刑事弁護人の哀しい予測と現実の空しさ
元検察官である矢部善朗創価大学法科大学院教授(刑事法)が次にように述べています。
刑罰法規の解釈における立場にはいろいろありますし、自説をプロパガンダ的表現で述べるのも自由とは思いますが、少なくとも刑事弁護士の立場で考える限り、裁判官はどういう解釈をするだろうか、という予測、推測または洞察というものが最も重要です。
検察官も当然、裁判官の立場で考えています。
裁判官の判断を全く度外視して自説を前提に防御方針を立てることは単なる自己満足であり、依頼者の利益にもなりません。
「裁判官はどういう解釈をするだろうか、という予測」ということについていえば,刑事弁護士の多くは,裁判所は,かなりの確度で,無罪判決を下さなくとも済むように,必要とあらばかなり無理目の拡張解釈をしてくるだろうなと予測していると思います(それでも,自分がこんな罪で処罰されるのは納得がいかないので精一杯闘ってくれと頼まれれば,精一杯のことをして闘う,というのが多くの刑事弁護人の生き様でしょう。)。そして,多くの刑事弁護人は,その哀しい予測が的中し,刑罰法規の文言からは想像も付かないような行為について被告人に有罪判決が下されていく空しさを味わってきています。
「検察官も当然、裁判官の立場で考えています」というのは,かなり実態から乖離しているお話しのように思われます。実態は,検察官が制定法の文言やそれまでの裁判例を無視して無茶な起訴をした場合にそれでも被告人を無罪としないために裁判官がその無茶に付き合い,また新たな裁判例が生み出されるといったところです。私たち旧試験組は,択一試験を突破するために,特に刑法各論についてこういう事例についてはこれを○○罪にあたるとして有罪とした裁判例があるということを(そんなばかな,と思いつつ)頑張って覚えたわけですが,それぞれの事件について検察官が「裁判官の立場で考えて」これを起訴していたのだとは到底考えがたいというべきでしょう(例えば,他人の池の鯉を流出させる行為は動物を傷害する行為にあたるとして器物損壊罪を適用した判例があるのですが,これなどは,担当検事が「裁判官の立場で考えて」起訴を決めたものとは到底考えがたいように思います。)。
「検察官が一旦起訴をすれば,裁判所は無茶な『経験則』を持ち出したり,無茶な拡張解釈をしてでも,被告人を有罪とする蓋然性が高い」という現実があるからといって,当該適用法令の文言からはそれが適用されることが想定しがたい行為に関して被疑者が逮捕されることとなってもこれを不当逮捕と非難することが許されないのか,野党第1党の党首の第一政策秘書等「国策捜査」を受ける危険がある人物は,無茶な拡張解釈をすれば検察を救済して有罪判決を導くことができなくもない行為などすべきではなく,そのような行為をしたが故に果たして「国策捜査」を受けて逮捕され長期間勾留されることとなった場合それは自業自得であるというべきなのか,といえば,私はそういう見解には与しません。
現実の刑事裁判官の中には罪刑法定主義をかなぐり捨ててでも検察官の救済にあたらんとするものが少なからず存在する現実があるとしても,矢部教授が提唱されるような人民裁判的実質的犯罪論が邪道であることに変わりはありません。
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Voici les sites qui parlent de 刑事弁護人の哀しい予測と現実の空しさ:
» 元検事・郷原信朗弁護士の「検察の説明責任」に関する記事を見て [個人発明家blog]
日経ビジネスオンラインの元検事・郷原信朗弁護士による2009/3/24付け記事「小沢代表秘書刑事処分、注目すべき検察の説明」を読んだが、全く同感だった。この中で「根本的に間違っている」と批判されている先日の朝日新聞の堀田弁護士(さわやか福祉財団)の「検察には説明責任はない」という主張は僕も読んだが、検察の誰かから頼まれて仕方なく書いたような適当な文章という印象を受けた。 元検事・郷原信朗弁護士の記事はかなり長いが、僕は特に次の2つの文章に注目した。 「一般的には、捜査の秘密や公判立証との関係などから... [Lire la suite]
Notifié le le 25/03/2009 à 11:07 AM
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