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中国内陸部に「ローマ人村」 2000年前の遠征軍の子孫 観光で村おこし (2/3ページ)
古代ローマの史料などによると、紀元前53年、ローマの執政官クラッススが、約4万人の軍を率いて中央アジアのパルティア(現在のイラン周辺)に遠征し戦死。その部下約6000人が敵軍の包囲を突破して東へ逃れ、消息を絶った。
中国の「漢書陳湯伝」によると、それから17年後の紀元前36年、前漢王朝の国境警備軍が少数民族を討伐する途中、ローマ軍の装備した部隊と遭遇している。驪●城の遺跡を発見した陳教授らは、中国側とローマ側の史料を付き合わせ、逃れたローマ軍団が中国に住み着いたとの学説を発表した。逃れた部隊は漢に帰順し、傭兵(ようへい)部隊として国境防衛の任務に就き、居住地として驪●城を与えられたのだという。
当初、中国の考古学者の間では、この学説に否定的な見解が多かったが、2003年、驪●城の遺跡付近で前漢時代の古墳群が発見されて流れが変わった。身長が180センチ前後あったとみられる、欧州人に似た骨格をした遺骨など約100体が確認されたのだ。
陳教授の学説を証明するもう一つの有力証拠は現地人の顔立ちだ。驪●城の遺跡に近い、者来塞村にはローマ人の子孫が最も集中しているといわれる。約300人が住んでいるが、欧州人の顔立ちをしている住民が多い。両親はともにアジア人の顔をしているのに、青い目をした子供が生まれるケースもあるという。
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