数学~その遙かなる風景~ (最終回)言葉としての数学はどこまで語ることができるのか
2008年6月11日
1951年、ケネス・ジョセフ・アローが彼の博士論文"Social choice and individual values"の中で明らかにした定理です。定理を理解するための準備をしましょう。アローは社会状態の集合Xと個人の集合N={1,2,…,n}から出発します。個人の前提は合理的であり任意の社会状態x,y∈Xに対してxがyより好ましいか、あるいはxとyが彼にとって無差別であるかのいずれかを明言することができ(完全性)、さらにxがyより悪くなく、yがzより悪くなければ、xはzより悪くはない(推移性)という意味で、彼の選好判断は内部矛盾を含まないものとします。個人iの選好関係(Preference Relation)を数式でxRiyと記します。個人iにとり、xがyより悪くはない社会状態であることを意味します。するとこのRiはx上の順序関係であり、完全性(任意のx,y,z∈Xに対して、xRiyまたはyRixが成り立つ)と推移性(任意のx,y,z∈Xに対して、xRiyかつyRizならばxRizである)という性質を満たすと仮定するのです。
さらに、選好関係PiをxPiy→(xRiyであるがyRixではない)と定義し、xPiyであることを「個人iはxをyよりも厳密に選好する」と表現します。さて、選好順序の組(R1,R2,…,Rn)を集計して社会的選好順序Rを与えるルールf:R=f(R1,R2,…,Rn)を考えます。アローはルールfは集計機構として最大限の頑強性をもち、個人的選好・願望・判断が異なる個人間でどれほど極端な差異があっても、fはそれに対処して合理的な社会的評価をアウトプットしうることを要求するのです。これで以下に述べる公理を説明する準備ができました。
【公理1】広範性(unrestricted domain)
ルールfはいかなる個人的選好の組に対しても社会的選好順序Rを与えることができる。
【公理2】パレート原理(Pareto principle)
全員一致性。任意のペアx,y∈Xに対して、全員一致してxPiyならば、ルールfがこの(R1,R2,…,Rn)に対応させるRに関してもxPyです。
【公理3】独立性(independence)
二選択肢評価の無関係な対象からの独立性。ルールfが個人的選好順序の二つの組(R1,R2,…,Rn)、(R'1,R'2,…,R'n)に対応させる社会的順序をそれぞれR,R'とします。Xの部分集合Sに属する任意のx,yに対して、(∀i∈N):xRiy←→xR'iyであれば、C(S,R)=C(S,R')。このC(S,R)は社会的選択集合といわれる概念で、Sが社会にとって実現可能な状態の集合で(R1,R2,…,Rn)が諸個人の選好のパターンであるとき、社会にとり達成可能な最善な状態の集合であることを意味します。
【公理4】非独裁制(non-dictartorship)
ルールfは独裁者の存在を許してはならない。ただし、個人iが独裁者であるということは、個人的選好の任意の組(R1,R2,…,Rn)に対して、xPiyならばi以外の個人の意志にかかわりなくxPyとなることを意味します。
以上の公理としての要求は過大なものではありません。ルールは一般的に適用可能であり(公理1)、全員一致した個人的評価はこれを正確に社会的評価に反映させ(公理2)、社会的選好を構成するための個人的選好に関する必要情報投入量を最小限にとどめ(公理3)、独裁者の存在排除するものでなくてはならない(公理4)。実際のアローは個人選好関係が完全性と推移性をもち、公理1~3を仮定して、社会的選好が存在するとすればそれはある個人の選好と一致してしまうこと、つまり独裁的になることを論理的に証明してみせたのです。
このアローの定理とは民主主義の限界を示しているのです。民主主義の根幹をなす多数決システム。しかし、多数決システムでは最大多数の最大幸福を実現できないことをアローは証明してみせたのです。コンドルセのパラドクスとして有名な投票のパラドクスは多数決の欠陥を示したものですが、アローによって厳密にパラドクスの構造が見えてきたのです。コンドルセ(1743~1794)はフランスの啓蒙思想家、数学者として教育制度改革に尽力した人物ですが、民主主義を論理的(数学的)に分析してみせた先駆者といえます。そのコンドルセの問題の突破口を開いたのが経済学者アロー(1921~)です。一般均衡理論と厚生経済学に関する先駆的業績で1972年ノーベル経済学賞を受賞しました。日本も戦後、民主主義を唱えながら今日まで歩んできましたが、このような論理的な議論がその土台にはたしてあったのでしょうか。私ははなはだ疑問を感じます。選挙制度ひとつとってみてもアローの定理を理解した上で、すなわち民主主義の限界を理解した上で議論がなされているとは到底思えません。究極の選挙制度は存在しないことをアローの定理が教えてくれるとすればそれを理解した上で政治の議論がなされて当然と考えるのです。そうすればもっとまともな(非数学的表現ですが)民主主義の具体的システムができていく可能性があります。つまり、究極の民主主義は達成し得ないことを数学的に理解し、議論するそのプロセスが個人として社会として理想の姿ではないかと考えるのです。私の主張は、国会議員には最も数学的素養をもった人物になってもらう必要があるということです。そのためには国民がもっと数学を自らのものとしていかなければならないということを意味しているのです。これは私の個人的見果てぬ夢物語です。
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