先日の研修会で講師の先生のご法話を聞いた。
まとめると、
「仏法を聞く事」自体を目的とするのではなく、
仏法を聞いて、親鸞聖人と同じ「ご信心」をいただくのが目的でなければならない。では。その親鸞聖人の「ご信心」の内容とは、
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へは まいるべきなり。」(『歎異抄』第9条)
という “まるごと人生をいただく”智慧である、と伺った。
まるごと人生をいただく、というのは、生も死も踏まえた(生死を超えた)世界である。
これは、
「自分に、死がおとずれた場合には、潔くカッチョよく死ね!」と言っているのではない。
「なごりおし」いのである。死にたくないのである。
でも、名残惜しい自分のままに、娑婆(この世)の縁が尽き、死んで行かなくてはならない時には、かの土(浄土)に参らせてもらおう・・・
つまり、「行く先」が定まっている・・・ということ。
繰り返すが、「行き先」が定まると言っても、やっぱりこの世には未練タラタラ名残惜しいし、死にたくないのである。
死にたくない自分、そのままの自分に寄り添う「真実」に,
今、気づかせてもらうのである。
それは、自分自身の心オンリー(自力)からは生まれてこない。
しかし、親鸞聖人の【浄土真宗】と一口に言っても、実は、宗派によって、人によって、受け取ったバトンによって、微妙なニュアンスの違いがある。
例えば、
「心配いらないよ、死んでも浄土があるから」
という言葉から、「死後(死んでから)の安心」という事をいただいたとする・・・でも、「死後」では、「今・ここ」にいるワタクシ自身のパワーにならない。いまの僕は、このニュアンスでは シックリいただけない。むしろ、誤魔化されたような気がしてしまう。
でも、
「心配いらないよ、死んでも浄土があるから」
という言葉の「心配いらないよ」という部分に力点を置いたとする。すると、、この私が、生きている「今・ここ」を心配なく歩める・・・という受け取り方になる訳で・・・・、
指定券を買ってあるので、混雑している休日でも安心して駅に向かえるって感じか?
同じ言葉を聞いても、微妙に違ってくる。(実は、真宗の書物を読んでいて、いつも難しく思うのは、こういった類の解釈の違いである。)
それから、
【他力】という言葉も、誤解されている。 自分は何の努力もせずに、他人をアテにして、いいとこ取りしようとしている「怠け者」「弱虫」という誤解である。
【他力】の反対語は、【自力】である。
自力とはどんなものか?自分の力を信じて、自分で何でもやってやる!と頑張っている私。 一生懸命に自力を尽して、努力をして、知識・経験を積み重ね、マジメにマジメに生きてきたとしても、
「死」という厳然たる事実の前には、知識も経験もマジメさも、そのすべてが吹っ飛ぶ。
それを、「自力無効」という。
「他力」とは、実は、「自力」を尽し一生懸命頑張った人が、そんな自分に破れ、見えてくる世界かもしれない。
身内や大事な人の「死」に出逢うということは、亡き人が他力となって「自力無効」を教えてくれている、ということだ。
「厳然たる事実」が、「自力」オンリーの私を問うのである。
しかし、
これは、「もう頑張らない」「もう努力をしない」ということではない。
今の自分の「モノサシ」の有り様を点検する機会をいただいているのである。
“まるごと人生をいただく”智慧をいただかなくては、
自力オンリーでは、いずれポキッと折れる。
いや、
ポキッと折れたからこそ、
「このままの自分」を照らす「もうひとつの世界」が見えてくるのか。
亡くなった方は、私に、
「死の前には、自力無効だよ、大丈夫かい?」
と問いかけている。
死すべき命が、今の私の「生」を課題にする。
では、「南無阿弥陀仏」と唱えるのはなぜか?
南無とは、「気づいてちょうだい」との仏からの呼びかけであると同時に、「気づきました」という私の方からの答え。
阿弥陀とは、「ア(否定の接頭語)・ミタ(量る)〜〜量ることができない・無量」という語源解釈もできるが、「量る」とはここで言うなら「自力」であり、それが否定されているってことは、「自力無効」という意味になるのである。
つまり、「南無阿弥陀仏」とは
仏からの、
「自力無効だよ」
との呼びかけであり、それを、この私の発声する「お念仏」の上に、その呼びかけを聞いて確認していくのである。
亡き人は、「問いかけ」となって、私の前にいる。
まるごと人生を受け取れるアナタであれ、と。
・・・・難しいね。
でも、
今日、お通夜のお話をさせていただきながら、
以上の事を考えてました。
今日の投稿は、そのメモです。
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