日本に渡ってきた高麗大蔵経を研究する康正夫さん (撮影者:あんどうけいこ) 「大蔵経」とは、経典の総集のことです。 経・律・論の三蔵とその注釈から成り立っています。983年に中国の蜀(しょく)で作られた蜀版をもとにして、韓国では高麗時代の1010年ごろから1031年に初彫大蔵経、つづいて1091年~1101年に続蔵経が彫られました。しかし、これは元の来襲によって焼失してしまったのです。 その後、国家の安泰のためには大蔵経がなければならないと、1236年から1251年までかけて、当時、都をおいていた江華島で再彫刻し、完成させたのが、現在に伝わる高麗大蔵経です。 江戸時代の日本では、「高麗大蔵経の原版は存在しない」と思われていました。 ところが1902年、東京帝国大学の関野貞が、朝鮮建築と古美術調査を実施したとき、伽耶山海印寺(韓国)の蔵経閣に保存されているのを見つけました。そして日韓併合後の1915年、初代総督の寺内正毅が印経(経典を印刷すること)し、京都御寺の泉湧寺に大正天皇即位を記念して「奉献」しました。 「今七百年空シク晦蔵セラレタル此ノ至宝ノ、再ヒ光明ヲ放チタルモ亦、朝鮮ノ都鄙ニ遍照セル皇化ノ餘光ニ外ナラス」と上奏案に書かれています。海印寺の大蔵経は、世界で最も完全な仏教聖典とされ、1995年、世界遺産に登録されました。 ところが、明治よりはるか昔の室町時代に、じつは印刷製本された大蔵経が海を越えて日本に渡って来ていました。それが現在、増上寺に納められている大蔵経なのです。この経典は15世紀、奈良県の忍辱山(にんにくせん)円成寺が請来(しょうらい、経典を請いうけて外国から持ってくること)したものです。 朝鮮から奈良、そして東京の増上寺まで、経典はどのように移動したのでしょうか。 ■室町時代の“韓流ブーム”■ 円成寺が高麗大蔵経を請来したてんまつを描いた絵巻。 (撮影者:あんどうけいこ) この絵巻の中巻が、高麗八万大蔵経の「請経由来」です。別段公開もされていない、この絵巻を見つけ出し、私をその絵巻に出会わせてくれたのは、知人の康正夫さんです。康さんは、日本に渡った高麗八万大蔵経をたずね歩いていているうちに、円成寺に「請経由来」があるのを見つけました。 阿闍梨(あじゃり=僧の階級)である栄弘(えいこう)は1481年、弟子の栄助と連舜を朝鮮にやり、高麗版大蔵経を請来しました。絵巻は、そのときの様子を描いています。文字はなかなか読めませんが、康正夫さんが要所を拾い読みして解説してくれました。しかし、字は読めなくても絵でおよその様子は分かります。10数人をぎっちり詰め込んで、波の上に乗り出す帆かけの屋形船が描かれています。こんな小さい舟で玄界灘を渡ったのですね。 朝鮮王宮で、積み上げられた経典を、成宗王から受け取る様子は色鮮やかに彩色されています。現代の活字印刷と製本でも、百科大辞典並みの大型サイズで数10冊になる大蔵経のことです。驚くほどの冊数が積み上げられています。 この円成寺には、そのほかにも高麗版大蔵経を請来したときの船中日記が残されています。「二合船日記」「二合舟飯料日記」「高麗舟中率米以下日記」などメモ程度のもので、寛政元年に円成寺知恩院主良助が、ふすまの下張りから発見して、残欠を集めて巻子にしたのだそうです。 室町時代、日本と朝鮮の仲は親密でした。高校の歴史年表にも「朝鮮王、義稙(足利義材)に仏典など贈る」などと載っています。1481年といえば、足利時代も円熟期を過ぎ、戦国大名の台頭、山城や加賀の一揆なども起こっています。 政情不安定ななか、国家安泰を願っての経典請来は、室町の“韓流ブーム”といえるでしょう。 絵巻のワンシーン 玄界灘を渡る大蔵経請来船 (撮影者:あんどうけいこ) つまり、円成寺から家康に献上された高麗大蔵経6531帖(じょう)が現在、東京タワー近くの増上寺(ぞうじょうじ)に保存されているというわけです。 円成寺は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)にともなって寺領を失い、現在の境内と建物だけになりました。しかし境内には国宝や重要文化財が残されています。こぢんまりとなりましたが、現在の円成寺は、文化遺産の建造物や季節の花や木々に囲まれて、ゆかしいお寺です。 絵巻のワンシーン 高麗の成宗王から大蔵経(左に積みあがっている)を受け取る栄助と連舜 (撮影者:あんどうけいこ) 絵巻のワンシーン 高麗の成宗王から大蔵経(左に積みあがっている)を受け取る栄助と連舜 (撮影者:あんどうけいこ)
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