どんよりとまちを包むスモッグ状の大気、車が走り抜けたあとには粉じんが舞い上がる。沿道の小売店は、店先の商品に降り注ぐ砂埃に頭を痛めていた。道行く人々は目を細め、手で口鼻を覆いながら、小走りに通り過ぎて行く…。呼吸器系を病む人もいた。
「中国大陸からの黄砂では…」、「郊外の土が雪に付いて運ばれてきたのでは…」という声もあったが、明らかにこうした現象ではなかった。道路に轍(わだち)が掘られ、横断歩道の白線が消えてゆく。
原因は、スパイクタイヤだった。
当時、冬期間に市内を走る車の90%以上がスパイクタイヤを履いていた。雪道の少ない都心部では、特にダメージが激しく、舞い上がる粉じんも多かった。
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スパイクタイヤ全盛時代の仙台の都心。この程度の積雪は冬期間でも数日しかなく、すぐに雪は融け、路面は次々と削られていった。 |
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市政だよりをはじめ新聞、テレビなどのメディアに多くの市民が登場して脱スパイクキャンペーンを展開した |
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道路粉じんにはタールなどの発ガン性物質が含まれる。犬の肺からスパイクピンの一部とみられる金属物質が発見された。
被害者が出てからでは遅い。環境問題に対する処方箋を市民は知っていた。危機意識が一気に高まりをみせ、町内会、商店会、学校、企業、マスコミ、弁護士、医師など、市民総出の「脱スパイク運動」が始まった。この運動はさらに全国の「雪国」へと広がっていった。
しかし、安全で便利なスパイクタイヤ使用と健康への不安の板ばさみの中で、被害者であると同時に加害者でもある市民のかっ藤が始まった。
冬道の安全性では、スパイクタイヤの制動能力はスノータイヤを上回る。かといって当時はこれに替わる性能のタイヤは商品化されていなかった。にもかかわらず、仙台市民はスパイクタイヤの放棄の決断をした。 |
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