高校講座HOME >> 日本史 >> 第24回 一揆と打ちこわし 〜民衆の行動と論理〜
今回のテーマは、「一揆と打ちこわし」です。
度重なる飢饉や領主による圧政は民衆の暮らしを苦しめました。
不満を持った民衆が農村でおこしたのが「一揆」、都市で起こしたのが「打ちこわし」です。
今日は、現在残っている資料から、その実像と、参加した人々の姿や行動を捉えていきましょう。
では、今日の3つのポイントです。
(1) 自然災害と飢饉
(2) 百姓一揆
(3) 打ちこわし
江戸時代には、天変地異が起こると凶作となり、死者を出すほどの飢饉へと発展しました。
中でも享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉の3つが江戸の三大飢饉といわれています。
今回は、その中から天明の飢饉を例に自然災害と飢饉の様子を見ていきます。
1783年、東北地方は冷夏に見舞われていました。
さらに、この年の夏、浅間山が大噴火をおこします。
山ろくに大きな被害を与えただけでなく、上空に達した噴出物が気温を低下させて、凶作に拍車をかけたと考えられています。
これが全国で数十万人の死者を出した「天明の大飢饉」です。
この飢饉のとき、弘前藩は政策の失敗から、甚大な被害を招きました。
弘前藩は上方の商人から多額の借金をしていて財政が悪化していたため、借金返済のために備蓄米を大坂に送り、売ってしまっていたのです。
当時の米取引の方法として、「米切手」という手形で米が売り買いされていました。
財政難に苦しむ各藩は、この米切手を実際の米以上に乱発していました。
このため、市場に実際よりも米があることになってしまい、米の値段が暴落してしまいました。
そこで弘前藩は借金返済のため、さらに多くの米を売らなければならず、備蓄米が底をついていたのです。
また、順調だった新田開発も限界に達していました。
さらに、領内で作る米を収穫量は多いが冷害に弱い品種に切り替えていたため、冷害の被害が甚大なものになったのです。
その結果、1783年11月には数千人単位で餓死者が出ました。
飢えた領民は村を捨て、いくらか食料のあるという噂を頼りに、隣の藩である秋田領へと逃亡しました。しかし、秋田にも十分な食料はなく、飢えた人々は山をさまようことになったのです。
当時は、1度凶作に陥ってしまうとなかなか立ち直ることができませんでした。
農村では、米は取れないのに領主への年貢は払わなくてはならないので、食糧不足になります。
そして米がなくなれば米の値段が高くなるので都市にも影響がでます。
さらに商人が買い占めたりすると米価は暴騰してしまい、結局買うことができずに食糧不足となるのです。
そこで人々は一揆や打ちこわしを起こすようになりました。
江戸時代を通じて、百姓一揆は3200件、打ちこわしは500件近く起こったといわれています。
百姓一揆の件数を表す年表を見ると、最大のピークは幕末で、そのほか大きな飢饉のときに一揆が増えていることがわかります。しかし一揆の増加は飢饉のせいばかりではないと考えられます。
飢饉の様子を描いた絵を見ると、死んだ母親にしがみつく乳飲み子が描かれています。また、一説によると死人を食すためと言われる刃物も描かれています。
ここまで弱った人々が、集団で一揆を起こすことは簡単ではなさそうです。
したがって、一揆は「飢饉で追い詰められて自暴自棄になっての暴動」と単純にはいえないのです。
飢饉のときに一揆が増えているのは、おそらく食糧不足などをきっかけとして、明確な目的を持って立ち上がったと考えられるのです。
百姓一揆には大きく分けて2つの形態があります。
1つが江戸前期に多い代表越訴という、百姓たちのリーダーが領主に訴える形態のものです。
もう1つは江戸中期以降に増える惣百姓一揆で、かなり広範囲にわたる人々が参加しました。
民衆の一揆は、中世から権力者を悩ませてきました。
江戸時代になると一揆は、それまで自力救済の考え方に基づく実力行使から、村としての平和的な行動へと変わっていきます。
「代表越訴」といわれる一揆の例として佐倉惣五郎がいます。
今の千葉県、佐倉藩の農民・佐倉惣五郎は、藩内の百姓を代表して将軍に直訴し、磔(はりつけ)にされたと言われています。
惣五郎は死後「義民」として祀られました。
そして惣五郎の逸話は読み物や歌舞伎に脚色されて広く語り継がれていきました。
このような「義民」の伝承は全国に数多く残されています。
しかし惣五郎については処刑されたことなどはわかっていますが、実際に将軍に直訴したかどうかはわかっていません。そのため、語り継がれるうちに逸話が付け加えられたのではないかと考えられています。
一方、村全体で立ち上がる「惣百姓一揆」の1つとして、「庄内藩三方領知替反対一揆」があります。これは、幕府が出した三方領知替(さんぽうりょうちがえ)という命令に対して、百姓たちが反対行動を起こした一揆です。
1840年に出された「三方領知替」は武蔵国・川越藩15万石の松平家を出羽国・庄内藩に、庄内藩14万石の酒井家を越後国・長岡藩に、長岡藩7万石の牧野家を川越藩に移すという幕府の命令です。
これを仕掛けたのは川越藩といわれています。
江戸図屏風に描かれている江戸時代前半の川越城には、将軍が訪れ、狩をしている様子が描かれています。
しかし、江戸後期になると、川越藩は借金で財政が破綻寸前になりました。
そこで豊かな藩に移り、債務を整理しようと、前将軍の大御所徳川家斉に国替えを働き掛けたといわれています。
しかしこの時、庄内藩の百姓たちがこれに反対し、藩内のすべての村で、村民が一揆を起こしたのです。
その様子が「夢の浮橋」という絵巻物として遺されています。これは一揆の様子が一部始終残されているたいへん珍しい資料です。
天保11年(1840年)11月17日に、領知替による移転の命令が出て、領民は幕府に訴えることを決めました。これはそのときの絵です。
この中に署名をしている人が描かれています。署名をすることで誓約をするのです。
江戸で訴える場面です。
江戸城の近くに幕府の役人がたくさんいます。そこで、それぞれのグループに分かれて訴えています。老中の水野忠邦に訴状を渡している人がいます。
しかしこのときは成果がなく、彼らは1度庄内藩に戻りました。
そして大集会が行われました。
火が上がっていますが、これは火を焚いているだけです。ちなみに一揆で放火することは厳禁でした。
また、この集会に参加する百姓たちは、百姓の象徴である蓑と笠をまとっています。
数人の百姓が藩の役人と向かい合っている場面も描かれていますが、これは藩の役人が、百姓たちに集会をやめるよう訴えているところです。
次に、集会でも掲げられていた旗を描く様子です。
素材は、むしろではなく主に紙や布などです。
この絵の中の旗には
「百姓たちが国の中心である、それをきちんと守らなければ国も守られない」
というような趣旨が書かれています。
そして、また大集会が開かれました。
たくさんの旗の中でもいちばん目立つ「北晨(ほくしん)」の旗が上がったら、集合するという合図です。
集会にはたくさんの人が集まるので、ルールが必要です。それを書いた高札もあります。例えば、「放火はしてはいけない」などということが書かれていました。
百姓たちの持ちものに注目してみましょう。
合図として音を鳴らす、大きなほら貝が描かれています。
他に、鉄砲を持つ場合もありました。
江戸時代の百姓は、狩猟や、田畑を獣などから守るために鉄砲を持っていました。
しかし一揆では、鉄砲は、武器ではなく鳴り物として使われていました。
大集会を開いた後、人々は集団ではなく、グループや個別で行動しました。
幕府に訴えても成果がないので、まわりの藩に訴えていったのです。
右は、会津藩の役人に百姓たちが訴えているところです。
この後、百姓たちは「おもてなし」を受けて、いったん帰ることになりました。
この一揆の最中に起きたエピソードを2つ紹介します。
川越藩のスパイが庄内藩に入ってきて、高札に書いてあることを書き写そうとしていたら、旗を立てて進んでくる一団を見て逃げていったそうです。しかしその一団は、田畑から虫を追い出す「虫送り」をしている百姓たちでした。
このときの百姓たちの姿からも、百姓たちは蓑と笠を身につけて一揆に参加していたことがわかります。
もう一つのエピソードは、盗人の生き埋めです。
百姓一揆では放火だけではなく、盗みも厳禁だったのです。結局、盗みを働いたとされたこの人は、妻子の命乞いで救われました。
そして、ついに1841年7月、「三方領知替」は撤回されました。それを祝うために、店先で道行く人に酒が振舞われる様子が描かれています。
このように、一揆に参加する人々はとても規律ある行動をとっていて、鉄砲を持っていても武器として使わないなど、人々の意識の高さが伺えます。
ただし、一般的に一揆は年貢の減免などを求めたものであり、今回紹介したケースは特殊かもしれません。
また、一揆がすべてこのように非暴力というわけではなく、時には死者が出ることもありました。
一方、「打ちこわし」は都市で起きた民衆運動です。暴動と捉えられることが多いですが、やはりそうとはいえないのではないかと考えられます。
1866年の江戸の打ちこわしを描いた「幕末江戸市中騒動図」を見ていくことにします。
これは江戸幕府が滅亡する直前の打ちこわしです。
幕末時期には物価が上昇しましたが、米価が高騰して民衆はたいへん困っていました。そこで、打ちこわしをしたのです。
鉢巻をし、上半身裸で、俵を投げている人々が描かれています。
これは、同じ服装になることで団結力を強いものにしたと考えられます。
彼らは長い棒などを持ち、米蔵を襲って柱を持ち出し、さらに米を道にばらまいています。ばらまいている目の前には商人がいます。
ただし、米が高騰し庶民が困っているときに食事の提供などをした商人は、打ちこわしの対象外でした。おそらく、ここに描かれた商人は金儲けをしていたのだと推測できます。
そんな中、混乱に乗じて、ばらまかれた米を拾う人たちがいます。この人たちは顔を隠して拾っているため、本当に困ってやむにやまれず盗んでいるものと思われます。つまり打ちこわしには、貧しい人への救済の意味もあったのではないかと推測されます。
このように一般的に打ちこわしというと、商人に対する社会的な制裁のためのものだったと考えられます。
打ちこわしに参加する人は百姓一揆に比べて少なく、十人程度から多くても百数十人でした。さらに、特別なリーダーはいなかったにもかかわらず、なぜか統率が取れていました。一揆と同様、放火や盗みは行われず、そこに打ち壊しに参加する人々の意識の高さが伺えるのではないでしょうか。