2009年3月24日 6:06:30

タマフリ

玉本さんのたまふり講座の資料読みました。読んだだけで、それ以外は何してるか、知らないんですけど。
「この世のあらゆる場所に漂う、タマという目に見えない霊力をうまく吸収すれば、自身の魂の霊力を強め、この世で強く生きていくための力や、カリスマ性を手に入れることができると考えられていました」
というのが、タマフリの定義の一つらしいです。

こういう古い時代の考え方は、人間の個というものがそんなにはっきりしていないと思うので、
空間に漂うエネルギィを吸い込むのは、比較的容易だったと思います。
で、たとえばたくさんの死者の魂を吸い込んで、強大に太っていく人を想像した時に、
現代人は、そこに邪悪なイメージを抱くかもしれない。
これは、個人の自我とか考え方が何も変わらず、いままでどおりのままで、
空間に漂う死者の魂を吸い込むと、それは自分というものが太ってスーパーエゴになるという話になるけど、
現実には、一体化する都度、違う自分になります。
わたし+猫だと、わたしと猫の合成の自我になるし、わたし+猫+犬だと、わたし猫犬という集合体で、
いずれにしても、いままでの自分を維持できない。
つまり一体化するつど、微妙に違うものに変わってしまいます。
これは単に、自分がI/thereクラスターに戻るというだけにすぎず、悪いイメージはほとんどありません。
部族の長が、タマフリをして、たくさんの魂を自身の中に集めてしまうというのは、
その部族の長が、集合体存在になることです。
むかし、インドのプーナのアシュラムの近くのホテルにいたときに、
夜中になると、オショーの輪郭が拡大して、町全体を包もうとするように拡大したのを見ていたけど、
これもそういう古い日本式ということですかね。

こういう世界観では、天皇が儀式をすると、国全体の戦争が急に納まったりする。つまりは個というものは海のひとつの波みたいなもので、現実には海であるというように、全部つながっているので、アボリジニーみたいに、一人が何かすると、それが全員に波及する。記憶さえ伝達されるのですね。一匹の犬の頭を誰かが叩くと、以後、すべての犬が、後ろから近づいてくるようになるようなものですね。

これを許容するには、個の意識という単独性の価値に重きを置きすぎる姿勢を緩和しなくてはいけない。
個というものが頑固なまでに作られていると、それは強い城壁になるので、タマフリは困難です。そこに意義も意味も感じられなくなってきます。

で、空中にある力を引き寄せるには、まず、自分がそれらと同等になり、共鳴する状態になる必要があるので、いったん、自分を手に持った勾玉の中に入ると考える。つまり意識をシフトさせる。
つまり、固い殻の中にあるものを、一度、外に引きずりだし、やわらかい触手を剥き出しにするわけですね。

個であること、アンテナを出すこと、これらを柔軟に行き来させていると、もう書いたように、何かひとつのものと一体化した時に、個人の自我の軸がすこしずれてしまう現象が起きるので、繰り返しているうちに、ずっと自我は地崩れし続けるけど、こういう習慣の中で、日本人のキャラクターというのができたかもしれないですね。深層の日本人の自我の構造です。最近の表層の日本人のものではなく。アメーバ状の自我。やわらかいけど、押すと崩れる腰砕けでもある。日本人に思想があったためしなし、というやつ。(このことにコンプレックスを抱くと、西欧列強と同じになろうとするので、近代日本の、逆に硬すぎて型にはまりすぎた自我というものもできあがってきます。)


で、さきほど書いた、外の魂と同等に共振する接点を作る、というのは、一体化するために必要です。一体化しないで、取り込むと、そんなに大きく取り込めないけど、自分を守ります。
このトレーニングのひとつとして、新鮮な生き造りを食べる時に、海老でもアジでもいいけど、いったん自分を流動化させて、つまり中沢新一が、狩人が森に入る時にそうしていると書いているような、「言葉でないもの、無形のものに回帰する」状態になってから食べるという試みをしてみるとわかりやすいかもしれないです。
生の野菜を食べる。魚介類も、焼かないで食べる。
この日本人の風習は、あきらかに、タマフリです。
自我を流動化させたやわらかい状態に戻して、そこで生き造りを食べると、海老の活力そのものが、身体に入ってくることがわかります。そして、一時的に、身体の中でこれまでのわたし、と海老の戦いがおこり、そのうちに、一体化します。

タロットカードでは、領地を広げる皇帝というのは、4の数字ですね。で、占星術では、かに座とか4ハウスは、4の数字で、それは対立したものを噛み砕き、嚥下し、胃の中で混ぜるという作業です。
野菜も、魚介類も、まだ死なない、元気な時に、食べる。その時に、自分を流動化させて、彼らと同等の柔らかい状態にして、そして食すのです。

中国人は温野菜しか食べず、魚介類も、焼いたり煮たりして食べるので、卑弥呼がいた時代の、魏志倭人伝では、日本人はなんでも生で食べる野蛮人と書いているけど、つまり、当時の中国では、日本のタマフリ技巧は理解されていなかったわけです。
わたしは刺身とか寿司を敬遠します。生モノはちょっと警戒するのだけど、その最大の理由のひとつは、やはり昔アジの生き造りをランチで食べた時に、もわーとしたアジの魂???が、自分の身体の中で混じりあったことを感じた時に、毎回、こんな大変なことをしなくてはならない、ということに、メゲてしまったという体験がずいぶんと影響を与えてしまったからです。一体化すると、前の自分に戻れない。新しい自分になる。しかし、その時に、一度、小さな死と再生があります。
つまり一体化して変わるときに、これまでの自分が一度眠り、あるいは記憶断絶するか、気絶し、そして再生します。この断絶がないことには、決してシフトしないでしょう。一瞬の断絶と、再生。この山を乗り越えるのに、ひといき頑張る気合いが必要なのです。

焼いてしまえば、魚も完全に死にます。そして魂はそこにないとみてもいいです。残るは身体のみ。こういう場合には、食べ物はたんに物質であり、そこで、食べる人も、死と再生を気合いを入れて体験するということをしなくて済みます。タマフリ儀式はそこにないのです。
あるいは新鮮さが失われた寿司。江戸前寿司というのは、腐る直前になってから食べる寿司のことです。こういう場合も、タマフリ儀式はあまり必要がないのでは。肉の場合も、寝かせて熟成させて食べるといいますよね。江戸前寿司はあきらかにそういう熟成をさせている寿司です。
つい朝まで海で泳いでいたのを捕まえて、そのままがぶっと噛みつく食べ方だと、タマフリ儀式が必要です。というか、自分を流動化させて、剥き出しにするようなことをしないで、自分を固い自我の殻に防衛したまま、食事をすれば、たまふり効果は出ないので、栄養の90パーセントを食べそこなうけど、物質としての食事はできると思います。たいていの食事というのはそういう姿勢で進行します。おそらく、それは世界に対してものすごく失礼な態度です。つまりは魚介類とかあらゆる生き物を、ものとしてしか扱っていないからです。量産される食肉用の牛。ああいう飼い方も、これは生命の価値を完全に無視した態度です。それは結果的に自分に返ってきます。自分もやがてはそういう扱いをされるのです。

食べすぎの罪。現代人はこの食べすぎをしているのはあきらかですが、もしかして、タマフリ式の食事を忘却したことが原因でしょうか。食べても食べても、ほとんどを失い、モノの部分しか身体に取り入れていない。なので、欠乏感があり、さらに食べる。もしこれが卑弥呼の時代みたいな頃の、タマフリ食事だと、ゲキ元気な野菜とか、口に入れると格闘しなくてはならないような魚を食って、一体化することになるので、あまり多くを食さなくてもよかったのかもしれません。そもそも、わたしがもう書いたような、アジの生き造りひとつこなすのに、思い切りと気合いが必要な食事をしてしまうと、それを毎日三回繰り返すなどという、たいそうな労力をかけるのは、ほとんど無理です。食事のつど、一瞬の意識喪失があるのです。そしてよみがえったときには、わたし+アジになってしまっているのです。一回食べるたびに猛烈に元気になるけど、ぜいぜいはあはあしながら蘇る必要があるのです。(ちゃんとした食事は量にかかわらず、意識が遠のく体験をします。トランス状態に入り、死と再生が展開されます。注意深く見ていると、そういう体験をしていることを思い出すはずです。)

個を過剰に重視するというのは、それ以外を軽視するということと連動します。
これと、食物に内在する魂や生命力を無視する食事法というものは関連しています。
そしてついにはすかすかの食物を食べるようになり、すると欠乏感が襲ってきて、大量に食べるようになる。
これが世界を崩壊に導いていることはあきらかです。無機的な大量消費が全世界を覆っていて、それでいて、満たされることがないからですね。グレゴリオ暦が、銀河、太陽系などと、地球社会の同期を切り離し、いってみれば、アセンションみたいな動きに対する大きな障害をもたらす構造であることはよく知られています。だからといってマヤ暦みたいなところまで飛躍するのは無茶なので、太陰暦にすれば、それだけでもかなりのことが改善されると思います。食の世界では、グレゴリオ暦と同じくらい自然を軽視した荒んだ考え方がカロリーの発想です。すべての食物を中身抜きのモノとして扱うことを強制します。どんな貴重な本も、目方を基準にして買い取るブックオフみたいな発想です。

たぶんタマフリの儀式を習得すると、これはあらゆることに使えるでしょう。話が生き造りに走ってしまって、妙な方向に飛んだけど、「タマフリ的生き造りの食事法、伊勢海老とともに蘇る」みたいな講座すると面白そうですが、気合いがいります。


玉本陽子のたまふり講座案内ページ

ps.他の魂を取り込んで、増大してゆき、クラスターに戻るということをしたくないという人もたくさんいますが、その根底には、「個人ということに対する神聖視」というものがあると思います。
ヒルマンだったか、西洋の白いタネなしパンは、生殖器を去勢したキリストの神聖なる身体を連想させ、それが西洋自我のありかたに強い影響を与えていると書いていましたが、キリストの神聖なる白い身体と、個人を自己同一化して、近代自我ができたと言うのは、ラカンですね。人間は神の子であって、自然界の有象無象と違うんだという発想は、結果的に、開発競争、自然破壊に拍車をかけることになったのですが、実はこの考え方は、キリスト教発生以前の、ヘレニズム思想の中での、人間は造物主が作ったのではなく、神が直接作ったアントロポースであるという考え方から始まっているわけですね。

で、個人は潔癖で白い衣服に包まれた神聖なるものというイメージは、個の形成の最終段階である乙女座の15度の装飾されたハンカチーフというものに出ています。14度のレーシズムも、個の背後の自分の家系というものの閉鎖的な価値づけです。これが個としての行き止まりです。これは次に対抗の魚座の侵入を受ける時に、16度で、オランウータンのいる動物園に連れて行かれる子供になる。
アマテラスの畑を荒らすスサノヲという時に、スサノヲはそもそも、人工的に作られた畑という農耕文化を否定していて、自然回帰を主張していたという説がありますが、とりあえず占星術的な対応では、アマテラスは乙女座で、スサノヲは魚座になりますね。スサノヲは、洪水の神ミトラと同一視されるけど、乙女座帝国には、オランウータンとして侵入してきたことになります。
こういう占星術体系は、出生図に使うだけでなく、経験の順番として使うと良いです。つまりたとえれば、一秒の体験の中にも360個のステップが進むわけです。なので、わたしが鰺の活き作りの、尻尾がぴんぴん動いているのを見た時には、オランウータンを目の前にした子供という度数を体験しているわけです。あるいはアスペクトでは、165度体験です。150度は個人を孤立した細部の領域に閉じこめ、そして165度はスサノヲすなわちウルトラマン(弥勒菩薩)がやってくるのですが、そこには動揺がありますが、正しい道への軌道修正かもしれません。