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リーダー戦略考

サントリーラグビー部『サンゴリアス』監督 清宮 克幸 氏

“勝てない組織”のジレンマ

■“早稲田ラグビー”復活の立役者である清宮さんですが、当初、ラグビー部の選手たちに監督就任を一度は拒否されています。まずはその真相をお聞かせください。

おっしゃる通り、早稲田の監督になるその門出は複雑なものでしたね。

選手たちが監督を選ぶのは、早稲田大学ラグビー蹴球部ならではの慣習です。伝統あるラグビー部の監督はひとつのステータスですし、昔から監督をやりたいOBはたくさんいました。それで手を挙げた人からOB会が5〜6人を推薦し、その中から最終的に選手たちによって監督を決めるという仕組みです。

僕は早稲田の低迷にかなり危機感を抱いていましたから、自分が監督に就任した際に指導方針などに対して余計な横槍が入らないようにするため、OB会には組織図まで用意して説得していました。また、大学の対応にもたくさん注文を付けていましたし、勤務先であるサントリーにも「フルタイムで監督をやらせてほしい」とワガママをいいました。いろいろな意味で大見得を切って背水の陣で臨んでいたわけです。ところが、最後の最後で当の学生たちに拒否された。ショックでしたね。

前任者の益子俊志さんも私と同じフォワード出身だったので、清宮が監督になると、「“バックスの早稲田”という伝統が崩れる」と選手たちは危機感を抱いていたわけです。つまり、早稲田のスタイルを追求すれば必ず勝てるとまだ考えていた。これは選手に限ったことではなくて、OBもファンも、その多くが「早稲田の展開ラグビーは素晴しい。それを貫き通せばいつかは勝てる」と思っていました。しかし、私にいわせれば、それこそが早稲田が勝てなかった最大の理由なんです。“早稲田の伝統”に固執するあまり、すっかり時代から取り残され、それが10年も続いていた。その間、負け続けていたわけですから。

■“フォワードの明治”に対して“バックスの早稲田”の対決は大学ラグビーでいままで多くの名勝負を演じてきました。それを否定しなければならないと…。

いや、“早稲田ラグビー”をすべて否定したわけじゃない。もちろん伝統的なスタイルも大事でしょう。しかし、それだけが勝敗を決めるポイントではありません。

「オレたちの時代はこうだった」というのは好きではありませんが、実際、僕らの現役時代と比べると、状況を打開する応用力やリーダーシップが当時の学生には欠けていた。昔もっていたいいところがなくなっていました。また、伝統というのは戦うスタイルだけではありません。多くの部員から選ばれて、試合で赤黒のジャージを着る重みや、気持ちをひとつにして燃え尽きるまで戦うといった精神面も早稲田の素晴らしい伝統です。ところがこれも、当時の学生より僕らの方が強くもっていた気がします。

たとえば早稲田には、日本一になったときだけに歌える『荒ぶる』という代々受け継がれてきた部歌があります。大学選手権の決勝戦で勝利したときにしか歌えない、早稲田ラグビーを象徴する歌といってもいいでしょう。ただそのとき以外に年に1度だけ、長野県の菅平高原で行う夏合宿の最終日に部員全員で山に登って『荒ぶる』を歌うという習わしがあります。1年生はそこでこの歌を覚える。早稲田のラグビー部にとって、これはとても大事な“儀式”なんですね。ところが僕が監督になった当時は、前日夜更かしした学生が起きてこない。これにはあきれました。でも「学生たちの自主性も大切だから、僕ら指導者が顔を出すべきではない」と、1年目は何もいわなかったんです。ところが2年目も同じような惨状です。さすがに僕も我慢できず、率先して部員たちと一緒に登って歌を教えました。

“勝てない組織”というのは、そういうモチベーションも落ちているわけです。

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明白な道筋”がチーム作りの第一歩

■そんなガタガタになっている組織に、まず清宮さんはどのように挑んだのですか。

前述したように、僕は選手たちに一度は拒否された監督です。そのチームを引っ張っていくためには、最初にガツンとやる必要があった。そういう意味では、選手との初顔合わせで行う所信表明には監督としての全生命をかけるくらいの意気込みで臨みました。

とにかく「おっ、清宮はすごいじゃないか」と彼らに思わせなければならない。そこで最初のミーティングで、前年の早稲田の試合を徹底的に分析し、ボールの動き方やミスの回数、連続攻撃の精度などを数値化したものをプロジェクターに映し出し、「君たちの勝てない理由は明白だ。まずは弱者であることを認めろ」と学生たちに迫ったわけです。その上でいま何をすべきかを説きました。

テーマは“変化”です。「とにかくいままでのものはすべて捨て去って、オレに付いてこい」と。このファースト・ミーティングでかなりの学生が僕の考えに賛同してくれて、ようやく手応えを感じることができました。

情熱だけでは人は動きません。まず伝えるべきものは、チームを強くするための明白な道筋なのです。これはビジネスでも同じで、“戦う集団”を作るためには欠かせないプロセスだと思っています。

■具体的にはどのような練習を選手たちに課したのですか。

ラグビーの練習には、パス、キック、タックル、スクラム、ラインアウト、ディフェンスやオフェンスのシステム、それをふまえた戦術など、数多くのステージがあります。しかし、それをおしなべてやっていたのでは、低いレベルで小さくまとまるだけです。これでは1年目から勝てるチームにはならない。だから、春先から夏の合宿までは、それらの練習はほとんどやりませんでした。

じゃあ何をやったかというと、ひたすら持久力だけを鍛えました。意外に思われるかもしれませんが、早稲田では大学に入ってからラグビーを始めた部員も多く、体は小さいしセンスもない。おまけに運動神経もない。ないない尽くしで、個人の能力は他の大学と比較するとかなり低い。でも、その中で鍛えて一番早く結果が出るのが持久力です。走れば走るほど持久力は身に付くわけですから、1年目は徹底的に走らせました。僕の狙いはこの持久力を生かして、ボールを保持する力をアップすることでした。ボールを持って相手を突破するにはセンスやスキル、戦術と、いろいろなものが必要になります。しかし、相手からボールを取られないように守り続ける愚直なプレーは、練習すれば必ずうまくなりますからね。

そのために、ボールを蹴らないでたくさん走ることと、相手にボールを渡さないためのボールの守り方を徹底して練習しました。そしてもうひとつは、他のチームにはないフォーメーションを組んでどのように攻撃するかという、アタック・システムに磨きをかけること。この3つだけに練習を集中させて、あとはスクラムもラインアウトの練習もほったらかしでしたね。もちろん、それも極めて重要な練習なのですが、“素人集団”だった早稲田を1年目で大きく変えなければいけないという使命感がありましたので、そうせざるを得ませんでした。

■1年目の成果は、監督就任時のノルマでもあったのですか。

いいえ、そういうわけではありません。ただ、僕は最初のミーティングで「ロケット・スタート」という言葉を使って、早稲田の目標は大学選手権優勝であることを明言し、一気にトップに登り詰めようと提案したんです。もちろんこれは学生たちを奮起させるための言葉でもあったのですが、僕は1年目で変わらないチームは2年目、3年目でも変わらないと思っているからです。これは20年近くラグビーをやってきて、その経験から導き出された僕なりの結論です。すぐに変化できないチームや組織は、いつまでたってもダメ。いい方を変えれば、最初の1年間で指導者としての資質がすべて問われる。

悠長に構えていては、劇的な変化は生まれないということです。

“清宮・早稲田” 5年間の軌跡

1989年の大学日本一を最後に、学生ラグビーの名門・早稲田は長く低迷を辿っていた。2001年、早稲田復活の切り札として、満を持して登場したのが清宮克幸監督である。清宮監督は“バックスの早稲田”という足かせを解き放ち、フォワード、バックス一体となった“ニュー・ワセダ”のラグビースタイルで、早稲田を1996年以来5年ぶりとなる大学選手権決勝へ導く。そこで待ち受けていたのが、学生ラグビーの新しい盟主として名乗りを上げた、関東学院大学だった。それ以降、早稲田と関東学院は大学選手権決勝で5年連続して相対することになる。

01年度は惜敗した早稲田だったが、翌年は関東学院を破り、13年ぶりとなる悲願の大学日本一に輝く。しかし03年度は再び関東学院が覇権を取り戻し、そのライバル関係は往時の「早慶戦」や「早明戦」を彷彿とさせる“伝統の一戦”として人気を博す。

さらに特筆すべきは、清宮監督最終年となる05年度。04年度に続いて大学選手権を連覇した早稲田は、日本選手権2回戦で社会人の強豪トヨタ自動車ヴェルブリッツを破る。大学チームが社会人トップチームに勝利するのは実に18年ぶりとなる快挙であったが、18年前に東芝府中を破ったその大学チームが早稲田であり、また、当時のNo.8の選手こそが清宮監督であったことは因縁深い事実であるといえよう。

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コーチングの肝は“周辺視”

■“戦う集団”を作るために、コーチングで一番必要なものは何だとお考えですか。

僕は“周辺視”ということをよくいうのですが、たとえばタックルミスをした場合、その選手を責めるだけでは何の解決にもなりません。「タックルをするためにどこからスタートしたのか」「周辺の選手はそのときどのポジションにいて、どう動いたか」など、そのミスの遠因をしっかり捉え、指摘することが必要です。コーチングにとって一番大事なことは、失敗そのものに注目するのではなく、その周辺を見る力なのです。“周辺視”を駆使して、プレーしている選手自身には気づきにくい部分を教えてあげる。

早稲田だけでなく、いま監督を務めているサントリーラグビー部『サンゴリアス』(以下、サントリー)でも同様ですが、ひとつのプレーを見せて、「その改善点を挙げてみよ」というミーティングをよく開きます。しかし、選手から挙がってくる声はほとんどがどうでもいいことばかり。僕の視点に合わない。実際にプレーしている選手たちには、勝負の肝はなかなか見えづらいんですね。そこを僕が指摘してやる。それが的を射ていれば、「あの人はすごい」と信頼感につながってくるわけです。

もうひとつコーチングの判断基準となるのが、チームとしてめざしている姿に合致したことを、練習でも試合でも選手がやろうとしているかどうかですね。たとえ選手が失敗したとしても、チームとしての方向性に合致していれば、僕は責めません。このようにチーム作りのプロセスという時間軸でも“周辺視”は欠かせないものだと思います。

選手個々の動きを分析するだけでは、本当の意味でのコーチングとはいえません。いろいろな意味で試合全体を俯瞰してこそ、真のコーチングができるのです。

■ビジネスの世界でもそうですが、なかなか清宮さんのように自信をもって“コーチング”できない人が多いような気がします。

サントリーラグビー部『サンゴリアス』

自分でいうのはおこがましいのですが、チームや組織の問題を見抜いて、的確に指導していく。これは経験を積めばできるようになるというものではなく、結局はその人が生来もっているセンスに頼る部分が大きいという気がします。とくにスポーツの世界は白黒がはっきりとつきますので、コーチングにセンスは欠かせません。

たとえば、チームの誰もが気づいていることを指摘しても、選手を変えることはできません。選手自身が思ってもみなかったことを、意表を突いてズバリという。そこで初めて選手は聞く耳をもつわけです。これは怒るときだけでなく、褒めるときでも同じです。誰が見てもいいプレーを褒められても、本人は嬉しくないでしょう。それでは人の心は揺さぶれない。コーチングにはいい意味での“意表性”が必要です。この点もコーチングがセンス抜きには語れないという所以かもしれませんね。

企業スポーツの危機

最近、企業がチームを解散し、スポーツ事業の運営から手を引くケースをよく耳にする。長年、アマチュアスポーツの世界に身を置き、現在、サントリーラグビー部『サンゴリアス』という企業チームを率いる清宮氏は、その点をどう考えているのだろうか。

僕がまずいいたいのは、世界は日本の企業スポーツというシステムをとても高く評価しているということです。僕がどこに行っても聞くのは、「日本はいいシステムをもっている。最高だ」という賞賛の声ばかりなんですね。そこをちゃんと見なければいけません。

世界中でプロ選手たちのセカンド・キャリアが大きな問題となっています。5%から10%くらいの限られたトップ選手はまだいいんですが、それ以外の大多数を占めるプレーヤーにとって、引退後の生活は非常に厳しい。その点、日本には引退しても仕事を続けられる企業スポーツという選択肢があります。そういう利点には目を向けず、目先の利益だけでスポーツが切り捨てられていく。そんな現実はとても情けないですね。

スポーツのためにオーナーが資金を提供するという仕組みは、世界中どこでも同じです。どんなプロリーグであれアマチュア・スポーツであれ、金持ちが金を出して、それを分配してサポートするのは当然のことなんですね。それで商品が売れれば一石二鳥だし、それで社員に元気が出れば“一石三鳥”でしょう。さらには企業の価値やイメージが高まることもあるわけですから、そうなれば“一石四鳥”の効果ということになります。スポーツ育成は企業の社会貢献のひとつでもありますから、もっと慎重に考えていただきたいと思っています。

■結果を数値化して表わす“デジタル化”ということもよくおっしゃっていますね。

それはたいしたことではないんです。わかりやすく選手に伝えるためにやっているだけ。たとえば「早稲田ラグビー部は日本で一番練習をする。こんな厳しい部は他にはない」と学生はよくいいます。しかし、「それじゃ、どれくらい走れるの? 速いの?」と聞いても、誰も答えられない。また「ずいぶんタックルをした」と自画自賛していても、何回タックルをして、そのうち何回成功したのか? ―これも誰もわからない。そういうあやふやなところを数値として“デジタル化”してやれば、ちゃんと自分のレベルが理解できますし、選手はそれを指標にして成長を図ることもできるわけです。

早稲田にはトップのAチームから一番下のレベルのEまで5つのチームがありますが、僕が監督になってからはすべての試合で個人の結果を数値化し、貼り出すようにしました。「タックルを何回したか」「そのうちミスしたのは何回か」「ディフェンスをブレイクして相手を何人抜いたか」など、すべてが数字として毎試合出てきます。

それ以前は2時間くらいかけて試合のビデオを見て、その結果「じゃ、次からはこうしようか」とかいって、それでミーティングは終わり。これでは感覚的にはわかっても、具体的に自分に何が足りないのか、わかるわけがありません。数値化されて見せられると、「あの選手は試合ではなんとなく目立っているけど、実際は全然ボールにからんでない」といった実像が明確に現れる。また120人以上いるラグビー部員全員の結果が出ますので、お互いの違いやレベル差がわかり、切磋琢磨するようになります。選手にとっては毎試合がテストみたいなもので辛いかもしれませんが、どんな練習でも意図を理解せずにやっていては身に付きません。練習の目的をしっかり選手にわからせるためにも、アナログ的な練習を“デジタル化”することは現代スポーツでは必須ですね。

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スローガンが集団の“プライド”を生む

■早稲田時代、清宮さんは『アルティメット・クラッシュ』(ULTIMATE CRUSH)というスローガンのもと、チームを黄金時代に導きました。

スローガンはチームに絶対必要なものです。どういうチームになろうとしているのかという、チームが大切にする“プライド”を言葉としてもっていないと、その組織は強くなれない。そう思います。『アルティメット・クラッシュ』は、「徹底的に叩きのめす」といった意味です。このスローガンは、僕が早稲田のチームを率いて2年目の2003年春に、ラグビー部の先輩で外交官をされていた奥克彦さんが作ってくれました。奥さんはその年の11月にイラクで襲撃され亡くなられるわけですが、奥先輩が残してくれたこの『アルティメット・クラッシュ』というスローガンのおかげで、早稲田のラグビーが生き返ったと思います。いまではいくら感謝しても感謝しきれないほどですね。

スローガンは“お題目”としてそこにあるだけでは、もちろん何の意味もありません。しかし、選手たちが何度も口にするうちに自分たちの血肉となっていきます。早稲田の場合もこのシーズン、ことあるごとに「早稲田、アルティメット・クラッシュだ!」と選手たちが気合いを入れていました。そして、シーズン終盤にはそのスローガンを聞いただけで、チーム全員の気持ちがひとつになった。おかげでこの年は1敗も喫することなく、大学日本一の座につくことができました。まさに『アルティメット・クラッシュ』の勝利です。

■今シーズン、サントリーは『アライブ』(ALIVE)というスローガンでシーズンに臨みますね。

「サントリーのプレーヤーは常に熱く、生き続ける」という意味です。

早稲田ラグビー部の場合は長い伝統がありますから、“早稲田のラガーマン”としてのあるべき姿に選手の中でそれほどブレはありません。ところが、サントリーの選手たちは自立した社会人ということもあって、価値観はバラバラですし、チームに対する想いもそれぞれ。同じ他の社会人チームと比べても、特にサントリーはその傾向が強いと思います。たとえば東芝やNECなどは試合が終わっても同じ工場で勤務しているメンバーばかりですから、一緒にバスに乗って帰らざるを得ません。その結果、相互にコミュニケーションを行う機会も多いわけです。そうなると、自然と熱いチームができあがる。

一方のサントリーは仕事場も住まいもバラバラで、“熱い”なんていう関係性を作るには難しいものがあります。むしろ、それはクサイ言葉に聞こえてしまう。それくらい、社会人チームの中で一番ドライなチームだったんです。そういう意味では、早稲田や社会人のライバルチーム以上に、仲間をひとつに結び付けるスローガンが必要になってきます。

そこで今年は、「45人が熱く競い合ってチャンピオンになろう」と選手たちに呼びかけ、『アライブ』というスローガンを掲げました。これが、シーズンが深まるにつれてサントリーの選手たちの“プライド”となるはずです。

このようにスローガンには、基本的に選手たちに足りないもの、もっていないものを掲げるわけです。『アライブ』も2005年度シーズン、トップリーグで6位に終わり、なぜ勝てないのかを突き詰めて作った言葉ですから、選手たちがハマって当り前なんですね。「サントリーのよさは、自由な雰囲気をもつ都会のチームであるところだ」という人もいます。しかし、もともとバラバラだったものだから、気を抜くともっとバラバラになる。この『アライブ』というスローガンのもとにまとまるぐらいでちょうどバランスが取れるのではないでしょうか。

『ジャパンラグビートップリーグ』について

『ジャパンラグビートップリーグ』について

いよいよ今年も社会人ラグビーのトップリーグ・2007-2008年シーズンが開幕。10月26日、東京・秩父宮ラグビー場の開幕戦では、清宮監督率いるサントリーラグビー部『サンゴリアス』が昨年の覇者『東芝ブレイブルーパス』を破り、トップリーグでは今シーズンも“清宮旋風”が吹き荒れそうだ。

『ジャパンラグビートップリーグ』は、各地域リーグと全国社会人ラグビーフットボール大会が発展的に解消して2003-2004年シーズンからスタートし、今年で5シーズン目を迎えている。現在14チームが参加、1回戦総当たりのリーグ戦を経て、上位4チームによるトーナメント『トップリーグプレーオフ・マイクロソフトカップ』でチャンピオンが決まる仕組み。トップリーグの下には2部リーグとして『トップイースト』(元『関東社会人リーグ』)、『トップウェスト』(元『関西社会人リーグ』)、『トップキュウシュウ』(元『西日本社会人リーグ』)という3つの地域リーグがあり、毎年入れ替え戦が行われている。

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公平性と指導者の“説明責任”

■サントリーの監督を引き受けるにあたって、清宮さんがまず選手に伝えたかったことは何でしたか。

まずはサントリーが勝つための“原則”を伝えようと思いました。それはなぜかというと、僕が監督としてやって来て新しいことを提案したら、それだけでチームが勝てると選手たちが錯覚している空気を感じたからです。選手たちが監督に飲まれてしまっているというのでしょうか。それでは絶対に結果が出ない。そこで僕は、「チームを強くするための組織づくりやチームの方向性、戦術は僕が確立する。しかし、チャンピオンになるためにはそこから君たちが個性を発揮して勝っていくしかない」と、最初のミーティングではっきりと伝えました。

当たり前のことですが、監督が代わっても、選手自身が変わらなければ意味はありません。「そのことをサントリーが勝つための基本思想としようじゃないか」−−少し大げさかもしれませんが、これがサントリーの“勝利の哲学”だと宣言しました。

■ある意味、選手のモチベーション次第というわけですね。

確かにそういう部分があります。早稲田の学生と違って、社会人ですから自主性に任せる部分も出てきます。ただ、“チーム・モチベーション”をどう上げていくのかというのは、学生、社会人を問わず、監督の手腕です。そのために僕は、実績や年齢に関わらず、実力があれば抜擢することが必要だと思っています。

たとえば早稲田の場合、「同じ実力なら若手を使う」と最初から選手たちに公言していました。若い方が“伸びシロ”があるからです。ただその際には、ポジションを争っている選手たちにきちんと説明する義務が監督にはあります。そこで納得させられなければ監督は失格ですね。僕がこの実力主義を通してもチーム内がギスギスしなかったのは、この“説明責任”をしっかりと果たしていたからだと思います。また、すべての評価基準を透明にして、怒るにしても褒めるにしても、必ず全部員の前で行う。この一種の“公平性”を維持できたからこそ、選手がついてきてくれた。

そういう意味では、いままで私が語ってきたコーチングのすべては監督の“説明責任”に帰着するといってもいいかもしれません。これは監督という仕事に限ったことではなく、企業やプロジェクトのリーダーといった、人を率いる立場にある人間にとって、この責任を十全に果たすことが組織を活性化させる第一歩なのではないでしょうか。

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企業社会で育まれたコーチングの基礎

■清宮さんはサントリーで企業人としての経験もありますが、どんな仕事をやっていらっしゃったのですか。

サントリーに就職してから総務部に3年半、その後、営業を8年くらい経験しました。早稲田の監督になったのが33歳のときでしたが、35歳までは営業マンとの“二足のわらじ”でした。もっともその間は会社が気を遣ってくれて、担当する営業先はオーナーが早稲田出身であるスーパーのチェーン店などでした。商談に行っても、「こんなところに来なくていいから、帰って早稲田を強くしてくれ」と追い返されるほどで、非常に恵まれた営業マンでした(笑)。

スポーツの指導者だけでなく、学校の先生にも恐らく同じことがいえると思いますが、人を教育する職業にとって、社会人経験は絶対に欠かせないスキルだと思います。たとえば僕がそういった経験をせずにいまの立場にあるとすれば、半分くらいの効果しか上げられなかったのではないでしょうか。人間としての魅力も半減していたと思います。

社内での人間関係から学ぶことももちろん多いですが、外に出ればバイヤーもいるし、消費者もいる。また、お店のオーナーもいれば、レジ打ちのバイトの方もいらっしゃいます。ライバル会社の営業マンとも顔を合わせますよね。それぞれといい関係を結ぶには、それぞれの立場に合わせ、アングルを変えた話をしなければいけません。またそんな方々を仲間にするためには、いろんな仕掛けも必要です。そうしたビジネスでの経験が、いまのコーチングの礎になっているのは確かです。

また監督を兼務するには、仕事を効率的に運ばなければ時間ができません。そのため、「この件は電話」、「これはメール」、「この案件は訪問」という具合に、何事にも優先順位をつけて時間を無駄にしないようになりました。この経験はラグビーを指導するうえで、チームに何がまず必要かということを、短時間で見極める力を育んでくれたように思います。

■優遇されたとはいえ(笑)、清宮さんは営業マンとしてもとても優秀だったと伺っております。一般的にラガーマンは企業組織で高い評価を受けていますよね。

ひとつには、ラグビーというスポーツは出た結果をすべて理由づけできるからではないでしょうか。結果が出てそれを検証して、次はこうすればうまくなると仮定して練習に励む。そして、また試合に臨む−−これはビジネスの仕組みとまったく同じですよね。そういう意味ではラグビーとビジネスの指向性は似ています。

一方、野球やサッカーは偶然性に左右されやすく、なかなか理論だけで片付けられない要素が多いような気がします。「昨日の結果は忘れて気持ちを切り替えよう」なんてよくいいますが、ラグビーで昨日の試合を忘れたら、進歩はありません。ラグビーは“継続性”がすべて。会社も同じですよね。

もうひとつは、ラガーマンには「体を張ることが大切だ」という気持ちが染みついていることです。自分が潰れても仲間を生かす。ラグビーは“自己犠牲”が当たり前のスポーツです。そうした人材が、企業にとって有り難くないわけはありませんよね。

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日本のラグビーを変える“清宮イズム”

■フランスで開かれたワールドカップも終わり、「次の日本代表監督には清宮さんを」という声も上がっています。最後に、ぜひその意気込みを聞かせてください。

もちろん、一度は日本代表の監督になりたいと思っています。日本のラグビー界には、競技人口の拡大、インフラの整備と、いくつもの課題があります。根本から変えないと未来はない。ですから、僕が監督になったらグラウンドの中だけでなく、GM的な役割も担い、日本のラグビーを大きく変えたいという野望があります。僕はそのことを公言していますし、自分ならそれをやれるという、妙な自信もあるんですよ(笑)。

2011年のラグビー・ワールドカップ誘致には残念ながら失敗しましたが、2015年のワールドカップはぜひとも日本で開催したい。これは日本ラグビー界の悲願です。そのコンペが2009年に開かれる予定ですが、国の最低保証額が160〜200億円になると推定されています。これはもはやサッカーのワールドカップと同じくらいのレベルですね。それに運営費が必要ですから、全体で300億円くらいのキャッシュが動くでしょう。もちろん収入もある。その上がりから10%くらいは日本ラグビーの未来に投資できるのではないかと思っています。

そんなグランドデザインのもと、僕は日本代表監督に是が非でもなりたい。これからもどんどん売り込んでいきますよ。

■とても頼もしい発言をありがとうございます。いちラグビーファンとして、これからの日本代表にワクワクしてきました。

そういってもらえると、僕も嬉しいですね。実は奥克彦さんがイラクで不慮の死を遂げて以来、僕の発言はガラリと変わったような気がします。生前、奥さんと会うと「力を出し切っているか?」「やるべきことは何かわかっているか?」といつも叱咤され、「キヨ、それはつまんないなあ。そんなのお前らしくない」とたびたび激励されていたものです。奥さんが亡くなって以来、何をするにしても、この言葉がいつも脳裏を過ぎります。「おまえはそれで清宮らしいのか!?」と−−。だからいまは、自分らしくいいたいことはいい、やりたいことはやる。そんな気持ちが強いですね。そんなわけで、僕の辞書から「謙虚」という言葉は消去されています(笑)。

奥さんが『アルティメット・クラッシュ』というスローガンで早稲田のラグビーを変えてくれたように、奥さんそのものの存在が僕を大きく変えてくれました。いつかは天国の奥先輩に「おっ、キヨ、お前らしくていいじゃないか」と褒めてもらえるように、これからも遠慮なく頑張るつもりです。みなさんもラグビーをぜひ応援してください。

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早稲田大学ラグビー蹴球部

早大ラグビー部の正式名称。慶應、京都三高、同志社に次いで日本で4番目の1917年11月7日に創部されたラグビーチーム。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属。戦前は、明治・慶應・東大と戦前の黄金時代を築く。その後、幾度の低迷を迎えるものの、その都度復活を果たしてきた。豪州遠征をきっかけに編み出した“ゆさぶり戦法”、長野県菅平合宿で考案されたサインプレー“カンペイ”など、創造性に富んだ戦術を生み出す。また、日本代表に数多くの選手を輩出し、代表の戦術理論に多大な影響を及ぼす。その伝統と実力は若きラガーマンの憧れであり、人気とブランド力は国内随一を誇る。

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サントリーラグビー部『サンゴリアス』

1980年4月に創部。創部より2年後に1部リーグ昇格を果たすと着実に力を伸ばし、1985年以降は東日本社会人リーグを代表するチームとなる。サントリーラグビー部を一躍全国に知らしめたのは1995年。全国社会人大会8連覇をめざす神戸製鋼を準々決勝で破り、その年、悲願の優勝を果たす。2003年ジャパンラグビートップリーグ発足に伴い、『サンゴリアス』と命名。その由来は、サントリーの“サン”、太陽の“SUN”と、巨人「ゴリアス(GOLIATH)」で、マスコットのゴリラは、「タフネス」「テンダー」「スピリチュアル」を象徴している。

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益子 俊志(ましこ としゆき)

1960年、茨城県生まれ。日立第一高校卒業後、1979年早稲田大学教育学部入学。現役時代は卓越したセンスとリーダーシップで、早稲田の名フォワード(No.8/フランカー)として活躍。1981年に関東大学対抗戦で優勝、翌年にも主将として対抗戦連覇を果たす。1993年、2000年に同ラグビー部監督を務めた。退任後は、茨城県岩井高校、千葉県市川学園教諭を経て、現在は防衛医科大学校保健体育学准教授を務める。

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フォワードの明治・バックスの早稲田

早明戦の戦術を形容するフレーズ。強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワードでバックスを中心とした展開ラグビーは「横の早稲田」ともいわれた。もともと体格に恵まれなかった早稲田は、体格に勝る相手をいかに打ち負かすかという理論を徹底的に研究し、バックスへの早い展開に活路を見出した。一方の明治は、故 北島監督の教えである“前へ”を合言葉に、スクラムやモールで押し込むフォワード勝負を愚直なまでに徹底。その相対する個性の激突は、大学ラグビーシーンにおいて幾多の伝説や名勝負を残した。

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荒ぶる

早大ラグビー部の第二部歌。作曲は同大学音楽部、作詞は小野田康一氏(1923年同大学卒業)。もともとは、早明戦勝利後に歌ったことが始まりだったが、その後、大学選手権に優勝したときにのみに歌うことが伝統となった。したがって、同ラグビー部全員が夢に抱く特別な歌といえる。なお、第一部歌は『北風』と呼ばれ、試合前の出陣の際に歌われている。

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大学選手権

日本国内における大学ラグビー日本一を決定する競技大会で、正式には『全国大学ラグビーフットボール選手権大会』と呼ぶ。1964年度に関東代表2校、関西代表2校によって第1回大会を実施。幾度の変遷を経て現在は、関東(対抗戦グループ・リーグ戦グループ)、関西、九州、東海・北陸、中国・四国などによる計16校によるトーナメント方式で行われている。なお、大学選手権の上位1、2組は、ラグビーチーム日本一を決める日本選手権(日本ラグビーフットボール選手権大会)への出場権が与えられる。

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菅平高原(すがだいらこうげん)

いわずと知れたラグビー夏合宿のメッカ。浅間高原、志賀草津高原とともに上信越国立公園に含まれ、約1,300mの標高は夏でも平均19.6℃の気温を保つ。そのため、さまざまなスポーツ団体がこの地で合宿を行うが、中でもラグビーは高校から大学まで毎年800を超えるチームが全国から参集。70面以上も点在するグラウンドでは、連日、本番さながらの練習試合が繰り広げられる。ちなみに、早稲田ラグビーのお家芸ともいえるサインプレー“カンペイ”は、夏合宿で考案したため“菅平”の音をとって命名されたといわれている。

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奥 克彦(おく かつひこ)

1958年、兵庫県宝塚市生まれ。兵庫県立伊丹高校2年時に全国高校ラグビー大会に出場し、3年時には主将に。早稲田大学政治経済学部政治学科に入学し、ラグビー部に入部したが、公務員試験に備えるため2年生をもって退部。1981年、外務省に入省。研修留学したオックスフォード大学でラグビー部に所属し、日本人として初のレギュラーを獲得するなど、以後、日英ラグビーの架け橋となる。在イラン大使館二等書記官、在米大使館一等書記官等を歴任し、2001年、在英大使館参事官に就任。翌年の全早大英国遠征中、清宮監督とともに『アルティメット・クラッシュ』を発案。2003年4月、イラクに派遣、イラク復興に尽力する。同年11月29日、井ノ上正盛三等書記官とともに北部イラク支援会議に向かう途上、銃撃され殉職。両名の意志は、清宮監督をはじめとする多くの賛同者に引き継がれ、2004年8月『奥・井ノ上イラク子ども基金』が立ち上がった。

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ラグビー・ワールドカップ

ラグビーのナショナルチームの世界一を決める大会で、1987年以降、4年に1度開催されている。日本はアジア地区代表として第1回大会から毎回出場しているが、第2回大会でジンバブエに1勝して以来、一度も勝利を挙げたことがない。しかし、2007年フランスで開催された第6回大会では、強豪国カナダを相手に劇的な引き分けを演じるなど、地元ファンを大いに湧かせた。なお同大会は、いまや『オリンピック』、『FIFAワールドカップ』と肩を並べるほどのビッグイベントへと定着。日本は2011年の第7回大会の開催国に立候補していたが、僅差でニュージーランドに敗北。しかし日本ラグビー協会は、2015年の開催国に再度立候補する意向を示している。

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リーダーズ・チョイス
つづいて「リーダーズ・チョイス」では、清宮克幸氏の印象に残った試合を紹介します。
関連リンク集
「関連リンク集」では、コーチングに関するサイトを紹介します。

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