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第1章 ◎ ユダヤはなぜ文明に寄生したか?
つねに激しい敵意を引き起こす唯一の民族
文明の歴史のあらゆる時期を通して、人類のある特殊な問題が一貫してわだかまりつづけてきた。平和と戦争、また戦争の風聞の膨大な記録を調べると、帝国が次々に誕生するごとにおなじ窮地に追いこまれてきたことがわかる――それはユダヤ人の問題である。
この問題は執拗に持続しているにもかかわらず、また、これを主題にあつかった文献が山とあるにもかかわらず、賛否を問わず誰ひとりとして、その窮地の根源にまで踏みこんで対決した者はいなかった。すなわち、ユダヤ人とは何者か、彼らはどうしてこの世に存在するのか? という根源的な問いがなおざりにされたのである。
もし人間が全知を傾けてあたりさえすれば、この問いに答えることができる。
この問題には、キリストの愛というもっとも深い動機、なかんずく人間とはなにか、人間はなにに根ざしているか、あるいは人間はなにを目指しているのかという、人間自身に対する最大の敬意を払いつつ、最高の霊的な水準において立ち向かわなければならない。
人間の歴史は、もてる者ともたざる者との闘争と戦争、人間による人間の搾取、そして殺戮の歴史である。しかしながら、血ぬられた記録を調べると、どの地に居住しようとも、もっとも激しい敵意をつねに引き起こしつづけてきた民族がただ一つだけあることがわかる。
ただ一つの民族のみが、文明社会のあらゆる部分に寄生しては徹底的に宿主の国民をいらだたせ、ついには宿主が彼らと対立し、彼らを殺し、あるいは放逐するまでにいたることになる。
この民族を、人はユダヤ人と呼ぶ。この問題は、ユダヤ人以外でも、集団同士の対立抗争が1国にとどまらず起こるため、誤解されてきた。
トルコ人によるギリシャ人の大量殺害は、何千年にもわたって散発的に発生し、たかだか一世代前にもそのような事件が起こって、今日生存している人びとにも影響を及ぼしている。
数百年前にフランスで起こったユグノー派の大量殺害(1562年〜1592年にフランスでカルビン派キリスト教徒ユグノー派とカトリック教徒とのあいだに宗教戦争が発生、大量のユグノー派が殺された)は、おなじ人種であっても、宗教上の違いから互いに対立し合い、異なる人種間の対立に劣らぬほどの、血で血を洗う抗争に発展しうることを示した。
しかしながら、これらの殺戮ののちには、対立した集団はふたたび平静な生活の営みにもどるのが常であった。対立が解消されるか、あるいは犠牲者の生き残りがどこかよそへ去るかしたものである。ユグノー派の例では、難民たちのなかからのちにアメリカ独立戦争を指導する思想家たちが数多く生まれることになった。
2000年以上にわたって存在しつづけてきた「ユダヤ問題」
和解も他の国への永住も絶対にしない例が1つだけある。
ユダヤ人の歴史は、そうした2つの事実を示している。
第1に、ユダヤ人と寄生先の宿主とのあいだに和解がもたらされたことはいまだかつてなかった。
第2に、いかなる国家もユダヤ人の永久追放に成功したことはなかった。
さらに驚くべき事実は、ユダヤ人はある国からしばしばたいへん厳しい状況のもとに追放されても、そのつどたかだか数年足らずのうちにもどってくるということだ。
ライオンの口になんども繰り返して自分の頭を突っこむような、この奇妙な衝動、この信じがたい執念深さは、他の集団の歴史上の記録に見いだすことはできない。
なぜそうであるのか、ユダヤ人の異様で強情な性格、みずから進んで苦難を耐え忍ぼうとする傾向で説明できる、とこれまでいわれてきた。
だが、集団マゾヒズムという解釈では、ユダヤ問題の他の多くの側面を説明できない。
人類の他の多くの問題と同様、実はユダヤ問題は2000年以上にわたってわれわれの前に横たわりつづけ、解決策が求められつづけてきた。われわれは、この問題に正直に直面することを拒んできたために、真相が見えなくなっているのだ。
ユダヤ問題は、キリスト信仰の重要な一面にかかわり、2000年前キリストがわれわれに範を示し、人間としての生命を捨てたキリストのあの解決策を受け入れることによってのみ解決することができるのである。キリストの物語は人類の物語であり、贖罪を発見するという戦慄すべき体験、つまり魂の救済の物語である。
ユダヤ人は、われわれがこの世にとどまるあいだに超克するよう求められている動物的な誘惑のすべてを代表している。ユダヤ人のために、救済は、無自覚あるいは偶然に左右されるのではなく、われわれ自身が意識的に選びとることになった。ユダヤ人と彼らが体現する悪がなければ、人は、目の前に黒白の選択を突きつけられることはなかったかもしれない。人は、よくどちらを選んだらよいのかわからなかったと言い訳をする。けれども、ユダヤ人が存在するからには、そのような言い訳はできないのである。
文明世界では、生涯のある時期に、誰でも極度の誘惑にさらされ、
サタンに山頂に連れられていき、肉の喜びを目の前に広げられ、そしてサタンにささやかれる。「おまえがわしのいうことを聞くなら、これはみんな、いや、これ以上のものがおまえのものになる」と。
【参考】悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と(聖書に)書いてある」。そこで悪魔は離れ去った。(マタイによる福音書)
カエサルはローマをユダヤ人に売ったために殺された!
今日の文明社会で富と権力を操る者の大多数は、サタンの申し出を受け入れた者であり、イエス・キリストを通じて魂が救済される可能性を放棄した者だ。
これらの人間はユダヤ人のために働いている。
バーナード・バルーク(1870〜1965年、アメリカにおけるユダヤの黒幕、ウィルソン、ル―ズヴェルト両大統領の経済顧問)の哀れな道具ウィンストン・チャーチル、ベラ・モスコヴィッツのぶざまな召使フランクリン・D・ルーズヴェルト、カガノヴィッチ(1893年〜1991年、クレムリン最大の謎の人物といわれてきた)の悪魔の手先スターリン――こうした入間たちはすべて、山の頂きに連れられていき、この世の成功という架空の栄華と富を見せつけられ、サタンに従うよう要求された者たちだ。
これらの者たちはサタンに同意した。そして彼らがまさにサタンに同意したがために、何百万という人びとが無惨に殺戮され、大戦争が悪疫のように世界中に広がり、地上の人類をことごとく恐怖におとしいれたユダヤの爆弾を炸裂させたのである。
チャーチルとルーズヴェルトとスターリンは死んだ。だが、ユダヤの恐怖という彼らの遺産は今日なお残っている。「すべての権力をユダヤへ!」。これがルーズヴェルトとチャーチルの署名したサタンとの条約であった。このために、この2人の男はどちらも地獄の業火に永遠にさらされることになり、ユダヤを呪いながら死んだ。すべては身から出たさびなのである。
そして彼らは、数人の若い女と数本の酒と引き換えに、自国民をユダヤに売りわたして奴隷としたことを慄然と悟って、永遠と向き合ったのである。
このことは、人類の歴史を知る者には、目新しくもショッキングでもない。5000年の長きにわたって、政治指導者たちはユダヤ人のおべっかを聞き入れてきた。
そして、指導者たちはことごとくおなじ暗礁に乗り上げて、その国民を難破させたのである。
文明社会の師であるユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が、当時のローマ国民をユダヤに売ったがために、みずからの元老院議員たちに殺された、というほとんど知られていない驚くべき事実を、われわれはユダヤ人自身の出版物のなかに見いだす。
そして何週間かのちにユダヤは、ルーズヴェルトを、チャーチルを、ジョン・F・ケネディを哀悼するために集会を催したように、カエサルが刺殺された場所で哀悼集会を開いたのである。
「サタンのもとを離れ去って、私についてきなさい」
歴史を通じて、そうした下劣な話はなんども繰り返されてきた。したがって歴史を通じて、指導者にも指導される者にもイエス・キリストのメッセージはずっと同一であった。すなわち、「サタンのもとを離れ去って、私についてきなさい」である。
この魔法のメッセージはとても単純ではあるが、人類にすべてを与えてくれているのに、何百万という人びとはその意味を理解することができず、救われることなく死んでいった。
これはなぜなのか?
なによりもまず、ユダヤ人が問題を混乱させる張本人として生きのびてきたからだ。
キリストが十字架に磔刑(たっけい)になってから、イエスの救いのメッセージが何千という人びとを引きつけはじめると、ユダヤは彼らに典型的な動きを開始した。イエスに反対するのではなく、イエスを乗っ取ろうとした。彼らは世界に向かって、「イエスはユダヤ人」であると主張したのである。そうなると、キリスト教徒となるには、ユダヤ人が命ずるままになんでも従うほかなくなる。
こうすることによって、ユダヤは「イザヤ書」第5章20節に次のように示されていることを無視したのである。
「わざわいなるかな、悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ者は。闇を光となし、光を闇となす者、苦きを甘しとなし、甘きを苦しとなす者は、わざわいなるかな」
信じられないことだが、幾百万という人びとがユダヤのこの策略に引っかかった。
あらゆる文書記録が、イエス・キリストの身体的特徴は、ガリラヤ生まれの青い目で亜麻色の髪の非ユダヤ人であったと明らかにしているにもかかわらず、何千というキリスト教聖職者が、「ユダヤ人キリストを礼拝しよう]と会衆に語りかけるのだ。
このことは、われわれの救世主に対するはなだしい冒涜であるばかりでなく、人間常識の根本をもことごとく冒涜するものだ。
もしもイエスがこのような善良なユダヤ人であるならば、どうしてユダヤ人はイエスを十字架にかけろと要求したのか? なぜシオンの長老たちはサタンの会堂に秘密のうちに集まり、イエスの肉体を死にいたらしめる計画を練ったのか? 驚くべきことに、会衆を前にしてこの問題を提起しようという聖職者は合衆国にただの一人もいない。それどころか、今日では人びとをユダヤ化する計画を遂行しているキリスト教聖職者さえいる。
宗教指導者のなかには、イエス・キリストの傑刑にあらゆる面で荷担したユダヤ人の罪を許すために、聖なる枢機卿会議を開催する者たちさえいるのである。ユダヤは、この目的を達成するために何百万ドルものカネを事前にわたしている。その功あって宗教指導者が集まるこの聖職者会議では、世界に向かって神ご自身の記録である『聖書』はウソであると宣言する。
このことは、なにを意味するのか?
それは明白である。聖職者もまた人間にすぎない。サタンの誘惑で山の頂きに連れられていくことはありうる。つまるところ、個々人の最後の審判の日には誰も仲介に立つことはできず、人は一人で神と直面しなければならないのだ。
聖職者の真の使命とは、われわれの魂の贖罪をして下さるキリストのメッセージを、われわれに力強く説くことにあるはずである。
世界的な真実失墜の時代に、頭を高くかかげよ!
記録は改竄(かいざん)や隠滅することができ、人びとにニセの神を信じさせることもできる。しかし真理が決して曲げられない個所が1カ所だけある。それは魂のなかである。それゆえに、心奥の声なき声に耳を傾け、みずからに正直であれという教えに従う者は正しい選択をすることができるのだ。
この地上のユダヤ人の存在によって、われわれの選択は単純になっている。ユダヤ人の虚偽どおりに生き、救われることなく死するか、それとも、イエス・キリストの真理を抱いてイエスの御腕のなかで栄光に包まれるかのどちらかである。
われわれの文明の偉大な画家と音楽家や哲学者たちが霊感を得たのは、イエスによる贖罪を知っていたからである。
ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽の天かける楽節、何百というルネッサンス芸術家たちの作品、あまたのキリスト教哲学者たちの著述には、イエスの教えに従って生きる者の輝きが明らかに示されている。が、ここでもユダヤ人は、またしても闘いを挑んできた。ユダヤ人は、ゴイ[豚]すなわち非ユダヤ人のだまされやすさを徹底的にあざ笑うかのように、ときには犬や猿に塗りたくらせたような意味のない愚作を絵画の世界に氾濫させてきた。ユダヤ人は音楽の世界を、神経をいらだたせる自動車の警笛の金切り声やドラムを愚かにガンガン叩く騒音に一変させた。そしてユダヤ人は、文学の世界さえ、人間の放蕩三昧を繰り返す物語に変えてしまった。
われわれは、次のように問うてしかるべきだろう。どうしてユダヤ人はこういうことができるのか、どうしてユダヤ人は人間の感性をここまで蹂躙(じゅうりん)することができるのか? と。
答えはこうだ、ユダヤ人の生活は憎悪と復讐よりほかにありようがないからだ。
というのもまさにその本性のゆえにユダヤ人は、キリストが提供する魂の贖罪を受け入れることができないのだ。彼らは、永遠に地上界にとどまるよう宣告された唸る獣である。
天国は彼らを拒む。これがユダヤのほんとうの悲劇である。
今日の若者は、圧倒的なユダヤ的堕落にのぼせ上がって、イエス・キリストのメッセージを聞く耳をもたなくなっている。だが、偉大な詩人バイロン卿がいったように、「逆境にあることは真理への道」である。この世界的な真実失墜の時代に、頭を高くかかげることができ、なおかつイエス・キリストのメッセージを聞くことができる現代の若者にとって、その報いは大きい。
私は、まだ心がイエス・キリストに向かって開かれていない人びとのために、本書を執筆した。本書はユダヤ人の事実に即した歴史であり、もし読み終わって、なおもキリストを否定する人がいるなら、その人は真底から破滅しているのである。