金玟煥「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で 」
「資料庫」に金玟煥(キム ミンファン)「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で ―― 沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」を掲載した。是非ご一読いただきたい。

http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-18.html

著者のキムミンファン氏は、1972年生まれの、文化社会学専攻の研究者である。同論文は、もともと、「2003年度~2006年度科学研究費補助金 基盤研究(A)研究成果報告書 変容する戦後東アジアの時空間――戦後/冷戦後の文化と社会」(研究代表者 中野敏男、2007年6月)に収録されたものである。私は、その報告書でこの論文を見つけ、大変面白く読んだ。このたび、御本人のご了承をいただき、公開した次第である。なお、「現知事」「前知事」などの表現は、発表時(2005年11月)のものであることを付記しておく。

以下、蛇足ながら、私の問題関心に引き付けた上での内容紹介も交えつつ、この論文から受けた示唆について書きたい(念のために付記するが、現在の沖縄戦集団自決論争や<佐藤優現象>等に関する以下の見解は、私のものであって、キムミンファン氏のものではない)。本論を読めば明らかだと思うが、キムミンファン氏は、私よりもはるかに沖縄の左派への期待が強く、その視線は温かい。氏の指摘は、「連帯」への呼びかけとして受け止められるべきであろう(私の指摘もだが)。

キムミンファン氏はこの論文で、原爆被害等により日本人一般が、自らの加害責任を問うことのないまま、自らを戦争の被害者であると捉えがちであり、特に、広島の原爆被害が、「「平和」に関する言説と結合して日本人たちを犠牲者意識に浸らせ、日本がアジア-太平洋地域で行った侵略者としての姿を批判的に捉えることを不可能にさせる機能を担っている」点を指摘している。

そして、広島の平和博物館の館長の発言を引くなどしながら、こうした、日本人の加害責任を問わずに、日本人を戦争被害者とする立場から発せられる「平和」の声を、「歴史的な文脈が除去された「平和」」だとしている。

そして、注目すべきは、キムミンファン氏が、沖縄における沖縄戦の表象をめぐる政治的対立について、単なる右と左という対立図式を採らず、日本の侵略責任を問う立場と、「靖国」的な立場、「広島」的な立場――「歴史的な文脈が除去された「平和」」をそれぞれ別のものと捉えていることである。

その上で、キムミンファン氏は、沖縄戦に関する施設について、稲嶺恵一前知事ら沖縄の保守派が図ったのは、「靖国化」というよりも「広島化」であり、沖縄で日本の侵略責任を問う立場の人々は、「靖国化」への動きだけではなく、「広島化」への動きとも争わなければならない、とする。

そして――私の問題関心からは、特にこの点に注目したのだが――キムミンファン氏は、1990年代に日本の侵略責任を沖縄で問うていた人々が推進した「平和の礎」も、「広島化」への口実を与えているのではないか、と提起するのである。「平和の礎」の、「加害者と被害者を区分せず追悼しようとする試み」について、光州事件などの例も挙げながら、キムミンファン氏は、以下のように述べている。

加害者と被害者の間に存在する差異を無化させるこのような論理は、特定の事件をそれが発生した歴史的文脈の中から抜き出して永遠に加害者と被害者の間の差異をなくす効果を発揮する。加害者と被害者の間の差異が消滅したその場所には、つまり過去にどのようなことがあったかが正確に語られない場所では、逆説的に「未来が忘却 」されてしまう。」(強調は引用者)

このような論理は、あと一歩で「歴史的な文脈が除去された「平和」」、「広島」的な立場に容易に移行してしまう。いや、イコールだ、と言ってしまってもいいかもしれない。そしてキムミンファン氏は、1995年の「平和の礎」の建立発表の時には「全ての戦争犠牲者を同一視し、日本の戦争責任に関する問題を曖昧にする」として反対の声が見られたが、2004年段階では、こうした論争が沖縄では「収束」したことになっている、ことを指摘している。

この論文が示唆してくれる点は多々あるが、私が非常に興味深く思ったのは、この論文が、直接には意図されていないにもかかわらず、現在の沖縄戦集団自決に関する論争の構図それ自体を、根本的に問うものとなっていることである。

以前にも書いたが、現在の沖縄戦集団自決に関する論争をめぐる沖縄の左派の言説で特筆すべきなのは、「集団自決の日本軍による強制性の歴史教科書への記述を勝ち取り、「従軍慰安婦」や朝鮮人強制連行も歴史教科書へ改めて記述されるようつなげていこう」という声が、ほとんど見られない点である。

それどころか、沖縄の左派やメディアは、沖縄問題で佐藤優を重用する点に示されている(最近、ようやく目取真俊氏からの批判が出たが)ように、中国や朝鮮と、沖縄を一緒にされたくない、という意識で動いているように見える。これは、沖縄では、戦前の沖縄人の、台湾や東南アジアへの侵略主義的な進出という加害の側面が、全くといっていいほど問われないまま今日に至っていること(こうした加害の歴史を隠蔽しながら、「平和の島」を自称する欺瞞を暴いた吉田司『ひめゆり忠臣蔵』も、現在の沖縄の左派は完全に黙殺してしまっているようである)と、完全に対応している。

現在の沖縄戦集団自決をめぐる言説状況に関しては、沖縄の保守派までもが、教科書からの集団自決の強制性の記述の削除に抗議していることが強調されるが、キムミンファン氏の指摘を念頭に置けば、それは特に驚くほどのことでもあるまい。沖縄の保守派が志向しているのは、恐らく、「靖国化」ではなく、「広島化」なのであるから。そして、キムミンファン氏の論文が示唆してくれていると思うのだが、沖縄戦集団自決訴訟や教科書問題がはじまる以前に、すでに、沖縄の左派の「広島化」はほぼ完了していたのではないか。少なくとも言説レベルでは、沖縄は、ほぼ<島ぐるみ>で、「広島化」しているように見える。

沖縄は、戦後民主主義的な言説や価値観が日本で一番強く存在している空間のように見えるが、だとすれば、戦後民主主義的な欺瞞もまた、日本で一番強く存在している、ということになる。沖縄において、本土以上の強さで<佐藤優現象>が成立していることには、こうした背景があると私は思う。

そして、いささか出来すぎているとさえ思えるのだが、「平和の礎」建立の最大の立役者である、大田昌秀元沖縄県知事は、沖縄における佐藤を熱心に擁護している。

また、キムミンファン氏が論文で指摘しているが、稲嶺前知事時代の県当局が、平和祈念資料館の展示計画の変更に際して、アジア-太平洋地域の平和維持のためのアメリカ軍の役割を強調したように、「広島化」された、「歴史的な文脈が除去された「平和」」は、「日米同盟」にも親和的である。沖縄戦集団自決をめぐる論争で見られる沖縄の<島ぐるみ>の「広島化」は、沖縄県内での米軍基地のたらい回しという現状を、補完することになるだろう(注)

付け加えておくが、「加害者と被害者の間に存在する差異を無化させる」論理は、決してキムミンファン氏が取り上げた例に限られない。最近話題になった、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチはその典型であろう。

村上はここで、徴兵されて中国戦線で従軍していた自分の父親が、戦後、「敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っていた」ことを述べた上で、「私たちは、国籍・人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している卵なのです」、「「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません」と説いている(「47トピックス」の訳文を便宜上、使わせていただいた)。

ここでの発言が、パレスチナ問題をも念頭に置いていることは明らかだが、村上の論理からすれば、イスラエルが加害者であって、パレスチナ人が被害者であるというごく当たり前の関係性がぼかされ、悪いのは、「システム」ということになってしまう。もちろんそれは、パレスチナの土地を奪い、パレスチナ人への虐殺・抑圧を続けているというシオニスト国家の加害責任、そして、そうした国家を支援する国家(例えば、大韓民国や日本国)の国民として少なくとも有する政治的責任を、捨象する機能を果たすことになる。ここでは、「歴史的な文脈が除去された「平和」」が、どれほど容易に政治的な機能を果たすかが、ほぼ完璧に示されている。

村上の発言の政治的機能を考える上では、例えば、イスラエルの擁護者の佐藤優を重用する、北村肇『金曜日』編集長の見解が参考になろう。檜原転石氏のブログ(「ヘナチョコ革命」)の3月21日の記事によれば、北村編集長は、イスラエル問題(ガザ侵攻の件?)に関する檜原氏の質問に対して、「「真の敵はシステム」(「イスラエル悪玉論」だけではことの本質が見えない)」という趣旨の回答を行なったという。北村氏は『金曜日』のホームページの自身の連載(「一筆不乱」2009年1月16日付)でも、イスラエルのガザ侵攻について、イスラエルの行為を「暴挙」としつつも、「むろん、単純に、「イスラエル悪者論」を唱えるわけにはいかない。ハマスにもアラブ各国にもさまざまな思惑があるのは事実だ」と述べている。これでは、檜原氏も指摘しているように、「どっちもどっち」という主張と大差ない。まさに、「加害者と被害者の間に存在する差異」が、「無化」されている。

現在のリベラル・左派の言説は、「歴史的な文脈が除去された「平和」」意識、「脱文脈化された平和」意識に覆われている。ここに、積極的に見出だすべき価値は、残念ながら、ないと言わざるを得ないのではないか。こうした言説状況こそが、<佐藤優現象>や、リベラル・左派の「国益」論的再編を促進している、と私は思う。


(注)この補完関係については、「<佐藤優現象>批判」注の「(52)」でもすでに述べたので、引用しておこう。

「佐藤ら右派が「日米同盟」の堅持を主張しながら、集団自決に関する教科書検定で文科省を批判することはおかしくない。アメリカの有力シンクタンクも、沖縄での米軍基地の拡張・新設にあたって、「台湾海峡という紛争水域周辺の重要な地域に足場を確保するために」、沖縄に海兵隊撤退などの「見返り」を与えることを主張している(浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』集英社新書、二〇〇二年二月、六三頁)。「見返り」には、歴史認識に関する沖縄の声に日本政府が配慮することも含まれよう。無論、「日米同盟」を支持するリベラルによる文科省批判も、同様の計算が多かれ少なかれ働いていると見るべきだろう。」

なお、佐藤学(教育学者ではなく、沖縄在住の政治学者)も、2007年9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に自民党が仲井真知事の参加を許したのは、基地移転問題や米軍による住民被害の問題への「ガス抜き目的」である可能性を指摘している(佐藤学「県民大会成功の陰で」『世界』臨時増刊「沖縄戦と「集団自決」」、2008年1月)。

また、2004年の沖縄国際大学への海兵隊ヘリ墜落直後の抗議集会に比べ、「明らかに、今回の教科書問題に関しては、自民党の対応が異なる」としており、「県民大会は、基地問題全般における、国の政策に対しての沖縄からの抗議表明とは考えるべきではない。県民大会で示された力は、あくまでも教科書検定問題限定であり、それを超えることはない。むしろ、基地問題に関しては、逆向きに働きつつあるのかもしれない」と述べている(強調は引用者)。

by kollwitz2000 | 2009-04-01 00:00 | 日本社会
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