプラス雑巾という昔ながらの掃除法を採用することにした。
 なるほどこれは汚れがよく落ちる。普段は丸く掃き、丸く拭くため「おいてけぼり」になっている四隅まできれいに(それなりにだが)仕上げし、まずは満足のいく結果となった。小中学校時代、「週番」が教室を見回って掃除の状態を「優良可」で評価したものだが、これなら週番が「優」をくれるだろう。
 次はガスコンロの上にある排煙ダクトの清掃である。そのフィルターを取りはずしてみてこれまた驚いた。油でべとべとしている外見から覚悟はしていたが、たわしで洗剤とお湯を使いながらごしごし洗い流しても、中からにじみ出してくる油膜性分が途切れることはないのである。何年ぶりの掃除だから、フィルターは飛散した油をたっぷりと吸い込んでいるはずにしても、これではフィルター変じて引火性物質と同断である。くわばらくわばら。
 結局、大掃除は四時間にも及んだ。それでも少なからずをやり残したのだから、家を守ることのいかに大事で大変かを身をもって知らされた。ふだんからこまめにやっておけば、日曜の午後を安息に過ごすことができるのである。
 当地には「かばねやみ(怠け者)の節句働き」ということわざがある。怠け者が何を思ってかある日猛然と働きだす(ただしその時だけ)ことをたとえたものだが、この日の当方はまさにその典型だった。ビフォー、アフターの歴然たる結果を見て思わずこのことわざを思い出し、こみあげてくる笑いを抑えきれなかった。
 しかしまだ途上である。やり残した部分をそのまま放置するわけにはいかない。これは続行しなければなるまい。そう考えるのも、カリスマ主夫として名実を共にするための宿命であろうか。
 それにしても世の主婦たちの「偉業」には心底から敬服せざるを得ない。「風呂、飯、寝る」などといって亭主面をしていられるうちはいいが、「長い間お世話になりました」とプイと出て行ってしまわれた時の落差を亭主族たちは考えた方がいい。
 掃除機の音までが快く、油汚れを落とすクリーナーの威力も再認識した。命を洗濯した思い。(英)

喫煙と禁煙をめぐって
☆★☆★2009年03月29日付

 禁煙してから二十年余になる。たばこは二十歳のころから十数年間吸ってきた。テレビや雑誌、ポスターなどでたばこをくゆらすダンディーな姿にあこがれただけの理由からだったが、ご多分に漏れずやめられなくなってしまった。
 当初、紙巻きたばこで一日十本程度だったものが、新聞記者稼業になって倍増し、多かった時で三十本は吸っていただろうか。たばこの助けを借りないとペンが進まなかった。職場にはほかにもヘビースモーカーがいて、一応換気扇は回っていたものの、吸わない先輩、同僚らにずいぶん迷惑をかけたようだ。
 それが一変したのは、社屋が現在地に新築移転した二十一年前。デスクワーク中の喫煙は厳禁というお達し≠ェあり、喫煙コーナーのみ許された。そこと自分の机を何度も往復する羽目になったが、いらいらは募るばり。吸う本数は若干減った半面、それに比例してペンの走りも遅くなった。
 やがて、「これは禁煙しなきゃいけないかな」と考え始めた。健康によくないことは重々承知していたし、娘が生まれて間もないこともあって、一念発起、禁煙することにした。あとで誰かにとやかく言われないよう、「禁煙する」といった大見得は切らず、ある日こっそりやめた。
 二、三日は飴などをなめて何ともなかったが、四日目になって体が猛烈にたばこを求めた。どうにか持ち堪えたが、五日目に手が震え出した。「これが禁断症状だな」と思ったものの、どうすることもできない。その日は確か休日で、趣味に没頭したりしてたばこを気持ちからそらした。やがて、夕方になって症状が治まった。
 それを克服≠オたら、もうたばこを吸いたいとは思わなくなった。が、一番辛いのは新年会や忘年会、結婚披露宴といった酒席で間を持て余すこと。食べてばかりいられないので、お酒と会話で時間を工夫しなければならない。これさえ乗り切れればもう大丈夫。「禁煙する」などと宣言しないのが禁煙、断煙の秘訣と思うが、いかがだろうか。
 わが社ではその後、喫煙する社員が激減し、いまやほんの数人。昨秋からは時代の流れを受けて社屋内が全面禁煙となり、スモーカーは灰皿の置いてある外(中庭)に追いやられた。喫煙するお客様まで制限するものではないが、近ごろは「東海新報の社内は禁煙だってさ」という噂が広まり(?)、皆さん遠慮がち。灰皿を出す機会も減ったように思う。
 最近は受動喫煙が問題視されている。他人のたばこの煙を自らの意志にかかわらず吸わされることで、心筋梗塞や肺がん、子どもの呼吸機能発達への影響などが懸念されている。この被害を防ぐため、二〇〇三年施行の健康増進法で公共の場所で喫煙コーナーを設ける「分煙」が義務付けられた。
 しかし、実際には分煙コーナーから煙が漏れるなど対策が不十分なことが専門家による調査で明らかになってきた。過日のテレビニュースで、新幹線の禁煙車ドアが開くとデッキの煙が漏れていくという一例を紹介。分煙では他人への影響が防げないようだ。
 このため厚生労働省は、不特定多数の人が集まる公共の施設、場所では原則「全面禁煙」とする方針を固め、近く都道府県に通知して対応を求めるという。神奈川県では違反時の科料を伴う受動喫煙防止条例を制定し、来年四月から施行すると報道された。
 病院、学校、官公庁、劇場・集会場、体育館、デパート、コンビニなどが全面禁煙。飲食店やホテル・旅館、カラオケボックス、パチンコ店などは営業に支障が出ることを配慮し、分煙か全面禁煙を事業者に選択してもらうとか。
 一方、環境美化やモラル向上の観点から東京都千代田区は二〇〇二年、路上喫煙禁止条例を制定。違反者から二千円の科料を徴収するもので、三大都市圏を中心に同様の条例を制定する自治体が増えている。スモーカーは「他人に迷惑をかけないこと」が行動基準になるということのようだ。(野)

とりあえず3年
☆★☆★2009年03月28日付

 「センター前ヒットならいつでも打てます」。WBC決勝延長十回の表、イチローが放った打球を見て、彼が高校野球の名門、愛工大名電高に入学した直後に監督へ語ったといわれるこの言葉を思い出した。そして毎年この時期になると“イチロー語録”の中でも、「三年やって一人前」という言葉を思い出す。メジャー移籍後二年間で実績を残したイチローが、三年目のシーズンを迎える前に話した言葉だ。
 「石の上にも三年」という言葉があるように、社会でも例えば転職の際、一般的にキャリアとして評価されるには最低でも三年の経験が必要と考えられている。しかしここ数年、三年も待たずに職を辞めてしまうといった、若者の早期離職率の高さが騒がれている。不況により雇用情勢が悪化した最近でこそ鎮静化しているが、ゆとり世代と揶揄される我々現在三十歳前後が社会人デビューを果たしたころからこの問題について様々な議論がなされ、若者側に原因があるとされる意見も少なくない。
 私も学生生活を終え、雑誌や単行本の企画編集をする職場で四年間働いたのが実質的な社会人としてのスタートだったが、最初の二年は失敗、絶望を繰り返し、いつ辞めてもおかしくない状態だった。
 描いていた仕事のイメージとギャップが激しく、上司の指示やアドバイスの意味を理解することすらできない。自分の意見や提案が伝わらず、上司を勝手に理解不能な存在に仕立て上げた揚げ句、正当な指摘には“逆ギレ”を起こして自己嫌悪に陥る。小さな確認ミスから、雑誌のプレゼントページの応募要領に『ざいたんすな伊達男…』と約六十文字の意味不明な文字の羅列が載ったまま、本が書店に並んだこともあった。
 毎日、「もっと周りがこうしてくれたら俺は力を発揮できるのに」と周囲のせいにしては歯ぎしりし、いつでも辞めてやると思っていた。辞めなかったのは踏ん切りがつかず、「取りあえず明日まで…」と結論を先延ばしにし続けた結果でしかなかった。
 そんな日々を送っていた三年目、ある雑誌の特集が私の提案した切り口で紹介されることが決まった。ふと気がつくとそれまで会議で箸にも棒にかからなかった私の企画や提案が、採用には至らなくとも、検討されるようになっていた。「だいぶ慣れてきたね」。声をかけられ、あんなに理解できないと思っていた上司が、仏のように柔和な顔に見えた。
 三年目になって何が変わったのか。正直自分でもわからないが、中学、高校が三年間あるように、若者が新たな場所で失敗を重ね、そこから何かを学び、自分を発揮できるようになるまで、少なくとも三年という年月が必要なのではないか、と今は思う。
 四月からの新生活、新入学を迎える人、社会人として新たに世に出る人も多くいることだろう。これまでと違う環境、仲間に囲まれた生活は、楽しいことばかりではない。「ここではやっていけそうにない」と感じた時、もしまだ諦めたくない思いがあるのなら、「とりあえず明日まで」という気持ちで何とか日々をやり過ごしてはいかがだろう。その積み重ねがいつか、自分の成長に気付く瞬間を与えてくれるはずだ。
 私事ばかりで恐縮だが、この四月からが当地で暮らし、今の仕事を始めて三年目になる。これまでの二年間、記者として読者の期待に添えるような記事が書けた自負は全くないが、見ず知らずの土地で曲がりなりにも生活してきた。三年目に何かを成し遂げられるほどの実力はないが、二年間で培った経験が今年の自分にどんな変化を与えてくれるのか、楽しみだ。
 プロ入り後、三年目に一軍に定着し、同年首位打者とMVPを獲得したイチロー。かの天才打者も二軍で二年間実績を残して首脳陣に認められ、花を咲かせたことを忘れてはいけない。(織)

今野誠一さんの本
☆★☆★2009年03月27日付

 最近出版された一冊の本が手元にある。タイトルは『マングローブが教えてくれた働き方〜ナチュラル経営のススメ』(出版社:ブルース・インターアクションズ、税込み千六百八十円)。
 著者は組織人事コンサルタント会社「マングローブ」(本社・東京)の社長、今野誠一さん。
 今野さんは住田町の出身だ。二年ほど前にある催しでお会いし、おつきあいをいただいている。
 今野さんは高校卒業後の一九七六年、リクルートに入社。「学歴無用」「実力主義」の社風の中で裏方とも言える総務や人事の管理畑を歩む。モーレツビジネスマンぶりを発揮して二十七歳で課長、三十歳で次長に昇進した。
 リクルートの不動産部門、リクルートコスモス(現・コスモスイニシア)に出向し、三十二歳の若さで社員千五百人を擁する組織の人事部長に昇格。バブル崩壊時は大リストラの陣頭指揮にも当たった。このリストラ経験が企業のあり方や自らの生き方、働き方に疑問を抱く契機となった。
 そんな時に出会ったのが、太古の昔から独特の仕組みでしぶとく生き続ける「マングローブ」という植物。ほかの生き物を生かし、営々と地球を守り、自然界になくてはならない存在となっていることを知り、その独特の生態に人間の生き方、持続可能な企業のあり方のヒントを見い出していく。
 九八年に四十歳でベンチャー・中小企業を支援するコンサルタント会社を設立。後に社名も「マングローブ」に変更し、マングローブから教えられた生き方と働き方、経営を実践してきている。
 今野さんがマングローブに学んだ生き方は「自然に生きること」「常に自然体でいること」。
 それは、ことさらに無理をせず、身構えて力を入れ過ぎず、冷めたりひねくれたりせず、まっすぐにいろいろなことを受け入れ、誰かの役に立つ存在になって飄々として生きること。そのためには「競争」でなく「協力」「比較」でなく「自己の追求」「取引」ではなく「助け合い」という価値観の転換が必要、と説く。
 また、人間関係の基本は「いま、目の前にいる人を大切にする」ことと指摘。「人にして欲しいことをし、されたくないことはしないことが社会を生きていくための自然の作法」とも記す。
 仕事に対する考え方でも共鳴することは多い。例えば、
「中庸であること、普通であることが悪いのではない。言われたことを機械的に漫然とする受け身の姿勢や同じことを向上心もなくやり続ける怠惰な姿勢の方が問題。少しでもなにかを改善できないかと『考えながら』仕事をして、自分らしい個性のある仕事をしていく姿勢こそが仕事を面白くする」
 そんな今野さんが目指す経営は、策を弄さず、当たり前のことを自然に営み、本当に大切なことに目を向け、プロセスを重視していく『ナチュラル経営』。
 詳細は本を読んでいただくとして、そのキーワードは「自然か不自然か」。経営の常識をすべて見直して、不自然だと思うことは廃し、自然だと思うことは非常識と言われても実行するべきだ、と提案している。
 ほかにも、▽やりたくない仕事でも成長できる▽不況に強い自分作り▽生きる意味▽自分らしく生きる▽謙虚な気持ち▽好意の返報性▽本当の挨拶▽「多読」より「多度読」などなど、単に共感するだけでなく、目からウロコが落ちるような内容も多い。
 この本は、いわば今野さんの三十二年間のビジネスマン生活の集大成。現在、全国の書店やインターネットで好評発売中だ。
 経営者やリーダー、社会人だけでなく、この春就職する若者や学生たちにもお薦めしたい。これからの時代の生き方、働き方のヒントが見つかるはず。私も贈られてきた今野さんの本を読み、自分を見直す好機となった。(下)

「鹿踊り文化圏」
☆★☆★2009年03月26日付

 WBC連覇を達成し「世界一」となった侍ジャパンのイチロー選手が、「神がおりてきましてね」と決勝打の瞬間を振り返っていた。野球以外の場面でも、人間業が、神業に見える時がある。
 例えば、気仙地方に伝わる剣舞や鹿踊りを見ている時など。先日、奥州市の江刺体育文化会館ささらホールで開かれた鹿踊りの公演「THE SASARA─鹿踊りのはじまり」を見た時も、神業のようなものを強く感じた。
 鹿踊りの公演があることを教えてくれたのは、取材で知り合った花巻市出身、広島県呉市在住で、宮沢賢治の童話や詩の世界を読み聴かせて紹介する創作きり絵作家の吉田路子さん。鹿踊りは賢治の作品にも登場する。剣舞と同じくらい鹿踊りが好きなので、誘い合わせて出かけた。
 江刺には十五の踊りがあり、この日は八団体が共演し、全演目がなんと時間無制限。正しい踊りを伝えようという意向なのか、時間規制で短縮されたものではなく、昔から伝承されている原形の踊りをそのまま忠実に発表していた。
 そのため、めったに見ることができないという演目ばかりで、日天、月天、星天の三光をかたどった御幣を立ててひざまづいて礼拝し、神仏を尊奉する唄をうたい踊る「三光の儀」は、崇高な舞で神前など厳粛な儀式に演ずる。牡鹿と牝鹿の哀愁を帯びた掛け合いの唄が特色の「鉄砲躍」もすごかった。一演目が延々と四十分も続く。鹿踊りを見慣れた人たちで埋め尽くされた客席の間から驚きの声が上がるほどだった。
 鹿踊りの格調高さは、芸術の域にあると思われ、このような大作の数々がどのようにして出来上がり、さらには今日までしっかりと伝承され続けているのは、なぜなのだろうか。鹿踊りが奥深いものを秘めた踊りであり、鹿踊り文化圏のすごさというものをあらためて再認識した瞬間でもあった。
 鹿踊りは、気仙地方を含む旧仙台藩(伊達藩)の宮城県北部から岩手県南部にかけてと、花巻以南の旧盛岡藩の一部に分布するそうで、江刺で最も古い行山流久田鹿踊は一五九七(慶長二)年、仙台城下の八幡堂踊の大将、佐藤長兵衛から行山流鹿踊を伝授されたものとか。この久田鹿踊も出演していたが、サララが鳥の羽根でできているという珍しいものだった。
 鹿は春日明神の使いで、奈良の春日大社の神使とされる。来場者に配られた資料によると、鹿踊りの起源説の一つに春日明縁因説があり、天平時代に豪族の襲撃を受けた奈良の春日大社が、「奥州松島に避難し、御神体を奉じた大社の一族と多数の神鹿が海路上陸、その滞在中、土地の人々に鹿踊りを教えた」という説も伝わっている。
 鹿角とササラの付いた頭を左右に振り、キュッとかしげる動作にも気品が漂う。
 旧仙台藩の鹿踊りは、四国の愛媛県の宇和島地方にも伝わっているそうで、伊達政宗の長男秀宗が大阪冬の陣に父政宗に従って出陣し、その忠義が認められ、二代将軍秀忠から宇和島十五万石を賜った。秀宗は、宇和彦津神社を一の宮と定め、鹿踊りはこれを祀るために秀宗が入国の際、仙台から伴った人々によって始められたという。
 その踊りは、鹿の頭面を着けて全身を幕で覆う幕踊り系で、旧仙台藩の鹿踊りが原型となっているという。鹿踊り文化圏の広がりにも興味深いものがある。(ゆ)

卒業生たちの心意気
☆★☆★2009年03月25日付

 三月―別れの時期である。最近は毎日のように卒業や異動の話題があり、お世話になった方々の名前を見つけては、ついセンチメンタルな気分に襲われてしまう。
 「別れ」と聞くと、どうしてもさみしさや悲しさが前に出てしまうが、そればかりじゃない。そんなことを最近、二つの取材から感じ取ることができた。
 一日に挙行された、県立高田高校の卒業式。筆者の母校であり、二十年度に広田水産高との統合で新生・高田高となって、初めての卒業生を送る場となった。
 陸前高田市を担当して二年目。今年からは市内唯一の高校となったこともあり、この一年はさまざまな取材をする機会に恵まれた。
 開校式に始まり、入学式などの学校行事、学習や部活動での活躍。高校時代はこれといった活躍のない一先輩にとっては、後輩たちの頑張りに感心させられるばかりだった。
 どの生徒も「話を聞かせてください」とお願いすると、丁寧に受け答えしてくれる。人なつこく話しかけてくれる子たちも多く、素直でいい生徒たちという印象を受けていた。
 そんなことを思い出しながら、卒業式を取材した。卒業生の中には、見覚えのある顔がちらほら。普通、情報処理、水産技術、家政各科の代表者が卒業証書を受け取り、式次第はスムーズに進んでいった。
 保護者代表のあいさつまでは、ごく普通の卒業式だったと思う。そして卒業生退場の場面で、予想外の出来事が起きた。
 最初のクラスが起立したとたん、生徒の一人が大きな声で「ありがとうございました」とあいさつをした。続けてクラス全員で「ありがとうございました」。担任教諭をはじめ教職員、在校生、保護者らそれぞれに礼をし、会場をあとにしていったのだ。
 続くほかのクラスも、同様に感謝の言葉やエールを送っては深々と礼をし、教室へと戻っていく。自らの高校時代にはこんなことしなかったなぁ…と思いつつ、周囲への感謝を忘れない卒業生たちの心意気に感動していた。思わず泣きそうになりながらも、心の中にはさわやかな余韻が残った。
 その後、卒業生の一人に取材をする機会があり、その真相を確かめた。そこで生徒たちの自発的な行動と知り、改めて感動させられてしまったのだった。
 もう一つは、14日付7面で紹介した、陸前高田市立第一中学校三年生の話題から。三年間にわたって学年新聞発行や地域住民らとの交流活動を続けてきたという内容だったが、取材には代表の生徒たちが応じてくれた。
 翌日は卒業式という、忙しい中での対応。それでも生徒たちは三年間を振り返りながら、活動に込めた思いを話してくれた。
 ひと通り取材を終えて帰ろうとしたところ、生徒の一人に呼び止められた。もう一つ付け加えたいことがあるという。それは三年間自分たちを支え、励ましてくれた恩師への感謝の言葉だった。
 あえて先生がいない場を選んだのは、照れくささや驚かせたいという思いがあったのだろうかと推測するが、高校生同様、感謝の思いを忘れない生徒たちの心意気に触れることができた。すがすがしい気分にさせられたのだった。
 別れの瞬間はどうしてもさびしく、つらいもの。しかし、最後に感謝の気持ちを伝えることで、次も頑張ろうとか、再会までのさらなる成長を誓おうという前向きな気分を運んでくれる。
 そんな当たり前のことに、改めて気付かせてくれた卒業生たち。その心意気に感謝するとともに、次の活躍も取材したいと、心から願っている。(佳)

ハゲ頭にも三分の理
☆★☆★2009年03月24日付

 「ハゲに悪人なし」という。むろん「有髪」側からの賛辞であろうはずがなく、「薄髪」側の自己弁護というよりも強がりだろう。その強弁の根拠として、「光頭」の先輩から聞かされたのは、江戸時代の読本に登場する盗賊・児雷也や仮名手本忠臣蔵で悪役を務める斧定九郎などが真っ黒でふさふさとしたとした髪の持ち主であったという、ただそれだけの「例証」であった。もしこれが定理だとしたら、世の中は悪人だらけということになる。
 四十代にしてその「善人」の仲間入りを始め、年代が進むにつれて「一葉落ちて天下の秋を知る」ならぬ「一毛落ちて人生の秋を知る」境遇にどんどん向かっていたこの不肖は、すっかり抜け落ちる前に剃髪し今流の「スキンヘッド」にした。まだ殘毛はあるのだが、伸ばせばバーコード状になるのを嫌ってのこと。潔いのではない。未練がましいようでいやなだけなのだ。
 ひところ養毛剤のCMに「髪は長〜い友だち」というのがあった。髪という文字を分解すると確かに「長」と「友」が含まれている。うまいCMだと感心したが、白川静「字通」を開いてみると、そんな意味はない。道理で長くない友だちづきあいになったようである。
 ついでに、髪の文字中にある「ノ」を三本並べた旁にはどのような意味があるのかと同書で調べると、これは「サン」と呼んで、形容、形象のための添え字となっているようである。「髪」も「杉」も「彩」もそうだ。そこには「持てる」豊かさが秘められている。現在の不肖はその対極に位置しているというわけで、もてない三大条件の一つにハゲが数えられているのは、「持たざる」ところに原因があったのか。
 しかし人間というのは悪あがきをするもので、ある小冊子を読んでいたら「ハゲとは人間の進化の過程で毛が薄くなった結果である」といった場面に遭遇して思わず笑った。猿は人間より三本毛が少ないらしいが、その猿より大幅に少ないことをどう釈明したらいい?これは一日も早く科学的論拠を示さなければなるまい。  
 科学的といえば、これだけ科学が進歩してなぜ強力な発毛剤が発明されないのか。もう達観の域に達している不肖と違って、まだまだこれから一花も二花も咲かせたいと願っている光頭予備軍にとってこれは干天に慈雨を求めるがごとき、渇望、渇仰の対象であろう。
 米国で降圧剤を服用していた患者に発毛が認められたことを奇貨として開発された発毛剤が一時、爆発的な人気を集めた。一瓶何千円もする高価な薬で、しかも長期服用しなければ効果はないというので、はなから買う気など起きなかったが、知人の一人はワラにでもすがる思いで投資したらしい。だが、薬石効なく?増えたのは出費だけだった。そうであろう。不肖は三十代から三十年の長きにわたって降圧剤を服用し続けているが、発毛どころか減毛の一途をたどるばかりだった。最初からマユにツバをつけていたのも、こうした科学的考察、個人的臨床例?に基づくものだったことはいうまでもない。    
 さて、スキンヘッドにした理由をよく問われるが、「不景気なので坊さんのアルバイトをすることにした」と答えることにしている。しかし昔から「助平親父」はハゲ頭と相場が決まっており、まして不肖の人相風体は「エロ坊主」風と評価が定まっているのだから、これは敬遠されかねない。せっかく自ら達観しているのに印象からそう即断されるのは本意でない。先日はクラス会で「いつ仏門に入るのか」と聞かれたので、「墓に入るのとどちらが先になるか」と答えて爆笑となった。
 口の悪い仲間がいて、頭頂がめっきり薄くなった年下の男に「おめぇ、カツラかぶれや」と勧めたら本人が「いや、オレは気にしてねぇのす」と答えたところ、すかさず「いや、オレが気になるんだ」とのたまった。これは実話だが、気の毒に。
 いずれ同病相憐れむことなどせず、互いにハゲまし、社会のためにハゲんでいこうと提案したいのが本稿の主旨である。そこに作為など毛ほどもない。(英)


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