2009年03月21日

オトコの進化論

オトコの進化論
けっこう前の話になりますが、毎週火曜日の夜にNHKでやっている『爆笑問題のニッポンの教養』に、先日 僕の敬愛する山極先生が出ていたので、今回は彼の本のご紹介。
山極先生、来週26日の木曜日の夜にもNHKに出るみたいですね♪

オトコの進化論 ー男らしさの起源を求めて
  山極寿一 著  ちくま新書


霊長類生態学などが専門の山極さんは、長年アフリカの地でゴリラやチンパンジーの生活ぶりを観察し続けてきた人です。
ご本人いわく「野生のゴリラとはうまくコミュニケーションできるが、人とはあまりうまく交流できない」んだそうで。 (^o^)
いろいろとたくさん出ている彼の本の中では、この本はわりと分かりやすいというか、一般向けに書かれているような感じのものです。

霊長類と人類の生態や歴史を振り返りながら、オスがどうやってオトコになり、男になったのかを再確認していくような、なかなか面白い構成になっています。
「父親である」ということの問題、子育てのこと、性交渉について、オスにありがちな暴力の問題・・
といったように、わりと夫婦とか家族とか親子とかの問題が盛り沢山で、ゴリラたちの生態を通してそれらのことを考えられるところが興味深いところ。

父親なんて、よく考えてみたらヘンな存在ですよね。
「父親だ」とかいって威張ってたって、まず相方から「あなたが父親だわよ」と認めてもらわなければどうにもならないし、さらにその上で子どもからも「あなたがお父さんだ」と認めてもらわなければ、実は「父親」という立場にはなれないわけです。
誰の子か、彼女が黙っていれば、ホントのとこは分からないわけですから。
父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。

性交渉にしたって、人間の場合はほかの動物と違ってちょっと独特です。
「生殖」のためだけにセックスがあるわけではないでしょう?
人間の場合には「生殖」と「性愛」と2つの側面があるわけです。
生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて、それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。
性のあり方や性交渉の発展のしかたが、社会の構造を決めていくというのは、分かってくるとなかなか面白いものです。

とても読みやすいというわけでもありません。
けれども、自分たちの下地が分かるような内容ですから、面白がって読んでみるのもいいのではないでしょうか。


*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪
Posted by appie_happie at 08:00 │Comments(51)TrackBack(2)

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この記事へのコメント
何の本で読んだのか忘れましたが、コドモのうちから群れ(他の個体)と隔離されて育ったチンパンジーは、オトナになって異性に接しても性交出来なかったという実験結果が知られています。性衝動が発現しなかったのではなく、衝動はあるのにやり方が分からないという状態だったそうで、つまりチンパンジーにおいても性行動は学習の産物なんですね。

ヒトの行動様式も、本能なのか文化なのかを考えると、結構ヤヤコシイものがあります。
Posted by 非国民 at 2009年03月23日 00:52
最近思うのですが、『子どもにとって「毒になる親」にならないこと』、って以上に大切なことはない、とそう思います。
父性とか母性とかの問題は、二の次ですね。
わたしはこっちの野で、あなたはあちらの野で咲く。それでいい。
「想いルール」で心がしっくり伝わるのは、大切だけど、そうできれば、それにこしたことはないけれど、それもまた二の次。

ところで想いルールにも多くの階層があって、単なる処世術だったり、生き抜く知恵(義理・人情の問題含む)だったりするところから、もっとずっと深い、英知といってよいもの(哲学・愛知や人としての愛に裏打ちされた)まで、さまざまです。

なんてことを、アキラさんには改めて言う必要もないか(笑)。

言語化の努力…。
しているつもりなのですが、「もやもや」はなかなか言葉になりませぬ(苦笑)。

ともあれ、興味深い議論でした。
Posted by naoko at 2009年03月23日 05:54
性虐待被害の約半分が10歳以下で始まっており、加害者の7割近くが実父だそうです。

野生の動物は近親姦を避けるように思うのですが。しかも生殖年齢に達していないメスを襲うことはないんじゃないのかな。その点では、人間の男より野生のゴリラのオスの方がまともだなと思ったり。
Posted by 水葉 at 2009年03月23日 08:40
アキラ様、お邪魔いたします。

質問があるのですけれども、
「ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」とはどういう意味ですか。

それから、山極寿一氏は、「本能」という言葉を使っていらっしゃるのでしょうか。
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月23日 13:55
・非国民さん

こんにちは。ご無沙汰をしてしまっております。

>ヒトの行動様式も、本能なのか文化なのかを考えると、結構ヤヤコシイものがあります。
<
そうなんですよねぇ。
いろいろなフィールドワークや研究結果を踏まえた「類推」とか「想像」とかは可能なんでしょうけど。
「そうである!」とは言えないわけで。
しかしまぁ、そのヤヤコシイところを「想像」するのが、また楽しいところでもあったりします。
僕の場合は。 (^o^)
Posted by アキラ@非国民さん at 2009年03月23日 21:53
・naokoさん

こんにちは。インチキ占い師のアキラです。 (^o^)

>わたしはこっちの野で、あなたはあちらの野で咲く。それでいい。
<
我が子に対してこう想うことができたら、いろんな問題が不要になる気がしますね。
けど、我が子ほど、こうは想えなかったりもするんじゃないでしょうか。
実際に出来るかどうかは別として、「そのつもりでいる」ということだけでも、大事なことのように思います。

>ところで想いルールにも多くの階層があって、
 ・・・・・
<
きましたね。 (^o^)
「想い」ルール、「論理性、整合性」ルールと、大枠でくくっちゃっていいものか?という疑問が、そもそも自分自身であるのですけれど・・・。
言いたかったのは、結局、
【 一番大事にしていることが違うんですよね、人によって。】
ってことですかね。
それによって、「想い」ルールだけにしたって、いろいろなものになっていくように思います。
階層になってるかどうかは分からないけど、そういう差は出てきますよね。

>言語化の努力…。
しているつもりなのですが、「もやもや」はなかなか言葉になりませぬ(苦笑)。
<
ねぇ〜、ホントに。お互いさまです。
「もやもや」、困ったものです、言葉にできなくて。。。
今回もまた痛感していることは、どうしてうまく言葉にできないんだろう、、、どうしてうまく相手の言っていることを理解できないんだろう、、、ってことです。
悩ましいです。。。
Posted by アキラ@naokoさん at 2009年03月23日 21:54
・水葉さん

お〜、こんにちは♪

>野生の動物は近親姦を避けるように思うのですが。
しかも生殖年齢に達していないメスを襲うことはないんじゃないのかな。
<
はい、ゴリラなどはそういう傾向があるようですよ。
また、ゴリラについては、若いメスってのは人気がないそうです。
熟女がもてはやされる社会のようです。

>その点では、人間の男より野生のゴリラのオスの方がまともだなと思ったり。
<
人の嗜癖ってなんなんだろうなぁ?って思いますね。
人に迷惑がかかんないんだったら、いろんなものがあっていいように思いますが、他人に迷惑や危害が加わったりしてしまうものになると、逆の嗜癖のニーズと合わない限り、ホントに単なる「アウト」ですし。。。
Posted by アキラ@水葉さん at 2009年03月23日 21:55
・ちょちょんまげさん

こんにちは。

>「ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」
<
これは、 生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉がゴリラたち類人猿あたりから観察できる、という意味です。
具体的な例を言うと、単なる交尾の代償ではないホモセクシュアルな性交渉が見られるということ。
このあたりは、イルカ、クジラ、サルなどにも見られるそうです。
山極氏によると、(おそらくそれ以上の)オス間の常習的なホモセクシュアル交渉が、ゴリラとオラウータンには見られるということのようです。

>山極寿一氏は、「本能」という言葉を使っていらっしゃるのでしょうか。
<
えっと、この本の最初から95ページくらいまでに とりあえず目を通してみましたが、僕の見落としがない限り、ただの一度も「本能」という言葉は出てきませんでした。
ことさらに注目していなかったので、調べてみて ちょっとビックリしました。(!)
全部に目を通しても、まったく出てこない可能性があります。

それから、
【 父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。】
と僕が書いたのは、巷で「父性という本能」みたいなことを言う輩がいるからで、そんなものはない、という意味合いです。
「父性とかいう本能」くらいのカッコ書きにしておけばよかったですね。
同様に「母性とかいう本能」も、巷で言われているような意味合いとしては、疑ってかかった方がいいでしょうね。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん at 2009年03月23日 21:56
アキラ様。
レスありがとうございました。

「ゴリラたち類人猿の『頃』」と書かれると「人間はゴリラたち類人猿から進化した」みたいに読めるのですが・・・。
あるいは、まさか山極寿一氏はそういう見解なのですか?

「本能」の件、了解いたしました。
生物学では、「本能」という言葉はほぼ死後であると思っておりましたので、山極氏が使われていたのか?と少々驚いておりました。

Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月23日 22:49
汚してごめんなさい。
死後→死語です。
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月23日 22:52
どうして伝わらないかって、脳内のバランスの取り方っていうか、精神世界の安定のあり方というか、生い立ちが当人の心に背負わせた‘もの’とかの違いから、それこそ『求めるもの』がそれぞれに違うからなのでしょうが、そのあたり、相手がどういう精神世界を生きているのか、リアルに実感できなければ、相手の泣き所もわからなければ、伝わる言葉も出てこない。
その点は、経験がものを言うかもしれませぬ。
的確な批判は、思いを伝える困難さを思えば、まだしも容易と思えまする。
ところが経験値が高ければよいかと言うと、逆に、『経験が人に沈黙を強いる』という面も無視できませんし、ね。
特に幼少期からの親子の関係から生じた経験など、あまりに本人にとって決定的なものであるだけに、深刻すぎて、当人にはその問題性に直面しきれない場合も多いように思うのです。
饒舌の影の沈黙…。
嘘の裏の真実…。
そのあたりを嗅ぎ分ける、感覚・感性の鋭敏さが鍵でしょうか。

っと、かなり饒舌になってしまった(汗)。

最も肝心なことは、『あなたは本当に他者に関心があるのですか?』ということです。
親子でも同様で、「もしも自分の許容範疇からはみ出したなら、もはや親でも子でもない」というなら、本当には他者に対して一切関心がないということなのです。
早々に親のふりもやめたほうが良い。
さもないと子どもに対して決定的な毒を注ぎ込む親になる。(もっとも、そうした親が‘ふつう一般の親’とは思いませんが…。)
わたしが母性も父性も二の次と言ったのはそういう意味です。

すみません!かなり独り言的なコメントになってしまいました。
Posted by naoko at 2009年03月24日 04:59
こんにちは。
アキラさんには、私の所で何回かコメントを頂いたのですが、こちらには初めてのコメントです。
宜しくお願いいたします。

とても興味深く拝見しています。

本、エントリーについてもいろいろ感想を述べたいのですが、4月締めきりの仕事を何本か抱えているので、それが終わり次第、書かせてください。
それはそれとして、、、

ちょちょんまげさん>
横から失礼いたします。
それと、
はじめまして。
愚樵さんのところでのコメント、拝見して、とても勉強になり、刺激になっていました。ありがとうございます。
さて、
今日は、先のあなたのコメントで、どうしても分からないことがあったので、もしお時間があれば、是非教えてください。

「生物学では、「本能」という言葉はほぼ死後であると思っておりましたので、山極氏が使われていたのか?と少々驚いておりました。」と書かれていますが、
生物学で本能と言う言葉は死語なのですか???
寡聞にして知りませんでした。
実は大学受験生に教えているのですが、
生物1では「複雑な反射が組合わさった複雑な行動が本能行動」と今のところ定義されているのものが多いので、私はそのように教えているのです。
これは間違いだったのでしょうか???
後学のために、
是非、お教えいただけると、とても嬉しく思います。


Posted by せとともこ at 2009年03月24日 17:38
・ちょちょんまげさん

> 生物学では、「本能」という言葉はほぼ死語であると思っておりましたので、山極氏が使われていたのか?と少々驚いておりました。
<
やっぱり、そういう感じのことだったんですね。
そのような常識があること、恥ずかしいことですが、知りませんでした。 (^_^;)
勉強になります。
お詳しいのですね。ちょちょんまげさんは、理系の人なんですか?

>「ゴリラたち類人猿の『頃』」と書かれると「人間はゴリラたち類人猿から進化した」みたいに読めるのですが・・・。
あるいは、まさか山極寿一氏はそういう見解なのですか?
<
あ、なるほど。そう言われれば、そう読めなくもないですね。
う〜ん しかし、めんどくさいですねぇ。
「ゴリラたち類人猿」とは、一応オランウータンからを視野に入れて書いたんです。
というのも、オランウータンにも「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉」が見られるようなんですが(テナガザルには観察例がない模様)、しかし 確実なところ(ゴリラ)をとって「ゴリラたち類人猿」と書いたんです。
ゴリラのものについては、山極氏自身のフィールドワークがあるものですから。

まさか学者で「人間はゴリラたち類人猿から進化した」なんてことを言う人はいないでしょう。(^_^;)
いるんですか? そんな学者。
科学って、そんなテキトーなものじゃないと思ってたんですけど。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん at 2009年03月24日 20:48
・naokoさん

>『求めるもの』がそれぞれに違うからなのでしょうが、
<
そうか、そういうものの違いもありますね。

>『経験が人に沈黙を強いる』という面も無視できませんし、ね。
<
僕もそう思います。
日の光のもとにさらせばよい、何とかなる、という話は、あまり転がってないように感じます。
やはり嗅覚は磨きたいところですね。

>親子でも同様で、「もしも自分の許容範疇からはみ出したなら、もはや親でも子でもない」というなら、本当には他者に対して一切関心がないということなのです。
<
これも仰るとおりだと思います。
自分の許容範囲で認める、許せる、というのは、一種の自己愛でしかないですよね。
また、解毒不可能な「毒」も、意外とたくさんあるように思います。
それを「業」と言うのかもしれません。
解毒不可能だからこそ、「ごう」を「ぎょう」として受け入れる、ということなのかもしれません。
Posted by アキラ@naokoさん at 2009年03月24日 20:54
・せとともこさん

おぉ、いらっしゃいませ。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
僕も手一杯なものですから、そのうちゆっくりお話しさせてくださいね。
Posted by アキラ@せとともこさん at 2009年03月24日 20:57
せとともこ様
はじめまして。

ウィキからの引用ですが、

>本能(ほんのう)とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。現在、この用語は専門的にはほとんど用いられなくなっているが、同様の意味を持つ語として遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、等が用いられる。

>専門分野では通常は本能という語の使用は避けられる。

と、あります。
他にも何かの本で読んだのですが、残念ながら見つけられませんでした。
というわけで、山極氏が使用なさっていたのかと少々「?」と思った次第です。
「本能行動」という言葉は生きているようですね。

>アキラ様

アキラ様のご文章を再掲いたします。

>人間の場合には「生殖」と「性愛」と2つの側面があるわけです。
生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて、それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。

この文章は(文脈からして)「ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」の前に「人間が」を補って読むことを要求していると思われ、即ち「人間がゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」を要求しているようにみえます。
そうでないと、「頃」の意味が通りません。
でなかれば、なんの「頃」なんでしょう?
わたしの「決め付け」ですか?
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月24日 23:24
アキラ様、何度もすみません。
場所をお借りいたします。

>せとともこ様

本がどうしても見つからない(書名も思い出せません。日経サイエンスかなんかの雑誌だったかも)
ので、もうちょっと検索してみました。

これは、ウィキの「母性本能」から:

>現在の生物学においては「本能」という言葉は「衝動」、具体的な「本能行動」を「生得的行動」というのが一般的である。また現代の心理学においては、記述概念としての「本能行動」に言及することはあっても、説明概念として「本能」を用いることはない。

また、Jabion-日本語バイオポータルサイト-用語辞書 http://www.bioportal.jp/BioTerms/ で「本能」で検索するとそのものズバリは出て来ず、引っかかるのは「本能行動」だけです。

あと、ご挨拶が遅れました。
私の愚樵亭での書き込みをご覧になっていただけたとのこと、まことに汗顔の至りでございます。
今後とも、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

ちょちょんまげ拝
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月25日 01:33
手一杯のところ、強引にお相手していただいた感じで、少々申し訳なく思います。

テーマもかなり強引に自分の関心事にひっぱりこんじゃってますし…。

でも、最後に一言言わせていただければ、最近、この仏教的な‘業’という言葉が、ちょっと苦手です(って前に自分で口にしておきながら!汗)。かもしだすニュアンスが重すぎて、救いがない…。(勝手な思い込みか?)
むりやり背負わされてしまうもの、という感じで(笑)。

そこから解き放たれたい、という欲求が強いのです。
もちろん、現実逃避と言う意味ではなく。むしろ、現実を見つめ、人を見つめ、触れ合う上で、解き放たれていたいもののひとつというか…。

‘言語化されたもの’が、人の思考を縛るという点で、功罪があるように思えますね。
最たるものが『宗教』…。
Posted by naoko at 2009年03月25日 05:23
あと、わたしの感覚からすると、アキラさんの言う、解毒不能な『毒』は、遺伝子(あるいは‘血’に)刷り込まれてしまったような感じすら覚えるもので、まさに、‘業’という言葉がふさわしいものでもあるのです。

でも、現実を生きていく上で、その言葉は、わたしに呼吸させてくれない(息もつかせない)。
そんな感じです。
Posted by naoko at 2009年03月25日 05:31
・ちょちょんまげさん

正真正銘のマジで・・ですが。。。
僕は、
>「人間がゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」
<
とわざわざしなければならない意味が分かりません。
マジで僕の理解の範囲は超えてます。
まず、「性愛」=「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉」なのであれば、「性愛」と書けば済むことです。
素直に考えれば。
なぜ、わざわざ違う表現をしているのか。

また、「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉」が芽生えているのは「ゴリラたち類人猿」にであって、「人間」にではありません。
素直に読めば。

さらに、一応 念のため申し上げておきます。
以下の段落は、僕の中では、
【 性交渉にしたって、人間の場合はほかの動物と違ってちょっと独特です。
「生殖」のためだけにセックスがあるわけではないでしょう?
人間の場合には「生殖」と「性愛」と2つの側面があるわけです。
 ーーーーーーーーーーーーーーー
生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて、それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。
性のあり方や性交渉の発展のしかたが、社会の構造を決めていくというのは、分かってくるとなかなか面白いものです。】
と二段に分かれているものです。
上はリンクでとんでくれ、と。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん at 2009年03月25日 09:18
(つづき)

よいですか?
「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉」が、オランウータンには見受けられるんです。
ということは、僕の理解は、その手前のことも含めると、共通祖先からオランウータンの系統が分化した頃にはすでに芽生えていたのではないか?という理解です。
しかしもう少し冷静に、オランウータンにも見受けられる、ゴリラにも見受けられる、となると、少なくともオランウータンの系統が分化したあとの「何か」、ゴリラと初期人類(+チンパンジー、ボノボ)との共通祖先の頃にはすでに芽生えていたとは言えるだろう、という理解です。
ですから それらの理解が総合されて、「ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」なんです。

『生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、様々なフィールドワークの結果を総合して考えると、類人猿と初期人類との共通祖先の頃には芽生えていたように思われ、それがそれぞれの独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。』
とでも書けばよかったですね。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん2 at 2009年03月25日 09:18
(つづき)

まぁ ですから、「類人猿と初期人類との共通祖先」から各々の類人猿も初期人類も派生してきた、という理解はしているってことです。
それがそもそもおかしいんじゃない?というのであれば、そのちょちょんまげさんの意見はあなたの意見として受け入れます。
しかし それは、類人猿からヒトが進化したなどということとは別でしょう?
僕は「印象操作だ」などとは言いませんけども。

>それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。
<
一応加えて申し上げておくと、これも人間の話なのではなく、「ゴリラたち類人猿」、つまりオランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、(テナガザルは除く)、それぞれの「社会構成」を指しているつもりです。
リンクのあとの後段の文章を、ちょちょんまげさんが「人間」を主語にして読んじゃったんだのかなぁ・・とかろうじて想像は出来ますが、そうだとすると、今度はそれにこだわり続けなければならない意味が分からない。

本当に申し訳ないんですが、僕には、これらのことが何故分からないかが分かりません。
けっこう「色眼鏡」の色の度合いが強いようだ、としか思えない。
向こうでのやりとりも、これだとどうやら不毛そうですね。
正直、かなり冷めちゃいましたよ。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん3 at 2009年03月25日 09:19
・naokoさん

ごめんなさい。
出した例えがnaokoさんに全然合ってなかったですね。 (^_^;)

僕はね、宗教はツールだと思ってるんです。
ですから、必要な人は使えばいいし、必要ない人はほっとけばいい。
その教えは違うと思ったら「ば〜か♪」と言っていればいいんだと思うんですよ。
わざわざ自分から拘束される必要はない。
その意味も含めて、naokoさんにまったく合わないコメントをしてしまって、本当にすみません。

けど、naokoさん自身が「言語化されたもの」に拘束されやすいみたいですね。
そのようには感じます。
解き放たれるとすれば、まずはそのへんから・・ということにもなりそうな気がします。

naokoさんの仰る「毒」というのは、親から「注ぎ込まれた」ものでしょう?
僕は、そこからは後天的なニュアンスしか感じません。
ですから、『解毒不能な「毒」』というときも、後天的なものでしかないつもりです。
僕が自分の経験から類推していることは、「毒」から解き放たれた結果、自分が変わった、変われた・・というようなことは、実は「眉ツバ」で、「毒」から解き放たれようとするプロセスの中で自分が変わっていく・・ということです。
結果的に「毒」から解き放たれるかどうか、それは分からない。
しかし、解き放たれようとするプロセスの中で、すでに、どんどん変わっていくという実感です。
Posted by アキラ@naokoさん at 2009年03月25日 10:09
おはようございます。
私は動物行動学は専門ではないのですが、最近、分子生物に関わる関係の別の仕事が入ってきて、今、もう一度大学でライフサイエンスの講義をかじっています、、、
もう、白亜紀のような頭には、なかなか先端の科学が入ってこないので、かなりガッカリの毎日です。
で、
で、、、
そこでは、生物の進化は専ら分子レベルで解析しています。
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_c2.htmlなどのサイトにもありますが、「ゴリラたち類人猿」と、霊長類の分岐って、かなり近いのですね、、、
共通祖先を考えると、皆兄弟ですかね、ハハハ。
アキラさんの本エントリーに触発されて、機会があったら山極さんの本を読んでみたいと思いました。

さて、ちょちょんまげさん。
丁寧にコメントをいただき、本当にありがとうございました。
なるほど、ちょちょんまげさんの問題にされていた「本能」については、生物学というよりは社会通念での「本能」を指していらっしゃったのですね。
了解しました。

生物学ではほぼ死語と言われたので、
私は「本能行動」についてのことかと思ったのです(普通、生物学では本能行動のことだから、、、)。
しかも、動物行動学専門の山極さんの認識に焦点を当てていらしたので、尚更、生物学で一般に言われている「本能行動」を指しているものと思ったのですが、、、

丁寧にコメントをいただき、とてもスッキリしました。
ありがとうございました。
どうぞ、これからも、いろいろと宜しくお願いいたします。
では。
Posted by せとともこ at 2009年03月25日 10:24
・せとともこさん

おぉぉ、聞いているだけで、僕はクラクラしてきました。 (^_^;)

>「ゴリラたち類人猿」と、霊長類の分岐って、かなり近いのですね、、、
<
あの・・・霊長類じゃなくって「ヒト」でしょ?
と、一応ツッコんでみます。 (^o^)

僕は、山極氏の著作はロマンがあって好きなんです。
職人っぽいところが感じられるのも、好印象の一因かもしれません。
まぁしかし、科学者の中にはこういう職人気質な方がたくさんいらっしゃるんだろうなぁ、とも想像します。
この本はごく一般向けのようですが、ゴリラなどのフィールドワークも読んでいてとても興味深いですよ。
おヒマが出来ましたら、是非是非♪
Posted by アキラ@せとともこさん at 2009年03月25日 11:29
アキラ様。

いや、こちらもかなりマジではあるのです。
一応書き込む前にアキラ様の文章を二読三読しています。
それでも、アキラ様がコメントでご説明してくださった内容を即受け取ることは私にはできませんでした。

今回頂戴したレスで、「頃」が共通祖先あるいは、「分岐」の「頃」だということはわかりました。

しかし、オリジナルの記述である、「ゴリラたち類人猿の頃」からそれが読み込み可能でしょうか?

正直言いますと、私はアキラ様が「類人猿→人間」という勘違いをなさっていたとは思っていませんでした。
しかし、そう読む人はいるなぁと思っていたわけです。
そのあたりに私が敏感になってしまうのは、このあたり
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html
を読むのが好きで、実際「猿が人間になった」と思っちゃってる人が少なからずいるからです。
まぁ、それは私の問題であってアキラ様が「そんな奴いないだろ」と思っていらっしゃってもしようがないかとは思います。

更に、私の理解では現在のヒトと類人猿は並列の関係であり、時間的な縦の関係は無いわけで、「頃」は時間の前後関係を持つ言葉ですから、「ゴリラたち類人猿の頃」には反射的に違和感があるわけです。
これが最初から「共通祖先の頃から」なら、なんの違和感もありません。
で、譲れない線として、「共通祖先」とか、「分岐」の一言はどう考えても必須ではないでしょうか?

白状いたしますと、私のところからの話の流れで、「誤解を受けにくい正確な文章を心がけた方がよかろう」という観点からアキラ様の文章をクリティカルに見ているところはあるわけです。

また、

>まさか山極寿一氏はそういう見解なのですか?

は、上記違和感からきた皮肉です。
まぁ、余計でした。お詫びの上、撤回いたします。
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月25日 14:19
アキラ様、また場所をお借りいたします。

>せとともこ様

レスをありがとうございました。
少々食い違っているようなので、私から逆に質問させていただいてよろしいでしょうか。

私の「生物学では、「本能」という言葉はほぼ死語だと思っておりました」は、「本能」という言葉が、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、という言い方に専門的には(ほぼ)取って代わられている、という理解でした。
そして、「本能」と「本能行動」は定義の違う二つの言葉であるという理解です。

で、アキラ様のご文章に「本能」単独の記述(「本能行動」でなく)ありましたので、山極寿一氏が使っておられたのなら、私の認識に誤りがあったのかという驚きもあったわけです。(それまでそれを疑わせるような記述に出会ったことがなかったもので)
ですので、「社会通念」の「本能」の話ではありません。

で、生物学一般には「本能」と言えば「本能行動」のことを指すと考えた方がよろしいのでしょうか?
Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月25日 14:41
ちょちょんまげさん。
こんにちは。
とてもワクワクするコメントをいただき、嬉しく思っています。
なるほど、、、
では、
ちょちょんまげさんから頂いた直近のコメントを詳細に検討させていただきます。
〜〜〜は、ちょちょんまげさんのコメントです。


〜〜〜
「私の「生物学では、「本能」という言葉はほぼ死語だと思っておりました」は、「本能」という言葉が、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、という言い方に専門的には(ほぼ)取って代わられている、という理解でした。
そして、「本能」と「本能行動」は定義の違う二つの言葉であるという理解です。」
〜〜〜
と書かれたちょちょんまげさん。

文頭の「私」はちょちょんまげさんですよね?
これに関しては、
私も全く同じです。


Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:24
つづきです

生得的なものとして「走性、反射、本能行動」が、習得的なものとして「条件反射、学習、知能行動」と分類されます。
本能行動は、いろいろな走性や反射が一定の順序で組合わさって起こる行動で、種によって決まっている、動物自身は目的を知らないが結果的に種や個体の維持に役立つ、それぞれの行動に特有の鍵刺激という信号があるなどが特徴です。
例としてはイトヨの繁殖行動のさいに見られる他のオスへの攻撃など(信号は腹側の赤)が挙げられます。


さてさて、本能行動と本能はまったく別のものであると認識していらっしゃるあなたから、
昨日頂いた初めてのコメント(Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月24日 23:24)
では、〜〜〜本能行動」という言葉は生きているようですね。〜〜とありましたが、
本能行動も死語だと思われていたのでしょうか?2009年03月24日 23:24までは、、、、
?????

Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:25
さてさて、次のちょちょんまげさんのコメントを以下に掲載します。
〜〜〜
アキラ様のご文章に「本能」単独の記述(「本能行動」でなく)ありましたので、山極寿一氏が使っておられたのなら、私の認識に誤りがあったのかという驚きもあったわけです。(それまでそれを疑わせるような記述に出会ったことがなかったもので)
ですので、「社会通念」の「本能」の話ではありません。」
〜〜〜〜



了解です。

Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:26
すみません、つづきです

普通は本能と本能行動について、そんなに厳密に分けずにさりげなく使っているので、アキラさんも山極さんの本を要約、焼き直ししたとき、何気なく本能と書いたのでしょうね、、、
そしてもともとの話では「父性なんて本能はない」と書かれたアキラさんへの疑問だったことを今日思い出して、「「社会通念」の「本能」」のことを話題になさっていたのかと考え直したのです。
また、あなたが私に提示くださったサイトも「母性本能」だったりしたので、ますます混乱したのでしょうね。
昨日の時点では、
私は動物学者の山極さんが本能と本能行動をゴチャゴチャにするはずはないので、本能行動自体もすでに死語になったのかと思ったのでした、、、
それで敢えてあなたにお尋ねしたのです。
お尋ねして本能行動の事ではないと今はしっかり分かりました。
ただ、山極さんに関して言えば「いま「食べること」を問う―本能と文化の視点から (人間選書) (単行本)」
と言う本を共著で出していらっしゃるから、
本能という言葉については、また別のものがあるかもしれませんが、
これはご本人にお聞きするのが一番ですね。
どうしても、山極さんの認識がお知りになりたいようなら、ツテのツテくらいにいる人なので、お聞きしましょうか???

Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:28
最後の質問ですが、
「生物学一般には「本能」と言えば「本能行動」のことを指すと考えた方がよろしいのでしょうか?」については、
本能行動という言葉を短くして簡単に本能ということはありますが、
それは本能行動のことと理解しているものと思います、、、


と、言うことで、私自身はこの問題に関しては了解しましたが、
なお、アドバイスなどがありましたら、是非お聞かせください。
私自身、とても勉強になるんですね。
こうしてお話できて、とても嬉しく思いました。
ありがとうございました!!!


アキラさん。
長くなって、本当にごめんなさい。
Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:29
・ちょちょんまげさん

まず初めに。
>「共通祖先の頃から」なら、なんの違和感もありません。
<
むしろこの表現の方が大問題だと、僕には思われます。
「共通祖先」についてのフィールドワークなどないからです。
「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、共通祖先の頃から芽生えていて・・」などと、どうして言えましょうか。
正確・不正確以前の、それこそトンデモ話でしかなくなってしまう。
ギリギリのところで、先に記したものにもう少し加えて、
『生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、様々なフィールドワークの結果を総合して考えると、類人猿と初期人類との共通祖先の頃には芽生えていたように思われ、それが類人猿それぞれの独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。』
くらいが関の山でしょう。

しかし悩ましいことに、オランウータンとゴリラの「生殖とあまり関係のない性交渉」と、チンパンジーとボノボの「生殖とあまり関係のない性交渉」とは、使われ方やその意味合いが相当違うようなのです。
「生殖とあまり関係のない“性愛的な”性交渉」と表現したくなるような性交渉は、オランウータンとゴリラのみに見られるとも言えるわけで、ここを説明し始めるとシリーズになってしまうであろう手前、僕としてはやはり先の理由含めて「ゴリラたち類人猿の頃から・・」と書きたくなる。
まぁ 確かに短絡的ではありますが、しょうがありません。
また 一方では「それでよい」と思ってるんです。
基礎知識のある人にはこれだけで分かっていただけることでしょうし、知らない人にも この本を読んでもらえれば、かなりのところは分かってもらえることでしょうし。
また別の理由からも・・・は以下。さらに4連投です。 (^_^;)
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん at 2009年03月25日 22:04
率直に思ってらっしゃることを仰っていただけたので、こちらも率直なものの言い方をします。
少々下品な物言いになるかもしれませんが、ちょちょんまげさんに対する揶揄や悪意は一切ありませんので、そこのところは最初に了承していただければと思います。

ちょちょんまげさんの仰ることは分かります。
しかしそれは、単に「論理的整合性」ルール目線なんですよ。ですから。
あるいは、ご自身の「色眼鏡」の色の度合いが やはり強すぎる、か。
僕はこの記事を「論理的整合性」ルールで書いてるわけじゃないんです。
「想い」ルール(インチキ占い師ルール?)で書いてるんです。

「類人猿→人間」という勘違いな読み方をするおバカがいる可能性はあり得ると思いますし、僕自身もそれがまったくの予想外だと思っているわけではありません。
ちょちょんまげさんの指摘を受け入れて、先に僕が記してみたような書き方にすれば、まぁ齟齬の可能性は減るわな・・とも思う。
しかし、だからといって、最初からそう書いとけばよかったな、とはまったく思わないんです。
というのも、上に示した理由に加えて、僕はそもそも「論理的整合性」ルールでは表現していないので。
別の「ルール」で書いている。

相手がどう読むかによって、こちらとしては相手の程度が分かる、相手がどんなことを考えているかが分かる、という含みは持たせているということもあるわけですよ。
「専門的な訓練を受けてないんで、僕も五十歩百歩です」という例の受け答えと同じです。
僕自身は、これまで説明した通りの意図を持って、記事の文章を書きました。
けれども、読み違える人が出てくる可能性はあるでしょう。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん2 at 2009年03月25日 22:05
そういう人がいれば、読み方によっては、僕は「バカじゃね?」と思います。「浅はかなヤツだな」と思う。
「まぁ とりあえず、この本を読んでや。それからまた話そう」、そういう受け答えをすることになるでしょう。
読みさえすれば、浅はかな理解など吹っ飛ぶでしょうから。
あるいは、こちらが予想もしなかったような斬新な受けとり方をしてくれて、そこからお互いにすごくインスパイアされることが出てくるかもしれない。
そういう「仕掛け」みたいなものを、半分無意識的に作る傾向があります。

今回はちょちょんまげさんだったので、キチンと頑張って、コメント欄では「論理的整合性」ルールでの解説を心掛けました。
『後段を「人間」を主語にして読んでしまえば、ちょちょんまげさんの言うようにとっても、まぁおかしくはないわな』とも、最初の質問のときに思いました。
しかし、僕の解説の後でもあなたがこだわり続けたので、今度はこちらがあなたの理解力を疑わざるを得なくなった。
ちょちょんまげさんに「想い」ルールの納得力がないであろうことは分かっていましたが、このへんの分野の共通認識はありそうなのに(あるいは多分 僕以上なのに)、この解説でも分からないのか?と。
あるいは、理解力があって なおかつ・・というのなら、隠された意図があると思わざるを得なくなりました。

>しかし、オリジナルの記述である、「ゴリラたち類人猿の頃」からそれが読み込み可能でしょうか?
<
「想い」ルール目線なら、このへんの分野の基本的な知識さえあるなら、それなりに読み込むんじゃないかと 僕には思われます。
そんなこと、そもそも気にもしないかもしれない。
前提の基礎知識がまったくない人だったら、それは無理だろうとは思いますよ。
しかし、それらによってカン違いの読み込みをしてコメントしてきたとしても、「違うよ、こうだよ」と言えば、「あ、そうか」で済むとも思う。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん3 at 2009年03月25日 22:07
>で、譲れない線として、「共通祖先」とか、「分岐」の一言はどう考えても必須ではないでしょうか?
<
ちょちょんまげさん自身が譲れないのは理解できますが、だからといって そう言われても、僕としては上記の理由から「そんなの知らねえよ」です。
別にちょちょんまげさんの「ルール」で書いてるわけじゃないし、ちょちょんまげさんのために書いた記事でもない。
何で勝手に「譲れない」とか言われて、それを押しつけられなければならないのか、よく分からない。
あなたに対するハラスメントにもなってないはずです。 (^_^;)

>白状いたしますと、私のところからの話の流れで、「誤解を受けにくい正確な文章を心がけた方がよかろう」という観点からアキラ様の文章をクリティカルに見ているところはあるわけです。
<
そんなようなところだろうなぁ、とは思ってました。
そうして、僕にはこれが一番の???なんです。
僕の文章をクリティカルに見るのは、個人の自由です。
お好きなルールで、お好きになさればいいと思う。
しかしそれを、どうして「このように表現することを心がけた方がよかろう」と押しつけるようなことになるのか?

「そうしないと、また誤解を招きますよ」という親切心だろうとは思います。
しかし残念なことに、こちらとしてはいろいろ考え悩んだ末の表現であったり、あるいはそこは「含み」「仕掛け」としていることだってあるわけです。
別ルールで書いてるんですから。
あなたにとって大事なのは「論理的整合性」なのかもしれませんが、僕にとってはそれはさほど重要なことではない。
むしろ「含み」や「仕掛け」や「落とし穴」があるような、また 重層的な意味合いを持つような文章を自ら好みますし、自分でもそのような表現をしたいと思っている。
それが僕にとっての大事なことなのです。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん4 at 2009年03月25日 22:18
↑ しかし・・・こう表現してみると、まさに「インチキ占い師」ルールですね。 (^_^;) ↑

ちょちょんまげさんが ご自分の大事なことを大事になさるのは、それは結構。
しかし、なぜそれを僕に押し売りしようとするのでしょう?
一体 あなたに何の権威があって、僕に対してそうするのか?、素朴にそう感じるのです。
「あんたは赤ペン先生か!」、そうツッコみたくなります。
「あんたのルールで添削してくれなんて、誰も頼んでねぇよ?」と。
僕は、僕のルールをちょちょんまげさんに押しつけるつもりはありません。
ですから同様に、ちょちょんまげさんのルールを 直接僕に押しつけるようなニュアンスの振るまいは、避けてもらえませんか?

もちろん、「インチキ占い師」ルールで書いた表現に対して、「論理的整合性」ルールからの批判の表明をする、ということは「あり」だと思いますよ。
その表明によって、元の表現も値踏みされるでしょうし、同時に「批判」の方も同様に値踏みされるでしょう。
それらを読む各々が、一番大事にしていることを「ルール」として、各々値踏みをするでしょう。
「最初で最後」の記事のコメント欄で、うちゃさんが僕に対してそれをなさいましたよね?
そうして、うちゃさんの中での僕の評価は 改めて大暴落しました。
でも僕は、あのやりとりこそが「真っ当だ」と感じるのです。
彼は、彼自身の「ルール」を僕に押しつけることはありませんでした。
うちゃさんの あれこそが、「批判の態度」だと思う。
僕は、そのような意味で、ああして僕の言い分を聞いてくれつつ、キチッとうちゃさんの立ち位置から批判していただけて、本当によかったなと感謝しているのです。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん5 at 2009年03月25日 22:19
解毒不能な毒は、アキラさんのおっしゃるように、あくまで後天的なものなのかもしれない。しかし、その個人の内にある毒は、社会の中に、ある種の‘毒の文化’を醸造し、または、もともと社会に存在した‘毒の文化’によって濃縮され、世代から世代へと受け継がれるとしたら?
その毒は、個人の感覚としては、「あたかも遺伝子に刷り込まれたような」と形容したくなるものである場合もありうる、と。
まあ、そのぐらいの「想い」ルール感覚で受け取ってください(笑)。
しかし、そのような‘連想’から、‘業’という言葉の重圧を感じる感性は、アキラさんから見ると、かなり「言語化されたもの」に束縛されていると思われるのでしょうね(苦笑)。
たしかにそうかもしれない。
あるいはそうでないのかもしれない。
自分では判断がつきませぬ。

ただ、ひとつ言える事は、そこにアキラさんとわたしの差(興味深い相違)があるということですね。

どちらが先生でどちらが生徒と言う訳でもない。
ここから先へ踏み込むか、踏み込まないかも互いの自由。
踏み込み方もいろいろ。(インチキ占い師方式とか?)
※最近はわたしも「ストレート玉砕方式はうまくないだろ!」と、いろいろ試行錯誤して・・・ってホントか?。

では、また良い折にでも、このつづきを!
Posted by naoko at 2009年03月26日 04:59
・naokoさん

>社会の中に、ある種の‘毒の文化’を醸造し、または、もともと社会に存在した‘毒の文化’によって濃縮され、世代から世代へと受け継がれるとしたら?
・・・「あたかも遺伝子に刷り込まれたような」と形容したくなるものである場合もありうる、と。
<
「常識」という名のもとに・・・とか?
naokoさんのニュアンスが、だんだん薄ぼんやりと感じられてきたような気がします。
それでこないだの「近代」うんぬんという話も・・・。
あ、台風のあとの海にうかんでるお鍋の話も、ふと つられて思い出しました。

>そこにアキラさんとわたしの差(興味深い相違)があるということですね。
 ・・・・・・・・・・・・・・
どちらが先生でどちらが生徒と言う訳でもない。
<
えぇ、そう感じます。
naokoさんからヒントをもらう・・みたいな感覚が僕にはあります。
なので、是非また、何かの折に!!
Posted by アキラ@naokoさん at 2009年03月26日 21:35
いや〜あ。人生色々。考え方も色々。人それぞれ拘るものが違っている。面白いですね。
最近愚樵空論で長々と討論(一方的罵りあい)をやったのですが、つくづくそう思います。
始めたのには私の方に責任が有る。他人のコメントに対して『世間から見たら恥ずかしいですよ』と注意した心算が反科学的な『言いがかり』と思われたらしい。
此処では、読書感想の極個人的なエッセイに対して『学術的観点からの正確さ』に問題があるとの指摘ですが、
指摘そのものが的外れの気がするが、何と言っても腑に落ちないのは自分の考え方に拘り続ける姿勢ですね。
誰にとっても、譲れない、拘るものが有ります。
其れを守る為には必死で努力するし戦う。
しかし、それ以外は相手に適当に譲る。これで世の中が上手く行く。
『俺はこれに拘っている』と最初に宣言してくれれば、みんなが揉めずに済む。
しかし普通の人は自分が何に拘っているのか良く判っていないようですよ、だから揉め事のタネは尽きない。
今回の様に自分の言葉の定義に拘って、相手との言葉の一致を考えず頑張られると会話自体がなかなか成り立ちがたい。
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年03月28日 12:06
・逝きし世の面影さん

すみません、リアルでの日常の諸事情と自分のやりとりのことで精一杯で、あちらでの議論は全然フォローできてません。 (^_^;)

>いや〜あ。人生色々。考え方も色々。人それぞれ拘るものが違っている。面白いですね。
<
そうなんですよね。
そうなんですけど、なぜかそれが錯綜しちゃうんですよね。

>他人のコメントに対して『世間から見たら恥ずかしいですよ』と注意した心算が反科学的な『言いがかり』と思われたらしい。
<
自分の方のやりとりで、今回思ったことの一つはですね、やっぱりそういう「おせっかい」的なものが余計になってしまうのかなぁ・・と。 (^_^;)

>指摘そのものが的外れの気がするが、
<
お詳しいからこそのツッコミかと思ったんですがねぇ・・・。
上っ面だけでツッコまれてこだわられても、こちらが困ってしまいます。
けれど、まぁその後のめんどくささを考えると、もうちょっと最初の出し方は考えといた方がいいかなぁ、とは反省しました。 (^_^;)

>相手との言葉の一致を考えず頑張られると会話自体がなかなか成り立ちがたい。
<
共通の土台を築いていけるようなやりとりを続けていけなければ、いつまでたっても平行線ですよね。
また、揶揄や皮肉が入ってくると、話の折り合いがどんつけづらくなっていくようにも感じました。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2009年03月28日 21:29
最初の目的の説得とか注意には失敗しているので、負け惜しみに聞こえるかも知れませんが、
愚樵空論の討論(罵りあい?)の結果、実に興味深い事実が明らかになりました。
以前から分っていた『たんぽぽグループの宗教(カルト)臭さですが、連中と『水騒動』では(最初は)共同歩調をとっていた『ニセ科学批判者』たちが、ヤッパリ私の予想どおり、カルト臭いのですよ。
科学に対する態度が全く一緒といってよい。
たんぽぽ集団とニセ科学批判者たちと、両者の違いを探すのが苦労するぐらい同じ事を喋っています。
ついでに言うと「水伝」などのニセ科学信奉者とも全く同じ思考方法です。
この三者は、仲はあまりよくないが揃いも揃って同じような宗教(カルト)的な非科学的思考方法で同じような人たちですね。
因みにニセ科学批判者はたんぽぽグループに対しては
『これ(水伝)を別の文脈で使用している人にまで、
「水伝なんて信じてる馬鹿、みっけ!」
とか、
「お前は科学的思考ができないやつだ」
といった事を書くのは、「ニセ科学批判」には全く無縁の、「科学」を誤用・乱用した、単なる「個人攻撃」であると考えます。

で、水伝騒動も、こうした科学の誤用・乱用から発生したと理解しています』
と、いたってマトモなのですよ。だから余計に其のマトモと異常のギャップの大きさには驚かされるばかりです。
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年03月29日 09:40
世の中には山形大のapjさんの真似をして『水からの伝言』をニセ科学だと運動している人達(ニセ科学批判者)がいます。
ところが自称『ニセ科学批判者』ですが困った事に、
大槻義彦教授のNHKのムペンバ効果に対するブログでの批判記事に対して『科学ではない』と批判。(批判
というよりも罵詈暴言)
見かねて注意したのですが勿論聞き入れる素振りも見せません。
ようは、Wikipediaに書いてある『ムペンバ効果』の記述を、正しい新しい学説であると信じて学術的なムペンバ効果を『大槻義彦は無視している』と怒り狂っているわけです。
ブログ記事は『NHK放送の間違いを指摘したもの』であるとの私の注意なんか無視するばかり。
今の若い人たちの間でのWikiの信用度は想像以上ですよ。
今の若者達には、Wiki が信用に値しないという事実が 理解できていない。

今の日本の主要な宗教は、仏教でもなく神道でもなく古代のアニミズムでもなく、ましてや結婚式の風俗程度のキリスト教でもなく間違いなく『科学』を絶対真理ととして信仰する『科学教』ですよ。
信者達にとっては、現代科学の産物であるネットが生んだwikipediaなんかは『科学教』の天使あるいは最期の預言者なのでしょうね。
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年03月29日 09:55
つい最近までWikiを知らなくて自分の記憶だけで書いてきたのですが、いや〜ア。こんな便利なもモノがあるとは。
私は感激しましたよ。
余りの便利さ、安直さに。
まさに情報革命です。
こんな便利なツールは昔はなかった。世の中は進歩しました。いや〜あ、素晴らしい。
昔は『知識』と知性や経験とはある程度は連動していましたが今は違う。
しかも以前は、その知性や経験を得る為には長い時間と努力が必要だった。
だからある程度以上の高級な『知識』は、一部の知識層が独占していたんですよ。
一種の階級社会ですね、
ところが今ではWikiのお陰で一瞬で『知識』手に入る。
しかも此処が重要だが、知性や理性、経験がなくとも誰でも『知識』が平等に手に入る世の中になった。
これを革命と呼ばずして、何を革命と呼べばよいのでしょうか。
こんな便利なものはない。
ただ、簡単に手に入るものには安物が多いし偽者も混じる。
便利にはなったは良いが今度は、使い物にならない安物や偽者を選り分ける作業が、絶対に必要に成ってくる。
ところがこの作業がエラク手間がかかるし、可也の高級な知性と経験が無いと出来ない。
そこで以前より知性や経験が必要に成ってくるという不思議がおこる。
ここに、『知性や経験がいらないものは知性や経験がいる』とか
『便利なものは不便だ』という新しいパラドックスが生まれる
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年03月29日 10:00
・逝きし世の面影さん

>つい最近までWikiを知らなくて自分の記憶だけで書いてきたのですが、いや〜ア。こんな便利なもモノがあるとは。
<
マジっすか。 (^_^;)
それはすごいと言いますか、珍しいと言いますか。
ビックリしましたでしょ、あんな「百科事典」がウェブ上にあって。 (^o^)

僕の認識ですと、Wikiは「参照するには便利だけれど、安易に信用できないもの」なんですよね。
で、僕はそれはWikiについての「一般常識」だと思ってるんです。
ですから、Wikiから引用されても、まぁそんな程度のもの、としか捉えない。
もうちょっと穿ってみてしまう場合には、そんなところからしか引っ張れない、としか思えない。
説得力には欠けると思っちゃってるんですよ。
まぁだからこそ、引っ張ってくる場合には、「Wikiからの引用ですが・・」という但し書きをつけるわけですよね。
「信頼度を確定できないもの」=「それほど頼れないもの」なんですから。

> 今の若い人たちの間でのWikiの信用度は想像以上ですよ。
今の若者達には、Wiki が信用に値しないという事実が 理解できていない。
<
と、逝きし世の面影さんが仰るように、最近は僕のような認識は「一般常識」じゃないんですよね。
オソロシイことだと思います。
便利になったが故の、短絡、軽薄現象の一つだと思います。
もちろんWikiだって、項目の中には信頼するに足るものもたくさんあるでしょう。
しかしそれは、自分にその分野の蓄積なりリテラシーなりがあって初めて分かることでもありますから、Wikiをどう使いこなすかは、なかなか難しい話だと思います。
このあたりも逝きし世の面影さんの仰るとおり。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2009年03月29日 18:42
(つづき)

科学に対する態度・・・
僕が「色眼鏡」とか「物差し」とか言っていたこのへんのことについては、僕の方では、今回「論理的整合性」と「想い」というとても大雑把な対比を設定することによって、「その人が前提にしていることによってルールが違う」ということ、それを揃えることなくやりとりが進むので、話がごっちゃごちゃになる、という「僕の方からの見え方」を、少し理解していただけたかな?と思いました。
(同意・不同意は別にして)
水伝騒動に関しては、そもそもからしてニセ科学批判ではなかったですからね。
かこつけて騒いだ分、批判されて当然だとも思います。

僕は山本七平氏の論に賛成で、日本人は「日本教」を無自覚に信仰してると思うんです。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/1972-12.html

人間本来の自然な性質=「人間性(本性)(仏性)」が何よりも大事なことで、それを無自覚に信仰している。
そして、この本来の自然な性質がその本質のままに「自然であること」がまた、何よりも大事なこと。
その「健全さ」を回復したり保ったり出来るのであれば、その方法については何でもいい、何だって利用していけるという感じで、戦後は特にこの「方法」のところに「科学」がきてるのかな、と個人的には感じてます。
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん2 at 2009年03月29日 18:42
井沢元彦の「言霊信仰」とか山本七平氏の「日本教」とかの日本文化批判はインチキ臭いですよ。
数十万円の羽毛布団を売るのが目的だが、其れを隠しておいて100円の笊とか餅焼き網とかを無料で配り、客の主婦を騙して大勢集める。
『この人は良い人だ』と錯覚させて、一種の洗脳を行ってから本当の目的の要りもしな高級調理器具とか羽毛布団を高値で買わせる。
基本的には詐欺的商法で、連中は悪党です。
まま、アキラさんの様に、(洗脳されず)客寄せの餅焼き網だけをちゃっかりいただく賢い人もいるとは思いますが。


「色眼鏡」とか「物差し」には賛成したいが、「論理的整合性」と「想い」には一寸・・・・・
そんな高級なものでしょうか。?疑問ですね。
単なる「「だまし」とか『引っ掛け』、『落とし穴』程度だろうと思いますよ。
自分の仕掛けたお粗末な穴ぼこに、目的の人物がうっかりしていて落ちてくれたら、(以前に一度成功?している)
「水伝なんて信じてる馬鹿、みっけ!」
とか、
「お前は科学的思考ができないやつだ」

と同じで『「類人猿→人間」という勘違いな読み方をするおバカ』とかの個人攻撃、人格攻撃を仕掛ける。多分これが目的です。
そう解釈しないと最初の問い、
『アキラ様、お邪魔いたします。
質問があるのですけれども、
「ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて」とはどういう意味ですか。
『それから、山極寿一氏は、「本能」という言葉を使っていらっしゃるのでしょうか。』
は、子供なんでも相談室への小学生低学年の程度の質問ですよ。
到底大人の発する質問でも会話でもない。
アキラさんは私なんかより何倍も人格者ですね。感心しました。
私なんか最初のこのコメントで血管がぶちきれましたよ。到底今回のアキラさんのような冷静な対応は出来なかったでしょう。
Posted by 逝きし世の面影 at 2009年03月30日 08:41
・逝きし世の面影さん

あはは、逝きし世の面影さんに猛反撃されたら恐ろしそうですね。
僕は気が弱いものですから、頑張ってもこんな感じです。
あと、ちょちょんまげさんのところでずっとやりとりをしていた流れもあるものですから。

そのへんのところもあって、僕は、彼には悪意や揶揄はないという前提に立っています。
悪意などがあれば、僕にとっては 彼の主張すべてが信頼性も説得力もない、ということになりますし。
向こうでのやりとりでは、お互いに「リスペクト」することを忘れずにはじめましょう・・ということで始めていますしね。
自らが言ったその文言を破るとも思えませんし、真面目に主張されているのですから、それは悪意や揶揄がないということなのだと受けとっています。
そういう前提に立たないと、僕にとっても、そもそも聞く価値がありませんのでね。

ただし最初の段階で、本当に、二読三読して他の文脈の可能性を考えられなかったというのであれば、それは、それなりの基礎知識を持っていながらも、自らの先入観念にいかに強く拘束され、それを無自覚に前提にしてしまっているかを、ものの見事に明示していると言えると思います。
で、彼の言っていることは本当だと僕は思うので、残念ながら、自らの「前提」を十分自覚してのコメントではなかった、と僕としては理解せざるを得ない。


山本七平氏がインチキ臭いのは認めます。 (^o^)
キワドイ人だと思いますねぇ。
井沢元彦氏は「アウト」ですね。 (^_^;)
Posted by アキラ@逝きし世の面影さん at 2009年03月30日 21:23
ほんとにアサハカ(アサハラじゃないよ)なお人だよね。

あたしとしては、今みたいに遠いとこから見てるぶんにはこうして笑ってもいられるんだけど、自分の生活圏の近くにはいて欲しくはないタイプだな。何かの拍子に誤解されて恨まれでもしたらとにかく面倒だろうから。

ああいう執念深い手合いは。(^_^;)



>性のあり方や性交渉の発展のしかたが、社会の構造を決めていくというのは、分かってくるとなかなか面白いものです。<

これは、『「言葉」のあり方や「言語でのコミュニケーション」の発展のしかたが、社会の構造を決めていく、』

なんて言い換えてみても面白いよね。(^o^)

社会(時代の風潮)によって言葉が変遷するというのももちろんあるのだけど、逆に、言葉が作用して社会(システム)が組み替えられていく、みたいな。

言ってみてなんだか、ごく当たり前のことをさも有り難いことのように言っているような気もしますが、、、(^_^;)


それでちょっと考えてみたんだけど、「生殖目的のみの性交渉」、ってのは、「論理的整合性のみの対話」、っていうのによく似てるよね。「感情」を排除するという枠組みで見れば。

等価とまではいかないけど。(^o^)


とりあえず、


『「愛」のないセックスが「正しい」世界』



『「思いやり」のない対話が「正しい」世界』


そんな世界には住みたくないよね。(^_^;)


Posted by ごん at 2009年03月31日 14:47
逝きし世の面影さま、こんにちは。

なにか勘違いしているみたいだけど、
わたしが、ぶいっちゃんのエントリを批判したのは、
「水からの伝言」を好意的に扱っていると、それをご覧になったかたが
信用する可能性があって、悪影響をおよぼしかねないからです。

ネットにアクセスして、適切な情報を得たいかたが、
だまされることにもなるでしょう...
そうしたかたの「知る権利」を、侵害することにもなるので、
それを守ろうと思った、ということです。
どなたかを人格攻撃をしたくて、やっているんじゃないですので、
ねんのため、おことわりしておきますね...


そもそも、わたしは、人格攻撃なんかしてないはずですよ。
(「水伝なんて信じてる馬鹿、みっけ!」なんて、言ってないでしょう?)
人格攻撃に明け暮れたのは、わたしを攻撃した人たちだと思います。
はじめに、わたしのことを、「多すぎるバカ」と言ったぶいっちゃんや、
「悪意があるから謝れ」と迫った、ニケ氏は、人格攻撃していると思います。

あとになって、「たんぽぽは、謝罪要求して回った」とデマを流したり、
「たんぽぽは、ヘルペスで死ねばいい」と吐いたり、
「絨毯爆撃」や「ひとりコメントスクラム」で、わたしのブログを荒らしたり、
(さすがにプロバイダに処分していただいたけど)、
セクハラしたり、その二次加害をしたのも、わたしに対する人格攻撃ですね。
Posted by たんぽぽ at 2009年03月31日 21:53
アキラさま

>水伝騒動に関しては、そもそもからしてニセ科学批判ではなかったですからね。
>かこつけて騒いだ分、批判されて当然だとも思います。
(2009年03月29日 18:42)

「にせ科学批判」にならなかったのは、わたしの相手になったかたがたが、
もとの議論の中身と関係ないことばかり言うからですよ。

より具体的には、「批判のしかたに問題がある」ばっかり言ったり、
「謝罪要求があると感じられた」などと強弁をしたり、
「たんぽぽはヘルペスで死ねばいい」と、罵詈雑言ばっかりだったり、
「絨毯爆撃」や「ひとりコメントスクラム」で、議論をもみ消そうとして、
わたしのブログを荒らしたり(さすがにプロバイダに処分してもらったけど)、
セクハラやその二次加害で、わたしをだまらせようとした人たちです。

それから、そこにいらっしゃる、
「たんぽぽ集団は、科学を利用した個人攻撃をやっている」などと、
「手前勝手な読み込み=逝きし世の面影変換」をなさるかたもそうですね。

アキラさまも、「議論の上手な調理のしかた」なんて、
「水からの伝言」の科学的内容と、ぜんぜん関係ないことで
延々と講釈をなさっていたのでしたね。
「かこつけて騒いだ分、批判されて当然」な人たちの中には、
ご自分も含まれるとおわかりである、ということでいいのかな...?
Posted by たんぽぽ at 2009年03月31日 21:54