第十六代天皇。御名は大鷦鷯(おおさざき)。父君は応神天皇、母君は仲姫(なかつひめ)。葛城盤之姫を皇后に立てて履中・反正・允恭天皇等の御子をもうけられた。
幼にして聡明叡智、貌容美麗にして、壮に及んで仁寛慈悲と云われる。弟の皇太子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)と、皇位を三年間互いに譲り合われた。皇太子の御逝去に伴ない仁徳元・正即位して、難波高津宮に都された。即ち宮垣、室屋は上塗りせず、桷梁柱楹(エイ)はみがきかざらず、茅茨はきりととのえなかった。 民家に炊煙の立ち上らないのを望見して、民の困窮を察し、三年間課役を免じた。三年後にはあ
ちこちの家から煙が立ち昇るようになった。内治に尽力され聖帝(ひじりのみかど)と讃えられた。難波の堀江・感玖大溝の開鑿、茨田屯倉の設置大阪平野の開発等、全国に土木工事を起こし、治水と干拓につとめ、民政を重んじられた。八十三歳で崩御された。陸墓の百舌鳥耳原中稜(もずのみみはらのなかのみささぎ)は、堺市の大山古墳(墳丘の全長四八六米のわが国最大の前方後円墳)に比定されている。
新古今和歌集に 仁徳天皇御歌
「高き屋に登りて見れば煙立つ 民のかまどはにぎはひにけり」がある。
仁徳天皇は古事記や日本書紀では、大雀天皇・大鷦鷯天皇と記されている。鷦鷯は紀の訓註に鷦鷯、此れをば婆婆岐と云うとあり、また仁徳天皇をさして佐耶岐・婆奘岐などと記しているので、それがササキやサザキと読まれていたことがわかる。したがって記の雀もこの場合はサザキと読むわけである。
仁徳天皇のサザキの名には次のようなな由来があったという。天皇が生まれた日、産屋に木莵(ツク・みみずく)が飛び込んできた。応神天皇は武内宿禰を招いてその吉凶を問われた。宿禰は吉祥であるといい、また自分の家でも同じ日に子が生まれ、産屋にサザキがとびこんできたと話した。同じ日に子が生まれ、ともに鳥が飛びこんできたとは、目出度いことであると考えた天皇は、鳥の名を取り替えて子供達に付ける事にされた。こうして仁徳天皇はサザキ、宿禰の子はツクと名付けられたという。
古代人がサザキに神秘的な霊性を感じていたことは、スクナヒコナがサザキの羽根を衣にして登場するところ等に窺われる。
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