人民裁判的実質的犯罪論
矢部善朗・創価大学法科大学院教授(刑事法)がまた,「印象操作」という言葉を用いることによって,自説への批判をクリアした気になっているようです。
ただ,刑罰法規を文言に忠実に解釈することについて,
既に書いていますが、小倉秀夫弁護士の解釈(というか単なる主張)に従えば、政治資金規正法が禁止する企業献金がやりたい放題になるわけですが、国民はそのようなことを支持するのでしょうか?
という批判を行えば,「ああ,この人は,『国民の支持』ということを御旗に掲げて,刑罰法規をアドホック的に拡張して適用していくことに賛成しているのだなあ」と受け取られることは当然のことです。矢部教授は,口先では自分も罪刑法定主義を支持しているかのごとく述べていますが,罪刑法定主義を支持するということは,その解釈を採用することによって特定の行為類型が犯罪とはならなくなることについて国民から如何に批判を受けようともその解釈を維持するという矜恃を必要とします。従って,刑罰法規に対する特定の解釈に対して,その解釈の結果特定の行為類型が犯罪とはならなくなることについて国民の支持が得られないということをもってこれを批判するという発想自体が,罪刑法定主義とは相容れないものというべきです。
なお,前田雅英教授らが唱えている実質的犯罪論ですが,これは刑罰法規の行為規範性よりも裁判規範性を重視するものであり,刑罰法規の行為規範性を重視する罪刑法定主義とは本来相容れないものです。特に,矢部教授のように,刑罰法規の具体的な文言を離れて,「そのような行為がやりたい放題になることを国民が支持するか否か」という観点から刑罰法規の解釈の妥当性を考える,人民裁判的実質的犯罪論においては,検察官や裁判官が国民の規範意識をどのようなものとして認識するかを正確に予測できなければ,何人も,逮捕されたり刑罰を課されたりすることを心配せずに社会活動を行うことができなくなり,刑法の自由保障機能は著しく害されることになります。
矢部教授は,
自分たちのいう国策捜査の対象になりたくなかったら、法律をきちんと守ってればいいんですよ。と述べていたのですが,それは何をしなければ刑罰法規に違反したことにならないかが明確であればこそ初めて言えることであって,それが自由に行われるようになることを国民は支持しないと裁判官が考える行為を犯罪行為とする人民裁判的実質的犯罪論を前提とした場合には,国策捜査の対象になることを回避するために「法律をきちんと守る」こと自体が困難となります。
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Voici les sites qui parlent de 人民裁判的実質的犯罪論:
» 自己満足的形式犯罪論 [モトケンの小倉秀夫ヲッチング]
東京平河法律事務所に所属されている小倉秀夫弁護士のブログである la_caus... [Lire la suite]
Notifié le le 23/03/2009 à 05:03 PM
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