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プログラムされた父殺し
おとといの短い記事が、予想外の波紋を呼んでいる。コメントも50以上ついているが、その多くが学生運動がらみであるところがおもしろい。今の若者にとっては神話的な時代なのかもしれないが、そのころを知る者として少し書いておこう。
最近もギリシャで反政府暴動が起きているが、こういうのは基本的に学生がエリートとみなされる後進国の現象だ。日本でも60年代の全共闘運動まではその傾向があり、1969年に東大に機動隊が導入されたとき、全共闘が「入学おめでとう」という看板を掲げたのは有名なエピソードだ。今はよくも悪くもそんなエリート意識はないので、「われわれが社会を指導する」という運動は不可能だ。
しかし若者が親の世代を否定する父殺し(patricide)の衝動をもつことは人類学で知られており、生物学的にも合理的だ。生物は生まれた以上、死ぬのが当たり前だと思われているが、実はバクテリアは死なない。個体に一定の寿命があるのは、有性生殖を行う原生生物や多細胞生物だけである。老化は細胞分裂の際にコピーに少しずつ誤差が出ることによって起こるが、それは細胞がもともとそなえているしくみではなく、進化の過程で個体は一定期間後には死ぬようにプログラムされたのだ。
その理由は、個体は遺伝子のコピーを最大化するための「乗り物」にすぎないからだ。同じ個体がずっと生きて人口が増え続けると、新しい個体の生活する余地がなくなり、最後には食料がなくなって種全体が滅びてしまう。親は個体としては死ぬが、遺伝子を子供に残し、その成長を助けることによって遺伝子プールとしての個体群は繁殖する。若者が父親を殺そうとする(権威を倒そうとする)暴力は、群淘汰によって遺伝子に埋め込まれた本能なのだ。
いわゆる未開社会には、権力者を定期的に殺す「王殺し」の制度が広くみられた。国家が老化して効率が落ちたとき、それを壊す最強のメカニズムは戦争である。古来、戦争と内乱はほとんど同じもので、権力者を外部から規律づける装置として機能していた。マルクス主義が強い影響をもったのも、こうした破壊衝動に訴えるからだろう。しかし近代のような大規模な国家で暴力革命を起すと、エドマンド・バークも指摘したように旧体制より悲惨な結果になることが多い。
これを歴史的に実証したのが社会主義の失敗だが、最近はその逆にすべての変革を拒否して、ケインズ的なピースミール社会工学で社会をコントロールするのが賢明だという風潮が強い。しかし北朝鮮で、いくら「将軍様」のもとでピースミールな改良を続けても社会は改善しない。晩年のハイエクも気づいたように、バーク的な保守主義では制度を変えることができないのだ。資本主義は、古い企業を殺すことによって社会が生き延びる群淘汰のメカニズムである。
このまま「景気対策」でごまかしを続けていると、20年後には日本は――北朝鮮とはいわないまでも――ラテンアメリカのように国家として破綻するおそれが強い。私の世代は、そのころには食い逃げしているのでちっともかまわないが、今の30代以下には地獄のような老後が待っていることは覚悟したほうがいい。世代間の負担だけでなく、日本経済の衰退によって分配の分母となる所得が減少してゆくからだ。父殺しのエネルギーは、暴力革命以外の方法で使うこともできる。2ちゃんねるのようなゴミためで騒いでいても、悲惨な未来は変わらない。
最近もギリシャで反政府暴動が起きているが、こういうのは基本的に学生がエリートとみなされる後進国の現象だ。日本でも60年代の全共闘運動まではその傾向があり、1969年に東大に機動隊が導入されたとき、全共闘が「入学おめでとう」という看板を掲げたのは有名なエピソードだ。今はよくも悪くもそんなエリート意識はないので、「われわれが社会を指導する」という運動は不可能だ。
しかし若者が親の世代を否定する父殺し(patricide)の衝動をもつことは人類学で知られており、生物学的にも合理的だ。生物は生まれた以上、死ぬのが当たり前だと思われているが、実はバクテリアは死なない。個体に一定の寿命があるのは、有性生殖を行う原生生物や多細胞生物だけである。老化は細胞分裂の際にコピーに少しずつ誤差が出ることによって起こるが、それは細胞がもともとそなえているしくみではなく、進化の過程で個体は一定期間後には死ぬようにプログラムされたのだ。
その理由は、個体は遺伝子のコピーを最大化するための「乗り物」にすぎないからだ。同じ個体がずっと生きて人口が増え続けると、新しい個体の生活する余地がなくなり、最後には食料がなくなって種全体が滅びてしまう。親は個体としては死ぬが、遺伝子を子供に残し、その成長を助けることによって遺伝子プールとしての個体群は繁殖する。若者が父親を殺そうとする(権威を倒そうとする)暴力は、群淘汰によって遺伝子に埋め込まれた本能なのだ。
いわゆる未開社会には、権力者を定期的に殺す「王殺し」の制度が広くみられた。国家が老化して効率が落ちたとき、それを壊す最強のメカニズムは戦争である。古来、戦争と内乱はほとんど同じもので、権力者を外部から規律づける装置として機能していた。マルクス主義が強い影響をもったのも、こうした破壊衝動に訴えるからだろう。しかし近代のような大規模な国家で暴力革命を起すと、エドマンド・バークも指摘したように旧体制より悲惨な結果になることが多い。
これを歴史的に実証したのが社会主義の失敗だが、最近はその逆にすべての変革を拒否して、ケインズ的なピースミール社会工学で社会をコントロールするのが賢明だという風潮が強い。しかし北朝鮮で、いくら「将軍様」のもとでピースミールな改良を続けても社会は改善しない。晩年のハイエクも気づいたように、バーク的な保守主義では制度を変えることができないのだ。資本主義は、古い企業を殺すことによって社会が生き延びる群淘汰のメカニズムである。
このまま「景気対策」でごまかしを続けていると、20年後には日本は――北朝鮮とはいわないまでも――ラテンアメリカのように国家として破綻するおそれが強い。私の世代は、そのころには食い逃げしているのでちっともかまわないが、今の30代以下には地獄のような老後が待っていることは覚悟したほうがいい。世代間の負担だけでなく、日本経済の衰退によって分配の分母となる所得が減少してゆくからだ。父殺しのエネルギーは、暴力革命以外の方法で使うこともできる。2ちゃんねるのようなゴミためで騒いでいても、悲惨な未来は変わらない。
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一方で、人の存在を特別なものと考えないサイエンスを長いこと勉強した人間としては、池田さんが指摘したようなメカニズムで、社会の自然の新陳代謝に身を任せて生きるのも悪くないとも思う。究極の時間の流れの一瞬の歪みでしかない自分という存在をより幸せにすることに、大きな意味があるのかなと疑問に思うこともあります。なんだかんだいって、私は貧乏でも経済的な部分以外では、それなりに満たされて生きているつもりですし、別に今死んでも、それほどこの世に未練はない。
日本という国家が末永く良い社会であり続けることを望みますが、大多数の日本人がその目標を達成することに無関心であったり、間違った方向での努力しかしない現状であれば、個人ではいくら頑張ってもどうにもなりません。
結局なにが人を「幸せ」にするのか、人によって違うし、個人、家庭、会社、国家など社会の単位それぞれ思いの交錯があり、最適化が難しい。バランスが、一部を肥えらせるために他に尋常でない皺寄せが来ている現状は大問題ですが、耐え忍ぶことに長ける日本人の臨界点にはまだ達していないのでしょう。
不幸せな日本人が増え、不満が爆発するのを待っています。私自身は適度に満たされてはいますが、「ticking time bomb」としてその時が来るのを楽しみにしています。
個体が増えすぎて資源を使い果たし個体群が滅びるといったことは、ビーカーの中のゾウリムシのようにin vitroでは起こりうることですが、自然界では資源を使い果たす前に個体群が縮小し捕食者が減ることで食料となる資源が回復するので個体群の消滅にはいたらないのが普通です。このように群淘汰説のいう選択圧は自然界ではほとんど起こりえないので、進化の前提となる適応と選択のうち、選択を満たすことはないのでそのような進化が自然界で実際に発生したことはないと思われます。
したがって、そのような適応を果たした種が地球上で特に増加するということは考えにくいので、生物(人類)が一般にそのような形質を持っているということはないとおもわれます(少なくとも群淘汰説からはそのような結論にはいたりません)。
ただ面白いのは、池田先生が指摘されるように「現在の」人類にたいしてはこの群淘汰が起こりそうだということです。ビーカーを国に置きかえれば、急激に個体数を増やし資源を使い果たそうとしている人類はまさに群淘汰を受けようとしているのかもしれません。形質を政治と見ればよいとおもいます。ここでビーカーは地球には置き換わらないのがミソですね。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/5b3a2daecd4aa5db9cca0069d85c4b80
だからこそ、池田信夫先生のような学識者が積極的に政治に提言するべきだと思うんですけど…、いや、だからこそ官僚やマスコミ関係者も目を通すこのブログに書かれているのでしょうね。志のある人間がこのブログを切っ掛けにしてくれることを信じておられるのでしょう。
ところで、若者層の中にも、自分は海外に脱出すれば良いからと言う者もいるわけで、いざという時に困るのは海外でやっていける程の能力を持たない者です。
ちなみに自分は海外でやっていけると言う人間だって、その程度の能力者など海外には掃いて捨てる程いるわけで、アメリカのIT技術者がインドの外注会社に部門ごと持っていかれて失業したという例もありますから(医師であれば国際的に通用するでしょうが)。
ゆえに、グローバルな能力を持つ人は、それを比較的高く評価してくれる日本国内で働いた方がまだマシかも知れません。
個体群が縮小するなら個体が死んでいるのだから選択が起きているのではないかと思われそうですが、群淘汰説は個体ではなく個体群を進化の単位と考えるので個体群が消滅しない限り選択が起きたとはみなされません。
個体を遺伝子の乗り物と考える見方はドーキンスが『利己的な遺伝子』で言ったことですが、そのなかで群淘汰は否定されています。ドーキンスは進化の単位を個体や個体群あるいは種ではなく遺伝子そのものと捉えました。生物の進化の原動力が遺伝子の変異であることからこの考え方は極めて合理的といえるでしょう。変化の主体である遺伝子を進化の主体であると考えたわけです。
当時は先進的であった『利己的な遺伝子』も今は20年以上も前の古典で、生物学をやっている人間にとってはすでに空気みたいなものですが、生物学で廃れた群淘汰の考え方が今の社会科学の分野で活かされそうなのは、死んだおじいちゃんが生き返ったの見るようで楽しいですね。実際、群淘汰説そのものはある種の普遍性を持った理論だと思いますから生物学で使えなくても社会科学では使えるかもしれません。
今日は暇なので最近の生物学における群淘汰の研究を勉強しなおそうと思います。
オイルショック以降、穴掘って穴埋めるケインズ政策を永遠やっている日本は、
「鶏と卵」の迷宮に迷い込み、この国民を30年養ってくれた
輸出産業が不調になると、殆どの学者がだから内需拡大をやらないとだめだったんだ!
と、さらなる穴掘って穴埋める仕事を要求する...11月も貿易赤字...
この国はどんなにがんばっても3000万人分の食料しかつくれないので
「餓え」の問題が自分の身に差し迫るまで、
「2ちゃんねる」で日本終了のお知らせをして遊んでいると思う。
考えてみると本当は死滅してしまっているはずなのに規制や公共事業という外部からのエネルギー供給によって生きながらえている産業もたくさんありますね。
このまま滅び行く日本に留まっている必要はない。
能力のある個体(個人のこと)、つまり「英語が出来る」「他の国でも生きていくことができる」「グローバル市場で活躍できる能力がある」は、別な環境(外国)に出て行って繁殖することで子孫を残す。
能力のない個体、つまり前述の能力が無く日本に留まるしか出来ない個体は、繁殖をしてもダメダメな環境のせいで子孫を上手く残せない。
誰も過去を分かって、未来を知っている訳でもなく、昨日今日明日が続いているという理解の中で、男と女、夫と妻、親と子供、会社、学校等々営みが続く。
昔は、偉い人が殿様であったり、天皇であったり、それぞれの社会の枠の中で市井人は、右往左往するのみ。姨捨があり、口減らしがあり、人は人を搾取して生かなければいけない。(少子化現象は、この地のサイズに合う様にとの自然淘汰かも知れません)
今の日本で今の時代に生き、今ブログで語る事が出来るなら、この日本の未来について頭寄せて政治に反映する位にならないもんでしょうか?何も暴動を起こす必要は無いでしょう。
これについてはリンク先で書きましたが、それを読まない人もいるので、簡単に補足しておくと、ドーキンス(正確にはハミルトン)の単純な血縁淘汰説は、今日では否定されています。個体群のレベルでも淘汰が行われていることは、実験でも明らかです。
ここで書いたpatricideは、オイディプス神話など人類学で使われる概念ですが、ボスを倒して権力を奪おうとするサルの行動なども、一種の父殺しでしょう。古典的な(Wynn-Edwardsなどの)群淘汰では、こうした暴力は起こりえないが、現実には同じ個体群の中でも攻撃行動はよくみられます。特にオスに暴力が多いのは、高い地位を奪って繁殖のチャンスを増やすのが目的と考えられます。こうした闘争の結果、強い遺伝子が残る。つまり暴力は、個体レベルでは望ましい行動とはいえないが、個体群からみると老人の古い遺伝子を殺し、新しい遺伝子の増える余地をつくる行動なのです。
それとは別に、文化的レベルでも群淘汰が行われているというのが、最近の経済学の研究結果です。これはどこまで文化的でどこから遺伝的か、わかりにくいのですが、文化的なmemeは個体変異が伝承されるので、群淘汰は働きやすいと考えられています。定期的に権力を倒す「王殺し」の制度は世界に広く見られます。
子供の世代が不安定な雇用しか得られないことが、少子化の背後にはありそうなんですけどね。ノンワーキング・リッチがリソースにしがみついていることで、日本人という「種」が絶滅の方向に向かっているのでは?
それに、次世代のための死がプログラムされているのならば、なんで子供の世代に「父殺し」がプログラムされている必要があるんでしょう?ほっといても「死んで」いくなら、敢えて「殺す」必要もないような。いずれ時期がきたら立場を譲ってくれるのなら、なにもわざわざ親の世代を否定する必要もないのでは?
果報は寝て待てって言うし
3年寝たら何かいい案が浮かぶかもしれん
こういう時代こそゆとりが必要
通常自然環境においては環境の変化のスピードは個体の繁殖サイクルと比べて十分長いため「父殺し」をしなくても環境の変化に徐々に適応することが出来ます。しかし何らかの原因で環境が急激に変化するときには群が生き残る確率を上げるためにより多くのリソースを子孫に与える必要があります。そのリソースを確保するために繁殖が終わった世代に早く退場して貰うというプログラムが「父殺し」ではないでしょうか?仮説に過ぎませんが、「父殺し」「王殺し」は急激な環境変動に対応するための緊急対応用プログラムと考えることが出来ます。
> 生物が本来、子供の世代のために自ら死ぬようにプログラムされているなら、なぜ現在の「ノンワーキング・リッチ」の世代は、後の世代のために死のう(仕事を譲ろう)としないんですかね。
1) なにか「大きなトラウマ」があり、親子関係を実感できなかった。(あまりかまってもらえなかった)
2) そこにあった枠組み(経済のコト)に自分の存在意義を見いだすしかなかった。
3) だから、勝ち得た自分の存在意義を手放せないし、他人にも共感が示せない。貯めても貯めても満足はできない。
というリクツをゴミ屋敷のニュースを見て思いつきました。いつだったかは忘れましたが、晴れた日だったと思います。
ただ、暴動を起こすのは団塊ジュニア以降の世代ではなく、団塊の世代以上の方々かもしれません・・・
自民も民主も公明も共産も社民も国民も。
みな老人利権を切ろうとはしていませんし、
(自民と民主の中堅若手にはその動きもありますが、どちらも失脚して、主流派ではありませんし)
彼らにサービスして、票がほしいわけです。
また老人への負担を増やすと、切捨てと大騒ぎするんですよ。
姥捨て山か積極的安楽死、いや尊厳死も合法化をすべきなのですけど、これは倫理観というか死生観の問題で難しい。
せめてこれだけでも認められれば、かなり違うのですが。
無理な延命をやめれば、医療費は半分くらいは浮きますし。
老人から金とって、若者に仕事という形で、
分配するのは、介護保険制度くらいのものでしょうか。
(このときの安倍はよくやったと思います)
だがこれも介護保険料の増大を嫌い、増大分の削り
報酬を削るという愚挙を行いましたし。
お金と時間と学歴とコネがあれば立候補という手もあるんですが。。。
少数派から搾取する構造は、民主主義では修正できないんですよね。
では、どう対処するべきか?ここが、熟年には限界のあるところです。
他の方が書いていたように投票先がないため、今の日本を良くしたいと考えても、どのような方法があるのか、わからないのです。
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