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堺屋太一

三田誠広

団塊の世代


堺屋太一のビデオコラム 対談『堺屋太一×三田誠広』前編

編集部2009/03/09
作家の三田誠広さんを迎えてお送りする特別対談企画。大阪府出身の2人が「団塊世代の60年」についてトークを展開します。激動の時代を駆け抜けた「団塊世代」。今、大不況の中、定年を迎える団塊世代が日本の新しい活力となれるか?経験豊かな豊富な労働力が、今後の日本経済のカギとなるかもしれません。
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スペシャル対談『堺屋太一×三田誠広』前編(15分55秒)

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ビデオコラムよりテキスト化・一部抜粋
堺屋
 今日はちょっと趣向を変えて、作家の三田誠広さんにお見えいただいて対談をしたいと思います。よろしくお願いします。

 三田さんと私とは同じ大阪の生まれなんです。年齢は13歳開いておりますけれども、生まれた所は実は非常に近い所なんです。私は当時の番地で言いますと東区岡山町という所なんですがちょうど玉造教会、あの戦国時代からですね有名な「小西行長」が洗礼したとか、あるいは「細川ガラシャ」さんが洗礼したとかゆう有名な教会なんですけども、この教会のまん前でございました。

 三田さんの所はそこから少し東へ寄った所でお生まれになって、当時大きな「三田コピスター(三田工業)」という会社を経営しておられた。そういう仲なんですね。それで、まあ同じ大阪出身ということで最近いろいろと付き合わせていただいております。よろしくどうぞ。

三田
 今度、堺屋さんの伝記を書かせていただきまして、『堺屋太一の青春70年万博』という本が今度出るんですけれども、それを書かせていただくきっかけとなったのは、一度顔合わせをしようということでお目にかかって、お話をうかがううちに小学校の先輩であるということは知っていたんですけれども、生まれたところがごくご近所で、大阪の人はね、生駒山と大阪城の角度を見て、自分の現在位置がわかるんですね。

 ですから同じ角度でね大阪城を見ていたんだなということで、非常に親しみを覚えたということと、それからその教会の横に幼稚園がありましてね、実は幼稚園の先輩であるということも判明しまして、そんな人は滅多にいないんでね、いろいろお話をうかがって楽しい面白い本になったと思います。

堺屋
 有難うございます。それで、生まれ育ったときは13歳違いますから知らなかったんですが、私が小学校へ入った時は偕行社という陸軍の将校クラブの偕行社の附属小学校でございまして、非常に軍国主義の小学校だったんですね。それが三田さんが行かれたときは男女共学。

三田
 そうですね。追手門学院という名前になっておりまして、戦前をなるべく引きずらないように民主主義教育ということに非常に力を入れていた学校だったと思います。

堺屋
 今は追手門学院大学まである総合教育機関になっておりますけどね。大阪城の北側、お堀のすぐ前にある非常にいい場所に有る小学校で、東京の学習院と姉妹校みたいな感じになっていたんですけどね。そこを卒業いたしまして、それで私はやがて通産省に入るんですけれども、私が東京大学に入ったとき、まさに60年安保の時代だったんですね。で、三田さんのときは学園紛争。

三田
 はい、私はまさに団塊の世代の真っ只中でありますので、『団塊老人』という本も書かせていただいたんですけれども、堺屋さんの御本にもあるようにですね塊の世代ですね。ですからいろいろ子供の頃から高校受験・大学受験で競争をさせられて、そういう欲求不満がね学生紛争にもなったんだろうと思いますけれども、わが世代が石油ショック以後の日本の経済成長の支えになったんじゃないかな、というふうに思っております。

堺屋
 今度ね、この団塊の世代、世界の団塊の世代をね、描いた本を私が編著で書いたんですけどね、中国の人とアメリカの人と日本の人、3人の団塊の世代の人の自分の歩んできた道を書いた。そうすると日本の団塊の世代てのも大変特徴ある経験をしているんですが、アメリカの団塊の世代、同じ年齢というのはまさにベトナム世代なんですね。

 ベトナム反戦で燃えて、草の根運動をやって、当時のエリート、いわゆるベスト&ブライテストに反乱した世代。中国の団塊の世代はもっと大変でね、これは文革世代なんですね。まさに紅衛兵よりちょっと年上なんですが、だいたい一番年上の紅衛兵だった。文化大革命というのは66年から76年までの間ですから、ちょうど15〜6歳から25〜6歳まで。それで全然教育を受ける機会がなくて、文革の最後には下放、田舎へ行って「農民の知恵に学べ」と。帰って来た時には自由化の中で自由競争の中で非常にハンデを負った。まあね、各世代この団塊の世代というのは世界各国で大変劇的な人生を送っているんですよね。

三田
 そうですね。やはり時代の大きな移り変わりだったと思いますね。ヨーロッパの古い植民地支配が崩壊をするという事と、まさに石油ショックが有ってですね、あらゆる物を合理化していかないと生き残れないような時代になったわけですね。ですから価値観の変動も大きかったし、経済のシステムも大きく変わっていった中をね、一生懸命走り抜けた世代だろうと思いますね。

堺屋
 日本の団塊の世代は、高度成長のエンジンみたいなもので、方向は先輩たちが決めた、それを猛烈な勢いで推進して、そして明日は今日より豊かであるという信念を抱き続けてきたわけですね。だから40歳、80年代までは非常にそれで一直線で行く。

三田
 そうですね。石油ショックがあった時にね、何故日本の経済が立ち直ったかというと、団塊の世代が一番その底辺の給料の安いところにいてね、給料の安い労働者が沢山いるというのは、日本の企業にとってね一番理想的な状況だった思うんですね。ですから、その世代が40歳位になってね、給料が高くなった途端にちょっとダメになったという事が言えるんじゃないでしょうかね。

堺屋
 役人はね、団塊の世代をいつもね罪悪視、ちゅうか邪魔者視してきたんですね。まず、60年代の終わりから70年代の初めにかけて、団塊の世代が高校・大学を卒業した時、その時に役人は何を言ったかというとね、「こんな大勢の世代がいっぺんに就職したら、これは就職負担になる」と。だからね、当時職業安定所っていうのは、今のハローワークですね、「これを多いに充実させて就職活動をせないかん」と。

 ところが本当にその時期になったら、物凄い好景気になって就職難どころか求人難。物凄い引っ張り合いになる、という逆の現象がある。それは当然で団塊の世代の人達が労働力として、供給者になる前にマーケットとして流行をつくり、様々な新しい機器を取り入れたもんですからね。

 それでこの人達が今度20歳後半になってニューファミリーになって。その時に役人は何を言ったかというと「こんなに大勢の人がニューファミリーで家族を持ったら住宅難である」と。だから「これを救済するためには公的な住宅公団とか、都道府県の住宅供給公社にお金をつけて公的住宅を沢山つくらないかん」と。ところが実際はですね、この時期になると団地が増えマンションが増えて、民間の住宅供給が多かったから公団住宅は空家になっちゃったんですね。

 その次に今度この人達が40代、40になるときには何を言い出したかというと窓際族。「こんだけね40代の中間管理職が増えたら、窓際で仕事が無い人が一杯できるから企業は大変だ」と。そしたら何のことは無い、各その管理職になった人、チームリーダになった人が様々なプロジェクトを作ったものですからバブルブームになって、大変な好景気になるんですね。だから団塊の世代に対するこの役人の官僚たちの見方っていうのが常に間違っていた。

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3月16日〜22日 

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