ポール・グレアム「学歴社会の次に来るもの」を翻訳しました。原題はAfter Credentialsです。
翻訳にあたりttamo様、さかい様、externality様、shiro様、おもしろいですね様、sugita様、fatpapa様、adlib様、akamegane様のアドバイスをいただいております。ありがとうございます!!
学歴社会の次に来るもの
2008年12月
数カ月前、私は韓国の予備校事情を紹介するニューヨーク・タイムズの記事を読んだ。そこにはこう書かれていた。
「良い大学に入れるかどうかで、韓国の若者の野心が生まれるどうかが決まる」
ある親はさらに
「我が国では、大学入試で人生の7〜8割が決まる」
と言葉を重ねていた。それが、あまりに時代遅れに聞こえたので私は驚いた。とはいえ、まだ私が高校生だった頃のアメリカの描写としては、おおむね違ってはいないだろう。ということは、そこには多くの変化があったにちがいないということだ。
現代アメリカでは、25年前と比べ、学歴の重要性は下がり、業績をより重視するようになっている。どの大学に行くかということはいまだ重要だが、昔ほどではない。
何が起きたのだろう?
学歴で人を判断するのは、かつては
先進的なことだった。この習慣は、西暦587年、中国
皇帝に仕える
官僚候補者に
古典の
試験を課したことに始まるようだが [1]、これは同時に財力の
テストでもあった。というのも、
試験に必要な知識は非常に専門的で、
合格するには何年もの費用のかさむ訓練が求められたからだ。だが財力は
合格の
必要条件ではあっても、
十分条件ではなかった。587年当時の
世界標準からすれば、中国のこの登用
システムは非常に
進歩的だった。ヨーロッパは19世紀になってようやく官庁
試験を正式に導入したが、それでさえ中国の先例に影響されていたようだ。
学歴社会以前は、政治的な地位は主に家柄によって獲得されていた。もしそうでないケースがあったならば、それは露骨な
賄賂によって手に入れたものだった。これが、
試験の成績で人を評価するようになったのだから、実にすばらしい前進だ。しかし
完璧な解答などないものだ。
試験の成績で人々を評価すれば、ちょうど
今日の韓国同様、明の時代の中国や19世紀のイギリスにおいて彼らが行ったように、塾という仕組みが成立するのもきわめて当然のことである。
塾というのは
事実上、容器にあいた穴だ。
学歴評価を取り入れたのは、次世代への
権力の単純譲渡を封じるためであり、塾が象徴するのは、
権力者がその塞がれた容れ物に抜け穴を見つけているということだ。つまり塾とは、ある世代の
財産を引き継ぐ者として次世代の
学歴に変換させる仕組みなのだ。
試験範囲が狭く
予測しやすいなら、サンドハースト王立
陸軍士官学校(
ウェストポイント米軍学校のイギリス版)の
受験生や、今のアメリカの
学生が
SAT試験の点数を上げるために通うような、昔ながらの塾で済む。
試験範囲がもっと広くなると
学校も塾と化す。
現在の
予備校と同様、中国の
官僚試験の
受験準備には何年もかかった。し
かしこれらすべての団体の
存在理由は同じだ。
試験制度に勝つためなのだ。 [2]
歴史によれば、他の条件が等しい限り、親が
子供の成功を直接左右できないようにした
社会ほど繁栄するようだ。間接的に支援するのは良いことだ。たとえばもっと賢く、もっと行儀よくなるよう助けることで、もっと成功しやすくするといったように。問題は直接的な方法、つまり
財産や
権力を
子供の
能力の代用にしてしまえることだ。
親はできるならそうしたがる。親は
自分の
子供のためには命も賭けるから、
子供のために
良心を
ギリギリまで捨てたって驚くにはあたらない。他の親もそうしているなら、なおさらだ。
この直接的な力を禁止すれば二重の
利益がある。
社会全体で「ある
仕事に最適な人」を得られるだけでなく、親の野心は直接的な方法ではなく、「
自分たちの
子供を本当に良い
子供に育てる」という、間接的な方法に注がれるようになる。
だが親が我が子に不当な
利益を与えたがるのを防ぐのはたいへん難しいと覚悟しておこう。これは
人間のもっとも強い本能の1つだからだ。単純な解決策では、
刑務所から
覚醒剤をなくす方法として私たちが思いつく単純な解決策と同程度の成功しか望めないと考えるべきだ。
すぐに思いつく解決策は、
学歴の仕組みを
改善することだ。今、
社会が使っている
試験が「
ハッキング可能」なら、人々が
試験を
ごまかす方法を
研究して、穴をふさぐことができる。穴の場所の多くは塾が教えてくれる。また塾の人気がなくなれば、穴をふさぐことに成功したとわかる。
より一般的な解決策は、特に
大学入試といった
社会的に
重要な関門では、いっそうの透明性を求めることだ。アメリカでは、この過程にまだ多くの
不正の臭いがする。たとえば
裏口入学だ。公式な説明は「親の
財産と
子供には何の
関係もないので、親の
財産はほとんど重視しない。
受験生の実力で選別し、親の
財産は境界線上の
受験生の合否を決めることにしか使わない」というものだ。だがこれは
大学が境界線の太さを調整することで、親の
財産を好きなだけ重視できるということだ。
学歴における
不正を切り崩してゆけば、徐々に隙のないものができるかもしれない。しかしなんと長い闘いになるだろうか。特に
試験を管理する団体が、本当は
試験が完全であって欲しくないと望んでいるようなときは。
幸いなことに、何世代もの
権力の直接的な
相続を防ぐ、より良い方法がある。
学歴のハックを難しくするのではなく、私たちが
学歴をそれほど重視しなくなればよいのだ。
学歴について考えよう。
学歴の
意味は、その人の業績を
予測することだ。本当に業績を測定できるなら、そんなものは必要なくなるだろう。
じゃあなぜ
学歴はいまだに幅をきかせているのだろう? なぜ私たちは単純に業績を測定しないのだろう?
学歴偏重が最初に現れたのは、大きな
組織の
受験生を選ぶときだったことを思い出そう。個人の業績は大きな
組織では測定しにくく、そして業績が測定しにくいほど
予測が
重要となる。
組織が
新人の業績をすばやく
安価に測定できるなら、
学歴を調べる必要はなくなる。全員を
採用しておき、業績の多い人だけを残せばいい。
大きな
組織ではこれができない。だが
市場原理下の多数の小さな
組織では、これに近いことができる。
市場はさまざまな
組織から、まさしく良いものだけを残す。
組織が小さくなるほど「全員を
採用し、
能力のあるものだけを残す」に近づく。だから他の諸条件が等しいなら、より多数のより小さい
組織から成る
社会では、
学歴はあまり問題とされなくなるだろう。
それがアメリカで起きていることだ。だから韓国の
引用記事はたいへん
時代遅れに見える。彼らは数十年間前のアメリカのような、数社の
大企業によって支配された経済について語っている。そのような
環境下にいる野心ある人の
出世街道は、大きな
組織の1つに属して、そのトップに上りつめることだ。そこでは
学歴が大いに
重要となる。大きな
組織の文化では、
エリートの
家系であると本当に
自分も
エリートになれる。
これは小さな
企業ではうまくいかない。同僚があなたの
学歴に感心したところで、業績が伴っていないなら、
企業が
倒産し
社員は散り散りになるため、すぐにそんな同僚はいなくなる。
小さな
企業の
社会では業績だけが問題となる。
ベンチャーが人を雇うときは、
大卒かどうかとか、ましてや、
出身大学名など気にしない。気にすることはただ1つ、あなたに何ができるかだ。本当は大きな
組織であっても、それだけを重視すべきなのだ。
学歴に威力がある理由は、
社会において長い間、大きな
組織が最も強力であることが多かったからだ。だがアメリカでは、まさに個々人の業績(その結果としての
報酬)を測定できないために、大きな
組織は少なくともかつては持っていたような独占的な力を持っていない。
市場から直接、
報酬を得ることができるのに、どうして
出世の
階段を昇るのに20年を費やさなくちゃいけないの?
大半の人と比べたら、私が目にしているのはその変化の極端な
バージョンだということは、わかっている。私は初期段階の
ベンチャーに
投資する
企業の
パートナーであり、古い
学歴社会から新しい実力
社会へと人々を押し出すスカイダイビングの
インストラクターのようなものだ。私はその変化を推進している。だが私は
学歴社会の終焉が夢想だとは思わない。野心ある人が、直接、
市場に判断してもらうことを選ぶことは、25年前にはそれほど簡単ではなかった。
上司を通じて評価される必要があり、そして
上司はどの
大学に通っていたかを重視した。
どうして小さな
組織がアメリカで成功できるようになったのだろう? まだ私にははっきりとはわからない。だが確かに
ベンチャーはアメリカで小さな
組織が成功できるようになった理由の大部分だ。小さな
組織は大きな
組織よりも、素早く新しい
アイデアを生みだすことができる。そして新しい
アイデアはますます貴重となっている。
だが私は、
学歴社会から実力
社会への移行を
ベンチャーだけで説明できるとは思わない。私の友人、
ジュリアン・
ウェーバーは、
1950年代にニューヨークの
法律事務所で働いていたとき、
会社で貰えた
賃金は
現在の
会社の
賃金よりはるかに少なかったと言った。そして
法律事務所は、
社員がした
仕事の
価値に応じて支払うフリすら、ぜんぜんしていなかった。
賃金は
年功序列だった。若い
社員は下積みの
仕事を
経験した。
報酬は年をとってから与えられることになっていた。
メーカーでも原則は同じだった。私の父が
1970年代にウェスチング
ハウス社で働いていたとき、父より長く勤めているという理由で父より稼いでいる部下を抱えていた。
現在、
企業はますます
社員がする
仕事に見合った
賃金を支払わざるを得なくなっている。1つの理由は
社員が、
会社が後で報いてくれると信じなくなったからだ。なぜ
倒産や買収で反故にされる可能性があるのに、
会社に暗黙の
貯金をするべく働く必要がある? 別の理由は、
企業の一部は慣習を破り、若い
社員に大金を支払い始めたからだ。このことは特に、
コンサルティングや
法律、
金融業に当てはまり、
ヤッピーという
社会現象すら生み出した。25歳で大
金持ちになることは
現在では珍しいことではないので、
ヤッピーという
言葉はめったに使われなくなっているが、
1985年の時点では新しい
BMWを購入できる有能な25歳の
専門家は非常に目新しかったので、彼らを示す新しい
言葉が生まれた。
典型的な
ヤッピーは小さな
組織で働いた。彼はGeneral
Widgetで働くのではなく、General
Widgetの買収をする
法律事務所かそれらの起債を
募集する
投資銀行で働いた。
ベンチャーと
ヤッピーは、おおむね
1970年代後半と
1980年代前半に、ほぼ同時期に、アメリカの
概念的な
ボキャブラリーに組み込まれた。それらに
因果関係があったとは思わない。
技術が
大企業の手に負えないくらい変化が速くなったために
ベンチャーは始まった。私は、
ベンチャーの勃興が
ヤッピーの地位向上につながったとは思わない。それよりは
大企業で作用するような、
社会的な慣習(そして恐らく
法律)の変化によって代わったようだ。しかし、この2つの現象が急速に融合して、「意欲的な
若者に
市場価格の
賃金を支払って、見合っただけの成果を引き出す」という、今では当たり前に思える原則が生まれた。
ほぼ同じころ、アメリカの経済は
1970年代の大部分を占めた停滞状態から急上昇した。
因果関係があったのだろうか? それについて言えるほど私は詳しくはないが、当時はそんな雰囲気があった。開放された多くの
エネルギーがあった。
競争力を心配する国は、自国の
ベンチャーの数を気にするが、それよりも潜在的な
報酬基準をチェックした方が良い。ばりばり働く
若者に、
市場の
賃金レートに見合った
報酬を働いた分だけ支払っているか、ということを。成果に応じた
報酬でなければ例外なく年功に応じた
報酬になるので、
若者への
待遇が
リトマス試験紙となる。
「業績に応じて支払う」という方式が、
社会経済を変えるきっかけの1つになる。
成果主義は熱のようにじわじわ広がっていく。
社会のある部分で
成果主義がうまくいけば、それを
採用していない部分へもよい影響をもたらすものだ。若くても賢く、やる気満々の人々が、既存の
会社で働くよりも
自分で
会社を始めたほうがより儲かるような
社会になれば、既存の
会社は彼らを引き止めるためにもっと支払わざるを得なくなる。だから
市場の
賃金レートは、しだいにあらゆる
組織に浸透していく。そう、
行政機関にさえ。[3]
成果主義が広がれば、
学歴発行機関さえも、自らの実績を評価してもらう為の
行列に並ぶことになるだろう。
子供のころ私は、妹がやろうとしていることを
予測し、先回りしてそれを命令してはイラつかせるイタズラをしたものだ。
学歴主義が
成果主義に取って代わられれば、これまで
学歴認定をやっていた
連中は最低限このいたずらと似たようなことをしてみせなければならなくなる。
学歴認定機関の
予言ビジネスはもはや
予言自体が結果をもたらすものではなくなったのだから、彼らはもっと
努力して
未来を
予測できるようになる必要がある。
学歴は
賄賂や
コネよりマシだ。だがそれは完成形ではない。世代間の
権力の
継承を防ぐさらに良い方法がある。より多く、より小さな
単位で構成された経済になる風潮を
奨励することだ。そうすれば
学歴では
予測しかできなかったものを簡単に測定できるようになる。
右翼・
左翼を問わず、
権力の
世襲は誰も好まない。だが
左翼が推進した
学歴に基づく方法より、
右翼が推進した
市場の力のほうが、
権力の
世襲を防ぐより良い方法だとわかった。
大きな
組織の力が
20世紀後半に最大限に達したとき、
学歴時代の衰退が始まった。私たちは今、測定に基づいた
新しい時代に
突入したようだ。新しい
モデルがそんなに急速に進んだ理由は、あまりにもうまくいくからだ。減速の兆しはまったく見られない。
注釈[1]
宮崎市定「科挙―中国の
試験地獄」
中公新書、1963。
古代エジプトの書記も
試験を受けた。しかしそれらは、見習い全員が
合格すべき
技能試験のようなものだった。
[2]
予備校の
存在理由は、より良い
大学に
子供やることだと言うとき、私は最も狭い
意味でそう言っている。私は、
予備校はそれしかしていないと言っているのではなく、
予備校が
大学入試にまったく影響を与えないのなら、
予備校の需要ははるかに減るだろうと言っている。
[3] だが
累進課税は、実力のある/なしの差を減らすことでこの効果を殺ぐだろう。
この
原稿を読んでくれた
トレバー・
ブラックウェル、
ジェシカ・
リビングストン、デヴィッド・
スローに
感謝する。
What cram schools are, in effect, is leaks in a seal. The use of credentials was an attempt to seal off the direct transmission of power between generations, and cram schools represent that power finding holes in the seal. Cram schools turn wealth in one generation into credentials in the next.
塾というのは事実上、フタにあいた穴である。(←現在形)
学歴社会の目的は権力の直接(←この単語はあとで繰り返される重要単語なので、「自動」にしないほうがよさそう)譲渡を封じこめることにあり、
塾はその封に穴がないか探す、権力側の象徴だ。
ある世代の財産を学力として次の世代へ譲渡するのだから。(←現在形)
歴史によれば、他の条件が等しい限り、親が子供の成功を直接左右(←「直接」という言葉が目立つようにしたい)できないようにした社会ほど繁栄する。間接的に支援するのは良いことだ。(←「間接」を目立たせたい)たとえばもっと賢く、もっと行儀よくなるよう助けることで、もっと成功しやすくするといったように。(←比較級の連続を意識させたいかも)問題は(←これを主語にしたままのほうが対比されてて良さそう)直接的な方法、つまり財産や権力を子供の能力の代用にしてしまえることだ。
→「すぐに思いつく解決策は、学歴の仕組みを改善することだ」とかでしょうか。
(ここだけ「卒業証書」にするのは違和感がありますし、「社会」をより良くすることについて言っているわけですから。)
「卒業証書の乱用を少しずつ減らせば、いっそう完全な試験となるだろう。しかしそうなるまでに、どれほど時間がかかるだろう?」
→「学歴における不正(「卒業証書の乱用」だと学歴サギみたいです)を切り崩してゆけば、徐々に隙のないもの(themは試験ではなく、学歴システムのことでは?)ができるかもしれない。しかしなんと長い闘いになるだろうか。(疑問文ではなく、感嘆文)」
なお http://q.hatena.ne.jp/1229593203 で修正を募集しておりますので、そちらにお答え頂ければポイントを差し上げることができます。いかがでしょう?
ポイントをいただくような出来ではないので、コメント欄で十分です。
If an organization could immediately and cheaply measure the performance of recruits, they wouldn't need to examine their credentials. They could take everyone and keep just the good ones.
(これは特に自信がないのですが、最後の一文に even とかが入っているわけではないので、「残すこともできる」じゃなくて「残せばいい」とかかなぁ、と思いました。)
父より長く勤めているというだけで父より稼いでいる人たちがいた。(working for him は「彼の同僚」というだけの意味で、make more は儲けのことで、they'd は they hadの過去完了だと思います)
こちらは、Wikiのようにみんなでよってたかって修正することを期待しておりますので、けっこう丸飲みでなおします。
(これは難しい……。自信ありません)
実力の測定は、学歴の発行組織をさえ巻きこもうとしている。(←push into line は「同調させる」かな? だから line はその組織自体も実力を測定されるという「流れ」なのではないかと思いました。……って何言ってるかわからないな)
子供のころ私は、妹がやろうと思っていることを命令するというイタズラをしたものだ。(←直訳すると「彼女がいずれにせよやるつもりであると私が知っていることを[あえて先回りして]命令することで嫌がらせた」わけです。つまり、「お前は次に紅茶を飲む」「べ、べつにお兄ちゃんが言うから飲むんじゃないんだからねっ」というような self-fulfilling なイタズラ)
学歴が実力に取って代わられれば、「似たような仕事」こそ元門番が望みうる最善の仕事である。(←??)
(self-fulfilling はつまり、「この人はデキるやつなので学歴を発行しました」と言えば勝手に出世する、つまりデキるやつになるということですよね)
教育に関する見方がかわりました。「FizzBuzz もできないプログラマ」の話題とも関連しますが、「実力本位」の意味がやっとわかった気がします。
なお、私が書いたのはぜんぶ「提案」(あるいはそれ以下)であって修正ではありません。
さいごのほうとかは、とくにグダグダです。みなさん改善をよろしくお願いします。
最後の方は、実は自分もよくわからなかったのでした。
「妹がやろうと思っていることを命令するというイタズラ」の部分は、
かなりじっくり考えたのですが、みごと大外ししてしまいました。
お恥ずかしいです。
大変興味深い記事のご紹介、ありがとうございます。現実逃避に格好の口実を見つけてしまいました。ほんのさわりだけですが、私にも参加させてください。
A few months ago I read a New York Times article on South Korean cram schools that said
Admission to the right university can make or break an ambitious young South Korean.
A parent added:
"In our country, college entrance exams determine 70 to 80 percent of a person's future."
It was striking how old fashioned this sounded. And yet when I was in high school it wouldn't have seemed too far off as a description of the US. Which means things must have been changing here.
数カ月前、私は韓国の予備校事情を紹介するニューヨーク・タイムズの記事を読んだ。そこにはこう書かれていた。
「良い大学に入れるかどうかで、韓国の若者の野心が生まれるどうかが決まる」
ある親はさらに「我が国では、大学入試で人生の7〜8割が決まる」と言葉を重ねていた。
それが、あまりに時代遅れに聞こえたので私は驚いた。とはいえ、まだ私が高校生だった頃のアメリカの描写としては、おおむね違ってはいないだろう。ということは、そこには多くの変化があったにちがいないということだ。
現代のアメリカ人の生活では、25年前のように、その人の実力より学歴を重視することはない。学歴はまだ重要だが、昔ほどではない。
The course of people's lives in the US now seems to be determined less by credentials and more by performance than it was 25 years ago. Where you go to college still matters, but not like it used to.
現代アメリカでは、25年前と比べ、学歴の重要性は下がり、実力をより重視するようになっている。どの大学に行くかということはいまだ重要だが、昔ほどではない。
(以下、コメントです)
ニューヨーク・タイムズの記事はこれですね
A Taste of Failure Fuels an Appetite for Success at South Korea’s Cram Schools - NYTimes.com
http://www.nytimes.com/2008/08/13/world/asia/13cram.html
予備校の話題であったことを明記することで、導入がよりスムーズになると考えました。後段の比較級のセンテンスは、25年前との比較であって、学歴と実力とで比較したものではないと考えます。それ以外の表現は、私の好みで、このような表現はどうでしょうという提案として受け取っていただければありがたいです。
まだ時間が許すようであれば、じっくりと参加させていただきたいと思います。いつも知的な刺激の提供をありがとうございます。
"performance"は一般的に「成果」や「業績」と訳されるのではないでしょうか。もしくは「能力」とされると、より馴染むような気が致しますがいかがでしょう。
かなり思いきった意訳になっています。
Judging people by their academic credentials was in its time an advance. The practice seems to have begun in China, where starting in 587 candidates for the imperial civil service had to take an exam on classical literature. [1] It was also a test of wealth, because the knowledge it tested was so specialized that passing required years of expensive training. But though wealth was a necessary condition for passing, it was not a sufficient one. By the standards of the rest of the world in 587, the Chinese system was very enlightened. Europeans didn't introduce formal civil service exams till the nineteenth century, and even then they seem to have been influenced by the Chinese example.
学歴で人を判断するのは、かつては先進的なことだった。この習慣は、西暦587年、中国皇帝に仕える官僚候補者に古典の試験を課したことに始まるようだが [1]、これは同時に財力のテストでもあった。というのも、試験に必要な知識は非常に専門的で、合格するには何年もの費用のかさむ訓練が求められたからだ。だが財力は合格の必要条件ではあっても、十分条件ではなかった。587年当時の世界標準からすれば、中国のこの登用システムは非常に進歩的だった。ヨーロッパは19世紀になってようやく官庁試験を正式に導入したが、それでさえ中国の先例に影響されていたようだ。
Before credentials, government positions were obtained mainly by family influence, if not outright bribery. It was a great step forward to judge people by their performance on a test. But by no means a perfect solution. When you judge people that way, you tend to get cram schools―which they did in Ming China and nineteenth century England just as much as in present day South Korea.
学歴社会以前は、政治的な地位は主に家柄によって獲得されていた。もしそうでないケースがあったならば、それは露骨な賄賂によって手に入れたものであった。これが、試験の成績で人を評価するようになったのだから、実にすばらしい前進だ。しかし完璧な解答などないものだ。試験の成績で人々を評価すれば、ちょうど今日の韓国同様、明の時代の中国や19世紀のイギリスにおいて彼らが行ったように、塾という仕組みが成立するのも至極当然のことである。
What cram schools are, in effect, is leaks in a seal. The use of credentials was an attempt to seal off the direct transmission of power between generations, and cram schools represent that power finding holes in the seal. Cram schools turn wealth in one generation into credentials in the next.
塾というのは事実上、容器にあいた穴だ。学歴評価を取り入れたのは、(家柄等による)次世代への権力の単純譲渡を封じるためであり、塾(の存在)が象徴するのは、権力者がその塞がれた容れ物に抜け穴を見つけているということだ。すなわち塾とは、ある世代の財産を引き継ぐ者として次世代の学歴に変換させる仕組みなのだ。
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The measurement of performance will tend to push even the organizations issuing credentials into line. When we were kids I used to annoy my sister by ordering her to do things I knew she was about to do anyway. As credentials are superseded by performance, a similar role is the best former gatekeepers can hope for. Once credential granting institutions are no longer in the self-fullfilling prophecy business, they'll have to work harder to predict the future.
成果主義は、学歴の保証機関さえ巻きこもうとしている。子供のころ私は、妹がちょうどこれからやろうと思っていたことを、先回りして命令するというイタズラをしたものだ。学歴主義が成果主義に取って代わられれば、「似たような仕事」こそ、かつて学歴主義の門番であった組織が望みうる最善の役割だ。その保証が成果そのものを予言するビジネスとしてもはや成り立たないのならば、彼らには未来を予測するために、より一層の努力が必要とされるだろう。
(「似たような仕事」=「妹へのイタズラ」=「『彼はきっと立派な業績をあげるだろうと我々には分かっていました(by佐藤藍子)』と先取りして学歴の証明を与えること」こそ、かつて学歴社会における門番であった大学が、成果主義の中で生き残る為に残された唯一の道ということ、と捉えました。授与される側にとってみれば、成果をあげねばならないというプレッシャーにもなるという二重の意味で)
どうも読むほどに捉えきれなくなってきます。原文の趣旨がどうも腑に落ちず、論理展開にどこか飛躍があるような気がして。
また、アメリカの大学入学システムは、入試や受験という概念とマッチしない部分がありまして、その辺りの用語でもいざきちんと訳すとなると言葉が見つからずに困惑しますね。
取り急ぎのため乱文であり申し訳ございません。
次のパラグラフの大意は次のようなものではないかと思います。
>The measurement of performance will tend to push even the organizations issuing credentials into line.
学歴を保証する大学自身も、そのパォーマンスによって評価されようとしている。
子供の頃、妹がやろうとしていることを先回りして命令するという遊びを私はやった。
人材を評価する指標としてパフォーマンスが学歴にとってかわりつつある現在、
大学は先回りして「学歴よりパフォーマンスのほうが重要である」ということを社会に宣
言(命令)すべきである。
このような私が妹にやったのと似ている役割こそ大学が果たさねばならないのである。
大学は人物に保証書を与え、与えられた人物が社会で成果を挙げることによって
「この卒業証書を持っている人物は有能である」という自らの予言(予測)の妥当性を示すとい
う
「予言の自己実現的」な産業として社会で機能してきた。
それができなくなったのであれば、大学は学生の有能さを予測するためにもっと努力しな
ければならないだろう。
---
一年ほど前に、「法と経済学」のポズナーが学歴保証機関としての大学の役割を自身のブ
ログで分析し、少し話題になったことがあります。おそらくそれと同様の問題意識をこの
著者も持っているのではないかと思います。
"History suggests..." 一度修正が入っていますが、"suggest" は断定よりちょっとだけ弱い感じなので、「歴史によれば…繁栄するようだ」みたいに弱める手はあります。ただ全体の流れで不要と判断されれば今のままでも良いかと。
"What made it possible ..." のパラグラフの2文目、"I'm still not entirely sure." は「確信したわけではない」よりは「はっきりとはわからない」くらいかと。3文目、part of itのitは what made it possible... の疑問文の答えだと思います。part of the reasonと取って良いかと。「成功する小さな組織の大部分だ」とするには数も合いませんし、流れ的に無理があるかと思いました (次のパラグラフへの展開から考えて)。
"But I don't think startups..." のパラグラフ、2文目、"far less than firms do today" の do は直前の節の動詞、つまりpayです。現在の賃金と過去の賃金を比べています。
"The same principle..." のパラグラフ、"work for him" について修正が入っているようですが、私の感覚では何のコンテキストも無しに "I work for him" と言ったら「私は彼の部下」ということになると思います。同僚という意味になることもあるのかなあ?
"Countries worried about..." のパラグラフ、2文目のtheyはcountriesだと思います (「自国のベンチャーの数」を主語に持ってくるとおかしい)
"The measurement of performance... " の項の、"I used to annoy my sister..." の文。この文自体に「イタズラをした」というはっきりしたニュアンスは無いと思います。イタズラ心からではなく、単なる老婆心から「あれも忘れないでね」「これもしておきなさい」などと言っていた場合でも同じ表現でいけるからです (annoyは主語が煩わせる意図を持っていたかどうかは問題にしません)。どちらとも判断する決め手は無いのでPaulに真意を聞いてみないと決着はつかないかもしれませんが、私は素直に読むなら「子供の頃、私はよく妹がいずれやろうと思っていたことを先回りして命令したせいでうるさがられていたものだ」というふうに「イタズラ心」を含めない方が中立的かなと感じます。コンテキストに特別な解釈を示唆するものが見当たらないのと、次の文との意味的なつながりから。
同パラグラフ、3文目、"a similar role" というのは前文を受けて「人がどっちにせよやろうと思っていることをいちいち思い起こさせてうるさがられる役割」ですね。
いくつかのパラグラフにまたがって、"leak in the seal" "airtight" "plug the hole" と言った語がちりばめられていますが、これから連想されるのは、漏れのある容器です。"seal" には「封」の意味もありますが、日常生活で一番良く使う用法は「漏れをふさぐもの」「密閉に使うもの」といった意味です。日本語でずばり対応する言葉が思いつかないんですが、具体的には水道管の継目のパッキングであるとか、タイルのひびを覆うシリコンであったりとか、あるいはジップロックの「口」だったりしますが、そういうものを総称してsealと呼びます。なので、もし可能なら「液体のつまったシステムがあって、あちこちの継目や穴からピューピュー液体が漏れてるのをぺたぺたふさいでいる様子」が比喩になる感じの訳語が選択できるとベターじゃないでしょうか。かなり面倒ではありますが、それができるといくつかのパラグラフを貫く統一的なイメージが作れると思います。
(もしそのイメージを全体の基調に据えると、"transmission of power" というのが油圧装置で力が伝搬してゆくイメージに結びつけられるかもしれないと思いましたが、解釈しすぎかもしれません)
最後のひとつ前のパラグラフ、"the left" と "the right" について。私は政治について良く知らないのではっきり言えないのですが、少なくとも「右翼」「左翼」という訳語は国によって意味づけが違ってくるのでうまくないかなと思いました。例えばWikipediaのleft wingの項では "Today, in most of Europe, the Left refers to socialist parties, while in the United States, the Left usually refers to modern liberalism." とあります。日本語の「左翼」はマルキシズムの連想が強く働きますが、USではそういう感じはあまりしないと思います。福祉重視とか大きな政府とかそんな感じじゃないでしょうか。一方the rightの方も、wikipediaのright wingのUnited Statesの項にいくつか上がっていますが、Paulがここで念頭に置いているのはSmall government conservatism/Libertarian conservatism じゃないかなあという気がします。小さな政府、市場原理重視、って感じ。でも自信ありません。単純にleft=Republican, right=Democraticでいいのかな、というとそうとも限らないようにも思えますし… 詳しい人が降臨してくれると良いのですが、そうでなければPaul本人か、ネイティブの集まるフォーラム (Hacker Newsのこのエッセイのスレッドとか) でこれらの語が指す具体的なものが何かについて聞いてみるという手はあるかもしれません。
注釈1の2文目、意味が逆転しています ("more the type"を"more than [a] type"と空目した?) 「見習い全員が合格すべき技能試験のようなものだった」
externality様の部分以外は修正いたしました。
externality様のご指摘は、すこし訳文を練らさせてください。
いま福島県にいます。
明日が研究会で、現在、すごく遅い回線+マウスなし、という最悪の環境ですので、
大きな修正は月曜日にさせてください。すみません。
1)「After Credentials」を「学歴社会の次に来るもの」と訳すこと自体が「誤訳」のような気がします。(ごめんなさい。)
アメリカ社会で重視されているのは「どの大学を出たか」ではなく「どの大学教授に推薦状をもらったか」ではないかと思うのです。Credentialは推薦状ですね。これは似ていますが違います。アメリカではハーバードなどの教授の推薦状をもらった人たちが大組織の上部にいて有力派閥をつくり、次に来る人たちを優遇するわけです。著者の「旧アメリカ社会」への批判は、「旧アメリカ社会はコネ社会であり、大学は、そのコネを隠すための機関だ」ということではないでしょうか(ところどころ、焦点がぼやけますが)。アメリカの有名大学は、基本的に私立大学で、そこには「極めて優秀な人」と「あまり優秀ではないけれど大変なお金持ちの子供」が入るのです。韓国のことは知りませんが、日本の場合、有名大学は、国立大学であり、「お金持ちの師弟」が優遇されることはありえません。また、私立大学でも、あまりないのではないかと思います。また、日本でも、大学教授の推薦状が聞いて就職できることはあるかもしれませんが、それが、いつまでもコネとして生きることは少ないと思います。(コネなら、むしろ、親のコネですよね。笑)つまり、アメリカより、日本の学歴の方が、ずっと公正なのです。この点を見落とすと、アメリカ人と日本人で、お互い、「学歴社会嫌だねー」と言いながら、実は、異なるものを見ていることになるかもしれません。
2)著者は「短期的な成果による評価」を「もっとも妥当な評価」と考えているようです。
これは、実は、著者が批判している「旧アメリカ社会」でも同じです。同じ「アメリカDNA」なんですね。
このやり方で評価すると、「10年努力するとすごい成果を挙げるけれど入社したてでは何もできない人」の居場所はなくなります。もちろん、そういう考え方もあると思うのですが、「旧日本社会」では、そのような人を育てようとしてきたわけです。大器晩成というやつですね。年功序列には、いろいろとゴマカシもあるし、欠点もあるわけですが、「短期的な成果による評価」が、本当に正しいのかどうか、私には疑問です。学歴社会のほうがよい、というわけでもないのですが。
それから、(2)項の指摘はしばしばPaulのエッセイに対して向けられるより広い誤解の一種だと思います。Paulのエッセイの対象は「直接能力を評価される環境で自由に仕事をやらせてもらえた時にとてつもないアウトプットが出せる一部の人々」なんですよ。で、そういう人々に自由にやらせたら、そうでない人も含めて社会全体が豊かになるだろう、というスタンスがあると思います (e.g. "Mind the Gap")。彼は旧来の大企業の存在を否定しているのではなくて(大企業の役割を述べた部分が他のエッセイにあったと思います)、ただ今後は経済の牽引役が大企業からスタートアップに移って行くと言っているにすぎません。従って「このやり方で評価すると、「10年努力するとすごい成果を挙げるけれど入社したてでは何もできない人」の居場所はなくなります」ということにはならないのだと思います。
The measurement of performance will tend to push even the organizations issuing credentials into line. When we were kids I used to annoy my sister by ordering her to do things I knew she was about to do anyway. As credentials are superseded by performance, a similar role is the best former gatekeepers can hope for. Once credential granting institutions are no longer in the self-fullfilling prophecy business, they'll have to work harder to predict the future.
[成果主義での評価によって学歴認定機関さえもが適正に評価されるようになるだろう。子供の頃、私は妹がこれからやろうとしていることを察知し先回りして命令してみせるといういたずらをよくやった。学歴主義が成果主義に取って代わられれば、これまで学歴認定をやっていた連中は最低限このいたずらと似たようなことをしてみせなければならなくなる。学歴認定機関の予言ビジネスはもはや予言自体が結果をもたらすものではなくなったのだから、彼らはもっと努力して未来を予測できるようになる必要があるのだ。]
これまで認定機関は「(学業の)能力を認定する → その人は認定書の力で成功する」という楽チンな仕組みにあぐらをかいていたが、これからは「学業の能力」に重きを置かれなくなるので、認定稼業を続けたければ「成果を挙げる能力」を認定せざるを得なくなる。すると「この人物は将来成果を挙げるか?」という(ポールが子供の頃やったみたいな)未来予測をしなければならなくなる。
そんなストーリーではないかと思います。
さて、ようやく修正いたしました。
legacy admission は、「裏口入学」とは違うのではないでしょうか? 「縁故による入学」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%85%A5%E5%AD%A6%E8%A9%A6%E9%A8%93
I realize I see a more exaggerated version of the change than most other people.
realize しているのは、変化ではなくて、私が極端なバージョンを見ているということ、ではないでしょうか。
「大半の人と比べたら、私が目にしているのはその変化の極端なバージョンだということは、わかっている。」
ではどうでしょうか。
he had people working for him who made more than he did, because they'd been there longer.
ttamo さんのコメントに同意。
「父より長く勤めているという理由で父より稼いでいる部下を抱えていた。」
This was particularly true in consulting, law, and finance, where it led to the phenomenon of yuppies.
「このことは特に、コンサルティングや法律、金融業に当てはまり、ヤッピーという社会現象すら生み出した。」
But the two phenomena rapidly fused to produce a principle that now seems obvious: paying energetic young people market rates, and getting correspondingly high performance from them.
しかし、この2つの現象が急速に融合して、「意欲的な若者に市場価格の賃金を支払って、見合っただけの成果を引き出す」という、今では当たり前に思える原則が生まれた。
The young are the test, because when people aren't rewarded according to performance, they're invariably rewarded according to seniority instead.
「成果に応じた報酬でなければ例外なく年功に応じた報酬になるので、若者(の待遇)が指標(リトマス試験紙)である。」
There's an even better way to block the transmission of power between generations
「世代間の権力の継承を防ぐさらに良い方法がある。」
between の後ろに複数形が来るのは、何世代もという意味ではなくて、単純に世代間の権力の継承だけを言っているのではないでしょうか?
(裏口入学については他の文章との関係もありますのでとりあえずこれで)