2009年3月24日 (火曜日)

すでに毒矢は……

今日の午後、
WBCの韓国との決勝戦。9回裏でダルビッシュが投げて緊迫した場面で………
ちょうど母が【不整脈】の発作になり、車にのせて病院へ連れていった。(WBCの試合展開が原因で不整脈になった訳じゃないよ)


母がもちろん心配だったが、
病院に行って点滴などの処置を受ければ発作はおさまるのは毎度なので、先生にお任せするしかなかった。


ただ、
もっと心配というか気がかりなのは、

母のピンチになると
狼狽して的外れな言動をする父なのである。

父は、
母が不調を訴えると
怒り出すのである。


「なんでそんな体になった?」
「困ったヤツだなぁ!」
「お前(私のこと)が早く嫁サンをもらわんからだ!」

私はそんな父をにらむ。


なぜ真っ先に母の現在の状況を心配して動こうとしないのか?
いま怒ってどうなる?
俺が親不孝なのは認めるが、いま言うことか?


……以上は
KONOの家庭内のみっともない場面だが、
私も父も
その瞬間にそれぞれの事情の中に閉じ籠り、
そこは【地獄】になる。

私は、
そんな父を無視して玄関を飛び出し
すぐに車のエンジンをかけて母を病院に連れていく準備をした。


病院で点滴を受け、
母の容体はすぐに回復した。


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仏教で「毒箭(どくや)の喩(たと)え」というのがある。
毒矢に当たった人がいて、早く毒矢を引っこ抜いて、毒が体に回らないように手当てをしなきゃならないのに、
当の本人は
「ちょい待って!誰が俺に矢を放った?どんな矢だ?ちょっと待てって!まだ抜くな。な?誰だった?」
などと別のことを気にしていたら、手当てが遅れてしまう。
まず真っ先にしなきゃならない肝心なことは
【その毒矢を引っこ抜いて手当てすること】
である。

この仏教の例えの意味は、
目の前の苦しみにどう向き合うか?

未来のことや
結論の出ないことについてあだこだ言う前に
やらなきゃならないことは
直面した“今・ここ”にあるんだ!
ということ。

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今回の母の不整脈の件とは少しズレルかもしれないが、
さっきの父と私の言動から
そんなことを思ってた。


目の前の具体的な悩み苦しみに
先ずはどう向き合うか?

狼狽するし、
右往左往するし、
アタフタする自分であるのは分かってる。

でもやはり
具体的な日々の中で、
いろんな問題に直面していく私。

そのとき、
先ずはどう向き合い、
そして
どう動くか?

【毒矢】はすでに刺さっている。

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定額給付金を何に?

昨日、市役所から“定額給付金”の申請に関する封筒が届いた。

サモシイ僕は(笑)、受け取りを拒否しませ〜〜〜ん(^_-)

「お寺さん、定額給付金何に使うの?」
と檀家サンのばあちゃん。

「あ、まだ考えてないです〜」
とワタシ。

12000円かー。パーっと使ってしまうなら 簡単だ。
でも
なんか“記憶に残る”使い方をしたい。

寄付?
いや、それは“別な形”でやっとりますので。はい。

そだなー、

札幌まで“映画”を見に行くかな?
高速道路、ガソリン代、映画代で消えるな〜

「定額給付金何に使うの?」

「あ、【おっぱいバレー】見ま〜〜す(o^-^o)」

………いや、もうちょい考えますわ。

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2009年3月20日 (金曜日)

ヘトヘト彼岸法話

ヘトヘト彼岸法話

【外道は長生不死だ (安田理深)】

という言葉を手がかりに、本日、
お彼岸の中日の法要で、お話しました。

(ホワイトボードの文字が汚い……)

しゃべってしゃべって疲れました。

“長生不死(ちょうせいふし)”とは
生(都合の良いこと・おめでたいこと)を肯定し、
死(都合の悪いこと)を否定する精神であり、

人間誰しも持っているホンネです。

わかりやすく言うと、
『鬼は外!福はウチ!』
というココロ。

しかし、
そのホンネ部分を
仏教ではキタナイ(穢)と指摘します。

そのココロを問わないまま、
私たちのホンネをますます助長して甘やかす道を宗教に求めていけば、
おみくじ・お祓い・占いが流行る訳で……
それは
「外道(仏教以外の道)」
である、と。

仏教(浄)に出逢うことによって、
自分のホンネの部分(穢)が課題になっていく歩み………【欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)】
がポイントになります。

例えば、
親鸞様の和讃

【五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心 外道を帰敬せり】

……外面は仏教徒のフリこいて
ホンネは【鬼は外!福はウチ!】とやってるんじゃないの?

とのワタシへの問いかけ。

いくら【鬼は外!福はウチ!】で頑張っても
生きていく上で直面せざるを得ない苦しみや障りを
避けることは出来ず、
所詮、行き詰まる。

ならば
どう引き受け生きていくのか?
そんな自分自身のホンネ部分の矛盾が
そのまま【課題】にならなければならない。

それを
親鸞さまの言葉に確認させていただく………

ってなお話を、時おり脱線しては皆さんを笑わせて、
約1時間しゃべって、

ヘトヘト(笑)。

本堂に満員御礼?たくさんのお参りがありました。

嬉しいな。
有りがたいな。

あ、なんか俺 お坊さんみたい(^_-)

(笑)

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2009年3月19日 (木曜日)

さて。

 
“お彼岸に
ヒガンじゃダメよ……”
 
な〜〜〜んて
親父ギャグ(´Д`)
 
 
 
さて、
1時半から彼岸法要です
 

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2009年3月16日 (月曜日)

昼休みの走り書き投稿

「いいひとだね~~」

とホメラレタ場合。。。。

そういう“評価”とは、

上っ面の自分の好み(都合)の範囲内でしかなされていないのかな。

しかも、

心地の良い「一時的」な関係の中だけの気がする。

ジワジワと沸上がってくる「しみじみ感」が

皆無のような気がするのである。

だから、例えば、僕は、

「いいお坊さんだね~~~」

というホメられても、素直になれないのだ。

「いい人だね~~」

という感激は、

例えば、

相手にとても腹が立ったとか、

一見、ものすごくヒドイ言葉に聞こえたとか、

なんて冷たい人だろう?って思えた、

とか、

そういう場合には起こらない。

(あたりまえか)

でも、

そういう気にくわない人の意見や言葉が、

「愛情の裏返し」的なものだとしたら???

アタマを冷やしてよくよく考え直してみて、

あるいは、

長い目で見て、

あるいは、

深い観点から見つめてみて、

「嗚呼、こういう事をあの人は伝えてくれてたんだなぁぁ・・・」

という

“真意を慮る”

感じでは評価されにくくなっているのかもしれない。

(ま、評価や見返りを期待しての言動ばかりではないけれど)

そして、

みんな、

自分は、「絶対的にただしい。間違っていない」

という1点を揺るがすことなく、

相手を「批判」し、

あるいは、

相手を「評価」する。

「単純」になっているのかもしれない。

「分かりやすくなきゃダメ」な即効性が

昨今なのか。

うん、

僕もそうだしな・・・。

すぐに、批判意見にヘコムしな・・・

その「批判意見」が、

実は僕に期待し、僕を育ててくださる為の「愛情」だったのだ、

と感じたり、味わったりする前に、

ムカついてしまったりするからな・・・。

と、

昼休みの、走り書きでした・・・。

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