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「自殺」とされない自殺 [雑感]

今日の「大竹まことゴールデンラジオ」メインディッシュのゲストは、
「夜回り先生」として有名な水谷修さんでした。
「死」しか世界にないような若者を相手に、
文字通り献身的に話を聞き、
生きる目的を持たせようとする姿は、
TVなどでも目にされた方も多いでしょう。

今日の話の中でビックリしたのは、
毎年「自殺者」として発表される数字は、
実は本当の「自殺者」のほんの一部だと言うことでした。
遺族の気持ちや保険金のことを考え、
明らかな遺書が存在する場合を除き、
OD(薬物の過剰摂取)は「中毒死」と死亡診断書には記されるそうです。
リストカットは「事故死」とも記されるそうです。
「年間の自殺者が3万人を超えた」と騒いでいましたが、
現実にはもっと多くの人が、
自らの命を絶っているのだという事実に、
私は本当に驚愕しました。

私は見栄っ張りでええかっこっしいなので、
ODなんかで簡単に死ねないのもわかっていたし、
リストカットなんかで死にきれない姿をさらす惨めさもイヤで、
結局具体的に自分を抹殺する方法がとれなかった意気地無しです。
今は「死ななくて良かった」と思うこともありますが、
毎日死にたくて仕方なかった当時は、
死のうとして行動が起こせない自分がイヤで、
更に死にたくなったものです。
今も時折脳裏をよぎるのは、
「なぜあの時電車に飛び込めなかったのか」という思いです。
理由は今もわかりません。

今の若者はいつもいつも怒られて責められて、
自分の居場所を見失って死にたくなる場合が多いそうです。
私はふと田口ランディ氏の兄を思い出しました。
人と接触することが苦手で、
仕事を始めても長続きせず、
口にするのはジャンクフードばかり、
そんな兄に船乗りだった父は怒り責めるばかり。
結局餓死という凄まじい自殺を遂げるのですが、
本当に田口ランディ氏の兄は、
居場所を見失ってしまったのだと思います。

そして人から必要とされているという思いがないと言うことです。
人から「ありがとう」と言われたり、
夢を見ることが出来なくなってしまったことで、
自分の存在を見失ってしまうのだと言うことです。
褒められるよりも叱られることが多い人生では、
自分の存在価値がわからなくなってしまうのです。

私があの時もしも自殺していたら、
死亡診断書にはなんと記されたのでしょうか。
遺書を残していたら「自殺」で、
残していなかったら「事故死」だったのでしょうか。

あの頃頭の中の90%が「死」で占められていたとすれば、
今はおそらく2%もないと思います。
ただ今でも「自殺」関連のニュースには敏感です。
去年の川田亜子さんの時も、
ショックだったのと同時に気持ちがわからなくもなかったことは事実です。

この世の中には、
統計に含まれない自殺が多いという事実。
そのことは本当にショックでした。
もしかしたらその一部に自分がなっていたのかも知れない。
そう思うと何とも言えない気持ちになります。

人が生きる糧は食料ではありません。
人から感謝されたり必要とされることが、
生きるための一番の糧になるのです。
それはうつ病の極期には全く思い浮かばないことでした。
ただひたすら自分さえいなくなれば世間は幸せになる。
生きている自分が情けなくて申し訳ない。
人から感謝されるとか必要とされるとか、
そんなことを感じるこころさえ失われている状態でした。
こころはすでに死んでいたのだと思います。
そんな心を救おうと尽力する水谷さんは、
現在悪性リンパ腫に冒されているそうです。
ラジオから聞こえる声はそんな病気だとは信じられないほど、
穏やかながら力に満ちていました。
自らその余命が決して長くないことをご存知で、
それでも命を救うことをやめようとしない姿は、
本当に感動的ですらありました。

「自殺」とされない自殺があるという事実。
その裏にあるこころの寂しさや哀しさ。
そして命を賭して命を救おうとする水谷氏の姿。

脳内にあった2%の死が、
更に小さくなっていくような思いでした。


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