コメント
 
 
 
いつも思うこと (秦智紀)
2009-03-27 22:56:19
資本主義が今のところ一番マシなシステムだということを無視して資本主義を批判する人達が発生する理由が全くわからないです。
前提を無視して批判する彼等の意見に賛同する気が全く起きないのは僕だけでしょうか?
 
 
 
Unknown (kk8n53m)
2009-03-27 23:27:46
「ブータン」とまではいわなくても、過疎地域を買い取って法人を設立してそこから出ないで暮らせばいいと思います。課税額も低くしましょう。ただそうするなら、利己主義と倫理を両立させつつ都市で産業資本家として活動する人たちのnegative rightsをむやみに侵害しないことは必須条件ですし、こういうアジ活動のためだけに資本を使役することは無理でしょう。
 
 
 
神話 (e_kaiki)
2009-03-27 23:31:50
神話的な仮説を考えてみました。

地球自然の更なる進化のためには科学文明が必要であり、そのために人類が生まれたとするものです(例えば、地球外への進出のため)。そして、科学文明をより多様で高度に進化させられる経済体制としての資本主義が考えられます。それらによって自然が破壊されるリスクがあっても、革命的進化の可能性に賭ける価値は大きなものです。したがって、それらが必ずしも人間を幸福にするものではないというのも、自然なことです。

ただし、科学文明の進歩が継続されるには、多くの人々に夢とチャンスを与えていかなければならず、バランスも必要です。しかし、人類に依存しなくても進化していける時代が訪れるのも、運命だろうと思います。
 
 
 
どうでしょう (類と濁酒)
2009-03-27 23:41:59
>資本主義が今のところ一番マシ
 そうですね、日本は中途半端ながら資本主義で成り立ってますから。

佐伯氏は、元々マル経の専門家みたいですので、昨今の不況で「今こそ社会主義の復活を!」みたいなことを宣って、ご自分の飯の種を作りたいだけではないかと。
 
 
 
両方への違和感 (OJ)
2009-03-28 02:01:15
「市場原理主義への批判」が的外れであることは間違いないですが、一方で市場に全てを委ねるということに対しては微妙な違和感を感じてきました。
それでは社会主義なのかというと、やはりそれに対しても違和感が強い。

労働力をも商品とする資本主義への違和感が生じるのは「自然な感情にフィットしない」からだと述べられていますが、問題はその点にとどまらないでしょう。
特に、歴史・地域的な差異が深く影響している気がするのです。
例えば、労働による蓄財を美徳とも捉える西洋の感性と、労働の積み重ね自体に美意識を持つ東洋の感性との違いは、東洋(東アジア)における資本主義への違和感をより強めているように思われます。
(類似した例は、松本健一『泥の文明』新潮選書[2006]に詳しいです)
端的にいえば、日本人の多くが、感覚的に(もはや遺伝的とすら言ってよいかもしれない)、強きものの下でそこそこ繁栄するよりも、横並びの関係性の間に留まってただ生存することを選ぶ(その関係性が繁栄をもたらさなくても)のでしょう。
したがって、マスとしての我々は内に篭り、社会主義的な方向に流れやすいのだと思われます。
また、以前にこちらのブログで触れられていた、晩年の丸山眞男の諦めに似た感情は、結局ここに帰着するのでしょう。

ただ逆に、欧米では資本主義への違和感がないのかというと、そういうことでもないらしいのです。
もっとも、歴史・地理的に過去と断絶することで成立したアメリカ合衆国だけは、ヨーロッパよりもこの違和感を克服しやすい位置にいる気がします。
これは仮説ですが、歴史・地理的な断絶によって土地(特に郷土)への執着心が小さくなると、財産を移動に適した形で貯めることに後ろめたさや罪悪感を感じにくいのではないでしょうか、いや、むしろ奨励される気さえします。
すなわち、資本主義への違和感は、繁栄のための対外的な進出に対する積極性と反比例するのです。
そうであるとすれば、我々全体が資本主義を受け入れるのは絶望的といってもいいでしょう。

しかし一方で、我々の多くは社会主義に対する違和感も持っています。
それは、インセンティブの消失が発展をも消失させることを我々が知っているからでしょう。
したがって、我々は単なる横並びを求めているわけでもないことになりそうです。
そして、そこでは、横並びでないことを正当化できる、ある種の公正さが必要となるでしょう。
この公正さをどう担保するのかということはまだ良く判りませんが、民主的な決定方法すなわち民主主義という方法は必要でしょう。
ただ、民主的な決定方法においても情報は偏在し、利害が均衡状態となることはないということ、そしてそのうえで、我々が適者繁栄より全体生存を好む傾向にあることと並立させる必要があるということとのバランスが全く見えないでいます。
 
 
 
Unknown (843)
2009-03-28 03:02:31
富の量と人権とか福祉は比例すると思うんですよね。
資源がなくなったりして生産性が急降下したら普通に奴隷制とか復活するでしょ。
貧しい国で高い福祉人権なんてのはない。
人間より機械設備のが大事になってくる。
GDPが減っていけば最後には人身売買とかも普通になってくる。
 
 
 
ベストよりパーフェクト (りす)
2009-03-28 07:16:32
>対案を示さないで市場の欠陥だけをあげつらう
>たしかに市場には欠陥だらけ

人間だれだって、ベストよりパーフェクトを望みます。
100メートルをゼロ秒で走れたら、パーフェクトでしょう。
しかし、パーフェクトに近づくためには、
自己ベストを更新していくしか方法はありません。

なにが足りないかを認識するとともに、どこまで達成できたかを
確認することも大切だと思います。
 
 
 
中谷先生 (青木)
2009-03-28 08:24:30
中谷先生も見通しを誤ったのなら、潔く絶筆すればいいのであって、それを懺悔と称してあっちこっちで書きまくり、しゃべりまくって稼いでいる生き方が気にくわない。それを許しているメディアもどうかしている。彼は10年後にもう一度転向すると見ています。
 
 
 
中谷先生追記 (青木)
2009-03-28 08:32:51
中谷先生はソニーの役員もなさっていたが、そっちの方の懺悔も聞きたいものです。今のソニーの惨状になにがしか責任がおありでしょうから。
 
 
 
市場主義嫌い (松の介)
2009-03-28 09:17:54
日本では家父長主義の右翼と社会主義の左翼が社会思想の底流にあるように思います。
市場主義を否定することは、分配判断をエリートに委ねるわけですが、その方が心地よい人が多いのでしょう。当然そうした心理に媚びて原稿料、印税、出演料、講演料、購読料を稼ごうと考える人は絶えないのではないでしょうか。市場よりエリート(官僚など)に委ねられた方が得だとする立場もあるでしょうし。
 
 
 
格差とたまゆら (サヨ)
2009-03-28 10:11:37
>「格差」を是正して「安定した社会」を実現するには

資本主義より優秀で、いまとは全く違う経済システムが実現して、一度、すべての富を国民の頭数で均等割にしてみてもいいのですが、1年以内に再び「格差社会」に舞い戻るのではないかという気がします。人間社会において「富は偏在している」のが自然なのです。ここで言う富とは経済力にとどまらず、人望やら社会的立場やら友達の数、はては愛情にいたるまで、つまり「この世のよきもの」すべてです。勝間さんだったか「資本主義とは賢くない人から賢い人へ富が流れる仕組みである」と言っていたけど、別に資本主義に限った話でなくどんな社会でも基本的にそうです。

しかし弱い者、持っていない者を放置して支配階層がエゴだけ追及している社会は願い下げです。「たまゆら」火災は報道を見て丸1日、気分がひどく陰鬱でした。どうしてこんなことになっているのかという感じ。誰だって自分がいよいよ働けなくなったときに、焼死したくない。

 
 
 
唯一の世界観などない (nagai)
2009-03-28 14:10:48
ポストモダン左派の一部が悪ノリして自らの存在意義を再び誇示するためにマルクス主義的左派の如く市場原理主義を否定することは問題ではない。
むしろ日本のお茶の間が低俗なTV番組で市場原理主義を否定するような「正義のお言葉」を聞いて、対立図式の幻想に安心すること自体が問題だと思う。

今みたいに価値観が多様化した時代で唯一画期的な「世界観」なんて存在しないと思う。世界を統一するような絶対知に辿り着くことなんて不可能だ。結局、既存の解答を是正してより真実に近づくべく延々と議論をするしかない。つまり、市場原理主義と闘う、市場原理主義から逃げる、ではない。既に経験論的に市場原理主義が社会のベースとせざるを得ないという一定の解答が得られている。それに対してどう是正すべきかに集中すべきだろう。
一方で、なおポストモダン的に複雑化している日本においては、より相互に理解しようとする態度、なおかつ変化する責任の認識が必要だと思う。その役割をお茶の間に媚びるマスコミに求めても無駄だから、結局は当ブログのような高尚なWEBサイトの啓もう活動に期待するしかないと思う。
 
 
 
質問です ()
2009-03-28 15:15:15
カール・ポラニーの「大転換」を読んだことがあります。社会主義ではなくて金本位制を賞賛していたように思います。そこで質問なんですが、経済学者やエコノミストのみなさんは、何を基準にして資本主義と社会主義を区別しているのですか?池田さんが非難する社会主義と賞賛する資本主義はどうちがうのでしょうか?私は、経済の素人ですが、市場は古くからあると思います。しかし、市場を資本主義と呼びたくはありません。また、国家を社会主義と呼びたくもありません。
歴史的には、1830年頃から1880年頃まで続いた自由主義が崩壊し、帝国主義がはじまった場面で社会主義が叫ばれるようになったと思います。ウィキペディアで調べてみたのですが、資本論の二巻が1885年に刊行されていますから、認識としては妥当でしょう。当時の人々が、自由主義では帝国主義に抗することができなくて、社会主義を選択したとしても、しょうがないという気がする。問題なのは、反帝国主義であった社会主義が、もうひとつの帝国主義になってしまったということでしょう。
現在、新自由主義が崩壊して新帝国主義がはじまりつつあると仮定しましょう。崩壊した新自由主義をいくら擁護しても、新帝国主義には無力です。しかし、新社会主義のようなものは、結局、もうひとつの新帝国主義になってしまう。私たちにとって必要な作業は、新しい何かを発明することだと思います。
 
 
 
一つの失敗をあげつらう (松本孝行)
2009-03-28 15:38:29
 確かに市場は不完全で、資本主義が最高の制度でこれ以上はないというほど素晴らしいものではありませんが、代替性のある制度は今のところないと思っています。

 かつ今回の金融危機という一つの失敗だけをあげつらって、資本主義批判をするのは私も賛成できません。こういう極端な言論が跋扈することは、日本の経済学発展などにもいい影響を与えないように思いますが…
 
 
 
松本さんへ ()
2009-03-28 17:33:46
松本さんの言う「資本主義」が「市場経済」を意味するものであるとすれば、言っておられることはもっともだと思います。しかし、国家が突出しはじめている場面で市場経済を擁護してもおそらく無力です。必要な作業は新しい何かを発明することでしょう。
経済学者やエコノミストのみなさんは、あたかも歴史を知っているかのようにして意見を述べますが、本当に歴史を勉強しているのだろうかと思うときがあります。十九世紀に自由主義が崩壊して帝国主義がはじまるターニングポイントは1870年代後半から1880年代前半のどこかではないかと思いますが、その時期は「大不況」の最中でもあったわけです。「大不況」の真っ最中に帝国主義が誕生したとも言えるでしょう。そして、自由主義というかレッセフェールというか、そういうものをいくら擁護しても帝国主義に対抗できないと判断した人々が、社会主義を選択した。社会主義でもダメだったのは事実ですが、自由主義の擁護が無力であったことも事実でしょう。そこらへん、経済学者やエコノミストのみなさんはどう認識しているのですか?
私は、「大不況」の真っ最中に産業革命が第一次産業革命から第二次産業革命に変遷したことに注目してます。そして、実際に「大不況」を克服したのは、帝国主義でも社会主義でもなく、第二次産業革命だったのかもしれないと思ってもいます。経済学者やエコノミストのみなさんは、十九世紀の「大不況」をどう見ているのですか?1929年の大恐慌のことばかり言っておられる方が多いように思えるのですが、それははたして正しいのでしょうか?現在の世界同時不況が、十九世紀の「大不況」に類するものであるとすれば、新自由主義が終わって新帝国主義がはじまる状況をつくり出しているかもしれないのですよ。
 
 
 
猫さんへ (Taro)
2009-03-29 13:55:12
それはあらゆる「危機」や「困難」が常に政府権力の肥大化とさらなる介入を招いてきたこと、そしえ、その「危機」事態が、多くの場合政府によって引き起こされてきた事を示しています。「危機」は造られるたびに利用される。政府によって。

富を生み出すのは労働者と資本家しかいませんが、労働者と資本家に寄生し、合法的に収奪し、債務までを負わせるのは政府だけです。

そのようなつくられた「危機」に際して、国民が政府に依存するから、政府は増長するのです。政府の言うことを信用してはならない。政府を小さくする政権だけが信用に値する真に革新的な政権といえましょう。

 
 
 
それでも市場は回っている (江戸川アダモ)
2009-03-30 02:39:52
資本主義は人間の本能に反するから、幾ら合理的でも採用不可だといった論調が目立ちますが、私は考えすぎたと思いますね。

もしそうなら「幾ら科学的でも、地球が太陽の周りを回っていたり、人類がサルから進化したなんて話を人は受け入れられない」ということになります。実際そういう人も一部にはいますが現代人の殆どは受け入れている。要は正しい知識が広まっているか否かの問題です。逆に言えば、人は教育によって良くも悪くも簡単に操作されてしまうのです。

宗教的権威がガリレオを弾圧したように、正しい知識は為政者の脅威になる場合に弾圧されます。現在でも、労働者や資本家に寄生する官僚や公務員が、学校のカリキュラムを作って教えるわけですから、その内容は推して知るべしです。これは実に簡単な利害関係の話で、本能とか感情とか文化とか持ち出すまでもありません。
 
 
 
推して知るべし (Taro)
2009-03-30 09:17:49
江戸川アダモ氏曰く「労働者や資本家に寄生する官僚や公務員が、学校のカリキュラムを作って教えるわけですから、その内容は推して知るべしです」

まったく。利害関係の話ですね。
一方に、法を操り、その権力によって寄生し、収奪する連中が、市場経済に介入し、資本主義を資本主義でなくしている。
 
 
 
市場は<不安>を生み<不安>は国家や宗教を生む? (Y-BAT)
2009-03-30 10:55:13
<危機>や<不安>を利用して宗教や国家は生まれるし大きくなってしまいます。しかもマッチポンプである場合もあるし。往々にして<法>はそれを強化する方向に作用するのが困ったものですね。
 
 
 
市場主義の限界? (leny)
2009-03-30 16:24:01
一般人にしてみると、中国のメラミン混入ミルクの問題も、アメリカの低所得者向け住宅融資の証券化の問題も、商品需要に原料の供給が追いつかなくて、イレギュラーな手法を用いて水増しした原料を製造し、チェックも効かないままに流通させた、と言う点で同根に見えます。両方の「毒」も一定量以下なら問題が発生しない点も似ています(後者の方が規模も莫大で、流通がややこしいって点はありますが)。

市場経済を否定するのではなく、需給ギャップが価格調整ではなく、粗製濫造で対応された点の修正を行うべきで、その政策が必要とされているのは明白です。

ただ、こうしたモラルハザードは、人間に永遠について回る問題ですから、イタチごっこなんでしょうけどね。
 
 
 
経済学者の態度に対する三つの疑問 ()
2009-03-30 17:29:38
質問の仕方を変更しますね。私の疑問を三つに整理します。
まず、市場原理主義者というか小さな政府論者というか、とりあえずリバタリアンと呼ぶことにしますが、私には、「市場を大切にしましょう」と言っているリバタリアンは、「自然を大切にしましょう」と言っているエコロジストとオツムの構造がほとんど同じではないかと思えるわけですよ。そりゃ、自然は大切ですよ。しかし、だからといって鉱工業をなくすことはできません。市場も大切でしょうけど、だからといって国家をなくすことはできません。市場がまともに機能しない場面で国家が突出するのは当然で、にもかかわらず「市場が、市場が」と言い続けるのは、思考の怠慢ではないかとさえ思えます。十九世紀のヨーロッパでは、それに気づいた自由主義者たちが社会主義者に転向しました。しかし、社会主義はもうひとつの帝国主義になってしまった。社会主義を選択することもできない現在、脳みそが溶けるくらいに考えて新しい発明をするしかないと私は思うのですが、これは間違いですか?
次に、ごく一部のマイナーな国を除けば、もはや社会主義国なるものは実在しないと思います。にもかかわらず、ありもしない社会主義をダシにして、だから資本主義しかないというのは、リアリティーがない。国家が異常に突出したとしても、それもまた資本主義国の一形態であると考えるしかないでしょう。そこらへん、経済学者やエコノミストのみなさんはどう考えておられるのか?
最後に、経済学者やエコノミストのみなさんが、正面から過剰生産の問題と向き合っているように思えません。金融や財政についてあれこれ言うのはいいですが、言うことはただそれくらい、という気がしないでもない。産業が過剰生産状態になっているかもしれないといった、素朴な疑問に対する答えを持ていない。私などは、既存の産業が過剰生産状態になってしまったので、だから新しい産業を発明しなければ今の不況から脱出できないと言われるほうが、分かりやすい。
 
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