20090328
■[雑文]人間嫌いのダメ店長がある程度仕事できるようになるまでの経過
自分の店を持って、数年が経過した。いま、うちの店はよく回っていると思う。もちろん、ここまで来るにはそれ相応の試行錯誤があった。というよりも、およそトップとしてはやってはいけないことをことごとくやってきて、ようやく現在があると思う。今日はそのへんの「やっちまった」話をえんえんと書きたいと思う。
今日も長いよ。
俺は基本的に、頭の使いかたが上手なほうではない。うちの奥さまあたりにはよく頭がかたいとか言われる。まあ、そうかもしれない。一度、仕事のことに頭が集中してしまうと、焼き切れそうになるまで仕事に全神経を集中する。たまったものじゃないのは周囲のほうで、店にいる時間のすべてを仕事にぶち込む人間に、アルバイトがついてこれるはずがない。以前はよくこれで独走してしまい、気がつくとまわりにはだれもいない、ということがよくあった。
この精神状態だと、俺には本当に余裕がない。自分自身はもちろんのこと、アルバイトにも、一挙手一投足すべてが店の利益に貢献することを要求する。つまり「なに5秒もぼーっとしてるの?」ということだ。当然ながら私語はまったくの無駄。バイトどうしのコミュニケーションなどまったく不要。バイトどうしの人間関係に気をつかっている余裕があるのならば、そのぶん一人でも多くの客に声をかけて揚げものを売れ、一個でも多くの商品をきれいに陳列しなおし、売れる確率をたとえコンマ1%でも上昇させるのが正義だ。
タチが悪いのは、少なくとも仕事という場においては、俺の言っていることはまったくもって正論であって、正論についてこれない人間を「悪」と認定することは簡単だということだ。事実、俺はそうやって何人もアルバイトを潰してきたと思う。
確かに、ついてこれる人間には相応の評価ができる。だいたい体育会系のやつしか残らないんだけど、まあおまえはすごい、認めてやる、と。そう言うことができる。んだけどさー、でも、こんなトップがいる状況で残るやつって、基本的に「自分の創意工夫が発揮されないことにストレスを感じない」タイプばっかりなんだよね。要するに俺の忠実な手下ではあっても、それ以上のものにはならない。たかがコンビニの、それもアルバイトレベルであったとしても、自分の判断で仕事ができない人間ばかり、というのはわりと致命的な状況だったりする。トラブルがあると、すぐに俺の判断を仰ぐしかなくなるから。
店長を始めて最初の数年は、もうなんにもやる気なかったのね。俺は給料泥棒ですって裏では公言することを憚らないくらい。あの状況でよく社長は俺を切り捨てなかったな、と思う。まあ、自分で言うのもなんだけど、いま現在こうやって自力でそこそこの高レベル店を運営してるわけで、能力そのものはないわけではない、いつかこいつがやる気になるのを待とうっていうことだったんだと思うんだけどさ。気の長い話だし、お人よしにもほどがあると思う。いくら感謝してもしたりないと思うのは、この時期の俺を、社長が切り捨てなかったことだ。
やる気になったのは、そんな状況を数年続けて、店の売上が危機的になってきたから。で、人間関係はもとよりまともに形成できる人ではなかったんで、徹底的な恐怖支配に方針を変更した。まあ、店のレベルは上がった。しかし今度は人が定着しなくなった。とにかく店の雰囲気が最悪だった。
もちろん、売場はいつも美しく整頓されている。床の輝きなんてちょっとしたものだ。店員は、お客さんが入店すると元気な声できっちりとあいさつをする。そりゃね。あいさつしないと売場で「声出せ!」って怒鳴られるわけだから。
この時期の俺は、精神的には相当に楽だったと思う。いつも「いつアルバイトが離反するか」ということに対して疑心暗鬼だったけれど、もとより他人のことなんてだれも信用してなかったから疑心暗鬼なんてのとは長いつきあいであり、ただ命令を聞いてくれるぶん、こっちのほうが楽だった。要は、相手が人間であることをいっさい考えなくていい。相手の個性なんざどうでもいい。言うことを聞かない人間は悪だ。簡単ですよ。トップであるということは、それが通用するってことなんですから。
売上は伸びたね。売場のレベルが上がった。品揃えはいい。陳列状態も完璧だ。社長も褒めてくれるわね。社員会議でも真っ先に「よくやってる」と言われるし。実績あるからね。
だけど、売上の伸びは半年で止まった。どころか、下降しはじめた。
種明かしはこうだ。簡単なことだ。店のなかから笑顔が消えた。なるほど、声は出てる。接客もマニュアル的には悪くない。けど、客がその店に入ってきたときに真っ先に感じるものはなにか。
おそらくは、威圧感だ。
コンビニに来る人間にはさまざまな人がいる。みながみな買いもののためだけに来るわけじゃない。「なんとなく入って、無駄遣いしていく人」が、コンビニにとっては相当に重要だ。日常、コンビニに限らない、利用する店について人はなんとなくイメージを持っている。「なんとなくいい店」「なんとなく感じの悪い店」などなど。その「なんとなく」の源泉は、もちろん接客でもあるだろうし、意外に重要なものとしては店の照度だったりもする。俺は、恐怖支配で店を運営するうちに、この「なんとなく」をごっそりと取り落とした。客にとって「なんとなく寄りたい店」を作ることができなかった。客の来店頻度は落ち、常連客を取り逃す。
そして崩壊だ。
崩壊は、クレーマーと店内不正というかたちでやってきた。些細なミスに対して寄せられたクレームに対する対応を俺は誤った。うちの店は完璧だという自負がある。取るに足らないミスでそこまで執拗に追求される覚えはない。頑強に突っぱねたクレームは恨みを呼ぶ。客の店に対する愛着のなさが、クレーマーというかたちで突出した。いまの俺はそう考える。当時は「異常な人間はほっとくしかない」って考えてたけど。
そして、恐怖支配は、やはり恨みを呼ぶ。夜勤の内部でタバコの内引きが発生して、無視できない金額になった。それをクビにしたところで、新しいアルバイトが入って来ない。俺のシフト時間は激増する。もうどうにもならない、というところで社長が介入してきた。俺は他店の店長をやることになった。
俺が壊してしまった店は、社長が強引に建て直すことになった。
次の店でも俺は失敗を繰り返す。根本的なところでは反省がない。恐怖支配がだめなら、和気藹々とやっている店がいいのだろう、と方針変更をした。そして今度は馴れ合いが店をだめにする。馴れ合いもときによっては悪くない。馴れ合いの中心に自分の存在を置くことができれば、人間関係をうまくコントロールすることができれば、だ。
そもそも俺が恐怖支配に走ったのは、仕事に没頭するあまり「没頭しない人間を許せなかったから」だ。そしてさらに根底には他人に対する不信がある。そんな人間にだ、人間関係をコントロールすることができるはずがない。仕事以外のことではまともに雑談すらもできないのに。
俺は恐怖支配と馴れ合いの迷走を繰り返した。もとより俺に人望はない。あるはずがない。俺はあいかわらず人間が嫌いだったし、それは必ずや周囲に伝わる。
1年間のあいだ、俺はこんなことを繰り返した。というより、わずか1年足らずのあいだによくここまで大騒ぎしたものだと思う。で、ほんとによく俺のことクビにしなかったよね、あの社長……。
さて、ここで文章をやめてしまっては、反面教師乙って話で終わってしまう。
きっかけはいくつかあったのだけれど、最終的に俺は、以前勤めていた会社で、全社員(つっても15人くらいだけどさ)のまとめ役までやるようになった。なにをどう変えたのか、変わったのか、ということはいちおう書いておこうと思う。
ちなみに、現在でも俺は基本的に人間嫌いだ。仕事してるなら、他人と関わってるくらいなら、えろげやったりアニメ見てたりするほうがはるかに楽しい、というかその両者はもはや比較不能、というくらいにえろげとかのほうが好きです。
そして、そのままでも別に経営はできている。
決定的に変わったのは、従業員満足、いわゆるESの考えかたを導入したことだ。導入というとどこかから学習してきたかのような感じだけれど、実際には、考え詰めたあげく、これしか方法はない、と考えた結果だった。ESという考えかたを知ったのはそのあとのことだ。
つまり、恐怖支配は論外だ。それは必ず失敗する。もちろん馴れ合いもアウトだ。
そして、この二つの両極端なやり口には、実は共通点が存在する。それは「人はそもそも仕事なんてしたくない」というもの。仕事なんてしたくないから、強制的にやらせる。仕事なんてしたくないから、せめて仕事時間中に楽しくやってもらうため、和気藹々と過ごさせる。そしてこのことは、俺自身の「仕事が嫌い」という抜き差しならない嫌悪感が深く反映している。
そこを転換するほかないと思った。俺自身、仕事が嫌いといっても、部分的には好きだったりするのだ。そういう部分があるからこそ、死にてーとかえろげの世界に行って名雪のブーツのにおいで深呼吸してー(わざわざえろげの世界にいってやることはそれか)とか思っても、なんとか仕事を続けていられる。
俺くらい逃避願望が強くてすら、なお仕事には楽しい部分が残されている。ならばほかの人にとってはどうなのか。
時間を奪われて、拘束されるのは、仕事である以上、しかたない。ならば、どうやってその時間を楽しく過ごせるかが勝負だ。楽しければ、人のモチベーションは必然的に上がる。ではなにを楽しみとすべきなのか。そりゃ仕事だろー、仕事しに来てんだから。
ここを起点にした。仕事を楽しんでもらおう。最終的に「利益」(いや、実は利益だけじゃ人は動かないんだけど、当座の目標として)を目標として、さまざまに絡み合っているこの仕事というものを、どうやったら人が楽しめるのか。そのために必要なルールはなんなのか。
この視点から、すべての仕事に関する考えかたを組み変えた。つまり俺は、店長という存在は、仕事を楽しくできるためにサービスする存在だ。レジ接客はなんのためにあるか。そりゃ客に心地よい感じを持ってもらって、気分よく帰ってもらうためだ。じゃあここにおいて従業員の喜びはどこにある。客に感謝されることじゃないのか。じゃあ俺は、客に感謝されるための技術を教えよう。そのことに喜びを感じられない人間は、つまり接客には向いていない。じゃあそこは割り切れ。ほかの仕事に喜びを感じてもらおう。
人に頭ごなしにものを言われて楽しく仕事をできる人は少ない。それじゃあ俺は技術を教えよう。最善のやりかたと目標とする到達状態を教えよう。あとは創意工夫でどうにかしてもらう。うまく創意工夫できない人には、創意工夫のやりかたを教えよう。理想の状態が実現できたそのときには、少なからぬ満足感がある。その満足感と、実現された理想の状態が店にいい影響を与える。そのことを何度でも説明していこう。
もちろん、現実的には「仕事」なのだから制約は必要だ。だから店のトップである俺には「説教」という重大な仕事が残されている。ただしそれは叱責ではない。実際的な仕事のやりかたでもない。ただただ「説教」なのだ。心がまえを諄々と諭して聞かす。ただそれだけだ。
こうした作業を俺は地道に繰り返した。あいかわらずプライベートの会話なんかはしない(まったくしないわけじゃないけど、喜んでするわけでもない)。俺は仕事のためにここにいる、という一点は崩さない。実際、別にだれと親しくなりたいわけでもないからだ。
現在でも俺はこのやりかたを貫いている。それで、なんとか回っている。飲み会とかいっさいやってない。これで、採用した人間みんなが有能なアルバイトとしてやってくれるかというと、別にそんなことはない。自然淘汰はある(むしろふつうに店を運営するよりもよっぽど淘汰される確率は高い)。だけど、俺にとってもアルバイトにとっても、可能な限りストレス少なく、高レベルの店を回すということについては悪くない方法だと思っている。
まあ、実際にはこの方法には、たとえば研修はやたらに丁寧にやらなきゃいけないとか、採用する人間は厳選しなきゃいけない、つまりは面接のテクニックが重要になってくるとか、いろいろ付随する条件はあるんだけど、基本的には、店のトップが「仕事を高いレベルでこなすことは喜びなんだ」という一点を表面上は疑わないこと。そしてその「喜び」を伝えるためにやってるんだと信じること。それさえしっかりしてればどうにかなると思う。
ちなみに、最悪なことに、俺自身は、仕事を高いレベルでこなすことそのものに大して喜びなんか感じなくて、ただ利益のためにやってる部分が多いんだけど、トップだけは、前提を無根拠に信じないことが重要なんじゃないか、と最近は思っている。仕事はすばらしい、社会貢献最高、利益のアップが無条件でモチベーションアップにつながるとか、そういうお題目を、トップだけは疑ったうえで、現状にあわせて、選択的に当面の店の方針を決める。それができないと状況が変化したときに、ドグマにしがみついて自滅するんじゃないかな、とかも思ってる。
てゆうか人間はナマモノですから。状況の変化って、少なくとも俺のコンビニっていう仕事のなかでは、人間の変化とほぼ同一なんで、客に対しても、従業員に対しても、その変化にうまく対応していけないと厳しいかなーとか。ほんと、なにが最良かなんて実際のところわかんないからねえ。前提として絶対に変わらないところがあるとしたら「仕事という制約のなかで、従業員を楽しませる」というそれだけかな。
面接とかの話については、気が向いたらしようと思ってます。以前の会社でもそうだったんですが、俺は面接と新人研修が特にうまいらしいです。逆にOJTとかヘタなんだよね。視野狭いし、加減ってものを知らないから。